第1話

文字数 1,741文字

 郵便受けを開けると、水道修理やジムの広告に混じって一通の封筒が入っていた。今どき珍しい手書きの宛名。差出人を見ると、もう二度と顔を合わせたくない人だった。
 「顔を合わせたくない」には二通りあって、こちらがひどく恨んでいる場合と、おそらく恨まれているであろう場合がある。そして、この差出人は後者にあたる方だった。高校時代、私は彼女と同じ人に恋をしていて、私の方が先に告白し、たったの二週間だけ付き合ってから別れてしまった。私は憧れていた男の子の見たくなかった一面を知り、生涯の友人になりえた女の子を失った。自業自得。そうは思ってみても、十代できちんと真実を見抜くことなどできるだろうか? 自分に優しい人はほかの子にも優しい。例外はごく僅かだという事実を……。
 その喪失には不思議な感覚が伴っている。なぜか彼女のことを思い出すと、放課後の音楽室で弾いてくれたショパンの曲が頭の中に流れだす。夕暮れと言いきるにはまだ早い、それでも空の底は朱鷺色に染まりだす夏のひと時。あの曲は確か……そう、夜想曲の第一番。

「本当に久しぶりだね。同窓会の通知が届いて、ふと菫のことを思い出しました。もう何年会ってないかな? 私の顔も、声も忘れてしまったかもしれないね。菫がメールに返事をくれなくなったわけは知ってるよ。同じクラスの碧にきいたから。きっと、あのことが原因だよね? 勘違いだったら恥ずかしいけど、もし本当にそれが理由なら、私は全然気にしてないよって言いたくて。メールアドレスが変わったみたいだから、こうして古風に手紙を認めてみました。
 私はね、菫と同じ人の話をするのが本当に楽しかった。彼が放課後に野球をしてるところを一緒にのぞいたり、近くの神社の夏祭りに彼が来るらしいって聞いて、わざわざいったん家に帰ってから浴衣を着て出かけたり。初めて買った口紅も菫に選んでもらったね。私は薔薇色で、菫はピンクベージュ。そんなささいなことの一つ一つが、今の私の大切な思い出になってるの。だから、抜け駆けしたなんて思わないで。菫に告白されて心を動かさない男の子なんていないだろうし、私は菫を残酷な子だって思ったことは一度もないから。むしろ、一度きりの高校生活をキラキラさせてくれた。そのことに感謝してもしきれないくらいです。
 ううん、私は今少し嘘をついたかもしれない。本当はね、たったの一度だけ菫を残酷だと思ったことがあるの。でも、それだって菫自身は全然悪くないんだよ。私が失恋したのは菫が彼に告白した時じゃない。菫が彼のことを好きだって私に打ち明けてくれた、その時だったの。
 分かったでしょ? 貴方は何一つ悪いことなんてしてないって。だから、安心して同窓会に顔を出して。菫の初恋の人も来るかもしれないよ? それで……興味はないかもしれないけど、最後に一つ。私は次の同窓会は欠席するつもりだから、気まずいなんて思わなくても大丈夫。もう会うことはないだろうけど、私は菫の幸せを心から祈ってるよ。私の十代を素敵なものにしてくれたんだもの。貴方を恨んだりしたら罰が当たると思う。
 やっぱり、最後にもう一つだけ。
 貴方が誕生日にくれたお揃いのクマのキーホルダーは今でも大切にしています。ベージュの毛なみが汚れて灰色になっちゃったから現役じゃないけど、ちゃんと宝箱にしまってあります」

 私は手紙を読み終えると、ふっと息をついて封筒の裏をもう一度確認した。思いがけず、その住所は私の今住んでいる場所とそう離れてはいなかった。
 ピアノの音が蘇ってくる。
 不穏に始まる音は重なり合って緩やかな旋律を描き、次第に胸を締めつけるような曲調に変わってゆく。柔らかな音楽がやむと、音楽室の窓からのぞく空は緋色の縞模様を浮かべている。
「もう帰らないと」
 私がそう言うと、菖蒲は楽譜を見つめたまま微笑んだ。
「もう少しだけ。あと一回練習したら……」
 まぶたを閉じて、もう一度息をつく。再び目を開くと、薄靄に包まれた部屋が音楽室か、一人暮らしの自分の部屋かの見分けがつかなくなっていた。
 封筒の裏には住所だけでなく、電話番号まで記載されている。
 頬を生ぬるい涙が伝って唇に触れる。スマートフォンにのびた指が一瞬震え、そのまま宙で静止した。
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