第1話

文字数 12,715文字

 バシャ、バシャー、ビシャ。天井から水が降ってきた。濁った液体が髪を伝って床へと落ちていく。ドアの向こうで「ぎゃはははっ」という下品な笑い声が響き渡る。
「お前には汚水がぴったりだな!」
 リーダーの一人がそう言い、取り巻きが媚びたような下品な笑い声を響かせた。
「お掃除よろしく」
 そう言い残し、彼らはバケツを放り投げたらしかった。カランカランと無機質な音が鳴る。
 ドアの開閉音が静まった頃、ゆっくりと甲斐 七桜(かい なお)は個室から這い出た。上靴の中にも水が入ってしまっていて、歩く度にぐじゅぐじゅと不快感が襲う。
 溜息をつきながら湿ったハンカチで滴る水滴を拭っていく。漆黒の髪がぺたりと顔に張り付き、気持ち悪い。
 無言でハンカチを当てていると、キィっと音を立ててドアが開けられた。七桜は彼らが帰って来たのではないかと体を強張らせた。
「あーあ。今回も中々だね、それ」
 姿を現したのは先程の生徒たちではなく、人のよさそうな笑みを浮かべた美しい生徒だった。
「斗真……」
 七桜がそう呟けば、彼はその柔らかい茶色の髪を揺らしながら手をあげた。その手にはタオルが握られており、そのままそれを七桜の頭に被せた。大きな手がわしゃわしゃと乱暴に水気を拭っていく。
 斗真の手をタオル越しに感じながら七桜はポケットの中からボイスレコーダーを取り出す。ライトが正常に点灯していて、録音がなされていることを示していた。ボタンを押し、録音を終了させる。上から視線を感じて、少し自分より背の高い彼を見上げた。
「ちゃんと録音した?」
 色素の薄い目が射抜く様に七桜を見ていた。「うん」と返事をすれば、斗真は「そっか」と空気を和らげ笑った。
「よくできました。頑張ったね」
 斗真はそう褒めそやすと、制服が汚れるのも気にしない様子で七桜を抱きしめた。彼の肩口に額をあて、七桜は小さく頷いた。
 西院 斗真(さいいん とうま)は七桜にとって唯一信頼のおける人物だった。

「今日も寄っていくだろう?」
 斗真にそう言われ、七桜は戸惑いつつも縦に首を動かした。斗真は周りの目を気にすることなく七桜に構い、今日のようにほぼ毎日と言っていい程自宅へ誘う。
「証拠の内容も確認しなきゃだしね」
 にっこりと笑いながら通された見慣れた斗真の部屋。高校生にしては広い部屋に、大きなベッドと学習机、床には肌触りの良いラグが、どんよりとした曇り空色をしている、敷かれている。
 斗真は裕福な家庭で大きな土地の長屋に住んでいた。二人の通う高校は、名の知れた私立で、こぞって裕福な家庭が集まってくる高校で有名だった。その為、平凡な家庭で育った七桜と異なり、クラスのほとんどが裕福で、斗真もそのうちの一家族だった。
 彼の両親には一度も会った事はないが、いつも使用人が居て、「いらっしゃい」と迎い入れられているのを見る度に、住む世界が違うと思ってしまう。
「適当に座ってて」
 その指示通り七桜はラグの上に座り込んだ。目の前のテーブルに今日のボイスレコーダーを置く。「ベッドの上に座っていいのに」と斗真は苦笑したが、次来た時にはこの小さなテーブルが追加されていて、それ以来ここに座るのが定位置になっていた。
「おまたせ」
 斗真がお盆に飲み物と菓子を乗せて戻ってきた。カップを受け取り、七桜は「ありがとう」と礼を言う。湯気の出たカップに口を付けるとカフェラテの甘い味が口の中で広がった。
「美味しい」
「そう?良かった。さっきびしょ濡れになったでしょ?寒いかと思って」
 秋の初めとはいえ、夕方の時間帯にバケツ一杯の水を掛けられると嫌でも体は冷える。もちろん、斗真がタオルで全て拭き取ってはくれたし、こうなることも見越して彼に預けていた予備に着替えもしたのだけれども。
「ありがとう」
 七桜はもう一度礼を言った。自分を気遣ってわざわざ温かい飲み物にしてくれたのだ。彼はその長い睫毛をぱちっと動かすと「どういたしまして」と笑った。
「さて。七桜、レコーダーを確認しようか」
 斗真はカップをテーブルへと置き、ボイスレコーダーの電源を入れる。ガガガ……と音が小さく聞こえ、『ほらほら早く入れよ』というつい数刻前に聞いた嫌いな声が聞こえてくる。続けざまに水の音が聞こえ、しっかりとトイレでの出来事が録音されていることが分かった。
「……しっかりとれているね」
 斗真は神妙な面持ちで頷くと七桜へと視線を向ける。
「我慢して偉かったね。あとはこの証拠を学校に持って行けばいい」
 念の為、と言って斗真は自身のパソコンに録音内容をコピーして入れた。
「さ、せっかくだ、勉強でもしておこうか」
 ボイスレコーダーを返しながら斗真がにっこりと笑った。

 時刻はいつものごとく、既に夜の時間で。七桜は夕飯だけでなくお風呂まで斗真の家で世話になる。最初のうちは遠慮していたものの、斗真の笑顔に押し切られ、用意された夕飯を食べて、ただっ広い桐風呂に二人でゆっくりと浸かるのが習慣となりつつあり、遅くなったからと言って車で家まで送られるのまでがセットであった。おかげで自転車通学だったはずが、今ではほとんどバスや徒歩で通っている。
「送ってくれてありがとう」
 七桜は小さい声でお礼を言う。ゆったりと流れていく街灯を見ていた斗真が七桜の方へと視線を向けた。
「どういたしまして」
 微笑みと共に斗真が顔を近づけてくる。七桜がそっと目を閉じれば、チュッとその唇に柔らかいものが触れてすぐに離れていくが、再びその柔らかい感触が唇に押し当てられる。するすると手荒れ一つない指が七桜の頬を滑り、鎖骨へと到達する。
「……っ!」
 七桜は眉根を寄せてゆっくりと息を吐き出す。瞼を押し上げれば、目の前で満足そうに笑う斗真の顔があった。
 時折、斗真はいたずらにこういったことをする。最初は手を繋ぐところから。その次は抱きしめ合うことへ。気が付けば、いくところまで。互いに知らない箇所はないのではないかというくらい触れ合っているように思う。
 ふふっと笑いながら今度こそ離れていった斗真から七桜は視線を外した。
 こういった行為がただのクラスメイトの域を外れていることを七桜はちゃんと理解をしていた。しかし、自分たちの間に横たわる関係が果たして恋人という名の関係性か、と問われると答えに窮してしまう。
 恋人ではない、と七桜は思っている。猫がネズミに対しておもちゃのように戯れる、それに近いものだと認識していた。要するに、“遊ばれている”と。そうわかっていても七桜がこの関係性に甘んじているのは、他の奴らの“遊び”よりもはるかにましで、そして幾分かの“愛”がそこに存在しているからだった。
「着いたよ」
 そっと肩を叩かれ、七桜はハッとする。物思いに耽っていたらいつの間にか家に着いてしまっていたようだった。
 斗真に促され車の外へと出る。簡素な住宅街に黒塗りの高級車はあまりにも不釣り合いだ。
 電気の付いたリビングのカーテンが揺れ、まだ母親が起きていることが分かる。恐らく玄関まで出てくる気なのだろう。無意識に握り締めていた拳を斗真の手がそっと包み込んだ。
「大丈夫」
 オレが付いてるよ、と彼は反対の手に持った紙袋を掲げて見せた。その様子を見て七桜は複雑な気持ちになる。その紙袋の中身はそんじゃそこらでは手に入らない高級菓子が入っているのを七桜は知っていた。
 手を引かれながら重苦しい玄関の扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。
「あら、七桜ちゃん、おかえりなさい」
 鼻につく甲高い声と共に母親が玄関に立っていた。
「あら!斗真ちゃん、今日も七桜ちゃんを送ってくれたのぉ?」
 馴れ馴れしく斗真に擦り寄りながら母親が嬉しそうな声をあげる。母親は斗真がこの家を出入りするようになってから七桜を“ちゃん”付けで呼ぶようになった。それから少しオシャレになった。美貌と裕福を兼ね備えた二十も下の男に媚びているのだ。
「これ、つまらないものですが」
 決してつまらなくはないものを笑顔で斗真が母親に手渡す。それを待ってましたとばかりに嬉々と受け取る母親に七桜はこれ以上に無い程の嫌悪感を顔ににじませた。相手は菓子に目がくらみこちらの様子には気が付いていない様だが。
「部屋まで送るよ」
 勝手知ったる様子で斗真が靴を脱ぎ、七桜を引っ張っていく。階段をスタスタと上がり、部屋の主よりも先にドアに手をかけ、「おじゃましまーす」と言って入ってしまう。
 下に居る母親が気になり、ちらっと視線を階下へ向けるが、そこに母親の姿はもうなくなっていた。貰うべきものを頂いたらあとは興味がないらしい。
「荒らされてないね」
 よかったよかった、と斗真が七桜の部屋の中をチェックして回る。七桜もつられるようにぐるりと見渡すが、今朝出た時と何一つ変わらない状況でその部屋は二人を迎いれていた。
 七桜は母親と上手くいっていない。父親が僅かな財産を残したままこの世を去ってから母親は荒れ果てた。母親にとって愛していたのは父親だけで、その相手が居なくなった今、最早何もかもがどうでもよくなったらしかった。
 そう言った類のしわ寄せは大概子どもへとやってくる。例に漏れずに七桜もそのしわ寄せを受けた子どもの一人となってしまい、それを受け入れざるを得ない状況であった。目の前でうろうろしている彼に出会うまでは。
「また何かあったら遠慮せずに言って。怖かったらオレの家に来てもいいしさ」
 寧ろ来てくれると嬉しいな、と斗真が七桜の手を握る。彼の有難い申し出を丁寧に七桜は断りつつお礼を言った。
「遠慮しなくてもいいのに」
「でも今は落ち着いてるから。平気だよ」
「そう?ならいいけど」
 いい、と言いつつその目には残念そうな色が浮かんでいるのを見て、七桜は申し訳ない気持ちになる。自分は何も悪いことをしていないというのに。寧ろ、斗真が七桜に関与しすぎていると七桜は感じる。
 斗真がここまで関与するようになったこと、それからあの母親があそこまで豹変したのにはきっかけがあった。


*********


 その日、七桜は腕に新しい傷をつくって学校へ登校した。前日の斗真宅へお世話になった時にはなかった傷だ。目ざとく気が付いた斗真に七桜は問い詰められ、渋々家であった事を話さざるを得なくなった。
「母さんに、まあ、押されて、というか殴られて、というか。棚にぶつけちゃって。軽傷だし、いつもの事だから気にしなくていいよ」
「殴られたってなんで?」
 当然の質問をされ、七桜は困り果てた。斗真は七桜の親子仲が上手くいっていないことに気が付いている。これまで直接的に聞かれたわけではないが、毎回手土産を用意する彼にそれとなく不要である旨を伝えた際に、「これがあれば君の母親も許してくれやすくなるだろう?」とにこやかに返答されたからだ。しかし、具体的な事を彼は知らない。
 さて、どう答えようか、と悩んでいると、斗真は七桜の腕を取ると教室から連れ出す。予鈴が鳴り、もうすぐ朝のホームルームが始まるというのに彼は気にする様子もなく、職員室へと一直線に向かって行く。
 ノックをすると同時にガラガラとドアを開けた斗真に、ちょうど教室に向かおうとしていたクラス担任が目を丸くする。
「病院、連れていくんで、今日休みます」
 オレとこの子ね、と腕を引っ張られ七桜は否が応でもクラス担任の前に顔を出させられる。思わずケガをした腕を担任から見えないように隠した。まあ、長袖を着ているからすぐには気が付かれないだろうけれど。
 戸惑うクラス担任に「じゃ」と斗真は軽く手をあげると七桜の腕を掴んだまま昇降口へと向かう。
「ねえ、待ってよ」
 七桜が後ろから声をかけると斗真は「あ、ごめん、痛かった?」と止まってくれた。
「いや、痛いとかではなくて……。授業あるし、病院はいいよ」
「ダメだよ、ケガは放っておくの、一番良くない。それに君ならここの授業くらいすぐ追いつくだろう?」
 カバンは後で取りに来てもらおう、そう言って斗真は七桜の靴を勝手に取り出し、七桜の足元に並べた。そして、ポケットからスマホを取り出し、一言二言の電話をすると七桜の腕を再び掴んだ。
「靴、早く履いて」
 ほら、と急かされ、腕を掴まれたままもたもたと七桜は靴を履く。斗真は七桜が靴を履いたのを確認すると再び腕を引いて、既に待機していた車へと七桜を乗り込ませた。
 あれよあれよと大きな病院へと運び込まれ、受付をも無視して七桜は診察室へと放り込まれた。
 診察室で待ち構えていたのは、初老のベテランと思しき医師で、斗真が「お願いします」と言えば、小さく頷くと七桜の体をチェックし始める。
 袖を捲られ、貼り付けていたガーゼも取られ、傷を確認される。殴られた反動で棚に打ち付けた腕は、登校前に確認した時よりも青くなっている。適度に患部に触れられ、確認をされた。
「折れてはいないようです。念の為、シップを出しておきましょう」
 ついでですので、と言って医者は一般的な診察を行い始めた。その時に名札がちらりと七桜の目に入る。そこには『院長』の文字。この大病院の院長!?と七桜は内心穏やかではない。
「おや?」
 スッと医者が七桜の横髪をよけた。その動作に七桜は体を強張らせる。
「殴られたのは顔ですか」
 どうやら医者の目は誤魔化せなかったらしい。どこを殴られてというのは何も説明をしていないし、頬は目につきやすいからと冷やして痣にならないようにしたのにもかかわらず。
「え、顔殴られたの?どこ?」
 医者の言葉にすぐさま反応を返したのは七桜ではなく、斗真だった。医者を押し退けるように七桜の頬に触れる。そして小さく「あ、本当だ、少し青い」と呟いた。
「これ、治る?」
 心配そうに斗真が医者に尋ねる。医者が「骨には異常はないでしょうからすぐに治るかと」と答えた。
 七桜以上に胸を撫で下ろした斗真は隣に設置されたベッドに腰掛ける。医者はそんな彼に小さく頭を下げると七桜の診察を再開した。

「で、何があったの?」
 薬を貰い、家まで送るといって聞かない斗真の車の中で。怖いくらいにまっすぐと尋ねられた。やはり追及されたか、と内心溜息をつきながら、どうオブラートに包んで話をするかと考える。
「僕、お母さんと仲が良くないから。嫌われてるんだ」
「……虐待されてるの?」
「かなあ?」
 誤魔化す様に七桜が言うと斗真は目を細めた。その視線が怖くて何とか言葉を紡ぐ。
「嫌われてるのは、本当。暴力を振るわれるのも本当。でも、たまになんだ。たまに、何かを思い出したかのように喧嘩になって。それで」
「君は反抗しないの?」
「死ぬわけじゃないから」
 そう、死ぬわけじゃない。今回の怪我だって正直久しぶりの怪我だった。いつもの母親は無視をするか小言を言うかのどちらかで。暴力を振るわれたのは偶々だったのだ。そう母親を庇う七桜をやはり斗真は良く思っていないらしい。
「でもそれ、虐待だよね?オレの家においでよ」
 お金ならあるし、とさらっと凄いことを交えながらも斗真が心配したように進言する。そんな彼に七桜は苦笑でもってして返事をしたのだった。
「なんでそんなに……」
 斗真がそっと呟く。その問いに七桜は確かに、と思うのだった。

 案の定、七桜が家へ帰ると母親が目敏く七桜の腕に巻かれた包帯に気が付いた。それを見て忌々し気に彼女は顔を顰める。
「あら、なあに?これ見よがしに病院にでも行ってきたのかしら。大した怪我でもないのに。一体いくら病院代がかかると思っているの?」
 しょうもないことでお金を使ってるんじゃないわよ、と玄関先で罵られる。斗真の前で罵られ、お小言に慣れっこだった七桜も顔面が真っ青になってしまう。いつもならすぐに謝罪の一言二言条件反射のように出てくるのに、この日ばかりは金魚のように口が動くだけ。
「オレが説明するよ」
 見かねた斗真が七桜の前に出るとにこやかに話し始める。
「はじめまして、七桜君の友だち、斗真と言います」
 男女問わず魅了するのその笑顔に、例にもれず七桜の母親も顔を赤らめた。そして、「あら、お友だちも一緒だったの?早く言いなさい」とやけに優しい声で言うのだ。
「七桜君がケガをしていたので、知り合いの病院へ連れ居て行ったんです。勝手をはたらいてすみません。お代はこちらがもちますので」
「え、それは、流石に申し訳ないわ」
 嬉しさ半分疑心半分、といった表情で母親が斗真を見つめる。そんな母親に斗真が近づき、「いえ、ここだけのお話なんですが」とこっそり耳打ちをする。七桜は必死に耳を欹てるが、何の話をしているのか聞き取れない。
「ということで、よろしいですか?」
 斗真がにっこり笑ったのを母親は引き攣った笑みを浮かべながら見ている。
「条件がよろしくなかったですか?」
「あ、いえ、そ、それなら問題ないわ。七桜の事をよろしくね」
 その日を境に、母親はやけに七桜に優しくなり、斗真に媚びを売るようになった。後日、しつこく尋ねる七桜に斗真が渋々教えてくれたことによると、今後の七桜の医療費を斗真が持つ、という話をしたらしい。病院代が浮くこと自体は有難いが、それによって虐待の嫌疑が掛けられるのを母親は危惧し、七桜に手を出さないようにしているらしかった。
「それで……」
「ケガは減ったでしょ?あんまりひどければ、オレの家に避難すればいいしさ」
 斗真の言葉を七桜は複雑な表情で聞いていた。確かに良い母親ではないけれども、それでも母親の人となりが分かることが出来ていた気がしていた。それが今となってはもう、みじんも分からなくなってしまったことに僅かながらショックを受けていたのだった。


*********


 トントン、と綺麗な指が視界の端で動く。七桜はそっと本から視線をあげた。思った通り斗真が前の席に座って微笑んでいた。どうやら進路面談が終わったらしい。少し鼻の赤い彼の様子を見て、やはり図書館の外は寒いのだと思う。
「面談どうだったの?」
「えー、いつも通り、かな」
 にこやかに笑う彼。冬が明ければ、自分たちは受験生になる。そろそろ志望校が決まっていないといけない時期だというのに、自分も斗真も特にここという大学が決まっていなかった。いや、七桜は方向性だけは決まっている。家からできるだけ遠い、且つ奨学金が貰える大学、と。
「ねえ、七桜。ここ、一緒に受けない?」
 斗真がスッとプリントを一枚七桜の前に差し出す。それは、有名な私立の大学のパンフレットだった。誰もが行きたいと願う大学で、そこに入学できれば、卒業後の職探しにも困らない。もし入れるなら七桜としても狙いたい大学ではあった。しかし。
「僕には無理だよ。学費が足りない」
 そう、学費が高いのだ。有名な私立大学というだけあって、他の私立大学よりも金額が上がる。学費が比較的安い公立大学の奨学金を狙っている七桜からすると到底支払えるものではなかった。
「それで、なんだけど。オレの父さんがさ、ぜひ援助させてほしいって」
「え?」
「援助。学費出してくれるって。まあ、君の気が済まないって言うなら、出世払いで帰してくれればいいさ」
 七桜は驚きのあまり本をパタンと閉じてしまう。
「なんで……」
「なんで、って、君が優秀だからに決まってるだろう?正直、君なら余裕でこの大学に入れるって思うんだけど?」
 斗真ができるでしょ?と笑う。なんとも魅力的な話で、七桜は返事を躊躇してしまう。いくら何でも彼に与えられすぎではないだろうか。七桜の帰りが遅くなることへのお詫びとして斗真が用意している土産しかり、何かとプレゼントしてくる物しかり。
「父さんに話したんだ。七桜がエスカレーター組を抑えて、上位に常に入ってること。そしたら、そこまで骨のあるやつはいないって喜んじゃって。だから、承諾してくれると嬉しいな」
 それにさ、と彼は畳みかけるように続ける。「オレも同じ大学だから、二人で部屋を借りれば生活費を浮かせることも出来る。いい話だろ?」そう笑う彼はまさに聖者のよう。
「でも、母さんが許してくれるかどうか……」
 ここにきてどうしても母親の顔がちらついてしまう。そんな七桜に斗真が少しイラついた様子を見せた。
「なんで君の母親が出てくるんだ。どうせ君は彼女から離れるんだろ?ならいいじゃないか。何が不満なのさ」
「ふ、不満はないよ……。ただ、」
 びくつきながら言い淀む七桜に斗真が片眉をあげた。なんとも居心地の悪い気分になりながら七桜はもごもごと言う。
「君にここまでしてもらってるのは、やっぱり悪いかな、って……」
 七桜の言葉に斗真は目を丸くした。そして可笑しそうに肩を揺らしながら笑い始めた。
「なんだ、そんなことか。気にしなくていいよ。君も知ってる通り、オレの家にはお金があるから気にしなくていいし、“人助け”って家の評判に繋がることだからさ。君はリスクのない投資先ってわけ」
 持ちつ持たれつ、ってことだよ、と斗真が七桜の鼻先をつついた。一件落着、と彼は七桜の話を終えてしまい、七桜が彼の家からの融資を受けてこの大学へ受験することに話が進んでいってしまう。
「まだ何か気になる?」
 斗真に尋ねられ、七桜は首を横に振った。もともとこの大学がいいと強い志望があったわけではない。家から離れられて、学費も出してもらえて、そしてその先も約束されている状況で何を躊躇う必要があるのか。七桜は自分を言い聞かせると、彼に言った。
「帰ったら、一応母さんに話してみるよ」
「うん、そうしてくれると助かる」
 帰ろうと声をかけられ、七桜たちは図書館を後にしようと席を立ったところで、ちょうど焦った様に入り口に向かって足早に立ち去る生徒が視界に映る。それは、いつも七桜にちょっかいをかけてくるグループのリーダー格の生徒だった。
「そういえば、あれからどう?」
 ボイスレコーダー、先生に渡したんでしょ?と尋ねられ、七桜は頷いた。
 少し前に、七桜は例のボイスレコーダーを証拠に担任に話をしに行ったのだ。学校の中でも上位に位置する相手にいじめられていると訴えるのはなかなか勇気のいる行為ではあったが、斗真に背中を押され、自身の訴えを告げに言ったのだった。
「とりあえず、ちょっかいは掛けられなくなったよ。まさか、先生がちゃんと対応してくれるなんて思わなかったけど……」
 そう、最初から七桜は期待をしていなかった。その相手の生徒の家は多額の寄付を学校にしている家でもあって、学校側としては極力ことを荒立てたくないのが本音。それが分かっていたから、一担任風情がまともに対応してくれるとは思えなかったのだ。だから、ここまでぴったりと収まるのは少々意外であった。
「そっか。それは良かった。七桜、相談から帰ってきた後も顔色優れなかったから、ちょっと心配だったんだ」
 斗真は安心したように笑うと七桜の唇にチュッとキスをした。
「ちょっ、ここ、図書館……っ」
「大丈夫だって、誰も見てないよ」
 七桜が顔を顰めると斗真はクスクスと笑う。そして七桜の手をとると、今にも走り出しそうな勢いで廊下へと躍り出た。
「手を繋いでたって、誰も気にしないんだから。思い出は多い方がいいじゃん」
 斗真は明るい。最近スキンシップが人目をはばからず増えてきたのは、きっと受験が控えているからだろう。それすらも前向きにとらえて動けるのが彼の良さで、それが周りからも好かれる要因なのだろう。

 いつものごとく斗真の家で勉強と、熱を持った少しばかりの戯れをした後、自宅へと送り届けられた。「また明日ね」そう言って後ろ髪が引かれるように去って行った斗真を見送り、自室に戻ろうと階段へ足を向けた時、母親が「七桜」と呼んだ。
 久しく聞いていなかった母親の声音。それは恐怖と少しの期待を七桜に抱かせる。声が聞こえてきたリビングへ向かうと母親がテーブルを見つめながら座っていた。そこには開けられていない菓子の詰め合わせと、冷めた湯呑が鎮座していた。
「えっと、なに、母さん」
 おどおどと七桜は尋ねる。もしかしてまた殴られてしまうのだろうか、とやはり体がビクついてしまう。
「あの男と一緒に住むそうね」
 あの男?と七桜は首を傾げそうになったが、その後の言葉で斗真の事を指していると理解する。
「あ、うん、斗真が大学生になったら一緒にどうか、って……」
「そう。……七桜はそれでいいわけね?」
「う、うん……。良い奴だし……母さんが許してくれるなら、だけど……」
 珍しく今日はまともに会話ができている気がする。父親が存命していたころに戻った様だった。
「なら、何も言う事はないわ。好きにすればいい。……私もあなたの顔を見ずに済むと思うと助かるわ」
 それっきり母親は口を噤んだ。母親はそれ以上何かを話すつもりもなく、加えて最後の一文は心を突き刺すようなものではあったが、それでも少しでも話せたという事実だけで十分であった。
「……ありがとう。受験、頑張るね」
 七桜はそう言い残すと自室へと戻って行った。


*********


 春。七桜は晴れて大学生になった。真新しいスーツに身を固め、鏡の前でネクタイを締める。
「あれ?あれってどこやったっけ~?」
 斗真がリビングで騒いでいる。開け切っていない段ボールの中をごそごそとしながら何かを探しているようだった。
 無事に大学受験に合格した七桜と斗真は春休みの間に急いで部屋を探した。大学が多い学園都市なだけあって、部屋の数自体は多いが、二人以上が住むという家はなかなか見つからない。ましてや、斗真の家柄を考えると安価なアパートというのも難しかった。
 結果として大学の最寄りから二つほど離れた、商業施設が立ち並ぶ駅の近くに部屋を借りることになり、慌ただしく引っ越しを完了させたのだった。
 リビングに部屋が三つ。それぞれの自室と、二人が自由に使える部屋というなの物置部屋。「オートロック付き、防音完備、ま、とりあえずは十分だよね」というのが斗真の言葉。それを聞いた時、家柄の違いを改めて実感したものだった。
「あった、あった!」
 どうやら探していたのはネクタイだったらしい。少ししわくちゃになったネクタイをさっさっと巻く姿はきっと世の女子を虜にするくらい決まっていた。
「どう?似合う?」
「似合ってると思う」
 七桜の返事に斗真は満足げに頷くとカバンと鍵を手に取った。
「さ、行こう!」
 家を出て駅へ向かう。同じように真新しいスーツを着た学生や社会人、制服に身を包んだ高校生が賑やかに通り過ぎていく。七桜は深呼吸を一つして新しい日々に一歩踏み出した。


*********


 足取り軽く歩く同級生を斗真は愛おし気に見つめていた。あの家から、あの学校から、閉鎖された空間から飛び出た彼は、空を知ったばかりの鳥のよう。黒髪から自分と同じシャンプーの香りが流れてきて、彼と自分が同棲しているのだという事実に心が擽られる。まあ、彼本人は未だにただのルームシェアだと思っているのだろうけれど。

 クラスの隅で縮こまった状態でいた七桜を見つけた時、斗真は運命に出会ったと思った。彼こそが自分の愛を受け止めてくる存在であると。斗真はすぐさま彼に近づいた。まずは友達から始めなくては。
 人当たりのいい斗真はすぐにクラスメイトから友達へと昇格した。その頃には斗真は七桜にすっかり魅了されていた。七桜はとても魅力的な人間だったのだ。その容姿は守ってあげたいほどに可愛らしく、笑った顔は可憐で。そして、とても思慮深く、彼との会話は斗真の何もかもを満たしてくれる。
 ある日、七桜がクラスメイト数人からいじめを受けていることに気が付いた。腸が煮えくり返る思いだった。彼の魅力に他の誰かも気が付いた、と気づいてしまったから。斗真以外の人間が、七桜へプラスの感情を向けることはもちろん、マイナスの感情を向けることも斗真にとっては許せないことだったのだ。
 しかし、これはある意味チャンスでもあった。影で親の力を使ってクラスメイトを消すことは簡単ではあったが、そうはせず、有意義に活用させてもらうことにした。そのせいで七桜に痛い思いを余分にさせてしまったことは斗真にとってとてつもなく心苦しい事ではあったが、これも二人の為、歯を食いしばって堪えたのだ。

「ま、最後はオレが消しちゃったんだけど」
「ん?斗真、何か言った?」
「何でもないよ」
 つい口に出してしまったのを慌てて誤魔化す。斗真の笑顔に隣で電車を待つ七桜は何も疑問を感じなかったようだ。ホッと胸を撫で下ろす。
 そう、愛おしいこの子の勘の良さが少しばかり厄介なところではあるけれど、それもそれ、斗真の楽しみの一つでしかない。流石に大学の学費の話をした時の反応には焦ってしまったが。
 母親から虐待を受けていたのは、部下に調べさせたから彼を病院に連れて行く前から知っていた。その母親が父親の他界後、息子に黙って精神科に通っていることも調べ済みだった。薬があれば上手く息子を愛せるが、まともに病院にも通えなかった結果が、虐待だったのだろう。
 この事実は斗真にとって七桜から母親から引き離すチャンスだった。しかし、七桜は母親が自分を見てくれていた時のことを良く覚えていた。そこに情が残る限り七桜は独りにならない。だから、母親から七桜を手放す様に仕向けたのだ。
 少しの脅しと医療費で母親は斗真に従った。そして、“七桜を幸せにするため”と思い込ませ、この大学生活も了承させた。あともう少しで、全て手に入る。
「あれ、斗真、スマホ鳴ってない?」
 七桜が斗真の腕を叩く。言われてポケットへ手を突っ込めば、スマホが振動していた。表示された名前に顔を顰めてしまう。入学式の会場はもう目の前だというのに。かといって無視をすると後で面倒なことになる。
「先行って席とってるよ」
 気を遣った七桜が咲きに行ってしまい、斗真は電話に出ざるを得なくなった。
「もしもし、父さん?」
 不機嫌をひっこめた声音で斗真は尋ねる。どうやらこちらの状況を確認したいようだった。自分の信用の無さに笑うしかない。
「大丈夫だって。約束は守るし、ちゃんとやるよ。……え?あの子?ああ、うん、そっちも大丈夫。ふっ、それじゃあ、ダメだよ、父さん。今はまだ仮初の自由を謳歌して貰う必要があるんだ」
 スマホを切ると斗真は七桜の待つ席へと向かった。



 昔から、人と異なるものが好きだった。異なるもの、正確に言えば、全員が好まないものが好きだった。誰かと好きが被ることが嫌だった。
 幼稚園の時、周りの多くの子が赤や青が好きと言い、次点で緑や紫が好きと言っていていた中で、自分はいつも茶色を選んでいた。茶色のクレヨンを大事に大事に、折れないように使ったのはいい思い出だ。
 皆が好むものは嫌いだ。独り占めできないから。隅でひっそりとしているものが好きだ。自分が愛してあげられるから。惜しみなく愛を注ぎ、大事に大事にできる。誰にもとられることが無いように。

「父さん、父さんの希望通りの道に進んでもいいよ」
 月に数回の父親との面会。斗真は目の前に座る父に言う。
「その代り、欲しいものがあるんだ。その手伝いをして欲しい」
 父親が昔から斗真にこの家の跡取りになって欲しいと考えていたのは知っていた。ただ、斗真には欠けているものがあった。それは父親も自分も知っているもの。それさえ埋められれば、斗真は完璧な跡取りになる。その為であれば、父親は何でもした。
「わかった。いいだろう」
 その返答に斗真は笑った。
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登場人物紹介

甲斐 七桜(かい なお)と西院 斗真(さいいん とうま)の二人の高校生の話。

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