第1話 夏帰りの人(サンプル)

文字数 5,314文字

 まぶたに光がちらついて、朝が見えた。
 九月の朝はまだ夏の眩しさをたたえたままだった。雛原香澄(ひなはら・かすみ)は身体を光からずらし、二度寝を試みたところで、ベッドの木枠で頭を打った。痛っ。そう声をあげても、返事は帰ってこない。頭を打ってしまった衝撃で、歯で軽くちびるを噛んでしまった。
 じんじんとした痛みを頭の頂点とくちびるで感じながら、立ち上がって洗面台へ向かう。部屋のエアコンはつけっぱなしにして久しい。時々内部のクリーナーが働いてフィルターを綺麗にしてくれる。それなりの価格のエアコンを買っておいて正解だったと、仕事から帰ってきて部屋が冷えていれば冷えているほど香澄はそう思った。
「うわぁ……」
 鏡で確認するまでもなかったかもしれないが、当然のようにくちびるの端からは出血していた。慌ててティッシュを持ってきて血を止める。トントンと繰り返すように、くちびるの内側の粘膜にティッシュをあてがうと、じんじんした痛みも、血もあっという間に止まった。
ふ、と香澄はくちびるにそっと、指先で触れてみる。
 いつもリップクリームを塗りたくり、天敵である乾燥を止めているそこは、指先にマットでありながらもぬるりとした感触を返してきた。まさかとは思ったが、そこにはまだ生々しく残っていた。昨夜の、唐突なくちづけの感触が。
 ――加地瑞希(かじ・みずき)という忘れられない男と、香澄が再会したのは十年ぶりのことだった。


 香澄は今、東京都内から少し外れた場所に位置する『久遠市』、その市内にある如月書店という本屋で働いている。自身が文系であり、もともと本が好きだったということもあり、大学を出るなりそこへと就職した。数少ない採用枠で働かせてもらうことになったのは、偶然だったのか運命だったのか。
 如月書店は紀伊國屋書店やジュンク堂書店、丸善のように大きな店舗は持たず、むしろ数名の正社員とバイトで回している、小さめの本屋だ。コネクションとまでは言わないが、元々大学時代にバイトとして入って働いていた店であり、店員さんにもなんだかんだ数人知った顔がある。
 その正社員の中には、『美咲おばちゃん』という名前で親しまれている、近所に住んでいる中年の女性がいた。幼い頃からお世話になった近所のおばちゃんだ。
「本好きの香澄ちゃんが正社員でお店入ってくれたら、私もみんなも嬉しいだろうねぇ」
 とバイトの休憩時間にいつも笑いかけてくれていた。お世辞だったかもしれないが、香澄はそれはそれで嬉しかったことを覚えている。
 そして実際入社して、美咲おばちゃんも含め、ありがたいことに上司や先輩はいい人たちばかりだった。なにより、この久遠市のことをみんなが愛していた。
 市内の商店街から少し離れたところに大学があり、理化学系の専門書や法律関係、哲学書も取り扱おう、と店長のアイデアにより、市内の書店にしてはやや背伸びした種類の本も仕入れていた。香澄にとっては、実際に大学でゼミに通っていたころは、その品揃えがありがたかったものだった。
 香澄にとってはこの如月書店が本を好きになれたきっかけの場所で、これからも街の人々の知恵となる場所であって欲しいと願う場所でもあった。つまり、仕事は順調であり、楽しく感じられるものだった。


 香澄がもう書店で働きだして六年目になる。まだまだ短いとも言えるが、今までの小学校六年、中学校三年、高校三年、大学四年のことを思うと、随分と長い間いるような気もしていた。
 春は別れの季節とも言うが、出会いの季節でもある。香澄にとっても、かなり若い後輩が今年も入社してきた。まだ二二歳だというものだから、若さで目を細めたくなってしまう。そんな香澄はもう二八だ。
 普段ならその春のあたたかな空気のまま新人歓迎会を開くことになるはずだったのだが。日付もすべて決まって店を予約するところで、人間ドックで部長の胃腸に病変が見つかってしまい、一ヶ月ほど入院することにきまってしまったのだった。
 そういう理由で春を通り過ぎて夏の長期休暇前に新人歓迎会を開くことになった。売り場店員に加え、本社のすこし偉い人が数名。一二名というそれなりな人数が集まった。もちろん顔が分からない人も混ざっていて、自己紹介を交えながらの歓談になった。
 乾杯を終えて各々好きなものを頼んだ。香澄は生ビールを一杯飲んだところで、飲み会に必ずあるからあげを頼んだ。こういう時くらいしかジャンクなものを食べられない。レモンのフレッシュな汁をかけて、ビールと食べるからあげは特別おいしい。家でやるからあげは準備が面倒くさいし、片付けや油の廃棄も面倒なのだ。
 年上の社員の孫の話を聞いていると、今年の新人社員の近藤が香澄に近づいてきた。あいさつかな、と香澄は思い「お疲れ様」と声をかけた。
「お疲れ様です」
「近藤くん、楽しんでる?」
「おかげさまで。でも本社の方がいると緊張しまッス」
「あはは。私も最初はそうだったな。でもいい人ばっかりでしょ?」
「そうッスね。お陰さまでモチベとか下がらずに働けてるなって思います!」
 明るくてよろしい、と香澄は思った。自分はまだベテランではなく中堅社員だが、その視点から見ても彼は販売部門がよく似合っていた。若々しく通る声がコミックコーナーの良い賑やかしになっている。愛嬌もあるし、理想的な新人社員だ。
「そういえば、雛原さんってご結婚は……?」
 あ、私が二八だと知っての狼藉だ、と香澄は思う。確かに同期で結婚している人はいるけれど。けれども流石にこれくらいの年になるとこの手の会話を捌く能力は身についているのだ。
「まだしてないよ。そういう人もいないし」
 二杯目の生ビールを飲み干して、次は焼酎に手を出す。誰が頼んだのかわからないけど、お猪口が自分の分まであるということ飲んでもいいということなのだろう、と解釈する。すっ、とお猪口を自分側に寄せ、徳利からなみなみと透明な液体を注いだ。ふわっとあたたかい湯気がたち、アルコールの香りが鼻孔をくすぐってきた。
「そうなんですか。雛原さんならいい人くらいいると思ってました」
「それに、近藤くんいい? それなりの年齢の女性にそんなこと聞くのは粗相よ、そ・そ・う! そういうものは薬指を確認したり他の人に聞いたりして、本人には直接聞かないのがマナーよ」
「そ、そうですか。すんません」
「よし、近藤くん。飲もう。丁度焼酎来たばかりだから」
 香澄が自分に注いだのと同じくらいになみなみにしたお猪口を差し出すと、近藤はいただきます、と言って嫌な顔をひとつもせずに飲み始めた。
「お、近藤くんって結構お酒強い?」
「ほどほどッス。大学の時のサークルで鍛えられて」
 話を聞くと、彼は大学では落語同好会に入っていたらしい。実際に落語を読んだり、大会に出たりことはあまりなく、いわゆる飲みサーのようなものだったらしい。飲みサーだったら粗相に厳しいでしょ、と笑いながら指摘すると彼は「でも男ばっかりだったんですって」と困った表情をして手を合わせていた。二二歳なんてまだこどもで、結婚など遠い未来の話に聞こえるだろうから仕方ない。それにいつまでも怒る話題でもない。こちらは婚活をしているわけでも、結婚を急いでいるわけでもないのだから。
「ま、いいや。近藤くんは彼女いるの?」
「……いません!」
 先ほど『粗相』を受けたのもあり、今度は意地悪に香澄の方から語りかけてみた。彼はそれが先ほどの応酬だとすぐに理解してくれた。まことに優秀な新人だ、と香澄は心の中でもう一度繰り返した。
「僕がいたのは工業大学でほぼ男子校みたいなものですよ、男子校。女子も生物系に何人かはいますけど、物理学部だった僕はまったく接点がなくてですね」
「さっきの飲みサーは? 女の子いるんじゃないの?」
 そう尋ねてみたところ、気になった子はいたけれど、先に他の男にとられたとのことだった。そこはもしかしたら彼にとっては笑いどころだったのかもしれないけれど、香澄は笑うことはできなかった。
 この年まで年齢を重ねるごとに出会いがあったり、なかったりして、お付き合い自体はしたためしが幾度もあるけれども、結局失敗に終わっている。くちびるを重ね合わせたり、身体を重ね合わせたりして、愛を確かめる行為も何度もしたけれど、長いお付き合いに至れてはない。
 ――これもすべて忘れられないひとが、いるせいだ。
 そのすべてを目の前にいる後輩にわめきたくなったけれど、すんでのところでやめた。焼酎をまた徳利から自分のお猪口に注ぎ直す。もうぬるくはなっていたけれど、なんとなく喉を潤すにはちょうど良かった。


 普段はこんなことなど絶対にないのに、うっかり飲み過ぎてしまった。
 タクシーを走らせるにしては家が徒歩圏内にある。ちょっと足下がふらついてはいるものの、心配をしてくれる上司からの送迎を丁寧に断って、香澄は歩いて帰ることに決めた。なんだかんだ歩いていればその途中で酔いが覚めてくるだろうと見込んでいたが、状況は悪化する一方だった。吐き気と頭痛。足のふらつきに加えて三重苦。送ってもらえば良かったと思ったのにはもう遅く、香澄は胃のむかつきとともに路地裏に駆け込んだ。
 その時に、路地裏からにゅっと人影が湧いてきた。しまった、と香澄が思った頃にはおぼつかなくなっていた足がその人の足にひっかかってしまい、前のめりになってしまった。
「おっと」
「ごめんなさい……ちょっと具合が悪くて」
 口元をハンカチで押さえながら暗がりへ暗がりへと進もうとすると、人影に腕を捕まれた。
「そこから先は立ち入り禁止だよ。それに、そんなところ女性が一人で入っていくのは危ない」
 そんなことを言われても、吐きそうなのですけれど、と香澄は思う。でもそんな風に思っていることは言えない。ぎゅるぎゅるとしてきた胸元を押さえて顔をあげると、人影――彼はバイクのヘルメットを脱ぐところだった。
 その顔を見て、ばちん、と香澄の心にある不思議なスイッチが入った。酔いが覚めた。吐き気もどこかにいってしまった。ただ、その一言を言うためだけに。
「加地くん?」
 少し髪が長くなっている。うっすら髭も生えていて、でも間違いなかった。その物腰と背中を三年間ずっと見つめていたのだから。そう、だってあれは初恋だったのだから。
 先ほどの飲み会のことなどもう頭になかった。ヘルメットを外した彼は、おやおや、と言葉尻で笑いながら、こちらをそっと見つめてきた。暗がりで表情はわかりにくかったが、その声を聞いて確信した。
「……驚いたな。香澄じゃないか」
 その声は以前よりか低くなっていたが、居心地のよい声には変わらなかった。香澄が口を酸欠の金魚のようにパクパクさせていると、加地と呼ばれた男はふっ、と笑った。昔はそんな笑い方はしなかった。けれどもそれが魅力的に見えてしまい、ごくりと香澄の喉が鳴る。
「お、驚いたのは私の方よ。十年ぶりだもの。今まで連絡もとれなかったじゃない」
「ははは。色々あったんだよ。色々。ここで今から話すにはつもりにつもって余る話がね」
 彼はおおきな手でヘルメットを撫でながら、香澄に向かって笑いかけてきた。懐から名刺のようなものを出し、手渡してくる。暗がりでじっと確認すれば、そこには「弁護士 加地瑞希」と小さな文字で添えられていた。
「今ゴーストハンターとして働いていてね。あっちこっちでてんやわんやしてる」
「え? 何? ゴーストハンター? 何言ってるの。ここには弁護士って書いてあるんだけど」
「何って? 結構儲かるんだぜ、除霊ってやつは」
 その顔が大真面目で余計香澄は困惑した。ゴーストハンターなんて生真面目な顔で言って、次の瞬間には実は弁護士だのフィナンシャルプランナーなど言い出すに違いない。そういう自分の肩書きに適当で、高校時代から嫌に器用な男だった。
「加地くん、私をからかってる?」
 香澄が心の底から声を出すと、加地はいやいや、と首を横に振る。
「からかってると思う?」
「質問返しするのってずるく――」
 その言葉をつづけようとして、それは少年漫画のようにふっと打ち切られた。
加地は香澄を引っ張り、断りもなく自分の方へと引き寄せた。何が起きているのか分からないまま香澄が身体をよじると、彼の骨張った手のひらがその顎をとらえた。
「――やっと会えた」
「え? 今、なんて、」
 その言葉の先は続かなかった。
 加地は香澄の顎をつかんだまま、強引にくちづけをしてきたのだった。


「じゃあな、香澄。気をつけて帰れよ」
 ブウンと音を立ててバイクが遠ざかっていく。香澄はその音を聞きながら、路地裏の地面にへなへなとしゃがみこんでしまう。十年ぶりの再会もさることながら、十年ぶりのくちづけに驚いている自分がいた。
 ――なんで? どうしてここに? それになぜ私にキスを?
 ――とっくにこの街を去ってしまったと思っていた。それなにの再び現れたのはなぜ?
 疑問に思うことが多すぎて、先ほどまでの酷い酔いが覚めてしまった。感じていた吐き気がどこかに遥か遠くに飛んで行ったように。
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