第1話

文字数 1,876文字

 もうすぐクリスマスだ。しかし現在二十四歳の私には彼女もいないので、感慨はない。体も心も凍えるような十二月だ。ベッドで丸くなり、目覚まし時計を見る。寒いから布団から抜け出したくない。布団の中は天国だ。もう少し寝ていたい。
 しかたなくベッドから起きて、セラミックヒーターの電源をオンにした。室温は常に一桁だ。生きる気力がなくなってしまう。書棚を見ると、単行本が並んでいる。純文学もあるが、ミステリーが大半だ。他人が見たら、偏っていると思うだろう。書棚から一冊の単行本を取り出した。本には栞が挟まっている。ページを捲ると、続きを読みたくなる。
 学生時代は貧しかったので、単行本を購入することはなかった。本は基本的に図書館で借りていた。図書館に行けば無料で借りられるのに、なぜお金を出して購入するのだろう? と疑問に感じていた。
 セラミックヒーターは部屋が暖まる。温度計を見ると、室温が上昇している。身体も温まってきた。インスタントコーヒーを飲み、生気を取り戻した。昨夜お気に入りの作家の新作を読み耽って、寝不足になった。インスタントコーヒーも夜だけで、四、五杯は飲んだだろう。ドリップコーヒーは面倒くさいから、インスタンコーヒーのほうが手軽にできる。今度、スーパーマーケットで特売のときに買っておこう。
 大学は私立大学文学部に入学した。サークル活動もして、ミステリー研究会に所属していた。仲間と同人誌を制作していたが、精神的に充実していた。もともと純文学が好きだった。しかし夏目漱石や太宰治などは肌が合わず、食わず嫌いだった。ミステリーだけでなく、星新一や筒井康隆のSFも好きだった。ミステリーでは、宮部みゆき、髙村薫、桐野夏生が好きだった。
 大学を卒業したら、小説家になろう、と漠然と考えていた。やはり退路を断つ必要があるだろう。大学四年生のときに、就職活動はやる気がなかったので、一切しなかった。スーツは一式を揃えたが、エントリーシートは一枚も書かなかった。どの業界にも興味を抱けなかったし、企業に勤めたくなかった。
 会社に忠誠を誓う気もなく、社畜になるのは嫌だった。大学卒業後もモラトリアムを楽しんでいた。しかし小説は執筆していた。小説講座に通って、細々と続けていた。講師による指導もあり、随分上達したはずだ。
 一人暮らしていたが、実家から仕送りしてもらっていた。お金を稼いでいないと、世の中から置いていかれるような気がして、アルバイトでもして稼ごう、と決意した。本当は自宅に引き籠もって、ミステリーを読んでいたい。コーヒーを飲みながら、小説を読んでいると、時が経つのも忘れてしまう。
 こんな寒い日に働きたくない。手袋をはめ、ネックウォーマーを巻き、ダウンジャケットを羽織り、完全武装して外出した。
 駐輪場に止めていたクロスバイクに鍵を差し込み、自転車に跨がってペダルを踏み込む。廉価で販売されていたクロスバイクは、自転車専門店で購入した。冬は風が冷たくて、ハンドルをぎゅっと握り締める。
 現在はレンタルビデオ店で働いている。レンタルビデオ店の周りには、のどかな田園風景が広がっている。もともとこの店の常連だったのだが、貼り紙を見て、求人に応募した。
 ふだんはレンタルビデオ店で働いているのだが、一階には併設されている書店がある。書店でレジを打つこともある。いかんせん手先が器用ではなく、苦労している。休憩時間になり、一息つこうと思い、スタッフルームに向かった。
 スタッフルームの扉を開けると、三橋さんが椅子に腰かけ、本を読んでいた。本の表紙を見ると、新潮文庫の『ヴィヨンの妻』だった。
 三橋さんという女性は、バイト先の先輩だった。噂話で既婚者だとは知っている。三橋さんは二十代ではなく、おそらく三十代だろう。薬指に結婚指輪をはめているから本当だろう。笑顔が可愛いし、愛想がいい小柄な女性だった。アルバイト仲間から人気があるのは分かる気がした。今どき太宰治を読むのは、変わり者なのではないか? 思わず、
「太宰治が好きなんですか?」
 と尋ねた。三橋さんは恥ずかしそうに頷いた。
「暗いでしょ」
 三橋さんは照れていた。私は慌てて首を振った。後にも先にも三橋さんと会話を交わしたのは、この時だけだ。思いがけず三橋さんと話ができて、ラッキーだったのだろう。
 しばらくレンタルビデオ店で働いていたが、人間関係がうまくいかなくなり、アルバイトを辞めてしまった。レンタルビデオ店も呆気なく閉店になった。『ヴィヨンの妻』を読んだことはないが、いずれ読んでみよう。(了)
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