いつか汽車に乗って

文字数 1,429文字

 英吉利結びの髪をぐるりと頭に巻いたまがれいと(マーガレット)。それをリボンで飾った女学生が、新橋の駅前にたたずんでいる。
 金縁(ゴールド)眼鏡に矢絣の着物、海老茶の袴に革の長靴(ブーツ)。青い水玉の眩しい風呂敷包みを抱えていた。夕刻へ向かう夏の日差しは、立っているだけでじわりと汗が出るようだった。

「ごきげんよう、しずえさん」
 元気な声に呼びかけられて、しずえは其方を見遣る。
「まきのさん」

 涼しげな瓶覗色の着物に、しずえと同じように海老茶の袴、きれいな黒髪を結流しにした女学生がこちらに向かっていた。
 まきのは額に汗をにじませながら、駅舎の前の階段を駆け上がってくる。クセの強い髪を英吉利結びにひっ詰めているしずえとは違い、いつ見てもきれいな髪だ。彼女は手に金魚の模様の風呂敷包みを持っている。

 駆けよってくると、暑さにか興奮にか頬を染めて、そっと耳を寄せて彼女は言った。

「しずえさんに貸していただいた小説、とても楽しかったわ。不思議な物語に恋のお話が、とても新鮮でしたわ」
「そうでしょう。たまきさんならそう言ってくださると思っていたわ」
 どこか沈んだ気持ちでいたけれど、まきのの嬉しそうな声にすこし励まされたような気持ちで、浮かれた声を出すことができた。

 その時、彼女たちの後ろで汽笛が鳴り響いた。人々のざわめきの向こう、振り返れば駅舎ごしに、蒸気があふれてみえるようだった。
 鉄道の起点となるこの新橋駅。

 小説は、若い女子にふしだらな自由な発想を与えると言って、嫌われている。だから彼女たちは隠れて読み、貴重な小説を交換して、こっそり集まって話し合う。

 近頃、同じように小説をたしなむ友人が、いなくなった。神隠しだ、かどかわしだと大きな話題になって新聞にもとりあげられたが、しずえは彼女が消えた理由を知っている。

 彼女はこっそりと、改革派の若者と親しくしていた。皆でミルクホールに待ち合わせて、小説についてひとしきり話した後、どこか浮かれた様子で帰っていった彼女が、若い男の人と会うのを見てしまったのだ。
 男の人と特に親しくするなんて、親兄弟でもない限りないことだったから、もしかしてと思っていた。

 やはり、と言われるのかもしれない。小説など読むからだと。
 もしかしたらそうなのかもしれないけど、禁じられて夢を見るからこそ、自由な恋愛にあこがれるのかもしれない。それを夢物語と終わらせるか、本当に恋に出会ってしまうのか、どれくらいの違いだろうか。

 彼女はきっと、出会った若者と、手に手をとって、汽車に乗って行ってしまったのだ。遠く大阪、京都までつながるこの汽車に乗って。
 しずえは、賢しらな女学生が嫌いな若者を思い浮かべる。苦虫をかみつぶしたような表情で煙草(シガレット)を噛みつける顔。

 いつまでたっても、あの人はきっと、自分の気持ちなど認めてくれない。手に手をとって逃げてなどくれない。

「いつか、しずえさんと汽車に乗って遠くまで旅をしてみたいものですわね」
 駅舎をいつまでもぼんやりと見ていたしずえに、まきのは無邪気に言う。
 彼女は良家の子女で、そう身軽に女だけで旅などできるわけもないのだけど。それをまきのも知っていて、きちんと理解していながら、楽しそうに言う。

 とても窮屈で、息苦しくて、わたしたちは小説を楽しむことくらいしかできないのだ。

「そうですわね。いつか、小説のように遠くまで旅をしてみたいですわ」
 しずえはまきのに微笑みかける。
 行きましょう、と手を引くまきのの後に続いて歩きだした。
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