文字数 1,967文字

 忘れようとすることは、忘れられないことだ。
 記憶を捨てるには、閉ざした心の縫い目をほどかなければならない。熱い血でぬめる隙間から脆すぎる思い出を後生大事に拾い上げ、その湿度や息遣いを改めて感じなければならない。
 憎むということは、愛するということだ。私にはそれが耐えられない。

 友達という言葉は便利だ。どんな関係性であれ、親族と他人以外の人物は全員纏めてその括りに入れることができてしまう。臆病な私と彼女は結局友達の枠をはみ出すことはできなかった。それを憎く思うあまり、彼女を失って以来一人たりとも友達を増やさず、簡易的な恋人ばかり作るようになったのかもしれない。
 彼女と──(ゆい)と出会ったのは、私が十六の頃だった。
 当時私は大変な不眠で、毎夜ウイスキーをホットミルクで割って飲んでいた。虐待の記憶のフラッシュバックに悩んでおり、義務教育も受けず、自室で幻覚に耐える日々だった。外界を見る余裕が全く無いくらいに、自分の苦痛だけが目前に突き付けられていた。苦痛は怒りや絶望などの感情になり、言葉の粒子へと姿を変え、自分の意志とは関係なく結晶化していく。感情の結晶が、思考の欠片が蓄積し頭が重くなり、吐き出していたブログ上で結とは出会った。確か「貴女の言葉がすきです。」というコメントを書いてくれたのが最初だ。
 妙なことに私には多くのファンがついており、私や結のように未成年の女性が多かった。自己憐憫が美しく見える子らに、私の苦痛をコンテンツだと考えている子らに、どんなに愛されようと虚しかった。しかしある日、結が残す言葉だけは私を癒してくれることに気が付いた。私の綴る言葉の結晶から、的確に苦痛を当ててみせた。そして適切な労いを惜しげもなくくれた。不必要に私を神格化しない結の言葉だけが凛と自立し微かな光を放つので、少なくないコメントの中からすぐに見つけ出すことが可能だった。無我夢中で彼女の言葉だけを読み漁った。個人的に連絡を取り合うようになるまでさほど時間はかからなかった。彼女もまた、私と密にやりとりすることに積極的で居てくれた。私の狂った生活に合わせて朝の四時までメールに付き合うこともあった。一か月もすればメールの到着を告げる振動の前に、彼女の気配を察することすらできるようになっていった。彼女のためなら命も惜しくないと思うほど好きになっていった。初めて知る恋の味だけでも強烈だったのに、いつでも私の孤独や苦痛を適切に埋めてくれる母性のような愛に、優しさに甘えるようになっていた。求めるだけ愛を返してくれるので、ほとんど睦み合っているかのようだった。幼い私は恋と依存は切っても切れないと思っていた。情緒の欠陥を埋めるようにすがり、短い人生の序盤から損なわれていたすべてを彼女で埋めたがるようになっていった。好きで好きでしょうがなかった。
 しかし切ないほどに、彼女とは友達以外の何者でもなかった。彼女は女性を恋愛対象として見ないということは痛いほど知っていた。気を惹きたいという衝動を抑えられないくせに、惨めなだけだと理性が私を諫めた。叶うことのない気持ちを爆発させないように細心を払っていたのに、彼女が欲しくてたまらなかった。今思えば、彼女はいつでも私の気持ちを知ったうえであやしているかのような態度だった気がする。だから、「彼氏ができたんです」と私に告げるときさえ、言い訳がましかった。祝福の言葉をかけたというのに、「出会ってすぐに付き合ったんです。だからすぐ別れると思う」とさえ言った。恋人の存在よりもその気遣いが痛かった。もちろん嘘だと最初から分かっていたし、何よりも彼女の幸せを願いたかった。けれども真逆のことを願わずにはいられないのだった。そんな自分が嫌になり、あっけなく彼女との縁を手放すことにした。連絡をすれば返事がくるのはわかっていたが、閉じもしない傷口をわざわざ開くことはしたくなかった。結を傷つけていたかもしれないが、宥めるべき恋人がいるという事実に打ちのめされた。このまま結を忘れられたらどんなにいいだろう、と何度思ったことかわからない。しかし忘れたいと願うことがあれもこれも浮かんで、反芻の要領でいつまでも私に染み込んで来るのだった。私の気持ちをおそらく知ったうえで密接すぎる友達付き合いをやめなかった結を憎みたくすらあったが、憎むほど彼女が欲しくなり、それが恋情の裏返しだということを私に教えるだけだった。
 だから、小説にでもするしかなかった。忘れたくても忘れられないのであれば、あの時と同じく感情の結晶を、思考の欠片を、吐き捨ててしまえばいい。彼女を求め応えてもらえた二千日以上の日々を、その記憶の湿度と息遣いを、二千字にも満たない乱雑な文章にすることで、復讐を果たすこととした。結、許してほしい。
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