それでは、始めようと思う

文字数 2,137文字

 どこから書き始めたらいいか考えたのだけれど、まずはぼくがなぜこの文章を書こうかと思ったかについて書くのがいいのではないかと思う。でも、それは簡単なことのようでものすごく難しい。

 最近、コロナウイルスのことで周囲がにわかに騒がしくなった。そして、ぼくを取り巻く環境もずいぶん変わった。それで、ぼくにも給付金が支払われることになって、やっとのことで書類を仕上げて郵送したらお金をもらえた。とはいうものの、ぼくは人とは変わったところがあってそれはおしゃれや食べ物にお金を使うというタイプの人間ではないということだ。車は運転できないので車にカネを使うこともない。旅行もしない。興味があるものと言えば本と音楽と映画という、極めてインドアな人間なのだ。

 それで、もらえたお金を使っていろいろどんな本を買うか悩んだ。モーリス・メルロ=ポンティの『知覚の現象学』という本を買うか、ロラン・バルトの本を買うか……ただ、イマイチどの本も「買おう!」という決め手がないような気がして買わなかった。そんな折、いろいろ個人的な変化もあって小説というものを書いてみたくなった。前にぼくは長編小説を書いて友だちに読ませたところ、「向いていないことはやめなさい」と言われて自分でも才能がないのを知り、それ以来小説を書くことは封印したつもりだった。

 それがまた急にどうして書く気になったのか、という話になるかもしれない。ぼくは小説を書くのをやめてからも、書くのは好きなので自分の持ち物にメモを書くことを始めた。ぼくはマルマンから出ているニーモシネという名前のノートとメモパッドを愛用しているのだけれど、そこに英語でメモを書くようになった。これは、ぼくが尊敬しているウィトゲンシュタインという哲学者が始めた日記や哲学ノートを真似したいと思ってのことで、英語で書くとぼくにとって向いているのか、三日坊主で終わりやすいぼくでも奇跡的に続いている。

 そして、そのノートを友だちに読んでもらった。インドネシアの年若の友だちや、その他海外の色々な方だ。それで、ぼくは自分の考えていることを素朴に表現して、それを人に読んでもらうことの醍醐味を知ったような気がした。考えてみれば、ぼくは小説を書いていたのだけれどそれはよこしまな願望から出てきたことのようだった。有名になりたいとか、お金を稼ぎたいとか、そういうことだ。欲で動いていたのだと思う。もっと言えば、物理的な欲望というやつかもしれない。

 でも、今思えばそれは間違っていたように思う。小説を書くということの本当の志は、「自分の伝えたいことを人に伝える」というごく素朴な次元の欲望であり、それを満たすものであればいいのだ、と。カミュが『ペスト』を書いたのだってなにも一山当てるつもりで書いたわけではないだろう。カミュにとってみればそれが思想における問題であったわけであり、それを人に問うて意見/感想をつのる、という動機だったのではないかと思うのだ。カミュとぼくはもちろん違う人間なのだけれど、志を真似ることはできないだろうか、とは思う。

 そうこうしているうちに給付金が手に入った。それと同じ頃に、日本人の友だちから「小説を書いてみてはどうですか?」と言われた。その人にとってみれば大した動機などない、軽い誘いかけだったのだろう。でもそう言われて、一旦は諦めた自分もエッセイや断片といった形では書けないものを小説として出すのは面白いのではないかと考えるようになった。ただ、それをどう出すべきかはわからなかった。

 そんな時に、なにかの奇縁で田中小実昌(たなかこみまさ)の『ポロポロ』という小説を読んだ時のことを思い出してしまった。ぼくは日々そんなに深刻に生きているわけではないので、時には「そういえば、『ポロポロ』という小説を読んだことがあるなあ」と思い出すこともある。でも、そう思い出すと「そうだ、田中小実昌(コミさん)の『ポロポロ』のようには書けないものか」と思うようになったのだった。そう思うと『ポロポロ』という文庫本が欲しくなって、給付金を出して買ってしまったというわけだ。

 それで、『ポロポロ』が届いたので早速表題作を読んで、改めてこの小説を傑作だと呼びたい気持ちが芽生えてしまった。と同時に、こんな小説がこの世にあるというのに、それを知らずに(あるいは、知らんぷりして)小説を書こうとしてしまった自分自身が怖くなってしまったこともつけ加えておきたい。『ポロポロ』に書かれているような甘い少年時代の思い出、あるいは苦い従軍の経験をぼくは持っていない。ものすごくざっくり言えば、書くべき重い話題を持っていないということだ。それで面白くなるのだろうか。

 わからない。でも、ぼくができないことがひとつあるとするなら、それは嘘をつかないということだ。なぜなら、なんだって、どんな事実だって、書こうとして書いていったらどうしたって嘘くさくなってしまうのだから。この文章のように。この文章も、ぼくは仕方なく話をわかりやすく簡単にするために嘘をついてしまった。そんなぼくを許して欲しいと思う。

 これから、少しずつ書いていこうと思う。
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