第1話

文字数 578文字

 辞めます。
 その一言が口にできない人間が世間には意外と多い。だからこそ、私のような人間は飯の種に困らないわけでなかなか皮肉な状況と言えるかもしれない。
 私が退職代行の仕事を始めて随分と経つ。
 クライアントから電話が来て辞職したい旨の要望を聞き、クライアントの仕事場へ電話して辞職したい旨の要望を伝える。これが主な業務だった。
 直接的に誰かと会う必要など一切ない。
 空調完備された事務所に座っていれば良い仕事だ。
 そもそも人には仕事を辞職する権利がある。胸を張って自分で辞めると言えば、費用はもちろんかからない。それをわざわざ私のような代行業に頼んで、多額とは言えないまでも決して少なくもない金銭を払う。
 愚かな行為だと笑う者もいるだろう。
 だが、自身の想いを伝えるというのは大変なことだ。ましてや一生に関わってくる命題ならば尚更に違いない。袋小路に入ってしまって誰かの一助になれるのならば、自分達のしていることにも意味がある……私はそう思う。
 無数の依頼を受けては、問題なく遂行する。
 繰り返し繰り返しそつなくこなす。
 今日も事務的に全ての工程を終え、退社時間となる。帰り支度を整え、私は長い付き合いの上司に挨拶をして帰路についた。
「はあ……また言い出せなかった」
 天を仰ぎ、盛大な溜息をつく。
 懐には、ずっと渡せずにいる退職届が出番を待ち付けていた。
 
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