第1話

文字数 1,792文字

秋の日は釣瓶落とし、とはよく言ったものである。
悠真が門限を過ぎても帰って来ないと聞いたときはまだうっすら明るかったが、もう日は落ちてしまって、薄暗くなってしまった。
「もし迷子になったり門限に遅れそうになったら、ママに連絡すること」と約束していたが、やはりまだ小学二年生には難しかったのだろうか。成美は、跳ねる鼓動を抑えるために、何度も深呼吸した。ほうぼうに連絡したがなんの収穫もなく、悠真が行きそうな場所を大声を出して歩き回った。
こんなに歩くのは、愛犬のルルが死んで以来だ。
ルルは成美が初めてのボーナスで飼った犬だ。ずっと犬と一緒に暮らしたかった成美は、ボーナスで犬の用具を買い、保護犬を譲り受けた。サツマイモが好物の小型犬で耳が大きく、いつも舌をしまい忘れて、ぺろっと出ていた。
家を出た時、当然ルルは一緒だったし、結婚も子育ても離婚も一緒だった。ルルはいつでも成美のそばにいて、舌でつんと触れてきた。甘えていても、慰めるときでも、遊びに誘うのでも、いつも鼻を押し付けるようにしてくる。だけどうまくできずに、しまい忘れた舌が成美につんと触れるのだ。成美が落ち込んでいたとき、遠くで聞こえる焼き芋の音に大きな遠吠えをした。それから二人のごちそうは焼き芋になった。
ルルは、おいしそうに焼き芋を食べる。一口目は少し舐めて味をたしかめ、二口目は味わうようにゆっくりと食べる。それが愛おしくてルルの頭をなでると、ルルは耳を倒し目を細めた。
焼き芋は、ルルが体を悪くしてからはすっかり食べることができなかったが、もうそろそろお別れだと獣医から言われ、焼き芋を食べることにした。
オーブントースターからは、あまい匂いが漂ってきた。成美と悠真でおいしそうと笑い、ルルも寝たきりだけど鼻を鳴らしていた。焼きあがる前に寝てしまった悠真を布団に連れて行こうとすると、ルルが「こっちだよ」と甘えるように一声鳴いた。そして、しまい忘れた舌を成美につんとつけた。
成美は何度も頭を撫でてやり「すぐにもどるからね」と言ったが、それが今生の別れとなった。
焼きあがったサツマイモからは白い湯気があがっていた。いい匂いが部屋いっぱいに広がる中で、焼き芋を口元に寄せても舐めようともしないルルを抱いて、成美は何度もルルの名前を呼んだ。
「悠真」
大声で悠真の名前を叫んだ。どうにもならないのに戻せない時間を悔やんでいることが、嫌だった。ルルは死んだのだ。夕日が落ちたら、明日の日の出を待つしかない。
そのとき。
耳元で犬の鳴き声がした。
声のする方はただ薄暗く、成美を呼ぶ声は小さいけれどしっかりと聞こえてきた。成美は声のする方へ走った。
「ママ!」
甲高い声がして、悠真が泣きながらわっと飛び出してきた。
その場に座りそうになるのをどうにかこらえ、悠真を抱きしめた。
悠真は大きな声で泣いて謝った。成美は震える手で大丈夫だよと小さな背中を何度もさすってやった。
こんな暗い中でよくここがわかったねと成美は言った。
「犬が」
抱きしめた胸の中で悠真がつぶやいた。
「犬がいたんだ。僕が迷子になったとき、小さい犬がこっちだよって鳴くんだ。思わず走って、そしたらママがいた。」
「犬?どこかにいた?」
「ママ見てないの?いたよ、本当だよ」
悠真はあたりをキョロキョロと見回して懸命に訴えた。
「さっきまで一緒にいたんだよ」
「そっか、その犬が助けてくれたんだね」
悠真は成美が信じてくれたことがうれしいようで、にっこりと笑った。
「うん!」
悠真を促して立ち上がろうとしたとき。
成美の手に何かひんやりとしたものが触った。しまい忘れた舌をつんとつける、ルルの癖だった。
街灯がつき始め、真っ暗だった闇が少しずつ明るくなっていく。
そこには誰もいなかった。
「ママ?どうしたの?」
明るくなった道を見つめていた成美を心配して、悠真が心配そうにのぞき込む。
「悠真がちゃんと帰ってきてくれて、本当によかったなって」
悠真は「おなかすいたから早く帰ろうよ」と成美の手を大きく振った。悠真はもう笑っていた。
「おなかすいたよ」
「じゃあ、何か買って帰ろうか。何食べたい?」
悠真はしばらく考えたあと、
「焼き芋!」
と大きな声で言った。
「今日は三本買うよ!」
と成美が言うと、それを聞いた悠真は、やったーとぴょんぴょんと飛び跳ねて走っていく。成美はこっそりと涙を拭った。
ルルが死んでから、初めて流す涙だった。
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