アート・アブサン

文字数 1,957文字

 出張や外出のとき、ぽっかり時間が空くと小さな美術館を訪れるようにしている。週末や休日に混雑している大きい美術館を尋ねるときと異なり、平日で人も少なく、短時間と決めるせいか集中して鑑賞できる。そんな私は、どんな美術館でも鑑賞のあとに、「酒を飲みながら鑑賞したい。月一回の頻度で飲酒鑑賞デーをつくり、入場料は通常時の三倍でも構わない、是非企画して欲しい」と訴える投書を習慣としている。
 ある日、客先での打ち合わせが早めに終わり、私は都心の再開発から取り残された大名屋敷跡地に建つ小さな美術館を訪ねた。当時の大名の暮らしぶりや残された家財を並べた常設展に加え、企画展示は「大名家三代の趣味」と題し、元禄の前後にこの屋敷の主人だった名も知らぬ殿様たちの興じた絵や書、収集した器などが飾られていた。
 良いものを愛でると酒を飲みたくなる私は鑑賞の途中で何度も口中に酒の味を、鼻腔に酒の匂いを感じ、千鳥足で順路を歩き、毎度の習慣になった飲酒鑑賞企画の嘆願を投じて美術館を出た。すると無性に一杯ひっかけたい気分だった私の目に「アート・アブサン」なるバーの看板が飛び込んできた。誘蛾灯に導かれた蛾の様にバーに飛び込むと時間が早いせいもあって他の客の姿はなかった。
 私がグラスの赤を注文すると、バーテンダーの男は、「ご注文は?」と聞いて来た。私は注文が伝わっていなかったかと思い改めてグラスの赤を注文すると、バーテンは物分かりの悪い奴だ、と言わんばかりの表情で「鑑賞のご注文をお聞きします」と改めた。紳士的だが挑戦的なバーテンの態度を受け私は、
「ワインに合うやつがいいので、バッカスをテーマにしたルネサンス以降の絵画で」とバーテンの知識を試すように言うと、バーテンはカウンターの下で手を動かし、ワインとARゴーグルを出した。ゴーグルをつけると壁面に無地の緑のカンバスを抱いていたフレームに、ベラスケスに始まり、カラヴァッジョ、ティツィアーノ、ルーベンス、ブリューゲル、プッサンと名だたるバッカス像が映し出された。手元のコントローラを使うと好きな部分を拡大もできた。
 ひょんな場所で念願の絵画と酒のマリアージュを堪能し、気づけば赤ワインをグラス三杯空けた私は、もうその日は仕事に戻らないと決め、バーテンに、
「素晴らしいです、バッカスを彫刻でもお願いします、それからボルドーのグランクリュをボトルで」と注文を追加した。ミケランジェロに始まり、トルバルセン、カノーヴァと続き、作品は自在に三百六十度回転した。
 ボトルの残りが半分になったころ、心地よい酔いに包まれゴーグルを外した。左右の席には別の客が座っていて、右の隣には見覚えのある奇妙な髪型で紺の服を着た女が、青いアブサンのボトルを前に腕をグネらせて座っている。左にはこれも見覚えのある黒い山高帽にマントの男がグラスのアブサンを前にカウンターに凭れている。カウンターの背後の対面席の二人にも見覚えがあり、白っぽい服の女と黒い服の男が、半分空いたアブサンのボトルを横に虚ろな表情で並んで座っている。私はバーテンにアブサンを注文すると、長年の疑問をまず右の女にぶつけた。
 あのぉ、貴女の生みの親様もデザインなさって大英博物館にも飾られているアブサンスプーンは、なぜあなたの絵にないのですか?すると右の女は腕をぐねらせたまま「絵のバランスが悪くなるからよ」と答えた。次に左の山高帽に、
 あのぉ、絵の中のあなたの影は帽子をかぶっていないのですが、あれはあなたの影なんですか、それとも…、と聞くと山高帽は「絵のバランスを考えたら、ぼやっとした影になったんだよ」と答えた。最後に二人連れに、
 あのぉ、絵の中のお二人の座るテーブルには足がないのですが、テーブルは崩れませんか?と聞くと女が虚ろな目で「足があったら絵のバランスが崩れるでしょ」と答えた。
 私はもう一度ゴーグルをつけ、ボルドーのワインとアブサンを交互に飲みながら、ピカソとマネとドガの「アブサン」を注文し、崩れる平衡感覚に襲われながら映し出された絵に「絵のバランス」の意味を探った。すると「見る絵のバランスが崩れるわな…」と美術館が酒を飲みながらの鑑賞を禁じる理由も理解できた気がした。
 気づくと私は一人カウンターで涎を垂らしながら眠っていた。私はバーテンに、
「ゴーグルは素晴らしい体験で、お酒も美味しくて、寝てしまいました。お勘定をお願いします」と失態を詫びた。
 飲み代を清算している間に店内を見渡すと、客はずっと私だけだったような平日の昼の雰囲気が漂っていた。さっきまでアブサンを飲んでいた四人はどうしたかと喉まで出かかったが、私はバーテンに目礼を送り、アブサンの香りを喉に感じながらそっとバーを出た。
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