第1話

文字数 5,487文字

〜二十世紀前半、チェコの田舎町にて〜

 僕とリーゼルが父さんを殺した後、うちの庭の井戸からは、三の倍数の日だけピルスナーがあふれ出るようになった。そういえば、父さんは三十九歳だった。最初は僕らと一緒に面白がっていた母さんも、二週間もすると、数日おきに大きな水瓶に翌日分の水を溜めて切らさないよう用心しなければいけないという状況にうんざりしたようだった。僕らは母さんに水汲みをさせたりしなかったし、もしピルスナーの日に水が切れてしまったら、いつでも町の公衆井戸まで行ってくるよと伝えたが、母さんの機嫌は治らなかった。
 それからしばらくして、母さんはピルスナーを色んな大きさの瓶に詰めて、家の前で売り出した。戦争が始まってから、大人たちは前にも増してアルコールを必要としていたので、いつでも大賑わいだった。僕とリーゼルは母さんに言われるがまま、井戸と即席の販売所の間をバケツを持って何度も往復した。小走りで庭を駆け抜けるうちに、足元の振動に唆されてバケツからこぼれた黄金の液体が僕のズボンを濡らして大きな染みを作っていた。それでかえって踏ん切りがついて、ぼくは母さんが気まぐれにくれる五分間の休みを待たずに、誰も見ていない時を狙って庭の片隅でズボンを履いたままおしっこをした。一瞬体が震えるほど熱い液体がふくらはぎを伝って靴の中に入り込み、僕の踵を濡らすと、若干の後ろめたさとそれ以上の解放感で頭が真っ白になった。
 母さんが目を光らせていたので、僕たちは正々堂々とピルスナーを飲むことはできなかった。もちろんチャンスはいくらでもあったのだが、悪いことでもしているかのようにこそこそと、見つからないようビクビクしながら、大急ぎで初めてのアルコールを喉に流し込むという考えには、僕もリーゼルもなんとなく気が乗らなかった。
「叔父さんたら、あたしたちへの当てつけのつもりかしら。」
 ある日リーゼルが僕の部屋に来て、苛立ちを隠さずにそう言った時、僕は肩をすくめただけで答えなかったが、内心その通りだと思った。数日後、僕が薪割りをしているところに母さんがやってきて、もうピルスナーを売るのはやめると宣言した。僕が理由を尋ねると、「もう十分だもの。」とだけ母さんは言い、リーゼルには僕の口から伝えるよう頼んできたので、大したことではないふりをして頷いた。母さんのこういう見極めの速さや、目の前の現実をありのままに受け止める性質は、僕の揺りかごそのものではなかったとしても、揺りかごで眠っている幼子に日光や羽虫が直撃しないよう、誰かの手でかけられた幌だったことは間違いない。
 

 うちは父さん、母さん、リーゼル、僕の四人家族だった。リーゼルは母さんの兄さんの娘で、ズデーテン地方の出身だった。彼女は僕より一つ上で、両親を亡くした後、我が家に引き取られたのだが、その頃のことを僕はあまりよく覚えていない。僕の記憶の片隅にはいつだってリーゼルがいて、彼女がいなかった頃のことを思い出すのは、水の中で目を開けて物を見ようとするのに近かった。
 ある日の朝、僕とリーゼルが庭で雪だるまを作っているところに、父さんがやってきたことがあった。戦争が始まり、学校が無期限のお休みになってしまってからすぐのことだ。朝食の時に、リーゼルが空になったザワークラウトの瓶を落として割ってしまったことを僕が揶揄うと、彼女は結構な勢いで僕に雪玉を投げつけてきた。リーゼルは、特に乱暴な扱い方をするわけではないのに、何かと身近な物を壊しがちな女の子だった。うちではお皿を欠けさせてしまうのも、元々開け方にコツのいるドアを完全に開かなくしてしまうのも、いつもリーゼルだった。不思議なのは、繰り返される彼女のやらかしについて、両親が僕に対してするように叱ったりしなかったことだ。それは不公平というより、いびつな不揃いさを感じさせた。けれど、僕も別に不満を訴えたりしなかった。
 普段通り仕事に行こうとしていた父さんは、僕らが喧嘩を始めたと勘違いしたのかもしれない。彼はわざわざ引き戸のところから引き返してきて、僕らの頭を代わりばんこに撫でると、右手に持っていた四角い革の鞄をわざわざ地面に降ろしてから、首に巻いていた黒いマフラーを外して、一番近くにいたリーゼルに差し出した。
「そら、これをそいつに巻いてやれ。」
リーゼルは黙って受け取ったが、僕には彼女が父さんをさっさと追い払いたがっているのが分かった。僕はこの場をおさめる気の利いた一言を捻り出そうとしたが、口を開いた瞬間、思わず吹き出してしまった。リーゼルは一瞬唖然としたような顔で僕を見たが、すぐにつられて笑い出した。子供達のそんな反応に、父さんはいたく傷ついたようだ。彼は受け取ってもらえなかったマフラーを素早く巻き直すと、腰を屈めて先ほどよりもノロノロとした動きで鞄を持ち上げ、そのまま無言で歩き去っていった。その後ろ姿はいかにも惨めで滑稽だった。


 井戸の水位は上がり続けていた。そのことを気にしていたのは、僕よりむしろリーゼルの方だった。僕はリーゼルの苛立ちには気づかないふりをして、できる限り彼女と二人きりにならないよう用心していた。そんな風にギクシャクした空気が数日続いた後、僕は台所で母さんが床にうつ伏せに倒れて死んでいるのを見つけた。台所のテーブルの上にはグヤーシュの入った鍋と、濡れた布巾を被せた作りかけのパン生地があった。僕はパン生地を焼く前にこうして寝かせることは知っていたが、そうしないとどういう不都合があるのか、正確なところは知らなかった。僕は生地を少し千切ると、わざと母さんの背中と足を踏みつけてから台所を出て、2階の自分の部屋に戻った。ズボンを脱いでベッドに仰向けに横たわると、僕はゆっくりと時間をかけて、まだ微かに温かいパン生地を伸ばし、睾丸は避けてペニスだけを不恰好なロールサンドイッチのように柔らかく包み込んだ。僕は十二歳で、まだ大人の男にはなりきれていなかったが、未知なる性の世界への憧れと渇望は日に日に強まっており、何とかしてそこに近づこうと、僕にしか見えない絶えずぐらつく梯子を一人で上り下りしていた。
 生地はすべすべしていて、うまくくっついてくれなかったので、大まかな形ができた後も、僕はそこに手を添えたままじっとしていた。リーゼルがノックもせずに部屋に入ってきた時も、僕はそのままの体勢で、半分まどろみの中にいた。
「あら、上手いじゃない。」
 面白がっているのと同時に聞く耳を持たないようなリーゼルの声と、彼女の指が僕の手の上から二重に押さえつけてくる感触で、僕はやっと眠りから覚醒した。
「わざわざ言わなくていいよ。」
 僕は目をつむったまま反射的につぶやくと、肘をついて体を起こし、気まずいというよりも、むしろ誇らしげな気分で僅かに腰を持ち上げ、ペニスをリーゼルに向けて軽く振ってみた。目やにがくっついているのか、視界が一部ぼやけていたので、僕は瞬きを繰り返した。リーゼルはくすくす笑いながら、空いている方の手で僕の耳たぶを撫で、僕の上にほとんどのしかかりながら言った。
「ほんと、馬鹿なんだから。」
 リーゼルが跪いてパン生地を舌でこそげ落としている間、僕は何度か彼女に母さんを見たかどうか尋ねようとしたが、結局やめにした。僕たちが一緒に台所に降りていくと、残りのパン生地が台所の床にへばりついていた。


 生地は日に日に人間の形に近づいていった。一人前の人間ではなく、子宮の中にいる胎児のように小さく、両手をギュッと握りしめ、膝を曲げて、目は決して開かない。時折それが腕を軽く振ったり、足を意味もなくびくつかせていたりするのを見ると、僕は言い知れない嫌悪感に襲われたが、リーゼルは何てことないようだった。彼女はそういう僕の反応でさえ楽しんでいるようで、しょっちゅうからかいの言葉を口にした。
 ある日の朝食の席で、ゆで卵を手に取って殻を剥こうとテーブルに打ちつけた際に、勢いよく飛び出してきたどろりとした半熟の卵白に手を汚されると、リーゼルは大袈裟なくらい顔をしかめて舌打ちした。最近の仕返しをしてやろうと、僕はここぞとばかりに大声で笑ったが、自分でもそのこすりつけるような甲高い声は不愉快だと思った。リーゼルは唐突に立ち上がると、ベタベタとねばつく卵白が手首まで伝っている右手を僕の顔の前に突き出した。ちょうど人差し指が僕の唇のすぐ上にくるように。
「舐めて。」
「バカなこと言うなよ。」
 僕は一瞬怯んだが、なんてことないように答えた。しかし、リーゼルがまるで場違いな冗談でも言ったかのように、軽く流したのは間違いだったのだ。そうすることで、かえって自分を厄介な立ち位置に追い込んでしまったことに、僕はすぐに気がついた。
「舐めてって言ったのよ。」
 リーゼルは一語一語の間をわざとらしく引き伸ばして繰り返した。ふざけるなと怒鳴り返そうとしたが、リーゼルと目が合った瞬間に、そんなことはもうどうでも良くなってしまった。僕はリーゼルの手首を掴んで引き寄せると、我を忘れて舌を伸ばし、彼女の人差し指の第二関節の辺りを先端でぐりぐりと弄った。同じことを他の四本の指にも順番にしたが、舌の動きが少しずつ滑らかに巧妙になっていくのと引き換えに、舐める勢いは落ちていった。リーゼルは何度か抑えきれずに吐息を漏らしたが、僕からは目を逸らしていた。
 突然赤ん坊の鳴き声が聞こえてきて、僕もリーゼルもはっとしてお互いに距離をとった。あの生地が完全に生まれたての人間の赤ん坊になって、床の上をのたうち回っているのを、僕は呆けたようにぼんやりと見つめた。リーゼルがそれに近づいてためらうことなく抱き上げ、母親のように甘ったるい声であやし始めた。僕はリーゼルが赤ん坊を抱き上げる前に、そそくさと布巾で入念に手を拭っているのを見てショックを受けた。
「良い子ね、泣かないでちょうだい。」
 リーゼルの言葉に僕は顔をあげたが、それは僕ではなく赤ん坊に向けられた言葉だった。
「井戸から水を汲んできてよ。」
 リーゼルは赤ん坊から目を離さずに続けた。
「水?」僕はぼんやりとつぶやいた。
「赤ちゃんの体を洗うのよ、当然でしょ。早く行って。」
リーゼルの顔は僕の立っているところからはよく見えなかったが、口調には隠しようもない優越感が滲んでいる気がした。

 僕は裏口からトボトボと庭に出た。井戸へと向かう途中、今日がピルスナーの日だということに気がついて、何となく罪悪感を覚えたが、気持ちを切り替えるのはそう難しくなかった。構うもんか。知ったこっちゃない。僕はそう心の中で何度も繰り返して気合を入れると、深呼吸をしてから井戸まで走った。数分後、黄金色の液体をたっぷり入れたバケツを台所のテーブルに置くと、奥の椅子に赤ん坊を抱いて座っているリーゼルの方は見ないまま、僕は再び庭へ出た。後ろでリーゼルが何か言っている気配がしたが無視した。
 僕は井戸のそばの地面に寝転がった。まだ昼前で、日差しはまぶしかった。僕はピルスナーに浸けられた赤ん坊がぐずぐずになって、空気が抜けたようにぺちゃんことなり、リーゼルの腕の中で元のパン生地に戻るところを想像しながら、腕を目の上にのせた。そのまま一眠りしようとしたが上手く寝付けず、何度も寝返りをうっては、その度に何かがしっくりこないという感覚を覚えて苛立ちため息をついた。けれど、そうしているうちに結局少しうとうとしてしまったらしい。ふと目を開けると、リーゼルが僕の隣に座っていた。彼女の両手は少し濡れていたが、何も持っていなかった。
「おはよう。」リーゼルは何事もなかったかのように微笑んだ。
「よく眠ってたわね。」
「まさか。眠ったふりだよ。」
 リーゼルは呆れたように首を傾げたが、それ以上何も言わなかった。
「あれはどうしたの?」
 僕は一応尋ねてみたが、リーゼルがはっきりとした答えをくれなかったことに、内心ほっとした。
「焦ってじたばたしてたら、何だか疲れちゃった。」
「そう。」
 僕がただ相槌を打つと、リーゼルはお見通しだとでも言うように、笑って僕の脇腹を肘で軽く突ついた。僕は何となく気づまりなものを感じて、どこかで聞いた台詞を意味もなくつなぎに引っ張り出した。
「もう少ししたら戦争も終わるよ。」
「戦争が終わったら、何がしたい?」
 意外なことに、リーゼルは興味を惹かれた様子で、身を乗り出して問いかけてきた。僕はあまり深く考えず、思いついたことをそのまま口にした。
「雪だるまに靴を履かせたいな。」
 リーゼルはまた笑い声を上げたが、さっきよりも控えめだった。僕は同じことを彼女に尋ねたが、リーゼルはやっぱり答えようとしなかった。
 僕とリーゼルは井戸からピルスナーをすくって味見をした。思ったほど美味しくない、とリーゼルが落胆したように言うので、僕も調子を合わせて口の中の液体を吐きだす真似をした。やりすぎて、僕は本当に唾を地面に吐いてしまったが、リーゼルは見逃してくれた。酔いが回ったのか、一気に体が熱くなってきた僕が崩れ落ちるように地面に座り込むと、リーゼルが膝立ちになって後ろから僕の首に腕を回してきた。必要以上に重圧を感じる仕草で、首が詰まって息苦しかったので、リーゼルが僕の背中を彼女の腹の上にもたせかけようとしたとき、僕は体を軽く捻ってやんわりと拒絶した。やがて赤ん坊の鳴き声が、台所とは別の方向から聞こえてきたが、僕もリーゼルも聞こえないふりをしていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み