ねずねこオペラ

文字数 4,850文字

 ねずねこ歌劇場は年内の公演をもって閉館することが決まっています。舞台では最後の公演へ向けて稽古の仕上げを行っていました。

 ねずみテノールの深海を思わせる深くおおらかな歌声が響き渡ります。
 続いてねずみソプラノのアリア。悲しい歌声は劇場にいるねずみ達を釘付けにしました。
 ただひとり、ねこ演出家だけはうんざりした顔で舞台をながめていたのです。
「ストップ!照明担当ねずみまただ!いっつも遅いんだ、ソプラノが歌い出してから何秒たってる?」
「0.8秒ですー。さっきより0.3秒早くなりました。つまり1秒きりました!」
 別の照明担当ねずみが答えると、周りのねずみ達はケラケラと笑い声をあげました。
「もういい!何回同じとこで止めてると思ってるんだ!本番は明日だぞ、次こそびしっときめろ!びしっと!」
 再びオーケストラの音楽が鳴り出しました。客席の階段をのぼるように迫りくる管弦楽の音色は雷の音。雨の日の路地裏、ふたりのねずみは傘をさし・・・・・


「ひどい雨だわ。明日の本番大丈夫かしら?」
「ますます客足が減るわね。もともとチケット売れてないのに」
 劇場関係者が集う食堂でねずみソプラノと合唱団のねずみアンサンブルが紅茶を飲みながら話していました。
「ねずねこ歌劇場最後の公演なんだから有終の美を飾りたいじゃない」
「紅茶にミントを浮かべるの忘れてたわ。多少私も明日の公演に緊張してるみたい」

 薄暗い衣装部屋にはねずみテノールがいました。何やら深刻そうな顔をしています。そこへねこ演出家がやってきました。
「探したぞ」
 ねこ演出家はねずみテノールが見つかってほっとしたような、しかし疲れたような顔をしました。
「明日の本番、ちゃんと歌えるでしょうか・・・」
 ねずみテノールは思案顔でうつ向き、ちらとねこ演出家を見ました。
「さっきの練習ではすばらしい歌声をきかせてくれたじゃないか。私は心配していないよ」
「練習だからですよ」
「ねずねこ歌劇場最後の公演、『路地裏の薔薇』。みんなは最後だ最後だと言っているけれど、私はそのことより、君が再びステージに上がることのほうに意味があると思うよ。ま、そう言うとプレッシャーがかかると思って言わないつもりだったけどね」
 ねこ演出家は無邪気に笑いました。
「どれだけの人もそんな風には思ってませんよ。ぼくにはこの歌劇場を存続させるだけの力がなかった」
「ねずねこ歌劇場がなくなるのは君の責任じゃないよ。われわれみんなの力不足だ」
 ふたりはしばらく黙っていました。雨が窓をうつ音がうるさいぐらいになってきました。
「やめないでくれよ」
 ねこ演出家はひとり言のようにぼそりと言いました。
「え?」
「オペラ歌手を」

  ~♪♪♪~♪♪♪~♪♪♪~

「年明けにはさ、ニューイヤー公演があっていつもスター歌手達が舞台に立ってたんだよ。昔はな」
 帰宅したねこ演出家が妻に言いました。
「なんでやらなくなったの?」
 妻はお皿に、切り分けたクリスマスチーズケーキをのせました。
「予算の関係だ。専属歌手だけだったら集客にならないのさ。だから外から歌手を呼んでたんだ」
「やればいいのに」
「は?」
「ニューイヤー公演。お客さん来るかも」
「何を今さら。今年でつぶれる歌劇場だぞ」
 ねこ演出家はケーキをぱくりと口に入れました。
「劇場を明け渡すのはまだ先でしょ。それにねずみテノールくんが復帰する。やる価値はあるわよ」
「どうやってやれって言うんだ?劇場支配人の許可でもとれと?あと一週間やそこらで、歌手だって集まらない」
「形にこだわらなくていいんじゃない?どうせ最後なら。やりたいようにやれば?」
 ねこ演出家はんん・・と小さくうなって考え込みました。
「ところでなんで今年はチーズケーキなの?」
 妻がおいしそうにケーキを食べながら言いました。
「え?ああ、一緒に働く彼らに影響されて」
 ねこ演出家は思い出したかのように続きを食べ始めました。

  ~♪♪♪~♪♪♪~♪♪♪~

 本番。昨日からの雨はまだしとしとと降り続いていました。冷たい雨にぬれた観客達はふるえながら劇場に入ると、室内の暖かさにホッとした表情を浮かべました。
 オーケストラピットにはすでに楽団が座り、音合わせを始めています。舞台裏ではメイクや衣装を整え終えた歌手達が集まっていました。ねずみテノールは舞台袖の隅に座って、ひとり心静かに本番が始まるのを待ちました。
「こんな時になんなんだが・・・」
 ねこ演出家がねずみテノールの隣に座り、話しかけました。
「もし、年明けにニューイヤー公演をするとしたら、出てくれるか?」
「え?」
 突然の申し出にねずみテノールは目を丸くしました。
「たぶん、うちの専属歌手だけのコンサート形式になると思う。チケットも売らない。劇場を完全開放にして誰でも自由にみられるようにする。そんな公演をやったら、出てくれるかい?」
 ねこ演出家は珍しく少し緊張していました。今からの公演に対するそれではなく、何か別のところに。ねずみテノールは視線を落として言いました。
「今日の公演が無事終わったら、考えます」


 オープニング。雨にぬれたコンクリート、レインコートを着た合唱団が舞台に現れました。悲恋の始まりを奏でるオーケストラ。合唱団のハーモニーは雨の街を歌います。

「まるで今日みたいな日ですね」
 ねずみテノールはねこ演出家に言いました。もうすぐ出番です。さっきまで硬くなっていた表情は清々しく、稽古の時にはみられなかった微笑みがありました。
 ねずみソプラノがねずみテノールの肩にふれました。ねずみテノールはうなずき、堂々とした足どりで舞台へと歩いていきました。
「ねずねこ歌劇場のエース、復活のテノール」
 ねこ演出家のつぶやきを、ねずみソプラノは聞いていました。
「私も出させてもらえます?ニューイヤー公演。専属ですから」
 ねずみソプラノが言うと、ねこ演出家はハッとした様子で彼女を見ました。
「もちろん。できるかどうかは支配人次第だけど。必ず実現させるよ」
「きっと彼も出てくれる。ねずみテノールのアリアは劇場を、楽園に変える力をもってる」

 ねずみテノールは歌いました。そのアリアは救いを求めていました。悲しくうったえる眼差し。劇場に吹くはずのない風を感じさせるアリア。夢の中の楽園を追い求める主人公はねずみテノール自身でした。主人公と自分を重ね合わせて、自らの力で楽園にたどり着くために歌いました。


「みんなお疲れ様。ねずねこ歌劇場最後の公演にふさわしいオペラだった。七回におよぶカーテンコール、ブラボーの嵐、この天候にもかかわらず当日券は完売、ぐすっ・・このチームでいつかまた・・最高の・・・うっ・・・」
 公演が終わって最後のミーティング、ねずみ支配人は感極まってみんなの前で泣いてしまいました。近くにいた衣装係がさっとティッシュボックスを差し出すと、ありがとうと言って涙をふきました。
「あの・・・支配人、ちょっとよろしいですか?」
 ねこ演出家が控え目に手をあげて言いました。
「なんだね?」
「えーっと、今日の公演をもってねずねこ歌劇場は閉館となるわけですが・・・年明けにニューイヤー公演をしませんか?昔やってたみたいに」
「ニューイヤー公演?」
 部屋中がざわめきました。かつてのニューイヤー公演経験者は今やひとにぎりだけ、支配人も久々に耳にしました。
「日がないのはわかっています。だから外部から歌手を呼ぶのは無理でしょう。専属のメンバーだけで、コンサート形式で行うんです。チケットは売らずに、この日来てくれたお客さんは誰でもみられるように」
「懐かしいな。しかし何のために?」
 支配人が言いました。
「ねずねこ歌劇場に、感謝を込めてです」
 答えたのはねずみテノールでした。
「ぼくは今日、ぼく自身のために歌いました。ねずねこ歌劇場が閉館になると決まって自信をなくしてから、しばらく舞台に立たなくなっていたのはみんな知っての通り。ねこさんはそんなぼくを、再びオペラ座に呼んでくれました。演目を引っ張る主役として。その期待に応えたくて、ぼくは今日ただただ最高のパフォーマンスをしようと歌ったんです。だけど次があるなら、ニューイヤー公演が実現するなら、今度は劇場のために歌いたい。どんな時もここにあってくれた舞台へ、感謝のアリアを歌いたいんです」
 ねこ演出家はねずみテノールの答えを、今この場で聞けるとは思っていませんでした。彼の思いがうれしくて、今度はねこ演出家が泣きそうになりました。
「ねずみテノールくん、君の出演はみんなが望んでいたよ。ここで自信を取り戻してくれたのは本当にうれしい。ニューイヤー公演か・・・他に参加者はいるのかね?」
 ねずみ支配人が聞きました。
「私も出ます!」
 ねずみソプラノが言いました。
「ぼくも出ます」
「私も!」
 ソリスト達が口々に参加を表明しました。
「オーケストラも参加させてもらおう。ねずねこ管弦楽団として演奏できるのも最後だからな」
 ねこ楽団指揮が言いました。ねずねこ管弦楽団の演奏者達は、劇場閉館後散り散りに、他の楽団への移籍が決まっていました。
「それなら合唱団も出るわ。アンサンブルがないと盛り上がらないでしょう」
 ねずみ合唱指揮も前に出てきて言いました。彼女はしばしばねこ楽団指揮に対してライバル心を持っているようでした。
「ふう・・・わかった。劇場明け渡しは三月だ。年明けのニューイヤー公演、実現させようじゃないか」
 みんな飛び上がったり歌い出したり、大喜びしました。
「みんな・・・ありがとう」
 ねこ演出家は深くおじぎをしました。こぼれそうになる涙は頭をさげた時そっとぬぐいました。


 かつてねずねこ歌劇場は人気のオペラ座でした。小さな歌劇場でありながら、毎年多くの演目上演。新たな演出は常に話題を呼び、オペラファンを増やすことに成功していました。“楽団員の気まぐれ” と称して、劇場の外で即興の小さな演奏会が開かれることもありました。満席が当たり前の、幾度となく栄光を見てきた歌劇場。しかし今夜みたオペラについて語り合う観客の姿は、いつしか減っていきました。歌劇場が再び息を吹き返すことを願って、みんなは精一杯がんばりました。それでも閉館をくつがえすことができないまま過ぎ去ろうとしている今年の暮れ、彼らはもう一度舞台に立つため手を取り合いました。

  ~♪♪♪~♪♪♪~♪♪♪~
(新年、ニューイヤー公演当日)
 拍手喝采、ブラボーの嵐、続くカーテンコール。年明けのニューイヤー公演、ねこ演出家にはその全てが見えていました。昔を知る彼にとって舞台袖からの光景は、過去の記憶でも夢の中の楽園でもなく、今起こっている現実でした。
「『路地裏の薔薇』、そして今日のオペラコンサート。最後とはいえこの盛況ぶり、ねずねこ歌劇場の底力をみた気がするよ。まだまだ続けられるんじゃないかって思ってしまう。だけど一旦ここで終わりだ。一旦な。必ずまた、ねずねこ歌劇場を復活させる。その時は、力になってくれるかい?」
「ええ、もちろん!ぼくをオペラの世界に戻してくれたのはねこさんと、ここですから。ねずねこ歌劇場もきっと、オペラ座として戻ってこれますよ」
 ねずみテノールとの約束。観客席からは劇場の最後を惜しむ声が聞こえてきました。
「今、新制作を構想中なんだ。どこの劇場でできるかわからないけどさ、主役のテノールは君だよ!」
 観客席からの声にかき消されそうになりながら、ねこ演出家が言いました。
「ええっ!わからないのに作るんですか?いつかねずねこ歌劇場でできたら最高なのに。で、どんなオペラを?」
 ねずみテノールが大きな声で聞き返すと、ねこ演出家はうれしそうに笑いました。
「『ねずねこオペラ』。君やここでオペラを作るみんなの、ねずねこ歌劇場の物語さ!」
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