第1話

文字数 1,989文字

 昨日、半年付き合った彼女に別れを告げられた。僕に金が無いからだそうだ。
 彼女とは合コンで知り合い、出会ったその日に付き合う事になった。二次会の後に酔ってラブホテルに行き、気付けば翌日の朝陽が降り注ぐ寝台で、僕は昨夜の己の欲望の責任を取らされていた。今思えば、国立大学医学部の学生という肩書きに、彼女は惹かれていただけなのだろう。でも、僕だって同じだ。彼女の豊満な胸が気にならなかった訳では無い。だから、別れたからといって落ち込む事は無く、寧ろ感謝さえしている。僕を、生涯童貞の危機から救ってくれたのだから。

 だが、別れた後の僕の部屋に、色々な物を置いて行かれるのはとても困る。お泊まり用の化粧水や乳液、如何わしい行為に使用した特殊な女性用下着、部屋が殺風景だからと突然に彼女が持ち込んだ観葉植物。取りに来てくれる様に伝えたが、好きに処分してくれとだけ返答が有り、それ以降は連絡も取れない。使えるものなら有効活用したい所だが、どれも僕には不要な物ばかりだった。特に、観葉植物のガジュマルに至っては、僕の狭小な部屋には迷惑極まりない代物だった。
 僕は面倒に思いながらも、ガジュマルを片付けようと少し脇に移動させた。その時、それまで隠れていた壁と柱の間に、五ミリメートル程の隙間が在る事に気付いた。築六十年を越える老朽化したアパートなので、至る所に隙間が在るのは仕方が無い。大した事は無いだろうと、何となくその隙間に顔を近付けて覗き込み……その瞬間に僕は驚愕した。何と、隣室の様子が窺えるではないか。

 隣室には、年齢は僕と同じ位だろうか、一人の若い女が居た。下着姿で畳んだ布団に寄り掛かり、紫煙を燻らせている。虚ろな表情で天井を眺めているその姿は、退廃的という言葉が相応しく、僕は何故だか異様に好奇心をそそられた。
 暫くすると、隣室の呼び鈴が鳴り、一人の男が部屋に入って来た。女の交際相手にしては、幾分年齢が行き過ぎている様にも思える。女は畳んであった布団を広げると、其処に男を招き入れた。二人は激しい接吻を交わすと、そのまま性行為に及んだ。三十分もすると行為は終わり、男は脱ぎ捨てた衣服を着直し、財布から数枚の紙幣を女に手渡した。
 その夜、僕は見てはいけないものを見てしまった罪悪感と、何とも言えない昂揚感から、布団に入ってからも暫く寝付けなかった。昂りの原因を解消しようと、僕は布団の中で何度も己を慰めた。

 翌日、僕は再びあの隙間から隣室を覗く。またしても男がやって来ていたが、昨日の男とは別の男の様だ。昨日と同じ様に性行為が始まったが、本日は一時間以上経っても未だ続いていた。僕はどうにも堪え切れなくなって、慌てて着衣を下ろすと、己自身に右手を伸ばしていた。
 「じゃあ、またな。」
そう言う男の声で、僕は我に帰った。慌ててティッシュを手繰り寄せると、辺りを綺麗に拭いて廻った。暫くして冷静さを取り戻し、僕はまざまざと実感し始めた。僕は、何てクズなのだろう……と。

 そんな性的昂揚と自己嫌悪の毎日を繰り返す或る日、僕は夜中に自室の扉を激しく叩く音で眼が覚めた。
「お願い!開けて。助けてよ!」
こんな事を言われては、普段ならば警戒して開けたくないのが本音だが、その声に何処か聞き覚えが有った。隣室の女だ。僕が扉を開けると、女が勢い良く駆け込んで来た。いつもの下着姿では無い事を、僕は少し残念に思ってしまった。僕はやはり、とんでもないクズだ。
 暫くすると、外から聞こえていた怒声も収まり、女は少し落ち着いて来た様子だ。
「ごめん。アイツ、いつもプレイ内容がきつくて、最近は断っていたんだけどさ。如何してもヤらせろって押し掛けて来て。」
僕が何も言えずに居ると、女が身を乗り出して来て、僕の耳元で艶っぽく囁いた。
「見ていたんでしょ?私達がヤッている所。」
女は気付いていたのだ。僕が、あの隙間から情事を覗いていた事を。此方から見えるという事は、彼方からも見えるという事だ。僕は、過去の己の行いを思い出し、今直ぐに此処から消え去りたいと思った。
「ねぇ、ヤらせてあげようか?シたいんでしょ?」
「……結構……です。そういう事は、好きな……人と……。」
「つまんないの。……良いや、少し話し相手になってよ。」
 僕達は、月明かりが照らすアパートの一室で、他愛も無い世間話をしながら朝を待った。朝陽が昇ると、女は何事も無かったかの様に自室に戻って行った。

 あれから数日、隣室は妙に静かだった。少しの後ろめたさを感じながら、久々にあの隙間を覗くと、細く折り畳まれた紙切れを見付けた。僕は爪先でそれを引っ張り出し、丁寧に広げて行った。其処には、『ありがとう。』とだけ記されていた。微かに煙草の残り香のするその紙切れを握り締め、僕は慌てて隙間から隣室を覗いた。其処には、一切の人の気配は無く、既に空室となっていた。
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