第2話

文字数 1,747文字

 ケンジに課せられた作業は次の通りだった。まず、毎日必ず朝9時にはアクエリオス邸に赴く。住宅の窓を全て開け放ち外気と太陽光を取り込む。マナ・ハームスの患者は部屋の隅っこにうずくまる傾向があるので、見つけ出してダイニングチェアーかベッドに腰を掛けさせる。着替えやトイレは促せば自分から行ってくれるので、なるべく自分でやらせること。ちなみに、中を覗いたら消し炭だから。なるべく多く話しかけて。朝の市場の様子でもなんでもいいので。部屋の掃除をすること。彼女が手伝ってくれそうな雰囲気なら、簡単な作業を手伝わせること。太陽光に当たった方が回復が早いので、散歩に行こうと誘ってあげて。なるべく二人で手をつないで。恋をしたら消し炭。散歩の途中で何かに興味を示したら、先の道のりを急かさないこと。帰ってくる頃にはベーカリーショップから日替わりの夕食が届いているので、二人で食べる。許可なく宿泊なんてしたら消し炭。別れを惜しんでキスなんてしたら消し炭。ハグしてもよいが、ときめいたら消し炭。消し炭、消し炭、消し炭。
「ギルドにはできれば同性にしてくれって頼んでおいたんですけどね。君のような若い男の子が来るとは思わなかったです。レモさんはリザブルの中でも器量のいい方なんじゃないかと思うけど、まあ、せいぜいギルドと私の診療所の看板に傷を付けないようにしてください」
 ケンジは姿勢を正して「任せてください!」と自信満々で答えたが、依頼初日にレモから手を握られた瞬間に心臓が梅干し大に縮まる音がした。

 レモは道端の黄色い小さな花に興味を示してしゃがみ込んだ。ケンジはそれがキ・オスクの花だと説明した。
「あっちの白いのがファミーマの花、花弁が二つセットになってるのがセブ・イレの花だよ。花弁が二つセットってことは、タンデムで蜜を集める昆虫がいるはずなんだよね。見たことないけど。それとも別の生存理由があるのかな?」
 ケンジは自分で言っていて、180歳の人生の先輩に専門性の薄い講釈を垂れていいものかいぶかしんだ。そのうえ、マナとかいう精神的なパワーが仕事をするこの世界でダーウィンの進化論が適応するのかも分からなかった。
 だが、サイトウ先生はどんどん話しかけろと言った。それが一番の治療なんだと。なんでもいいし、脈絡なんて気にしなくて良いからと。
 すると、レモは何を気に入ったのか、二人の間の空間をぼんやり眺めるのを止めて、ケンジの瞳を凝視するようになった。彼女の薄花色の水晶体を直視できず、ケンジは明後日の方向を向きながら、
「坂の向こう側に湖があって、ロソンの樹が満開なんだ。行こう!」と、手を引っ張った。

 異世界バーランドはヒューマニズムが全盛だったので、自然観察は軽視されたり蔑視されたりする傾向にあった。ロソンの樹は日本でいうところの、ソメイヨシノによく似ていて、白くて薄い花びらを樹木一杯に咲かせていた。湖面にはこぼれ落ちた花びらの汀が形成されていて、二人は花見に来たのか、おとぎの国に迷い込んだのか分からなくなったくらいだった。見渡す限り人っ子一人いない。日本だったら黒山の人だかりだっただろう。
 二人は、倒れて白く朽ちた大木に座って空を眺めた。
「転生者ギルドにはジャスティン爺さんっていう伝説の人物がいたんだ。彼が死ぬまでは、我々は自分たちが転生をしたのか、バーチャルリアリティーに閉じ込められたのか判別できていなかったんだって。彼はモンスターを倒す才能とかはほとんどなかったんだけど、冒険者として数多くの逸話を残したんだ。高地や、孤島といった前人未到の境地にたどり着く男として。みんなは何が彼を冒険に駆り立てるのか、理解できていなかったらしいんだけど、全力でサポートしていたみたいだよ。判然としたのは彼が死ぬ間際。彼はギルドのリーダーをベッド脇に呼び寄せてこう言ったらしいんだ。『この世界は美しい』って。『ただ一つのバグもない』ってさ。そして彼はバグを一つも駆除しなかった伝説のデバッカーとして名を残すことになって、第十八番冒険者ギルドは転生者ギルドと名を改めたんだそうな」
 二人は頭に落花を載せて帰路に立った。
「ごめん、つまらない話をしたね」
 だけど、レモはケンジの左手をしっかり握って離さなかった。
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