第1話

文字数 1,858文字

「もう探偵ごっこはおしまい?」
 それが世界女王からかけられた最初の言葉だった。
 その昔、氷室ユリヤは銀盤の妖精と呼ばれていた。14歳でフィギュアスケート界の第一線に立つと、世界女王の名を欲しいままにしていた。
 忘れもしないジュニアノービス全国大会、会場廊下の端にゲストとして来ていた、憧れのユリヤがいた。小二の私にとったらテレビの中の人、神様みたいなものだった。思わず後ろを追いかける。そろそろと移動したつもりでも、やはりどこか抜けていたらしい。振り返ったユリヤとばっちり目が合ってしまい、幼い私は探偵呼ばわりされていたのだった。
「ユリヤ選手!あの!この前は、優勝おめでとうございます!」
「いつもステキで、ずっと大好きです。応援しています。」
たどたどしくはあったが、ファンとして気持ちを精いっぱい詰めこんだつもりだった。
「ありがとう。それがみんなが望んだ妖精の姿、ね。」
そう返すユリヤの顔は、意外にも少し寂しそうだった。
「あなた、名前は?」
「伊藤翠です。翡翠のスイ。」
「スイはスケート好き?」
「うん!楽しいから!この前ね、ジャンプできるようになったんだよ!」
「そう...その気持ち忘れないでね。」
ニコリと微笑むとユリヤは会場を去っていった。きれいな顔は、本当に絵本に出てくる女王様のようだった。
 それからユリヤは世界女王として三連覇を果たすと現役を退き、私のコーチとなってくれた。ユリヤはどうしてコーチになってくれたのか何度も聞いても縁があるとしか言わない。それが私には不思議でならなかった。
 ユリヤがコーチとなって早4年、私は気がつくとオリンピック出場のかかった世界大会の大詰めを迎えていた。これで結果を出せなかったら、次は無いだろう。それぐらいの覚悟が無ければ、同年代の強力なライバルたちには到底敵いそうになかった。
 最終局面でのフリーの演技、曲は雪の女王にした。どの曲にするか会議した時、ユリヤと2人で初めて意見が一致した。今、この時が勝負なんだと改めて思った。スケートエッジのカバーを外し、リンクへ降りる。
「今ここで、最高の演技ができるように頑張ります。」
「今できることが最高のこと。楽しんで、いってらっしゃい。」
ユリヤに両肩を叩いてもらった。きっと今日は大丈夫だ。なんでもできそうだと思った。
大きな拍手の中、リンクの真ん中まで移動する。一瞬の静寂。ここからいつだって、私は主人公になれるんだ。そう思いながら大きく息を吸い込むとイントロが流れ始めた。何も考えず、体が動くままに演技をする。苦手なジャンプは減点されることもなく終えることができたようだった。とりあえず一安心だ。演技後半、連続スピンを終えると最後は一番大好きなステップシークエンスだ。曲にノりながら体を揺らす。いつもよりみんなの顔がよく見える。客席の熱気を肌で感じた。熱い!楽しい!もっとずっと演技がしたい!そう思っているうちに私の演技は幕を閉じた。
「今日、すごくよくできました!」
走り出したいような、ウキウキとした気持ちがリンクを降りてもずっと続いていた。
「…あなたのステップ。私大好きよ。軽やかで楽しそうで...月の上で踊っているみたいでしょう?」
だからきっと大丈夫。というユリヤのおまじないみたいな声を聞きながら結果発表を待った。聞きたくないけど、聞きたい。終わりたくないけど、終わりたい。いろんな気持ちが頭の中を駆けめぐった。すると演技の後で熱くなっていた体が落ち着いてきた。結果は過去最高スコア。これで念願のオリンピックだ。
「スイ、正直言ってここまで登り詰めるとは思わなかったわ。あなたを誇りに思う。」
「せんせい、ありがとうございます。」
涙声になりながら、キスアンドクライでコーチを抱きしめた。
「先生は私の恩人です。」
「あらそれは少し違うわ。」
ふふっと私より少し背の高いユリヤが笑うと胸の辺りが動くのを感じた。
「あなたが小さい時、ノービスの招待公演で私のことを追いかけてきたことがあったでしょう?あの時の私、すごく追い詰められていたの。大人の期待に応えなくっちゃ、完璧な妖精でいなくっちゃって。」
「でもあなたの言葉を聞いて思い出したわ。楽しい、嬉しいって気持ちが私をスケートへ導いてくれたってことにね。」
さらにユリヤは続けた。
「あなたのおかげで私はスケートを嫌いにならずにすんだの。だから、ありがとう。あなたこそ私の恩人よ。」
そう言うとユリヤはそっと私の髪を撫でてくれた。見上げるとそこには、あの頃と変わらない、完璧な笑顔の彼女がいた。
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