第1話

文字数 1,505文字

 夜の八時を過ぎたころ、あのコはいつも通り、階段を上がって来た。八時十二分発の下り電車に乗るためだ。塾の帰りなのか、バイト上がりなのか、制服姿のあのコは週三日程度、この時間に現れる。その約十二分間、正斗はあのコのそばに居られる。
 正斗は八時前には駅に居た。もちろんあのコを見るためだ。あわよくば、話してみたいが、名前も知らない女の子と喋ろうなんて罰が当たる。正斗は見ているだけで充分だった。
 彼女はいつも三両目、三番扉のホームドアの前に並ぶ。だから彼女が並んだそのすぐ後ろに正斗も何気なく並んで、背後を陣取った。
 電車を待つ間、彼女は決まって文庫本を読む。
 彼女がスクールバッグからそれを取り出す一連の動作が自然で美しくて、彼女を初めて見たとき、正斗はそれに見惚れてしまった。
 以来、彼女を探すように、夜の八時には駅のホームに居るようにしている。
 彼女は綺麗だった。賢さと可愛さを同時に存在させる大きな瞳と、それを守るかのような大きな眼鏡が印象的で、小さな鼻と薄ピンクの唇がこれまた可愛らしい。周りの大人たちが必死でスマホに齧りつく横で、淡々と読書をする姿も様になっていて、今どき、紙の本を選ぶというところもどこか古風で正斗には愛らしかった。
 正斗は普段、本など読まない。でも好きなコの好きなモノが知りたくて、正斗は高い視点を利用して、彼女の後ろから文庫本を覗いた。
 正斗は久しぶりの活字にくらくらした。
 そういえば勉強のほうは全然だったか、と思い出し、だからって運動が出来たわけじゃないと余計なことまで思い出してしまった。
 こうやって自分の欠点を並べるのだけは得意だった、と皮肉な追い打ちをかけていると、ホームに軽快なアナウンスが流れた。電車が前の駅を発ったという知らせだ。
 隣の駅とは数キロも離れていない。彼女との貴重な十二分間はもうすぐ終わる。
 こんなふうに彼女と過ごす、一方的な時間が今の正斗のすべてだった。常軌を逸しているのは分かっていた。彼女もこんな男に好かれていると知ったら迷惑だろうし、きっと嫌に違いない。もしかしたら一生背負わす恐怖を与えるかもしれない。だからこの恋は実らなくてもいい。だがそれでも正斗には未練があった。
『彼女の笑顔を見てみたい』
 彼女の笑顔を未だ見たことのない正斗はそれだけが気がかりだった。考えてみれば一日が終わった帰りの電車待ちで、笑うようなことは一つも無い。でも彼女がどんなふうに笑うのか、見てみたかった。そもそもちゃんと笑うことが出来るのか心配だった。
 正斗は彼女に自分と同じニオイを感じていたから。
 この駅にホームドアが出来たのはついこの前のことだ。世間とマスコミに叩かれた鉄道会社が異例の速さで設置工事を行った。
 ホームに電車が滑り込んできた。ドアが開き、文庫本を閉じた彼女が足を踏み出す。正斗はこれ以上進むことが出来ない。
 後ろから「あやか!」と、甲高い声がした。
 声のほうを見ると、スクールバッグのほかに、登山なんかに使えそうな大きめのリュックを背負った少女が居た。階段を駆け上がってきたのか、荷物の多い重そうな肩を上下させていた。彼女と同じ制服を着たポニーテールの快活そうな子だった。
 振り返った彼女は、真後ろに居た正斗には気づかない。
 あやかと呼ばれた彼女は、途端に笑顔を見せた。大きな目を細め、小振りの唇で控えめに弧を描く。美しかった。
 正斗は身体が軽くなるのを感じた。実体の無いはずの身体から未練という最後の重さが消えていく。正斗はやっとこの駅から離れられる。
 あやかが友人のもとへ駆けて行った。そのわずかな空気の揺れだけで、正斗はこの世から消えた。
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