第1話

文字数 1,995文字

学生時代からメイクをするのが好きだった。
ただそれきっかけで美容部員という仕事に就いて数年が経つ。
この仕事のなにが大変かってノルマでしかない。
美容部員の仕事は来店したお客さんにメイク用品をオススメして購入してもらうこと。
シンプルな仕事だとはじめは私も思ってた。
だけど売り上げノルマを達成できなかった時は、良いことなんて1つもない。
酷いときはメイク用品が好きで美容部員になったのに、メイク用品の良さを見失ってしまうことがある。
それでもめげずに頑張ってきたけどさすがに転職をしようか考え始めていた。
そんな時にだ。
「え!?どこにもいないんだけど!?」
家に帰ってきたら飼っている猫がどこにもいなかった。
もしかしてと恐る恐る窓の方を確認してみるとやっぱりだった。
「うわ…猫って本当に頭が良いんだな…。」
私の視線の先にあったものは猫の爪で裂いた痕満載の変わり果てた網戸でしかなかった。
試しにその変わり果てた網戸に手を滑らせてみるとポッカリと穴が開いている。
猫1匹ぶんが余裕で通れそうな大きな穴だった。
思わず盛大なため息をついてしまう。
実を言うと今朝の私は遅刻をしそうになっていて窓をしっかりと閉めていなかった。
だけどまさかこんなことになるなんて思いもしなかった。
そんなことをしても猫が戻ってくるわけでもないのに私は何度も網戸に開いた穴に手を通す。
虚しさを通り越して自分に呆れだした。
どうやら私の飼い猫は網戸に穴をあけただけじゃなく、私の心にも穴をあけていったみたい。
網戸は修理すれば治るけど、心にあいた穴が広がるのか縮小するのかはまだわからない。
明らかに気分が落ち込んでいるのを察知した私はメイクポーチのなかを漁る。
それでそのなかからリップスティックを数本並べて気持ちのバランスをとることにした。
まずは窓を閉めないといけないのに窓を閉めることを忘れてそんなことをしていた。
そんなことにやけに集中していた。
そうやってそんなことに集中するあたり、やっぱり私はメイク用品が好きなんだなと再度、気づかされる。
今日良かったことなんてメイク用品が1つ売れたことと、そのことくらいだった。
だけど大好きな飼い猫のいない部屋を見渡せば見渡すほどその良かったことが大したことがないものに変換されてしまう。
別に私は飼い猫の為だけに仕事を頑張っているわけじゃない。
でも、いざ飼い猫が部屋の外に出て行ってしまうと、案外私って飼い猫を心の拠り所にしてたんだなって気づかされる。
それで窓の方を再度確認すると穴のあいた網戸が風に吹かれてヒラヒラと動いていた。
テーブルの上には綺麗に並べられたリップスティックが並んでいる。
その2つを交互に見て私は一体、なにをしているんだろうとハッとさせられた。
網戸にあいた穴はガムテープでふさげば良いだろうかと考える。
「いや、ガムテープをはがすときにより網戸の穴が広がったら面倒くさいからそれはやめておこう。」
だから私は網戸の修理会社に電話をした。
来週の休みの日に網戸の修理会社の社員さんが来てくれるらしい。
その時くらいには飼い猫も戻ってきてくれると良いなと思った。
だけどそれから数日後、網戸は元に戻ったけど飼い猫が部屋に戻ってくることはなかった。
まあ、現実ってそんなもんだよねって頭を切り替えてその日も私は仕事へ向かった。
それで仕事が終わって帰り道を歩いていたらいつも通っていた道が工事中だった。
正直、仕事で疲れている時にそういうことがあると損をした気分になる。
だけど仕方ないよねって頭を切り替えて別の道を探してそこを歩いてみる。
そしたらその道の先に大きなトンネルがあってなぜだかとても圧倒された。
「こんな所にトンネルがあるんだ。」
まるで秘密基地でも見つけたかのようなワクワク感に包まれて私はそのトンネルに足を踏み入れる。
それでトンネルの中を歩いているとある女の子に出会った。
とても目が大きい女の子でハッとさせられる。
「こんなに目が大きかったらメイクをするのがもっと楽しいだろうな。」
そんなことを思っていたらその女の子は私に近づいてきてこう言った。
「お姉さんがつけてるそのリップ可愛いね。」
「え?ありがとう。」
日頃、お客さんを褒めることはあっても自分が褒められることはそんなにない。
美容部員は身だしなみをしっかりしていることも仕事の1つだけど、当たり前のようにその努力は流されてしまう。
やっぱり人から褒められるって良いものだなと再度思わされた。
その日、塗っていたリップは飼い猫がいなくなってしまったショックをやわらげる為につけていたものだった。
そうして女の子と私は少し会話してすれ違っていった。
テンションの上がった私はコンパクトミラーで自分の唇を確認する。
もう飼い猫のことなんてその時の私は頭の中になかったのかもしれない。
数メートル後ろから聞き覚えのある猫の声が聞こえても私は振り返らなかったのだから。
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