アリウスとエラ

文字数 30,608文字

一〇一八年 八月十六日 

 アスタ半島は、結晶海に突き出す投擲槍《ジャベリン》の穂のような形をした半島である。そして、その穂先に位置するのが沿岸都市ラティアだ。
 ラティアがリノタリア王国の領地となったのは今より十年前、ミラル暦一○○八年のことである。ミラル宗教世界の拡大と大陸からの異教徒追放を大義名分に掲げた、王国の六年間に及ぶ南進は、この年にアスタ半島全土を支配下に置いたことで一応の目的を達成し、終わりを迎えた。
 これにより、大陸におけるエペ山脈より西側全域が、教皇領と五つの国で結成されるミラル信徒同盟の領土となり、以降ラティアはミラル宗教世界の最南端の都市として重要な役割を担うことになる。
 戦争で徹底的に破壊し尽くされたラティアだったが、そういう事情があるから再興は急がれ、かつてこの地に住まった異教徒たちの面影を塗りつぶすように、ミラル教的都市へと新しく造り変えられていった。
 一度は焦土となったラティアが、美しい街に生まれ変わるまで、わずか二年しか要さなかった。異教徒に対する勝利の象徴を一刻も早く栄えさせ、ミラル教の権威を誇示する必要があったのだ。
 繁栄していなければならない街、それがラティアなのである。
 
 だからきっと、今回も、再び美しい街並みを取り戻すのに、それほど時間は要すまい。
 
 快晴の空のもと、崩れかけの埠頭に立って、水平線を臨む。燦燦と降り注ぐ陽光が、海面に乱反射して、瞳に飛び込んで来る。眩しくて、目を細めた。
 ツアンタ湾の奥に位置するこの港は、年を通して波が穏やかな天然の良港である。平時であれば、何隻もの商船がひっきりなしに出入りしているものだが、今日はただの一隻も港には停泊していない。代わりに、燃えて大破した船の残骸がゆらゆらと浮かんでいた。
 振り返れば、一度溶けて歪に固まり変形した地面とその先に、不落と賞賛されたラティアの防壁が無惨にも崩れ去り、守らねばならなかった背後の街並みを露わにしているのが見える。
 幾棟の建物が瓦礫と化し、辛うじて残っている家々も、石灰で塗られ美しかった白壁は見る影もなく、煤で黒く汚されていた。
 その有様が、この都市で起きた惨劇の凄まじさを生々しく物語っている。
「アリウスさん、ここにおられましたか」
 ふと、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。視線をやると、二等魔法官のイズが足早にこちらへ向かってきていた。
「急に居なくなるんですから、探しましたよ」
「ごめん、少し散歩がしたかった」
「散歩ですか、今のラティアの景色など見ても不快になるばかりでしょうに」
 イズはそう言いながら、未だ受け入れられないといった様子で、悔しげに周囲を見渡す。
「不快でも、俺は知らなければならないだろうさ」
「ご自身を責めるのはやめてくださいね」
 俺の事情を知るからか、イズは労わるように言葉をかけてくれる。
 直ぐに気を回せるのが彼女の美点だ。当時、実際にこの地にいたイズの方が、余程心を消耗しているだろうに。
 俺は申し訳ない気持ち半分、感謝の気持ち半分で「分かったよ」と返す。すると彼女は安心したように微笑んだ。
「叙任式の準備が整いました。マレ・グロリア大聖堂へ参りましょう」
「教会は、立ち入れる状態なのか」
「七割がた損壊しています。ですので、規定どおり主聖堂で行うという訳には参りませんが、小聖堂は辛うじて無事でしたので、そちらで」
 
 
 大聖堂を目指して街の通りを歩く。小高い丘の上に建っている教会なので、行き道は短い階段を上がったり、緩やかな坂を登ったりすることが多い。
 辺りにはずっと、焦げくさい匂いが漂っていた。
 瓦礫を掘り返し、まだ残っている財産を探す男がいる。我が子の名前を呼びながら、涙を流して歩き回る母親がいる。虚ろな目をして、一人彷徨う幼い少女がいる。
 生き残ってなお、苦しみの中にいる彼らの姿に胸が痛んだ。
 その光景にイズも顔を顰め、怒りを露わにする。
「憐れな、彼らにはなんの罪も無いというのに。異教徒どもが無駄な足掻きさえしなければ、まったく忌々しい」
 吐き出された言葉には、この地獄を作った者達への憎悪が籠っていた。
 今より二ヶ月ほど前、六月二十日のことである。ここラティアは、リノタリア王国が侵略して以来、十年ぶりの戦火に見舞われた。
 かつてこの地から追いやられた異教徒たちが、再征服のための戦争を仕掛けてきたのだ。
 それは青天の霹靂ともいうべき強襲であった。全く備えのできていなかったラティアは、在中の聖騎士団、魔法師団の抵抗も虚しく、瞬く間に異教徒たちに占拠された。敵勢力は僅か千人足らずと少なかったが、戦士一人一人の練度は高く、特に指導者の立場にいた二人は極めて強力な魔法の使い手であったと聞く。
 指導者のうち一人が行使した魔法によって街は炎に包まれた。聖騎士や魔法官のような戦える者はもちろん、力のない老人や女、子どもまで容赦なく殺されていったという。
 残虐で非道だ。俺とて、異教徒たちの所業を聞いて怒りを覚えないわけではない。ただ、だからといって、彼らを悪と断じることもできなかった。
 彼らの怒りを理解できるからだ。
 異教徒たちが我々に行った暴虐の全ては、十年前、我々が彼らに対して行ったことそのものある。
 再征服をしたいだけなら、ここまで徹底して蹂躙する必要はなかったはずだ。この戦争に、復讐の意味が込められていたことは容易に想像できる。
 だが、だとしてもだ。彼ら異教徒は、悪では無くとも愚かであったと言わざるを得ない。
 確かに異教徒たちは、一時的にラティアを占拠することに成功したが、それはやはり、不意をつけたからというところが大きかった。いくら戦士たちの練度が高いとはいえ、たったの千人足らずの兵力では、その後もミラル宗教世界相手に戦い続けることなど、土台無理な話だったのだ。
 彼らはラティアを占拠した後、そこから最も近い冒険者都市エブロストスを次の標的に定め攻撃を仕掛けたが、熾烈な戦いの末撃退されている。
 異教徒たちがラティアへ撤退して以降は攻守が逆転し、今度はミラル教会側がラティアを奪還すべく彼らを攻撃することとなった。十全に戦力を整えた王国軍や聖騎士団の容赦ない攻戦を前に、異教徒たちは懸命に抵抗したものの、程なくして壊滅した。指導者のうち一人はラティア内の戦闘で死亡し、もう一人の指導者は都市の外へと逃亡したが、ひと月後に発見されその場で斃された。
 こうして異教徒たちの復讐は、結局何も成し遂げられないまま幕を閉じた。彼らはミラル教徒を多く殺したが、宗教世界全体にとっては、かすり傷ほどの痛手にもなっていない。
 異教徒たちが起こしたこの戦いは、結果だけ見てみれば、単なる大掛かりな集団自殺でしかなかったのである。
 
 そんな、無意味な争いに巻き込まれて、彼女は死んだのだ。
 
 丘の中腹までやって来た。背の低い草花が揺れ、日光を反射した白い輝きが丘の表面をさわさわと流れている。切り開かれた細い道は、緩やかに蛇行しながら頂上まで続いていて、その終点にマレ・グロリア大聖堂は建っていた。
 そこを目指して丘を登る途中、ふと、イズが歩みを止めてこちらへ振り返る。
「アリウスさんが戻ってきてくれて、本当に良かった」
 そう言って、自らの胸に手を置いて微笑んだ。
「今更だろう。本当はもっと早くに戻るべきだった。いや、そもそもこの街を離れてはいけなかったんだ」
「それは、あなたの責任ではありません。ご自身を責めるのはやめてくださいと言ったでしょう。それに、異教徒たちの襲撃を受けたとき、あなたがラティアにいなくて良かったと私は思っています」
 イズは言いながら、俺の手を遠慮がちに握る。
「あなたが生きていてくれることが、私は嬉しいんです」
「君こそ無事で良かったよ。よくぞ、あの戦乱の中で生き延びてくれた」
「アリウスさんにもう一度会うまでは、死ねないと思っていましたから」
 そう言うとイズは手を離し、少し慌てた様子で、俺から顔を隠すように進行方向へと向き直った。
「ふう。すみません、無駄話でしたね。さ、行きましょう」
 彼女は歩みを再開する。何かを取り繕おうとしているのか、極端に明るい声色だった。
 少しの間、沈黙が続く。海鳥の鳴く声だけが遠く響いた。
 やがてイズは、困ったように笑いながらぎこちなく口を開いた。
「あはは、えーと、急ぎましょうか?」 
「ここまで来て、急ぐも何もないだろう」
「ま、まあそうなんですけど、栄えある二代目ラティア都市総代魔法官の叙任式です。無駄話をして、もたついたのは良くなかったなと」
「三代目だよ」
「え?」
 彼女の間違いを、少なくとも俺にとっては間違いであるその言葉を訂正する。
「二代目は、俺じゃない」
「そう、でしたね。申し訳ありません」
 イズは少し暗い声で謝ってから、しかしと続けた。
「司教様は、あなたを二代目とするつもりで準備を進めています」
「それは俺の方から説得して訂正してもらうさ。俺は、三代目のラティア都市総代魔法官だと」
 都市総代魔法官とは、その都市でもっとも優れた魔法官が任命される官職兼地位である。
 都市運営の総指揮を魔術的側面から執ることが主な職務であるが、その政治的な発言権は都市長に並び、宗教的権威も司教に次ぐ。有事の際には、三部隊以下の魔法師団を独断で動かすことも許されている、極めて強い権力を有する役職でもあった。
 次期総代魔法官は、先代による指名で決まるのが慣例だが、今回は例外的に、先代ではなく司教によって次代が選ばれることとなった。
 故に、その決定に異を唱えることは、司教の顔に泥を塗ることになりかねない。イズはそれを心配している。
「くれぐれも、司教様のお怒りを買うような事は言わないでくださいね」
「分かってるさ。俺だって選んで頂いたことは、ちゃんと栄誉に思っている」
 この言葉に、嘘はない。 
 ラティアにおける初代都市総代魔法官は、尊敬する俺の魔法の師だ。
 だから、その人と同じ官職に就けることは誇らしいことのはずなのだ。
 けれど、彼の後を継ぎ二代目となったのは俺じゃない。
 ここだけは、どうしても譲れない。
 二代目は、俺じゃない。
 二代目は、彼女でなくてはならないのだ。


 一〇一八年 五月十二日   


 魔法庁の裏にある広場は、魔法官たちの修練及び実験の場としてよく利用されている。
 この日の広場には、ドアが一つ置いてあった。
 より具体的に説明するならば、押し戸が付いたドア枠だけが、何の隔たりもない外の駄々広い空間に、意味もなく設置されていた。
 そのドアというのも、まるで素人が見様見真似で工作したような、少し強い風が吹けば簡単に飛ばされてしまうであろう粗雑な造りの代物だ。
 そんな頼りなく閉じられた押し戸から、少し離れた場所に女が立っていた。
 白い法服に身を包み、一等魔法官の位を示す紫色のストラを首にかけている。名をエラといった。
 エラはドアを正面に見据えて右手をかざし、標的をそれと定めて体内の魔力を熾き上がらせる。
 最大威力かつ最大範囲となるよう干渉する空間を限定し、目的とする現象を引き起こすべく、適切なカタチに体内で魔力を編んでいく。そうして完成した魔法を、右掌を放出点として、発動した。
 途端、きんっと耳をつんざく音が鳴り響く。エラより前方、筒状に伸びる空間が一瞬歪み、同時に、不可視の爆発が起きたかのように辺りがどんっと揺れる。一直線に地面が抉れ、それより僅かに遅れて砂塵が舞い上がった。
 エラは指を弾いて風を起こし、立ちこめる砂埃を吹き飛ばす。
 一切の魔法的保護を受けていない城門であれば、容易く吹き飛ばす威力の圧力波であった。粗雑な造りのドアなど木っ端微塵になっているはずだが、
「ちぇっ」
 エラはつまらなそうに舌を打つ。
 ドアは何事も無かったかのように、無傷でそこに佇んでいた。
 その後ろから、咳払いをする男が一人顔を出す。
「やりすぎだろう、魔法で守っていなければ俺は死んでいたぞ」
「そりゃそうだよ。ドア諸共吹き飛ばすつもりでやったんだから」男の抗議も何処吹く風といった様子でエラはつまらなそうに答えた。「大体、私の魔法じゃアリウスの守りは突破できないの分かってるでしょ」
「分かっててもヒヤッとするんだ」
 アリウスは、法服についた砂を払い落とす。首にかけられた紫のストラが、彼がエラと同じ地位にいることを示していた。
「というか、君こそ分かっているなら試さなくていいだろう。付き合わされる俺の身にもなってくれ」
「うるさいなあ。それでも、もやもやするの。アリウスは私の半分も魔力を使っていないのに、私の全力が通じないの、やっぱり納得がいかない」
「仕方ないだろ、これはそういうものなんだから」
 むくれて顔を背けるエラに、この負けず嫌いには何を言っても仕方がないと悟って、アリウスはため息をつく。
 そんな二人のもとへ、歩み寄る人物がいた。
 その老人の姿を認めるや、エラは曇っていた表情を一転して輝かせる。一方アリウスはというと、仰々しく胸に手を置いて老人に礼を示していた。
 老人の首にかけられたストラは二人と同じ紫色であるが、金糸によって遥かに豪華に装飾されている。
 ラティア都市総代魔法官、ソフォクレスである。
「お父さん!」
 そう声を上げて駆け寄ってきたエラを、ソフォクレスは優しく抱きとめる。
「お父さん」とエラは言ったが、彼女の年齢は二十三、一方でソフォクレスはというと今年でちょうど七十五を数えていた。親子と言うには、いささか歳が離れすぎている。
 これというのも、エラはソフォクレスの実子ではない。
 戦争により孤児となっていた少女を、その魔法の才能を見出したソフォクレスが養子にして育てたのがエラである。
「エラ、アリウス。休憩の間も修練に努めているとは、感心だね」
「いえその、これは修練といいますか」
「今日こそアリウスの概念魔法を吹っ飛ばしてやろうと思ったんだけど、やっぱ無理だったよ」
「ははは、そりゃ無理だろうね」ソフォクレスは快活に笑って、エラの頭を撫でる。「エラは確かに優秀だけれど、概念魔法は行使するのも打ち倒すのも、魔力量や技巧でどうにか出来るものじゃないからね」
「分かってるけどさー」
 結局エラは、ソフォクレスの前でもむくれてしまった。
 魔法とは一般に、魔力を法則的に体内で編み込むことで完成させ行使するものとされている。この体系をとる魔法には摂理魔法と名前が着いているが、魔法といえば普通これのことを指すためわざわざその名で呼ぶ者は少ない。
一方、概念魔法とは、名の通り概念を魔法として昇華したものである。こちらは摂理魔法と違い、法則的に魔力を編む必要はなく、「そうあれ」と念ずるだけで魔法を行使することが出来た。
「アリウスの概念魔法は【閉ざす】という概念を魔法にしたものだ。これを打ち破ろうと思うなら、どれだけ強力な摂理魔法で挑んだところで仕方がない。【開く】や【突破】のように【閉ざす】とは相反する概念魔法を、アリウス以上の魔力で行使しなくてはね」
「聞けば聞くほどずるっこいよね、概念魔法。アリウスの才能が妬ましいや」
「才能じゃなくて、これは運だろう」
「うわあ、やだなやだな。やな謙遜だ」
 概念魔法が使えること、それ自体は確かに才能である。だが、仮にその才能があったとして、無数に存在するありとあらゆる概念の中から、自分が魔法として使えるものを探すというのは、砂利の山から一粒の砂金を見つけ出すような作業だ。
 アリウスが自身に適合する【閉ざす】という魔法概念に出会えたのは、間違いなく幸運によるものであった。
 ソフォクレスは、うるさく言い合う娘と愛弟子の間に割って入る。
「さ、そろそろ休憩の時間もお終いだ。二人とも仕事に戻ってくれるかな」
「はーい、あーあ昼ごはん食べ損ねたな」
「自業自得だろうに」
 それと、と言ってソフォクレスは視線を落とす。その先にあるのは、エラの魔法によって抉られた地面である。
「これは直しておくように。他の魔法官たちが見たら、びっくりしてしまうからね」
「よし、アリウス任せた。私は残りの時間でごはんを食べる」
「あ、おい!」
 捕まえようと伸ばされたアリウスの手をひらりと躱し、エラはさっさと庁舎へ駆けていってしまう。
「ははは、娘がすまないね」
「いえ、師が謝ることではありませんので」
 不満を隠しきれない声色で言いながら、アリウスは地面に手をかざし魔法による修復を開始する。そんな彼の様子を見て、ソフォクレスはもう一度愉快そうに笑った。
 
 
「アリウスさん、少しよろしいでしょうか?」
 アリウスが庁舎内の廊下を歩いていると、ふと背後から声をかけられた。振り返れば、そこに居たのは三等魔法官のイズである。
「どうかしたか」
 聞かれて、イズは申し訳なさそうに話し始める。
「フィディ川の治水工事が当初の予定よりも大幅に遅れていると報告が上がってきまして」
 それを聞いて、アリウスは眉を顰めた。
「まて、それは都市庁が管轄している事業だろう」
 その通りなのですが、と答えてイズはますます項垂れる。
「治水工事の効率化を図るために、魔法庁から作業用の魔法を提供していまして。その魔法の開発と作業員への教授を担当したのが私なのですが、それが期待していたほどの効果を発揮していないと苦情が」
 申し訳ありません、とイズは頭を下げる。
「いや待て、謝らなくていい。そもそも、工事の遅れは本当に君の魔法が原因なのか?」
 フィディ川の治水工事に魔法庁が協力していることは、アリウスも知っていた。そのための魔法開発をイズが行っていたことも然りだ。
 彼女が開発した魔法については、アリウスも確認を行っている。
 一時的ではあるが、ある程度自由な形に空間を切り取り固定するという内容のものであった。
 魔法官ほどの実力はなくとも、いくらか魔法を扱える者であれはすぐに習得できるよう簡易化されており、アリウスもこれならば都合よく機能するだろうと判断していた。
「指揮系統に問題があったり、資材の運搬が上手くいっていなかったり、あとは当初の計画内容そのものに過失があったり、原因は他にも色々考えられるだろう」
「はい、それについては私も進言したのですが、取り合って貰えず。とにかく、このあと一度現場に来てくれと言われまして」
「ずいぶん急な話だな」
「ええ、それで、今日は学生の魔法演習の監督をする事になっていたのですが」
「分かった。監督については代わりを手配しておく」
「ありがとうございます」
 そう言って、今度は感謝の意味を込めてイズは頭を下げる。
「あのそれと、可能であればなのですが、私だけでは対応しきれるか正直不安でして、その、迷惑とは承知なのですが、できればアリウスさんも」
「おーい、アリウース!」
 歯切れ悪く何かを伝えようとしていたイズだったが、その言葉は、二人のもとへ駆け寄ってきたエラの声によって遮られた。
「おいエラ、今話をしているだろう」
「んー、イズと何の話をしてたの」
 アリウスは、時折イズの補足を受けながら、ここまでの会話の内容をエラに説明した。
 全て聞き終えたエラは「へぇ」と興味なさげに声を漏らす。
「じゃあさ、もう話終わってるよね。さっさとその現場に行きなよイズ。じゃ、私アリウスと話があるから」
 そう言って、アリウスの手首を掴んで歩き始める。
「お、おい待てエラ! なあイズ、君さっき何か言いかけてなかったか? 他に何かあるのか?」
「ええと、その」
 引っ張るエラに抵抗しつつ、アリウスが問いかける。それにイズは先程の続きを口にしようとしたが、ふと、鬱陶しそうに自分を見るエラの視線に気がついた。
「いえ、なんでもありません。監督の代役の件、よろしくお願いします」
「そ、そうか。分かった、またなにかあれば報告してくれ」
 イズの言葉を受け、アリウスは抵抗をやめる。そのままエラに連れられて行った。
 
 
「なあエラ、すこし自分勝手がすぎるんじゃないか」
 イズと別れてしばらくして、アリウスは先程のエラの態度を咎めた。
 しかし、エラは反省した様子もなく肩をすくめる。
「別にぃ、誰に迷惑をかけているつもりないけど。さっきのだって、もう話は済んでたんでしょ」
「まあ、それはそうなんだが」
「というかさ、私、イズや他の魔法官たちの三倍は仕事をこなしてるからね」
 エラは、コツコツとわざとらしく足音を鳴らして大股で歩き、数歩先でくるりと後ろを振り返った。視線がアリウスとかち合う。
「私が頑張って、みんなの仕事減らしてやってるのに、残ったちょっとの仕事を出来ないだとか困っただとか騒ぐのはさ、怠慢だよ。アリウスだってそう思うでしょ?」
「いいや、俺はそんな風には思わない」
 アリウスは、エラの横を通り抜けてさっさと先へ行ってしまう。
「じゃあ、私が自分勝手なんじゃなくて、アリウスがお人好しなんだ」
 エラは、むっと頬を膨らませて、彼の後を追いかけた。
 この二人に要求される仕事の量が、他の魔法官たちより遥かに多いのは、彼らがそれをこなすだけの実力を持ち合わせているからである。
 アリウスは二十四歳、エラは二十三歳という若さで一等魔法官の地位にいた。総代魔法官は一等魔法官の中から選ばれるのが通例であり、だとすれば当然、その地位を得ることが出来るのは、卓越した魔法の使い手に限られる。
 努力で登り詰められるのは二等魔法官までとよく言われていた。
 実際、ラティアにいる一等魔法官はアリウスとエラの二人だけである。彼らよりも年功は高く、優秀な魔法官は多く居たが、誰も一等魔法官に相応しい才能は持ち合わせていなかったのだ。
 では、格別に優秀なその二人を比べて、より優秀な魔法の使い手はどちらだという議論になった時、多くの場合、軍配はエラに上がった。
 魔法の威力、速度、精密さのいずれも、彼女のほうがアリウスより一歩先を行っているというのは、ソフォクレスも公言するところである。
 しかし、アリウスと違ってエラは概念魔法を使えない。この特殊な才覚を考慮するならば、一概にエラのほうが優秀とは言えないのではないかという意見も、やはり恒例として議論の場では持ち出される。
 このように、周囲からはライバル同士だと認識されているアリウスとエラであるが、
「ねえねえ、アリウス。ちゃんと、明日は休みにしてくれた?」
「話ってそれか。ああ、明日は休暇日にしてもらったよ。港の方に出かけたいんだったか」
「そうそう、明日の商船、沢山の本を積んでるって聞いてさ」
 二人の関係はというと、極めて良好であった。
「それで、俺は荷物持ちというわけか」
「よく分かってるね。話が早くて助かるよー」
 アリウスとエラの間に敵愾心や嫉妬のような感情はない。二人が置かれている立場を考えれば、その有り方は特殊であるといえるかもしれない。
「そうだそうだ、美味しいお酒が手に入ったんだよ。今夜アリウスの部屋に持っていくから一緒に飲もう」
「まて、明日は朝から出かけるんだろう。酒なんか入れたら起きられなくなるぞ」
「大丈夫、私、お酒飲んでも朝はちゃんと起きられる体質だから」
「俺はそうじゃない」
「叩き起してあげるから安心して」
 今日はアリウスと晩酌をする、これはエラの中で既に決まっていることらしい。渋るアリウスの言葉に彼女は耳を貸そうとしない。彼の気持ちなど、構ってやるつもりは無いようだ。
 こうなったエラは頑固だ。思う通りにならないと壮絶に機嫌を悪くする。そのことを知っているアリウスは、諦めて晩酌の誘いを受けることにした。
「分かったよ」という彼の言葉を聞いて、エラは満足そうに笑った。

 
「じゃ、また後でね」
 廊下の突き当たりまでやってきたところで、二人は別れる。
 エラはひらひらと小さく手を振って、左へ曲がっていった。彼女の行く先は渡り廊下になっていて、寄宿舎へと続いている。
 今日分の仕事は全て片付けたのだろう、そして、それ以上働いてやるつもりもないらしい。
 ご機嫌に鼻歌を歌いながら、小さく跳ねるような足取りで遠ざかるエラ。そんな彼女の背中を見てアリウスは、ため息をひとつこぼして微笑んだ。
 仕方がないやつだと、そう思う。
「さてと」
 エラと違い、まだ仕事を残しているアリウスは踵を返し、彼女とは反対の、右へ伸びる廊下を歩き始める。
 彼が向かう先は、ソフォクレスがいる長官室である。まだ時間に余裕があるので、イズから頼まれた監督交代の件を伝えておこうと思ったのだ。
 廊下を進めば間もなくして、右手にひときわ重厚な造りの扉が見えてくる。その前に立って、戸を叩いた。名乗ればすぐに「入りなさい」と返事が帰ってきた。
 扉を開けて中へ入る。長官室は、窓から溢れる西日で茜に染まっていた。人影が二つ、視線をアリウスに投げ掛ける。
 机に向かうソフォクレスと、その隣に立つ二等魔法官のマルロだ。
 アリウスは先ほど広場でやったように、胸に手を置いて軽く頭を下げた。然る後、口を開く。
「申し訳ありません、お話の途中でしたか」
「いや、マルロには資料整理を手伝って貰っていただけだよ」
 マルロは、アリウスがソフォクレスにしたように、アリウスに対して礼を示す。それから自分以外の二人を見比べて、
「しばらく席を外しましょうか」
 気を使い、そのように提案した。
「いや、それには及ばない」
 秘匿の話をするわけでもない。アリウスはマルロを引き止めてから、治水工事をめぐる一件をソフォクレスへ伝える。
 ソフォクレスはゆっくり老眼鏡を外し机に置くと、小さく息をついた。
「ふむ、責任を転嫁されているようで釈然としないね」
「はい、場合によっては私が直接、都市長のもとへ事実確認に赴こうと考えています」
「いや、その必要が出た時は私が行こう。同格の者同士でなければ、公平な話し合いにはならないからね。さて、じゃあイズの代わりだけど」
 ソフォクレスは視線を、自分の隣に立つマルロへと向ける。
「話は聞いていたね。ここの手伝いはもういいから、君に代役をお願いしていいかな」
「かしこまりました」
 マルロは答えて一礼すると、そのまま長官室を後にした。
「では、私もこれで」
 アリウスもまた、他に用件があるわけでもないので、マルロの後に続いて部屋を出ようとしたが、
「ああ、ちょっと待ってくれるかね」
 そう、ソフォクレスに引き止められた。
「君は、このあと急ぎの仕事があったりするのかな」
「いえ、そういったものは特に」
「よかった、なら少しだけ話し相手になってほしい」
 長官室は、執務室であると同時に応接室としての役割も果たしていた。そのため、執務用の机とは別に、客と応対するためのテーブルと、それを挟むように、二つのソファが部屋には置かれている。
 アリウスはソフォクレスに促されて、そのソファの一方に座る。ソフォクレスも、アリウスの向いに腰を下ろした。
「それで、話というのは」
「ああ、大したことじゃない、いや、どうだろうな。今、話さないといけないような、漠然とそんな予感がした。だが、君はただ、そんな私に付き合わされるだけの身だから、肩肘を張らず、雑談に付き合ってやるくらいのつもりで聞いてくれ。そうしてくれ」
「雑談、ですか?」
 これまで、師とそのようなことをした経験がなかったアリウスは、若干の戸惑いを見せる。
 そんな彼の様子を見て、ソフォクレスは愉快げに笑った。
「いや、やっぱり君は真面目だ。正しく、相応しく、育てられたのだろう。私は君の両親に敬意を払うべきだろうね」
「何を急に、師もエラを立派に育て上げられたではありませんか」
「エラ、か」
 ソフォクレスは表情を曇らせる。
「アリウスには一度話したかな。かつての私の妻と娘のことを」
「確か、随分と前にお亡くなりになられたと」
「もう四十年も前になる。妻と娘の乗った馬車が盗賊に襲われたんだ。私はその時、その場に居なかった。居なかったことを、悔やまなかった日はない」
 ソフォクレスは目を閉じる。彼の脳裏に浮かぶのは、長い年月を経ても全く色褪せない記憶、妻と娘の幸せそうな笑顔と、惨殺された彼女たちの骸。
「教会の孤児院でエラを見つけたとき、素晴らしい才能を秘めていると分かったから、彼女を養子にした。一人の魔法官として、その才能を潰すまいというだけのつもりだった」
「しかしあなたは、エラをただの弟子としてではなく、本当の我が子のように、愛情を注いで育てた。だからエラは、爛漫な笑みを振りまく明るい人間になったのではないですか。それは誇るべきことです」
「我が子のように、か。なあ、アリウス。子を育てるとは、どういうことだと思う」
 それは唐突な問いであった。アリウスはやや狼狽しつつ答える。
「そ、それは、親愛を持って正しい方向へと導くことと、子を持ったことのない身ではありますが、強いていうならそのように心得ています」
「正しい方向へ導く、その通りだね。正しい方向へ導くとは道理を教えるということだ。魔法官として大成させるつもりなら、それに相応しい道理がある。その道理を弁えた人格者になるよう導く、それが愛情を持って育てるということだった」
「ええ、そのことは今の師とエラを見ていれば瞭然です」
「そう思っているなら、君の目は節穴だ。まあ、私も人のことは言えないのだけどね。今になって漸く気が付き、焦燥に駆られているんだから」
 吐き捨てる様に言うソフォクレスに、アリウスは彼の様子がおかしいことに気が付いた。
「お、お持ちください。先ほどから一体、何の話をされているのですか」
「私はエラを、我が子のように育てたのではない。我が子の代わりに育てたのだ」
 ソフォクレスは断ずる。ほのかな怒気が込められた声であった。
 それはアリウスに向けられた怒気ではない。
「果たせなかった父親としての役割を全うするため、いや、父親の資格なんてあの日にとっくに失っていたけれど、それでも未練がましく父親を演ずることで、何かが許される気がした。その為の、エラだった」
 父のふりをするためには、子が必要だったと彼は言う。
「だから、愛情じゃない。ただの自己満足だったんだ。馬鹿馬鹿しい、愚かしい。自覚したのは最近だったけどね」
「止めてくださいっ!」
 アリウスは悲鳴を上げる。ソフォクレスが発する一言一言が異様に恐ろしかった。聞けば聞くほど、言いようのない焦燥に駆られた。
「何故っ、その様な話を私にするのですかっ⁈ いやっ、それよりもっ」
 アリウスはかぶりを振る。
「あなたがエラに注いでいたのは間違いなく愛情です! でなければ、エラがあれ程あなたを慕うはずがないっ、あなたは今、冷静じゃないんだっ。だから、おかしなことを、的の外れたことを言ってしまう!」
 感情を剝き出しにして声を荒げるアリウスとは対照に、ソフォクレスはやけに落ち着いた様子で、小さく息をつく。
「最近、妻と子をよく夢に見る。早く帰っておいでと、二階の窓から顔を出して私に笑いかけるんだ」
「え?」
「もうすぐ、日が沈んでしまうね」
 ソフォクレスは窓に目を向ける。
 窓の向こうでは太陽が水平線の彼方へ沈み行き、茜色の光は徐々に、空を覆う紺色の帳に遮られていく。
 部屋は段々と暗くなり、満たす空気も冷たくなる。
「アリウス、私は冷静だよ。黄昏に際して、人は冷静になるんだ。過ちに気が付けるようになるんだ。まあ私の場合は、手遅れだったがね」
 ソフォクレスは視線をアリウスの方へと戻す。
「そろそろ考え始めなければならないんだよ。次の総代魔法官を」
 予感がした。それも悪い予感がした。だからアリウスは、ソフォクレスが次を言うよりも早く口を開く。
「そ、それならばっ、考えるまでもないでしょう。ラティアで師に次いで優秀な魔法官はエラです」
「私が、彼女を我が子のように育てていれば、そうだったのだろうね」
 ソフォクレスは一呼吸を置く。
「彼女は確かに優秀だ、だが、優秀なだけだ」
「だけとは、おかしなことを。他に何が要ると言うのですか」
「あの子は自分を縛ることをしない、縛るものがない、それだけの高みに、あまりにも容易く至ってしまった。自分が素通りした景色を見下ろそうとしない、知ろうとしない。いや、知る機会を、彼女にとって最も必要だったその機会を、私が与え損ねた」
 師の言わんとする所をアリウスは理解する。理解するが、おいそれとは引き下がれなかった。
「お持ち下さいっ、だとしてもエラはっ」
「黙りなさい」
 ソフォクレスは、アリウスの言葉を冷たく遮る。
「最初に言っただろう。雑談のつもりで聞いてくれと。誰も意見は求めていない」
 有無を言わせぬ響きにアリウスは押し黙った。乱れる胸中で曖昧に形を成した言葉の全てを飲み込む。
 日は落ちてしまった。明かりがひとつもない暗い部屋では、ソフォクレスの表情はもはやほとんど窺えない。
「なあ、アリウス。君は何をそんなに必死になっているのかな」
 ソフォクレスはゆっくりと口を開く。
「エラは君にとって、一体何なのだ」
「それはっ」
 自分にとって、エラとは。アリウスは考える。
 ライバル、ではない。
 友人、も少し違う。
 恋人、ではもちろんない。
 もっと別の、必要で、不可欠で、支えで、
「さっきから君は、まるで、自分の為に怒っているみたいだよ」
 ソフォクレスは平坦な声で、そう言い放つ。
 底冷えするような闇が染みて広がる長官室を、アリウスは逃げるように後にした。
 
 
 ぎいと扉が開く音がして、アリウスは振り返る。
「ノックぐらいしないか」
「うるさいなあ、私が来ること知ってんだから、別に良いでしょ」
 夜も更けてきたころ、アリウスの部屋へエラがやってきた。彼女の手には、まだ栓の抜かれていない酒瓶が握られている。
「あ、素敵なランプだね」
 エラはさっさと部屋の中へ入ると、窓際に置かれた丸テーブルの、アリウスの向かいに腰を下ろした。
 テーブルの上にはグラスが二つと焼き菓子の乗った皿、そして、ぼんやりと辺りを照らすランプが一つ置かれている。
「どこで買ったの?」
「少し前にイズから貰ったんだ。研究会でプラシノスに行った時に、お土産に買ってきてくれた」
 アリウスの説明を聞いた途端、エラはすんっと顔から笑みを消した。先までの嬉々とした興味が一瞬で削ぎ落とされたかのように、冷たい視線をランプへと注ぐ。
「明日さ、街に行った時、私もランプ買ってあげるよ」
「なんだ急に。これがあるから、別に新しいのは必要ないが」
「これは置物にでもして飾っておけば良いよ。明日からは、私が買ったやつを使って」
「また訳の分からないことを言い出す。まあ、買ってくれるというなら有難く使わせてもらうが。それより、今日は晩酌をしに来たんだろう、早く乾杯しよう」
 アリウスの言葉にエラは、はっと我に返ったように目を瞬かせる。それから、未だに酒瓶を握っている自身の右手へ視線を落とした。
「あ、うん、そうだったね」
 エラは酒瓶をテーブルの上に乗せると、口部を指で軽く叩いた。途端、コルク栓がぽんっという音を立てて小さく弧を描いて飛んでいき、床へと転がる。
 アリウスとエラは、互いに相手のグラスへと酒を注いだ。それから乾杯して、口をつける。
「なかなか強い酒だな、そんなに多くは飲めないぞ」
「これくらいじゃないと酔えないよ」
 二人は他愛もない会話を交わしながら、徐々に酒を減らしていく。
 今晩が特別というわけではない。時々こうして、夜に二人だけで、アリウスとエラは酒を飲んでいた。エラから誘うことが多かったが、アリウスの方からも誘わないわけじゃない。二人だけの内緒の楽しみである。
 だから、別に誰から隠れるでもないが、晩酌をする時はひっそりとどちらかの部屋でと決まっていた。
「ランプの火、消しちゃって良いんじゃない」ふと、エラがそんなことを言い出す。「だってほら、こんなに月が明るいよ」
 煌々とした月明かりが、窓の格子の影をテーブルの上に落としていた。確かに、ランプなどなくても十分明るい夜である。アリウスは言われるままに火を消した。
 月の青白い光が、エラの美しい顔を照らし妖麗に演出する。
 エラはそっと、卓上のアリウスの手に自分の手を重ねて、呟いた。
「ねえ、私、ちょっと酔ってきちゃった」
 少し身を乗り出して、アリウスに顔を近づけ、とろんとした微笑みを浮かべる。
 アリウスは少しの間そんな彼女の目をじっと見つめていたが、
「ふふっ」
 やがて耐えきれなくなって、笑ってしまう。
 そんな彼の反応に、エラは眉をひそめて、椅子にどかりと座り直した。
「なに笑ってんだよ」
「はははっ、馬鹿なことするなよ。今更エラが品を作ったところで、何も感じるものか」
「ちぇっ、からかってやろうと思ったのにさ。つまんないの」
 エラは不満ありありといった様子で自身のグラスに酒を注ぐと、一気に煽った。空になったグラスをテーブルに叩きつけ、そのまま俯いてしまう。
 髪の毛に隠れて表情は窺えない。しばらくじっと動かなかったが、やがて肩が小さく震え始める。
 それからばっと顔を上げると、エラは盛大に笑った。
「あはははっ、あーあ楽し!」
 彼女の頬はほんのりと赤くなっていた。少し酔っているのは本当のようであった。
「おいおい、あまり無茶な飲み方をするな」
「んー? あのさぁ」
 アリウスは忠告するが、エラといえばそれにはろくに答えず、
「私さ、総代魔法官になりたいんだよね」
 突然、そんなことを口にした。
「お父さんの後をね、私が継ぎたいんだ」
 窓の外をぼんやりと眺めながらエラは言う。
 エラが次期総代魔法官を目指していることは、アリウスも知っていた。しかし、本人の口からこうもはっきりと聞いたのは、これが初めてである。
「エラはどうして、総代魔法官になりたいんだ」
「お父さんがそう望んでるからだよ」
 アリウスはぴくりと頬を引きつらせる。エラは、それに気が付かず、続けた。
「私の存在意義なんて全部それだよ。お父さんが喜んでくれたら、それが幸せなんだ。他の魔法官たちが私たちのことを色々噂してるみたいだけどさ、そんなの全部どうだっていいよ。私は、お父さんさえ、私を認めてくれていればそれで満足。大体あいつらになんかに、私を理解できるわけないし」
「ああ、そう、だな」
 アリウスの相槌に覇気は無かった。
 しかし、酔っているエラは気にしない。
「お父さんは、私に魔法の才能を見出して、私を拾ってくれた。魔法官として大成するようにと育ててくれた。期待してくれてるんだから、応えないとだよね」
 エラは頬杖を着く。視線は窓の外に向けられているが、そこからの景色を眺めているわけではない。彼女の瞳に浮かんでいるのは、めくるめくソフォクレスとの思い出である。
「だから多分、私が考えるべきなのは、総代魔法官になることじゃなくて、どんな総代魔法官になるか、かな」
「ああ、ああ、エラなら、きっと、立派な総代魔法官になれるよ」
「なんだよ、歯切れ悪いな。言っとくけど、私が総代魔法官になったら、アリウスには今以上に働いてもらうからね。今の魔法庁で使える魔法官なんて、私とお父さん以外だと、アリウスぐらいしかいないんだし」
「それはっ、もちろんだ。好きなだけ頼ってくれていい、俺はいくらでもエラの力になる」
「ふふふ、ありがと」
 アリウスの答えに、エラは満足そうに微笑んだ。それから、空いたグラスにまた酒を注ごうと瓶に手を伸ばした時、
 こんこんとノックの音が部屋に響いた。
 二人は顔を見合わせる。
「誰かと会う約束してたの?」言外にそう問いかける、やや非難めいたエラの眼差しに、アリウスは首を横に振って応えた。
 こんなに時分に一体誰だ。
 警戒しながら二人が扉へ視線を向けた折、
「夜分遅くに申し訳ありません、イズです」
 扉の向こうから馴染みのある声が飛んできた。
「イズか、どうしたんだ。とりあえず入りなさい」
 アリウスの言葉を受けて、扉が遠慮がちに開かれる。部屋に入ってきたイズは、随分と憔悴した様子だった。
「あ、エラさんも、すみませんお邪魔をしてしまいましたか」
「うん、正直けっこー邪魔かな」
「こら、やめろエラ。イズ、こんな時間にわざわざやってきたということは、よほどの事情があるんだろう。何があった」
「はい、その、ええと」
 イズの声は震えていた。既に散々泣いてきたその腫れている目もとに、なお涙が滲む。
 イズを落ち着かせようと、アリウスが彼女の側へ歩み寄り、肩に手を置こうとした瞬間、イズは勢いよく頭を下げた。
「本当に申し訳ありません! 私の、私のせいで、ただでさえ遅れているフィディ川の治水工事が止まってしまうかもしれません!」
「なんだって? まて、イズ、落ち着いて詳しく説明してくれないか」
 アリウスに促されて、イズは嗚咽混じりに事情を話し始める。
 アリウスと話した後、彼女はそのまま治水工事の現場へと向かったという。作業が遅れている原因は直ぐに分かった。工事の監督者と作業員との連携が全く取れていなかったのだ。
 この監督者というのが、あまり有能な男ではなかった。彼は都市長の三男であり、都市開発担当官という一等魔法官に相当する地位にはいたが、それは親からの贔屓で与えられただけの分不相応な役職である。
 つまるところ、実力に見合わないプライドばかりを持て余した人間だったのだ。
 彼はイズの開発した魔法を、あまりよく理解していなかった。故に、その魔法をどう活かすかを考えず、とにかく自分の経験則だけに基づいて現場の指揮を執っていたと言う。当然、作業員からは作業計画の変更を求める声が上がったが、プライドが邪魔をする監督者は聞く耳を持たなかった。
 それは三等魔法官であるイズに対しても同様で、彼女がどれだけ丁寧に、開発した魔法が如何なる状況で効果を発揮するかを説いても、ろくに耳を貸そうとしない。それでもなお、イズが進言を続けたところ、監督者は、地位も年齢も自分より低いくせにと腹を立てて「ならば代わりにお前が指揮をとれ」と現場を去ってしまったという。
 困ったのはイズだ。彼女は魔法に対する造詣は深いが、治水工事に関する知識はほぼ無く、その指揮など執れる筈もなかった。
 ひとまず作業員たちに事情を説明したところ、ただでさえ独りよがりな監督者の指揮に日頃から鬱憤を溜めていた彼らは、その監督者が勝手に帰ったと知って、とうとう怒りを爆発させる。
「ふざけるな、やってられるか」と、引き止めるイズを振り払い仕事を放り出してしまった。
 時間的にも作業終了となる間際の出来事であったから、今のところそれ程損害は出ていないが、作業員たちが明日戻ってきてくれるとも限らない。
 イズはこの時間まで都市庁に赴いて、何とかもう一度その監督者と話そうとしたが、結局会っては貰えなかった。
「そんなことになっていたのか」
 全てを聞き終えて、アリウスは唖然とする。イズはそんな彼に何度も何度も頭を下げた。
「すみません! すみません! もう私、どうしたらいいか分からなくてっ」
「分からないって、簡単じゃん。そのポンコツ監督者のやり方に合った魔法を、その場で開発してあげれば良かったんだよ」
 いつの間にかアリウスの隣にやって来て、イズの話を終始つまらなそうに聞いていたエラは、事も無げにそう言い放った。イズは、謝罪の言葉をぴたりと止めて、小さく震えながらエラを見る。
「そ、そんな無茶な」
「無茶じゃない、私ならできる。あのさ、イズは被害者面してるけど、それあなたの仕事でしょ。めそめそ泣いてみっともない、アリウスの負担増やさないでよ」
「エラやめないか」
 アリウスは、エラの肩をぐいっと引く。
「だって」と尚も不満をこぼそうとしたエラだったが、アリウスの鋭い眼光に射抜かれて、それ以上は話せなかった。むくれて、渋々と引き下がる。
「イズ」
 名前を呼ばれて、イズは再び頭を下げようとしたが、アリウスは彼女の両肩を掴んでそれを阻止する。
「もう謝らなくていい。謝らなくてはならないのは、むしろ俺の方だ。今回の件は明らかに、君が対応できる範疇を超えていた。現場には俺も着いて行くべきだったな。そうすれば、その監督者とも対等に話し合えただろう。俺が判断を誤った、どうか許して欲しい」
「ああ、やめてください! 私が無能なのが悪いんです! アリウスさんが謝ることではっ」
「イズは無能じゃない。君の働きにはいつも助けられている、自分を卑下するようなことはしないでくれ。この件に関しては全面的に俺が引き継ぐから安心してほしい。さあ、もう夜も遅い、大変な一日だったろう、早く部屋に戻って休むといい」
 優しく宥めるようにアリウスは言い、イズはぼろぼろと大粒の涙をこぼす。
「ありがとうございますっ、本当にっ、ありがとうございますっ」
 彼女は最後にもう一度、深々と頭を下げてから部屋を出ていった。
 アリウスが椅子に戻ろうと振り返ると、大層不機嫌な様子のエラが、先に座って彼を睨んでいる。
 アリウスは呆れたように肩をすくめて、彼女の向かいに腰を下ろす。
「何を怒っているんだ」
「アリウスは甘すぎるよ」
 そう言って、ヤケ気味にグラスを煽る。
「なんでアリウスがイズの尻拭いをしなきゃいけないのさ」
「言っただろう、この一件はイズの手には余る」
「手に余るってさ、結局、自分の力不足の言い訳だよね。努力が足りなかっただけでしょ、理由になんないよ」
「エラ、それは君みたいな優秀な人間だから言える言葉だろう。誰しもが君のように、努力した分だけ向上できる訳じゃない。大抵の人間は、精一杯という天井にぶつかってしまう」
「ふーん、分かんないな」
 エラは一度手に取った焼き菓子を、皿に戻して口を開く。
「なんでアリウスは、そんな風に、イズたちの目線で考えてあげられるの」
 感心してるというよりは、どちらかというと不満そうな声色でアリウスに聞いた。
「なんでと言われてもな、俺もそっち側の人間だからだろう、イズたちと同じ凡人だからだ」
「やめて、それ凄く嫌」
 エラは、すかさずアリウスの言葉を拒絶する。
「私さ、お父さんにさえ認めて貰えばいいって言ったけど、アリウスは別だよ。だって、あなたは私を理解してくれるでしょ」
 最初は語気強く始まったエラの言葉だったが、徐々にしりすぼみ、弱々しい声になっていく。
「アリウスはこっち側でしょ。私と同じ景色を見てくれるでしょ。そうじゃないと嫌だよ」
「悪かった、別にエラを突き放すつもりで言ったんじゃないんだ」
 アリウスは慌てた様に言葉を続けた。
「エラ、俺はどこにも行かない。君が総代魔法官になってからも、ずっと傍で君を支え続ける」
「ふーん、そっか、そうですか、ならよろしい」
 言ってエラは顔を背ける。思わず胸の内をこぼしてしまったことと、それに対するアリウスの真摯な言葉がどうにも面映ゆかったのだ。
 エラはしばらく、言葉にならない唸りを上げて視線を彷徨わせる。そうして、ふと違う話題を見つけて口に出した。
「あ、ていうかさ! アリウス、イズから仕事引き継いじゃったけど、それって」
「ああ、明日やることになるだろうな」
「もぉー、やっぱりぃ!」
 いつの間にか、自分との約束が反故にされていたことに気が付き、エラは憤る。
「そう怒らないでくれ、午前中には片付けるさ」
 というか、とアリウスはエラにいたずらっぽい笑みを向ける。
「君が手伝ってくれたら、もっと早く終わるのだが」
 言われて、エラは一瞬目を見開く。やがてため息を一つこぼした。
「しょーがないなぁー」
 呆れたように言うエラだったが、その顔にはご機嫌な笑みが浮かんでいる。
 瓶にはお酒がまだ半分ほど残っている。
 二人の時間はもうしばらく続く。
 夜は静かに更けていった。


一〇一八年 六月十二日   


 あくる日の早朝、凶報は突如として舞い込んできた。
 ソフォクレスが乗った馬車が野盗に襲われたのだ。
 エブロストスの冒険者組合へ、魔法の指導に赴いた帰りの出来事であった。
 ソフォクレスは何とか野盗を撃退したものの、重症を負う。
 ラティアの目前まで迫った地点での出来事であったから、御者はそのまま、瀕死のソフォクレスを運んで都市内まで駆け抜けた。
 到着すると同時に、ソフォクレスは、とり急ぎ寄宿舎の一室へと運び込まれる。教会から神官が駆けつけ彼の治療を開始するが、傷は深い。
「お父さん!」
「師よ!」
 間もなくして、知らせを聞いたエラとアリウスが部屋へと駆け込んできた。
「傷の程度はっ」
「懸命に治療していますが、なかなか」
 アリウスの悲鳴のような問いかけに、神官は脂汗を浮かべながら答える。
 魔法によって、止血と傷ついた臓器の修復を同時に行うが、損傷が激しく治療が追い付かない。実際のところ、かなり厳しい状態であった。
「お父さん! やだよ、死なないでよ!」
 エラは泣きながら、ソフォクレスの手を握る。
 ソフォクレスはゆっくりと首を動かして、エラとアリウスの方を見た。
「二人とも……来て、くれたか」
 安堵したように笑い、それから、苦しそうに息を吐いて、
「ありがとう……もういい。部屋にはアリウスとエラだけ残して、ここには、どうか、三人だけに……」
 呼吸の中に辛うじて音を混ぜたような、掠れた声でそう言った。
 彼の言葉に、皆が一斉に息を飲む。治療をやめろと、ソフォクレスはつまりそう言ったのだ。
 神官は伺いを立てるように、エラとアリウスの方を見る。
「続けて! 当たり前でしょう⁈」
 エラは神官を怒鳴りつける。父の命を諦めるなど冗談ではなかった。例え、ソフォクレスの言葉だとしても、それだけは聞けない。
 アリウスはというと、酷く怯えた様子で、焦点の定まらない視線をソフォクレスへと落としていた。
 二人に代わって、先に寄宿舎へ来ていたマルロが、神官へ問いかける。
「このまま治療を続ければ、万が一にも助かるということはあるのでしょうか」
 神官は慙愧に耐えない表情で、ゆっくりと首を横に振った。
「いえ、このまま治療を続けても、私の魔力が続く限り延命させるということしかできないでしょう。そしてそれは、ソフォクレス殿の苦しみを悪戯に引き伸ばすだけの行為です」
 マルロは悲しげに目を伏せ、絞り出すように口を開いた。
「アリウスさん」
 呼ばれて、アリウスは小さく肩を震わせる。
 マルロが、神官が、そこにいる皆が、泣き伏せるエラではなくアリウスを見ていた。
 彼らの視線に強要されて、アリウスは呼吸を乱しながら、囁くように言う。
「師の、言う通りに」
「アリウス⁈」
 エラは悲鳴を上げて、アリウスの腕に縋り付いた。そんな彼女をアリウスは震える腕で抱きしめる。
 神官たちは互いに目配せをして、己の無力を恥じながら静かに部屋を後にした。
「皆、出ていって、くれたかな」
「はい」
 アリウスは答える。エラはゆっくりとアリウスの胸を離れ、とめどなく溢れる涙を何度も拭いながら、父の方を向く。
「お父さん、やだよ、死なないでよ」
 エラの言葉を聞いて、ソフォクレスは彼女の方を見る。だが、何も言わずすぐに視線をアリウスへと移した。
「アリウス、お願いだ。まずは……君が……受け止めて、エラに……受け入れさせて。それから……二人で、皆に伝えてくれ」
 あの日の、ソフォクレスとの会話がアリウスの脳裏を過る。
「ああ、おやめください」
 アリウスは震えた声で、懇願するように呟いた。
 ソフォクレスは荒い呼吸を少しでも整えようと、空気を求めて、弱々しく口を開閉する。
「はあ、はあ……次の総代魔法官を……ごほっ、指名する」
 最後の力を振り絞って、大きく息を吸った。
「アリウス……君に、まか、せる」

 次の瞬間、ソフォクレスは大きく咳き込んだ。神官の治療によって辛うじて出血は抑えられていたが、咳で揺れたことで傷口が開き、堰を切ったように血が溢れ出る。
 父が死にゆく有様を前にして、エラは先までのように泣き喚くのではなく、ただ茫然としていた。
 やがて、ゆっくりと首を回し、アリウスを見る。
「違う、エラ、違うんだ」
 そんな彼女にアリウスは、泣きそうな顔でかぶりを振った。それから、ソフォクレスに縋りついて、悲鳴のような声で訂正を求める。
 しかし、そんな彼の言葉はもうソフォクレスには届かなかった。
 ソフォクレスの目は虚を見つめていた。
 震える右腕をゆっくりと天井へのばし、
「アンナ」
 ほとんど聞き取れないほどか細い声で、
「エラ」
 守れなかった妻子の名前を呼ぶ。
「すまな、かった」
 最後にそう呟いて、ソフォクレスはこと切れた。
 彼の閉じられた目から、一筋の涙が伝った。
 
 
 扉が開けられ、エラとアリウスが出てくる。それはつまり、ソフォクレスの臨終を意味していた。
 扉の前で待っていた魔法官たちは、沈痛な面持ちで顔を俯ける。偉大なる初代ラティア都市総代魔法官の死を、彼らは悼んだ。
 そして、そうなったからには、確認しなければならないことがある。
 だから、彼ら魔法官たちは扉の前で、エラたちが出てくるのを待ち構えていた。
 次の総代魔法官は、誰が指名されたのか、それを聞かなければならない。
 しかし、少し様子がおかしかった。
 いつまで待とうと、エラもアリウスも、どちらが二代目総代魔法官に指名されたのか言おうとしない。
 不審に思って顔を上げた魔法官たちは、エラの顔を見てぞくりと身を震わせた。
 先まであれほど泣いていたのが嘘のように、彼女の顔からは一切の感情が抜け落ちていたのだ。生きた人間のものとは到底思えない、無機的な、人形のような顔がそこにはあった。
 アリウスはアリウスで、絶望と悲愴、驚愕と後悔を綯い交ぜにしたような表情を浮かべている。
 愛する父を、尊敬する師を失ったからという理由だけで片付けるには、あまりに異常な様子だった。
 一人の魔法官が、恐る恐る問いかける。
「あの、ソフォクレス殿は、どちらを次の総代魔法官に選ばれたのでしょうか」
「私」
 間髪入れず、エラが答えた。アリウスは一瞬だけ、驚いたように目を見開いたが、何も言わなかった。
「じゃあ、そういうことだから」
 顔と同様に感情の無い、冷たい声でそう言い捨てて、エラは自分の部屋へと行ってしまった。たった今、育ての父を失った人間だとは思えないその態度に、魔法官たちはどよめく。
 そして、まだ残っているアリウスに、縋るような眼差しを向けるが、
「すまない、俺から言えることは何もない」
 それだけ言って、彼もまたエラとは逆の方へと歩いて行ってしまう。
 残された魔法官たちは、ただひたすらに困惑しながら、何か言い知れぬ不気味さを感じつつ、次期総代魔法官にはエラが指名されたという事実を受け入れるしか無かった。
 
 
 最悪だ。
 廊下を足早に歩きながら、アリウスはそう思った。
 彼が向かう先は長官室だ。
 とにかく、誰よりも早くそこへ辿り着かなければならなかった。
 アリウスの心臓が早鐘を打つ、焦りから徐々に歩調が速くなり、最後にはほとんど全力疾走になっていた。
 その勢いのまま長官室の扉を開け放ち、部屋の中へ転がり込む。執務用の机の裏へ回り込むと、片端から引き出しを開けていった。
 そして、
「やっぱり、あった」
 一通の封筒を見つける。蝋で封印されているのを、封筒が破れるのも構わず強引に開封して、中を取り出す。
 そこには、ソフォクレス直筆の手紙が入っていた。内容は他でもない、次期総代魔法官にアリウスを指名する旨である。
 生きているうちに、直接指名できるとは限らない。だからこうして、遺書のような形でも残しておいたのだろう。
 少し想像力を働かせれば分かることだ。
 冷静なエラであれば直ぐに思い至ったであろう。
 アリウスは深くため息をつく。
 ソフォクレスと話したあの日、エラと酒を交わしたあの晩、アリウスは二人の間に決定的な歪みがあることに気が付いた。
 気が付いておきながら、見ないふりをした。
 その歪みが、修復不可能なものと分かってしまったからだ。
 どうしてこうなったのか、誰が悪かったのか、アリウスは考える。
 エラに娘の亡霊を重ね続けたソフォクレスも、
 それを知りながら、何も行動を起こさなかった自分も、
 そして何も知らずのうのうと過ごしていたエラも、
 誰も彼もが愚かであった。
「エラは俺にとって何なのか、か」
 あの日、答えられなかった師からの問いが口をつく。
 ソフォクレスが死んで、
 父から期待されているという期待を裏切られたエラを見て、
 そんな彼女が今、自分にどのような感情を抱いているか想像して、
 アリウスはようやくその答えの様なものに思い至った。
 自分は、エラが好きだった。
 自分を掛け替えのない存在と思ってくれているエラが好きだった。
 エラにとって掛け替えのない存在である自分が好きだった。
 だから、エラから敵視されることが恐ろしい。彼女から邪魔だと思われることに、必要とされなくなることに恐怖する。
 アリウスは体内で魔力を熾こして、手に持つ手紙に火を放った。
 それと全く同時であった。
 エラが息を切らして、長官室へと駆け込んできたのは。
 彼女は、驚いたような顔で、アリウスと燃えて灰となった手紙を見比べる。
 アリウスは彼女に、淡い期待を抱いて、ぎこちない笑みを向けた。
「大丈夫だ、エラ。これで証拠は無くなった。次の総代魔法官は君だ」
「どうして?」
「どうしてって、俺が君の味方だからだ。俺はこれからも君のために尽くし続ける。だから安心して俺を頼って」
「どうしてお父さんは、あなたを選んだの?」
 エラはアリウスの言葉を遮る。というより、彼の言葉など最初から聞いていなかった。
「お父さんは、私を認めてくれてたんじゃなかったの?」
「ああ、師は君を認めていたとも」
「私、お父さんに喜んでもらいたくて沢山努力した」
「知っている。エラが頑張っていたことは俺が一番知っている」
「ねえ、私でしょ? 都市総代魔法官に相応しいのは私でしょ?」
「ああ君だとも」
「何かの間違いだよ、こんなの」
「そうだ間違いだ。だから正さなくては」
「私、信じない」
「俺を信じてくれ」
 エラは、ゆっくりとアリウスの元へと歩み寄る。アリウスは彼女を迎え入れようと手を広げたが、目前まで来たところでエラはしゃがみ込んだ。床に散らばる灰を摘み上げ、無感情な瞳で見つめる。
 やがて静かに立ち上がると、アリウスには一瞥もくれず長官室を立ち去った。

 その翌日のことである。
 アリウスは、総代魔法官代理となったエラによって、ラティアの魔法庁から追放された。
 準公文書であるソフォクレスの遺書を不当に処分し、自身にとって都合の悪い事実の隠蔽を図ったという罪に問われてのことだ。
 淡々と罪状を読み上げ処分を言い渡したエラに、アリウスは一言も反論をしなかった。

 その後アリウスは、プラシノスの魔法庁に転入することとなる。
 幸いにも、一等魔法官という地位はそのまま保証された。
 プラシノスの総代魔法官は以前よりアリウスと懇意にしており、彼の実力、人となりともに高く評価していたのだ。それだけに、エラがアリウスへ言い渡した主文には懐疑的であり、エラが正式に総代魔法官に就任していない内はある程度の干渉は可能だと、一件の再調査を促すことを提案したが、アリウスはそれを強く遠慮した。
 もはや自分はエラにとって、傍にいるだけで目障りで不安を与える存在になってしまったのだと自覚していた。
 だから、彼女とは殆ど関わりのない、彼女の立場を決して脅かさない今の立ち位置はアリウスにとって都合が良かった。ここでなら、もう一度初めから彼女との関係を作り直せるはずだ。
 彼は、諦めなかった。
 今はすれ違ってしまったが、まだ歩み寄るための道は残されている。
 いつかきっとまた、エラは自分を必要としてくれると。

 しかし、そんな日は遂にやって来なかった。

 アリウスがプラシノスに転入して七日が過ぎた頃、八月二十日、ラティアが異教徒の襲撃を受けたという情報が冒険者によって伝えられる。
 それから数日と置かずに、彼の下へ、エラの訃報が届けられた。


一〇一八年 八月十六日    


 マレ・グロリア大聖堂の大扉は倒されていた。扉自体にはそれ程損傷がないため、戦乱の中で破壊されてこうなったというわけではないのだろう。
 イズから聞いていた通り、建物自体の損傷が激しい。
 この状態では、大扉を支えきれないと判断されたのだ。事故を未然に防ぐ目的で予め外して置いたに違いない。
 外と中を隔てるものがなくなってしまった大聖堂だが、一歩中に踏み入って、なるほど最早そんなものは必要無いのだと気づかされた。
 辺りには大量の瓦礫が転がっていて、天井には大きな穴がいくつも空いている。そこから、光の柱が斜めに何本も降りていた。
 これでは内も外もないだろう。
 俺とイズは聖堂内に足を踏み入れる。丁度、その機を見計らったかのように、向こうから誰かが近づいてきた。陰の中にいて姿はよく見えない。かつんかつんと鳴る足音は随分と軽い。
 その誰かが光の柱に踏み入ったことで、正体が露わになった。
 年の頃はまだ二十を数えないであろう少女だ。だが、俺は彼女を知っている。
 イズと一緒に胸に手を置いて、慌てて礼を示した。
「直ってくれ。そんなに畏まらなくて良い」
 まだどこか幼さの残る声色で少女は言った。俺は恐る恐る頭を上げて口を開く。
「驚きました、まさかメラニア枢機卿がいらっしゃるとは」
 枢機卿といえば、聖職者階級において教皇に次ぐ地位である。
 そして、このメラニア枢機卿に関していうなら、彼女は、此度の異教徒撃退における最大の功労者だ。異教徒との戦いは、彼女の参戦によって形勢が逆転したといっても過言ではない。都市外に逃亡した指導者を討ち取とり、戦いに終止符を打ったのもこの人である。
「ラティアに新しい都市総代魔法官が就任すると聞いてね。僕がもう少し早く到着していれば、この街の被害も、もっと抑えられたかもしれない。その贖罪というわけではないが、君への叙任は僕の名で執り行うこととする。このラティアが一日も早く復興し、また幸せの満ちた街になるようにと願いを込めてね」
「なんと、有難くも畏れ多いことです。枢機卿のご活躍によって、我々はこの都市を取り戻すことができました。そこには、感謝の念しかありません」
 都市総代魔法官の叙任式は、司祭以上の聖職者の名の下に執り行われるのが決まりである。いくら宗教的な要所であるとはいえ、教皇領から遠く離れた末端都市の総代魔法官の叙任式が、枢機卿の名の下に行われるというのは、俺が記憶する限り前例はない。格別の栄誉であった。
「さ、じゃあ行こうか。本当はこの主聖堂で行うものなんだが、こんな瓦礫の中で叙任式をしたのでは君の名誉を穢してしまう。幾分マシだった小聖堂を整えたから、そっちに」
「ご配慮、感謝いたします」
 メラニア枢機卿に導かれ、その小さな背中の後ろをついていく。
 すっかり萎縮してしまって、一言も喋らなくなっているイズに小声で耳打ちした。
「君は知っていたんじゃないのか」
「いえ、聞かされていません。私は、準備ができたから呼んで来いと言われただけで」
「驚いたかな」
 俺たちの耳相談は聞こえてしまっていたらしく、メラニア枢機卿が会話に入ってきた。イズと二人で背筋を伸ばし、慌てて畏まる。枢機卿は歩きながら横眼の視線だけこちらに向け、愉快げに笑った。
「僕が言ったんだ、内緒にしようって。君たちは此度の戦いで過酷な経験をした、そしてこれからも、想像を絶する苦労が待ち受けていることだろう。だから、今日ぐらいは楽しい驚きがあっても良いと思ったんだ。余計だったかな?」
「滅相もございません! ありがとうございます!」
 イズが上ずった声でそう答える。それに、枢機卿はまた笑った。
 小聖堂につながる外廊下の中央に掛かったところで、ふとメラニア枢機卿は足を止めた。そして、こちらを振り向くと、俺の目を真っ直ぐに見据える。
「いよいよ、叙任式の会場に入るわけだけど、アリウスくんだったね、二代目ラティア都市総代魔法官となる覚悟はできたかな」
 イズが隣でぴくりと肩を跳ねさせた。
 俺も固唾を飲み込む。冷たい汗が背筋を伝うのが、やけにはっきりと感じられた。
 まさか枢機卿がやってくるとは思わなかった。顔馴染みの司教とはわけが違う。本来であれば、一生関わることのないほどの高みにいる方である。
 だが、だとしても、俺は俺の為にここで怖気づく訳にはいかない。
 意を決して、口を開く。
「一つだけ、お願いがございます」
「お願い?」
 メラニア枢機卿は怪訝そうな顔をする。
「初代総代魔法官であるソフォクレスにより、二代目に指名された者がいます。彼女は、叙任式を受け正式にその地位を拝命する前に、此度の戦いで殉教しましたが、願わくは、彼女のラティアに対する献身を、認めて頂きたく」
「ふむ、そうか分かった。じゃあ君は三代目だね」
「ああ、は、はい。ありがとうございます」
 存外、あっさりと受け入れられて拍子抜けしてしまう。枢機卿はそんな俺の反応を楽しみながら言った。
「君はその子の存在を無かったことにはしたくないんだろう。少し、私情が覗けてしまうが、それも良い。僕は君の意思を尊重するよ」
 踵を返して、メラニア枢機卿は歩みを再開する。
 俺とイズは、大き過ぎる安堵感で萎えそうになる足腰に何とか力を入れて、枢機卿の後を追いかけた。
 かくて、ラティアにおける三代目都市総代魔法官の叙任式は、慣例として行われるものと比べれば遥かにささやかでありながら、荘厳な雰囲気の中で、滞りなく執り行われた。


 丘の上に立って街を見下ろす。
 沈みゆく夕陽に照らされて、崩れかけの建物たちが、歪な形の影を地面に落としていた。
 穏やかな風が吹いて、ストラをはためかせる。今朝まで無地だったそれは、今は金糸によって緻密な模様で飾られていた。メラニア枢機卿が叙任式の中で、魔法によって瞬く間に刺繡したものである。
 それが目に入る度、ああ俺は総代魔法官になってしまったのだと実感する。
 ふと、虚しくなった。
 枢機卿に意見してまで、エラが都市総代魔法官だったということを事実にしたわけだが、そんな俺の尽力を、一番見ていて欲しかった相手はもういないのだ。
 本来、生涯身に付けることはなかったはずの装飾されたストラを首にかけて、そこでようやくその事実に実感が伴ってきた。
 どうして俺は、その場に居てやれなかったのだろう。君を守ってやれなかったのだろう。君がいなくては、俺はありえないはずだったのに。
 抱いても仕方のない後悔の念ばかりが、頭の中に押し寄せてくる。師が亡くなったあの日から、気分はずっと最悪だ。この胸の、傷口が膿んだような痛みは、きっと一生消えることはないのだろう。
 そう考えると、都市総代魔法官という役職を貰えたことは良かったのかもしれない。俺にはこれから多大な責任と義務がのしかかってくる。きっと立ち止まっている暇などありはしない。
 それでいい。
 強制的に俺の足を前へ動かしてくれる何かがあるのは助かった。
 俺はこれから、この瓦礫の街を再興させていく。
 十年前の師に随分と似た立場にあると気が付いた。
「アリウスさーん」
 呼ばれたので振り返ると、大聖堂の入り口から、イズが駆けて来ていた。
「そのストラとってもお似合いですよ」
「はは、俺には荷が重い気がするな。純金のネックレスをぶら下げている気分だ」
 言いながら俺は、イズの緑色のストラに手を触れた。
「そういえば、イズも二等魔法官に昇格しているじゃないか」
「これは、先の戦乱でごっそり上の魔法官が減ったから、そのまま繰り上がっただけです。何も誇れることじゃありません」
「そんなことはない。イズは確かに、二等魔法官になれるだけの力を持っていたさ」
「アリウスさんにそう言ってもらえると、安心できます」
 そっとイズの横顔を眺める。
 彼女はきっと、俺を慕ってくれている。
「なあイズ、俺なんかに総代魔法官が務まるだろうか」
「なんかなどと言わないでください。あなたはその地位に相応しい人格者です」
「俺の代わりになど、いくらでもいる気がするんだ」
「あり得ません!」
 イズは声を荒げた。それから真っ直ぐに俺の目を見据える。
「アリウスさんの代わりなんていません! 私が付いて行きたいと思ったのはあなただけです。あなたでなくては、駄目なのです」
「そう、か」
 イズの言葉を頭の中で何度も反芻する。胸の傷口にそれを塗り込んでみる。今はまだ、痛みは少しも引いてくれなかった。
 だが、それでも、
「イズ、今夜は空いているだろうか」
「え?」
「酒を飲み交わす相手が欲しいんだ、付き合ってくれるか」
「え、ええっ、私で良いなら是非とも!」
 イズはぱっと笑って、心底嬉しそうに目を輝かせる。
「後で酒を用意して、君の部屋まで持っていこう」
「分かりました。では、色々と準備しますので私はこれで。では後ほどっ」
 イズはいそいそと立ち上がり、去っていく。
 ご機嫌に鼻歌を歌いながら、小さく跳ねるような足取りで遠ざかる。そんなイズの背中が、彼女に重なった。
 君は、
 掛け替えのない存在として、俺を思っていてくれていた。
 それが俺には心地良かった。
 けれど、
 俺にとって君は、掛け替えのない存在だったのだろうか。
 茜色の空に紺色が滲む。
 今日が淡々と終わろうとしていた。


一〇一八年 六月二十日


 快晴の空のもと、埠頭の上に立って水平線を臨む。燦燦と降り注ぐ陽光が、海面に乱反射して、瞳に飛び込んで来る。うっとおしくて、目を細めた。
 信徒同盟の一角を担うアテルヌス王国の第三王女が、ここラティアを訪れる日だ。目的は視察と交流とうたっているが、ここは、海上貿易の要衝の街である。どうせ一緒についてきている宰相だか大臣だかが、表立ってはやり辛い商談なり金策なりをするのだろう。
 別にどうでもよい。
 とにかく、私の仕事は、ラティアの都市総代魔法官代理として、アテルヌスの王女を歓待することである。仕事だから、表面上はいくらでもご機嫌を取ってやるが、心の底では全く歓迎していない。
 そりゃあそうだ。こいつが来るからその準備に忙しくて、私の都市総代魔法官の叙任式が先延ばしになっている。
 本当に、うっとおしかった。
 しばらくして、岬の向こうから二隻のガレオン船が姿を現した。アテルヌスの船である。陸路で来た方が早いだろうに、わざわざ海路を通って来たのは、沿岸都市への敬意だろうか、それとも単に楽だからだろうか。
 なんにせよ、賓客サマのご到着だ。
 私は隣に立つマルロに視線を投げつける。
「歓迎の手順は分かってるよね」
「は、はい」
 マルロはもたもたとした動作で、法服の袖から数枚の折り畳まれた紙を取り出した。
 私が舌打ちすると、彼はびくりと肩を震わせた。その反応に、一層苛立ちが募る。
「あのさ、全部頭に入れてきてって言ったよね。王女様の御前でも、それ見ながら話すつもりなの?」
「い、いえ、そうならないように、最終確認をと思いまして」
「そのくらい、一回読んだら覚えられるでしょう。鈍くさいな」
 私の言葉に、マルロは深く項垂れる。それがまた、私が虐めているみたいに見えて嫌だった。
 深呼吸を一つして、気持ちを切り替える。
 マルロはただの保険に過ぎない。温室育ちの大して賢くもない王女様の相手など、私一人で十分であった。
 船が、辛うじて船体の詳細が見えるくらいに接近してきて、港にいる人間は皆、視線をそちらへ向ける。
 流石は王家の船と言うべきか、私が知る限り、この港にやってきた船の中では最も巨大であった。装飾も豪華絢爛で、それでいて下品ではない。
「ん?」
 皆が二隻の船に釘付けになる中で、真っ先に異変に気が付いたのはおそらく私だ。
 それは私が、この場で最も優れた、視力強化の魔法の使い手だったから。
 先頭をいくガレオン船の、帆桁の一つに何かがぶら下がっているのが分かった。
 船がさらにもう少し近づいたことで、それが何であるかを理解する。
 ドレスを身につけた焼死体であった。
「っ!」
 私が異常を知らせるべく叫ぶよりも先に、港中で、揺れるようなどよめきが巻き起こった。理由は海の方を見れば一目瞭然である。
 さっきまでは二隻しかなかった船が、一瞬の間に五十隻近くにまで増えていた。
 突然出現したというわけではないだろう。きっと不可視の状態になっていた船団が、この瞬間に姿を現したのだ。
 進航する大船団を、私ですら気がつけない程完璧に隠しきっていた。摂理魔法を使ったのでは、技術的にも魔力量的にもまず不可能な芸当だ。
 ということは、【遮る】ないし【消える】或いはそれに準ずる概念を用いる、概念魔法の使い手があの船団のどれかに乗っているのだろう。その事実に、怖気が走る。
 一体何が起きているのか、それを考える間も与えず、およそ五十隻の船から無数の火矢が放たれた。
 魔法による強化を受けて射られたのだろうそれらの矢は、軌道から火の粉を散らしながら容易に私たちの頭上へと到達する。
 そして次の瞬間、矢が次々に炸裂した。
 四散した矢は、一本につき四、五個程度の火球となって、辺り一帯に降り注ぐ。
 臓腑を震わせる爆発音と共に、真っ黒の煙と悲鳴が上がった。どうやらあの火球は着弾と同時に爆発するらしい。
 私は咄嗟に、背後の防壁に魔力防御を展開した。この防壁は、ラティアの守りの要である。これだけは死守せねばならない。
 けれど、防壁の規模が大き過ぎたことと、距離が離れ過ぎていたせいで、高密度の魔力防御を防壁全体に展開することは出来なかった。
 結果、数弾の火球の爆発を受けて、ラティアの守りの要はあっけなく崩壊した。
 私はそれを呆然と見つめる。
 アリウスの魔法だったら、あの防壁も守り切れたんだろうなと、ふと考える。
 途端、全てを否定されたような気がした。
 爆音も、悲鳴も、どこか遠く聞こえる。
 せっかく、もうすぐ総代魔法官になれるというところまで来たのに、どうしてこんなことが起きるんだろう。
 お前には分不相応な地位だと、運命が私を貶めているように思えてならない。
 本当は全部知っていた。
 魔法官は誰一人として、私を長として歓迎していないことを。
 彼らの陰口は決まって「アリウスさんなら違ったんだろう」で終わっていた。
「エラさんっ! 上ぇっ!」
 ふと隣から金切り声が聞こえてきた。言葉の通り、上を見上げると、火球が一つこちらに向かって落ちてきている。
 私は体内で魔力を熾き上がらせて、火球を弾き返そうとした。だが上手くいかない。いつもなら、簡単にこなせる初歩的な魔法なのに、それができない。
 どうにも集中できない。
 そして、焦りもない。
 無理なら無理で仕方ないかと思えてくる。
 どうせ誰にも認めて貰えない人生だ。
 お父さんにすら、認めて貰えなかった人生だ。
 今日で突然終わりになってしまっても、諦めがつく。
 私は、最後までずっと、一人ぼっちだった。

『エラ、俺はどこにも行かない。君が総代魔法官になってからも、ずっと傍で君を支え続ける』

 ふと、あの夜の、堪らなく嬉しかった言葉を思い出した。
 
 ああ、
 違う、
 違う、
 私は一人ぼっちなんかじゃない。
 一人だけ、たった一人だけ、私を認めてくれた人がいた。
 私の傍にいてくれた人がいた。
 私を受け入れてくれた人がいた。
 一人だけだけど、確かにいた。
 なんてことしちゃったんだろう。
 どうして気が付かなかったんだろう。
 彼こそ唯一、私の理解者だった。
 彼だけが、唯一の私を見てくれていた。
 ああ、
 彼に会いたい、
 会って、
 そして、
 ちゃんと謝って、
 仲直りして、
 それから――――、


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