第1話

文字数 2,687文字

 まだ先生と呼ばれる資格も与えられていない、大学四年生である。教員を目指そうと思ったのは、大学一年生の夏休み。とある塾でアルバイトをしていたとき、たった一言、「今日の授業は楽しかった」と帰り際の生徒に声をかけられたのがきっかけである。それから、わき目も振らずに教員になるための勉強をしてきた。この三週間の教育実習を終え、いくつかの事後講習を終えれば、晴れて教員免許を授かることができる。この免許をもって何十年か学校で働けば、一人前の教師になれるのだろう。今はまだ、半人前ですらない、教育実習生である。



 僕が教育実習させていただいているのは、僕の母校である都立高校だ。一応母校であるが、正直に言うと深い思い入れはまったくない。ただ単純に、七十年は続く人生の中の、たった三年間を過ごしただけで、人生を変えてくれた恩師もいなければ、一生を共に過ごすであろう親友もいない。それでも、教育実習生として受け入れてくれたことには、心の底から感謝している。
噂では聞いていた。教育実習というのは寝る間もなく授業について考え、全てを尽くして考えた授業は、ただ教室内の沈黙をもって否定される。教員という仕事は、こんなにも激務であるのか。自分には才能がないのではないか。苦難と葛藤の末、多くの教育実習生が教員という夢を過去のものとして、心機一転、一般企業への就職活動を始める。そういうものらしい。
僕もそんな自己否定のさなかにいる。


 担当クラスのホームルームが終わり、職員室の隣の、本来なら生徒を指導するための一室に呼び出される。
「今日の2年A組の授業は、見ていられなかったよ」
 部活中の生徒たちの声が校庭から聞こえる指導教諭の先生がおっしゃった。
「初めての経験で大変なのはわかる。ただ、今の君には生徒が見えていないよ。きみは誰のために授業をしているんだい。」
 核心を突き、心臓の奥まで響くお言葉であった。
 やる気はある。全力は尽くしている。だけれども、ただ実力と経験が足りないだけなのだ。


 実習の期間中、放課後は次の授業の準備をする貴重な時間である。一般的に、50分の授業を行うのにかかる準備の時間はおおよそ3時間。素人同然の僕は4時間、もしくはそれ以上の時間を必要とする。4階建ての校舎の最上階、その一番端の空き教室に籠る。時刻はちょうど4時。5月の夕暮れの風は黄ばんだ白カーテンを揺らす。黒板は書いては消しての繰り返しで深緑よりも白が目立つ。黒板前最前列の机を3つも独占できるなんて、学生の時には想像できないような、不思議な気持ちだ。6冊ほど乱雑に積まれた読み物から、お目当てのものを引き抜き、パラパラとめくる。いざ集中して読もうとすると、校庭から響く金属バットとボールの衝突音、マネージャーの甲高い声、野球部員たちの野武士のような掛け声が邪魔に思えてくる。おじさんめいた溜息とともにいやいや立ち上がり、窓を閉める。少しはましになった。明日までの時間は限られている。早く自分の授業準備を終わらせなければならない。集中力に自信はある。すっと本の中に意識を落とすと、秒針の音すら、聞こえなくなった。


 ふと気づくと、一時間ほど経っていた。短針がちょうど5時を指したころである。ちょうどよく、集中力も切れた頃合いなので、気晴らしにふらふらと校舎を散歩することにしよう。
目的などない散歩なのだから、何の気なしに3階へと下る。今日の授業は3階の2年B組の教室で行われた。階段の踊り場で、失敗といわれた自分の授業をふと思い出し、いつもより大きめな溜息をつく。
 そんな溜息を掻き消すかのように、女の子の、突発的な笑い声が3階のどこかから聞こえてきた。誰かが教室に残っているのだろうか。気になるので、すこしお邪魔してみよう。ふらりふらりと笑い声が聞こえた方向へ向かってみると、2年B組に人の気配がする。ああ、2年B組の生徒たちなのか。それが分かっただけで、すこし立ち入るのを躊躇してしまう。それでも、自分の悪口を言っているのではないか、怖いもの見たさが勝って、その教室のドアの前までたどり着く。
 スライドドアを遠慮がちに開けて、教室に立ち入る。名前は思い出せないが、B組の女子生徒3人が机に、下品にもお尻を乗っけて輪を作っている。淀みなく行われていただろう会話に一瞬の停滞がもたらされ、今日の授業中に感じられたどの視線よりも濃い視線が僕に集まる。気持ちの悪い静寂。

 ドッ。

 ほんの数秒後、何が面白いのかは到底できないが、それでも彼女たちは弾けたビー玉のように笑い出した。
「先生何してんの」
「何その顔」
「やべぇ今までの話聞かれたんじゃない」
「やばくない」
「彼女はいるの」
「やばい」
 質問のように思えて、質問ではない。会話のようで会話ではない。ただ一方通行な言葉どもが投げつけられる。ただ困惑する以外に術はなかった。必死に作った笑顔は苦笑いにしか見えない。
 容赦なく降りかかる言葉どもの中には、
「先生の黒板の字汚すぎ」
「ぶっちゃけ授業中寝ちゃってたよね」
「つまんなかった」
 今日の授業宛てのものもあった。彼女らは無邪気な女子高生ゆえ、批判するつもりはないのだろう。それでも、改めて、生徒から直接そのようなことを言われると、耳の奥がキンと痛む。この痛みをごまかすたに、乾いた笑いを準備する。その時、

「でも、これからじゃん。次の授業はがんばって。」
「そうだよ、諦めたらそこで試合終了ですよ。」

 乾いた笑いは引っ込んだ。そのかわり、心の奥から、本心とともに一言が、湧き出てくる。

「もちろん、頑張るよ。」


 なんだか、気持ちが浮き上がって落ち着かない。教室を出る足取りに躊躇いはなく、廊下を早歩きで進んでいく。階段を一段飛ばしで駆け上がり、急いで授業準備に使っていた教室に戻る。開けっ放しだったドアからは、オレンジ色の夕陽が見える。思いきってバッと窓を開けると。涼しさを含んだ空気がカーテンを躍らせ、教室を駆け巡る。明日はすぐにやってくる。よりよい授業が創れるように。生徒のみんなが満足してくれるような授業が創れるように。また、授業の準備を始めよう。
 そういえば、あの三人の名前は何だったかな。準備の前に、あとで担当教官に聞いてみよう。



 まだ先生と呼ばれる資格もない、ただの大学生だ。授業をしようと息巻いていたが、なぜなのか、逆にいろいろなものを教わった。いまだ道半ば。半人前の一歩手前。それでも、着実に進んでいる。
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