第1話
文字数 2,871文字
横になって雑誌を見ているうちにいつのまにか寝てしまっていたのだろう。
目覚めると日は暮れていた。しかし、明かりのついていない部屋の中は月の光が差し込んでほんのりと薄明るい。
人より早い夏休みの初日は、朝から日が暮れかかるまで一日をぼんやりと浪費してしまった。
部屋の掃除をして、買い物に行って、やりたかったことはたくさんあるのに、体が動かない。
就職してすぐの頃は、片付けをして、模様替えをして、さらに、都心まで出てウィンドウショッピングを楽しんだり、美術館や当日券の手に入る舞台を見に行ったりしていたのに。
去年はたまった家事を終わらせただけで終わってしまった。
「疲れた」
気づくと呟いてしまっている。
男女平等なんて、どこの国にある話なのだろう。女が仕事で認められようと思ったら、男の倍も頑張って、さらに倍の気を遣わなきゃいけない。
倍仕事をするのは辛くなかった。
けれど、女だからと最初から軽く見、容姿とか女子力とか、仕事と関係のないところで評価したがる上司や同僚、そして今では後輩たちに、気を使っていい顔をするのは、心を削られるようで、ひどく気疲れしてしまう。
と、スマートフォンの着信音が鳴った。
緊急の用事という可能性もあるので、仕方なくロックを解除してSNSの画面を覗き込んだ。
しかし、高校の同級生と作っているグルーブラインに、子どもと出かけたキャンプの写真がアップされただけだった。
適当に「いいね」のスタンプを送る。
実家の母からの帰省を促す連絡よりはましだ。
祖父母のようにしつこく結婚の話をすることはないが、25を過ぎた頃から帰省するたびに探りを入れられるようになった。
仕方ないとは思うけれど、やはり疲れる。
今年は特に帰りたくない。
大学のサークルの友人たちとのグループがまた上の方に上がっているのが見えた。二桁の数字が主張しているのに、どうしても開くことができない。
たぶん。彼と、知らない女の結婚式の写真がアップされているのだろうから。
別れを言い出したのはわたしからだ。
だって、彼の兄が病気で亡くなったから実家に戻るなんて。舅と姑と同居して小さな料理屋を手伝って欲しいだなんて。いきなり言われても、そんな暮らし自分にできるはずもない。
だから、はっきり言っただけ。
どうしてもそうしなければいけないというなら別れようと。
彼は、あっさりとそれに頷いた。
それだけのことなのに、なぜこんなに痛いのだろう。
なぜ、その条件を平気で受け入れた女と、条件のあった女とあっという間に結婚を決めた男が一緒に映る写真を見るだけのことができないのだろう。
明かりをつけなきゃ。
動くのは面倒だったが、さすがにお腹もかなり空いてきた。
わたしは何とか立ち上がって、ふと窓の外を見る。
満月が空に浮かんでいた。
窓を開けると夜風は少しだけ涼しい。
明かりをつけないまま二階の窓から隣の家を見下ろした。
このアパートの隣は、昔からある空き家で広大な敷地の真ん中に古い平屋が立っている他は草木が生い茂ったままになっている。
しかし、今日見るそこは何かがおかしかった。
家は、荒れていないし、背後の竹林も庭もしっかりと手入れされ、瑞々しく光っている。
そして、和服の老婦人がいた。
少し白髪の混じった髪を低い位置でまとめ、淡い色合いの着物に、白地に墨で模様が描かれた帯を低く締めている。
老いてなお、いや老いているからこそ貴い気配を纏うその姿。
月の光だけとは思えないほどにくっきりと、庭の様と老女の姿が浮かび上がっている。
と、彼女が顔を上げた。
視線が合う。
魅入られるように目が離せなくなった。
すっと、手があがり、こちらを差し招く。
行っちゃいけない。分かっている。
だって、あの家は、もうぼろぼろのはずだ。庭も外来植物が無秩序に生えているただの空き地。
ためらっていると、老女は滑るように庭をこちらに歩いてくる。
ブロック塀があるはずの場所にある生け垣にたどり着くと、そこに設えられている小さな木戸を開けた。
そして再びこちらを見上げる。位置が近くなった分、その眼差しはより強い引力を持ってわたしを捕らえる。
庭の光景が鮮やかになるほどに、頭の中がぼんやりと霧がかかったようになっていく。
確かめるだけ。
言い訳のようにつぶやいて、窓を閉じると、わたしは玄関を飛び出し、階段を駆け下りた。
まだそれほど遅い時間ではないはずなのに、人の気配は無い。
ただ、サンダルが金属の階段に当たって立てる音だけが生ぬるい夜の中に響いている。
門の裏手に回ると、そこはさっき上から見たのと同じ。ブロック塀ではなく生け垣があり、木戸は大きく開いていた。
しかし老女はいない。
ついつい一足踏み込んだとたん、どろりとした都会の夜の空気は、すがすがしい夜気に変わる。
木々の間を吹き抜けてくる風が心地よい。
震えたのは、肌寒かったのか、怖かったのか。
周りを見回すと、くっきりと白く斑の入った半夏生が生い茂っているのが、月明かりに照らされていた。
そういえば夏至は過ぎた。
暦の上とはいえ、夏の盛りはもうすぐ終わる。あとは冬に向かっていくだけ。
わたしは身を震わせて、己を抱きしめる。
「こちらへ」
錆びた声が聞こえた。
視線を向ければ、建物の中からあの老女が再び招く。
一人でいるのが心細くなって、ふらふらと、得体のしれない女の方へと吸い込まれるように向かってしまう。
「お座りなさい」
促され、言われるがままに縁側に座った。
老女はその傍らに正座する
「先日、竹の花が咲きました。私の時はもう尽きる。次代の守が必要です」
見つめ返すと、彼女は思いのほか老いていた。
「あなたは昔の私と同じ。誰とも慣れあうことができず、けれど孤高にもなれず。そして疲れてしまったのでしょう。もがくことに」
違う。といつもなら怒っていたはずだ。
ただ自分の中の何かが鈍っていて感情が動かない。どこか他人事のように聞こえる。
「感じないでしょう。ここではむやみな苛立ちを。受け入れれば楽になれます。もう何ものも心を苛むことは無い」
鈍っていく自分の中にわずかに残る情念を掻き立てて、わたしはなんとかそれを口にした。
「それは幸せなのかしら」
「幸せ? それは、必要なものかしら」
「人はそれを求めてあがくのよ」
「人でなければ?」
老女は水ようかんと麦茶を傍らにあった盆から下ろし、すっとわたしの前に並べた。
そして優美なしぐさで水ようかんを口にする。
黄泉の国の食べ物は口にしてはいけない。帰れなくなるから。
ちらりと頭の隅によぎった。
老女は麦茶を飲み干し、ほうっと息をつく。
見上げれば月は奇妙に大きく煌々とあたりを照らしている。
その光が私の体の中に染み込んでくる。
酩酊感があった。
ああ、もう。
手を伸ばし麦茶のグラスを手に取る。
ひんやりとした厚手のグラスは優しく唇に触れ、喉を通ったのは、ひんやりとした心地よい何か。
体の中からも庭に浸食されていく……。
終わり
目覚めると日は暮れていた。しかし、明かりのついていない部屋の中は月の光が差し込んでほんのりと薄明るい。
人より早い夏休みの初日は、朝から日が暮れかかるまで一日をぼんやりと浪費してしまった。
部屋の掃除をして、買い物に行って、やりたかったことはたくさんあるのに、体が動かない。
就職してすぐの頃は、片付けをして、模様替えをして、さらに、都心まで出てウィンドウショッピングを楽しんだり、美術館や当日券の手に入る舞台を見に行ったりしていたのに。
去年はたまった家事を終わらせただけで終わってしまった。
「疲れた」
気づくと呟いてしまっている。
男女平等なんて、どこの国にある話なのだろう。女が仕事で認められようと思ったら、男の倍も頑張って、さらに倍の気を遣わなきゃいけない。
倍仕事をするのは辛くなかった。
けれど、女だからと最初から軽く見、容姿とか女子力とか、仕事と関係のないところで評価したがる上司や同僚、そして今では後輩たちに、気を使っていい顔をするのは、心を削られるようで、ひどく気疲れしてしまう。
と、スマートフォンの着信音が鳴った。
緊急の用事という可能性もあるので、仕方なくロックを解除してSNSの画面を覗き込んだ。
しかし、高校の同級生と作っているグルーブラインに、子どもと出かけたキャンプの写真がアップされただけだった。
適当に「いいね」のスタンプを送る。
実家の母からの帰省を促す連絡よりはましだ。
祖父母のようにしつこく結婚の話をすることはないが、25を過ぎた頃から帰省するたびに探りを入れられるようになった。
仕方ないとは思うけれど、やはり疲れる。
今年は特に帰りたくない。
大学のサークルの友人たちとのグループがまた上の方に上がっているのが見えた。二桁の数字が主張しているのに、どうしても開くことができない。
たぶん。彼と、知らない女の結婚式の写真がアップされているのだろうから。
別れを言い出したのはわたしからだ。
だって、彼の兄が病気で亡くなったから実家に戻るなんて。舅と姑と同居して小さな料理屋を手伝って欲しいだなんて。いきなり言われても、そんな暮らし自分にできるはずもない。
だから、はっきり言っただけ。
どうしてもそうしなければいけないというなら別れようと。
彼は、あっさりとそれに頷いた。
それだけのことなのに、なぜこんなに痛いのだろう。
なぜ、その条件を平気で受け入れた女と、条件のあった女とあっという間に結婚を決めた男が一緒に映る写真を見るだけのことができないのだろう。
明かりをつけなきゃ。
動くのは面倒だったが、さすがにお腹もかなり空いてきた。
わたしは何とか立ち上がって、ふと窓の外を見る。
満月が空に浮かんでいた。
窓を開けると夜風は少しだけ涼しい。
明かりをつけないまま二階の窓から隣の家を見下ろした。
このアパートの隣は、昔からある空き家で広大な敷地の真ん中に古い平屋が立っている他は草木が生い茂ったままになっている。
しかし、今日見るそこは何かがおかしかった。
家は、荒れていないし、背後の竹林も庭もしっかりと手入れされ、瑞々しく光っている。
そして、和服の老婦人がいた。
少し白髪の混じった髪を低い位置でまとめ、淡い色合いの着物に、白地に墨で模様が描かれた帯を低く締めている。
老いてなお、いや老いているからこそ貴い気配を纏うその姿。
月の光だけとは思えないほどにくっきりと、庭の様と老女の姿が浮かび上がっている。
と、彼女が顔を上げた。
視線が合う。
魅入られるように目が離せなくなった。
すっと、手があがり、こちらを差し招く。
行っちゃいけない。分かっている。
だって、あの家は、もうぼろぼろのはずだ。庭も外来植物が無秩序に生えているただの空き地。
ためらっていると、老女は滑るように庭をこちらに歩いてくる。
ブロック塀があるはずの場所にある生け垣にたどり着くと、そこに設えられている小さな木戸を開けた。
そして再びこちらを見上げる。位置が近くなった分、その眼差しはより強い引力を持ってわたしを捕らえる。
庭の光景が鮮やかになるほどに、頭の中がぼんやりと霧がかかったようになっていく。
確かめるだけ。
言い訳のようにつぶやいて、窓を閉じると、わたしは玄関を飛び出し、階段を駆け下りた。
まだそれほど遅い時間ではないはずなのに、人の気配は無い。
ただ、サンダルが金属の階段に当たって立てる音だけが生ぬるい夜の中に響いている。
門の裏手に回ると、そこはさっき上から見たのと同じ。ブロック塀ではなく生け垣があり、木戸は大きく開いていた。
しかし老女はいない。
ついつい一足踏み込んだとたん、どろりとした都会の夜の空気は、すがすがしい夜気に変わる。
木々の間を吹き抜けてくる風が心地よい。
震えたのは、肌寒かったのか、怖かったのか。
周りを見回すと、くっきりと白く斑の入った半夏生が生い茂っているのが、月明かりに照らされていた。
そういえば夏至は過ぎた。
暦の上とはいえ、夏の盛りはもうすぐ終わる。あとは冬に向かっていくだけ。
わたしは身を震わせて、己を抱きしめる。
「こちらへ」
錆びた声が聞こえた。
視線を向ければ、建物の中からあの老女が再び招く。
一人でいるのが心細くなって、ふらふらと、得体のしれない女の方へと吸い込まれるように向かってしまう。
「お座りなさい」
促され、言われるがままに縁側に座った。
老女はその傍らに正座する
「先日、竹の花が咲きました。私の時はもう尽きる。次代の守が必要です」
見つめ返すと、彼女は思いのほか老いていた。
「あなたは昔の私と同じ。誰とも慣れあうことができず、けれど孤高にもなれず。そして疲れてしまったのでしょう。もがくことに」
違う。といつもなら怒っていたはずだ。
ただ自分の中の何かが鈍っていて感情が動かない。どこか他人事のように聞こえる。
「感じないでしょう。ここではむやみな苛立ちを。受け入れれば楽になれます。もう何ものも心を苛むことは無い」
鈍っていく自分の中にわずかに残る情念を掻き立てて、わたしはなんとかそれを口にした。
「それは幸せなのかしら」
「幸せ? それは、必要なものかしら」
「人はそれを求めてあがくのよ」
「人でなければ?」
老女は水ようかんと麦茶を傍らにあった盆から下ろし、すっとわたしの前に並べた。
そして優美なしぐさで水ようかんを口にする。
黄泉の国の食べ物は口にしてはいけない。帰れなくなるから。
ちらりと頭の隅によぎった。
老女は麦茶を飲み干し、ほうっと息をつく。
見上げれば月は奇妙に大きく煌々とあたりを照らしている。
その光が私の体の中に染み込んでくる。
酩酊感があった。
ああ、もう。
手を伸ばし麦茶のグラスを手に取る。
ひんやりとした厚手のグラスは優しく唇に触れ、喉を通ったのは、ひんやりとした心地よい何か。
体の中からも庭に浸食されていく……。
終わり