前編
文字数 4,384文字
「本を返してください」
後ろからその声が聞こえたのは、篠田菜々美が1日の業務を終えてパソコンをシャットダウンさせた瞬間だった。菜々美は驚いて振り返る。視線の先には後輩の津山彩夏が立っていて、無表情にこちらを見下ろしていた。
「どうしたの、津山さん。本って何の話? 」
「この前貸した、文庫本ですよ。篠田さん、貸してって言ったじゃないですか」
彩夏は本のタイトルも口にしたが、まったく記憶にない。菜々美は最近、電子書籍ばかり利用しているため紙媒体の本はほとんど持っていなかった。だいたい、彩夏とは物を貸し借りするほど親しい間柄ではない。少なくとも、菜々美はそう認識していた。
「私は文庫本なんて借りてないよ。津山さんの勘違いじゃない? 」
「ひどいです。どうして嘘つくんですか」
思ったよりも強い口調で彩夏が言い返してきたので、菜々美は怯んだ。彩夏はどちらかといえばおとなしくて、仕事も黙々とこなすタイプだ。まだ入社したばかりの20代だが、落ち着いた穏やかな雰囲気を持っているので、みんなから好かれている。そんな彼女がこんな風に厳しい口調で誰かを非難している姿は見たことがなかった。菜々美は改めて真剣に彩夏と向き合う。
「それ、いつの話? 」
「先月の第1月曜日です。私が休憩室で本を読んでたら、面白そうだから読み終わったら貸してって、篠田さんが言ったじゃないですか」
想像以上に具体的な説明をされたので、菜々美は面食らった。だが、残念ながらそれは彩夏の勘違いだ。彩夏とそんな会話をしたなら覚えているはずだし、何より、彩夏が口にした本のタイトルを菜々美は一度も聞いたことがない。
「ごめん。何か勘違いしてるみたいだけど、私じゃないよ。他を当たって」
菜々美はできる限り申し訳なさそうな表情を作りながら否定し、彩夏を振り切るようにしてオフィスを出る。この話はこれで終わったと思っていた。実際、家に辿り着く頃には、菜々美は彩夏との会話をすっかり忘れていた。
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「篠田さん。昨日の話ですけど、」
翌朝、菜々美が出勤すると始業前のオフィスで津山彩夏が再び声をかけてきた。なんの話か本気でわからずに、菜々美は首を傾げる。
「え? 昨日の話? 」
「本です。返してください」
驚いた。その話はまだ続いていたのか。彩夏は真剣な眼差しでこちらを睨んでくる。普段は穏やかな彼女にこんな表情を向けられること自体、かなりのストレスだ。
「昨日も話したでしょ。本は借りてないよ。記憶にないの」
「でも、確かに篠田さんに貸しました」
埒が明かない。彩夏は本を貸したと思い込んでいる。否定しても信じてくれそうにない。
「そこまで言うなら探してみるけど、私は借りてないよ。津山さん、他の人にも聞いてみた? 」
「いいえ、絶対に篠田さんに貸しました。返してください」
彩夏がこんなに強い物言いができるなんて知らなかった。驚くと同時に、菜々美は動揺した。本を借りた記憶は無いが、借りていないという証拠も提示できない。
その日、帰宅してから本がありそうな場所を一通り探してはみた。だが、やはり本は見つからなかった。
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それから毎日、津山彩夏は声をかけてくるようになった。話の内容はほとんど同じだ。「本を返してください。間違いなく篠田さんに貸しました」と。そして、菜々美も同じような言葉を返すことしかできない。「借りてないよ。津山さんの勘違いだよ」と。
菜々美はさほど深刻に考えていなかった。何度も否定していれば、そのうち彩夏は諦めてくれるだろうと思っていた。しかし……、
「篠田さん。本を返してください」
「いい加減にして」
その日、菜々美は強い口調で言い返してしまった。借りてもいない本の返却を毎日求められて、もう1週間以上が経つ。そのうち諦めるだろうと思っていたが、彩夏は今や、朝の挨拶の代わりに「本を返してください」と言ってくるようになっていた。
菜々美は次第にイライラし始めていた。彩夏が本を大切にする気持ちはわかる。菜々美自身も、学生時代に漫画本を借りパクされて怒った記憶があるからだ。わかるからこそ我慢していた。だが、彩夏は菜々美の言い分を少しも聞き入れようとせず一方的に責めてくる。しかも、彩夏は他の社員には本を借りたかどうか確認している様子がない。菜々美が本を借りパクしていると決めつけ、まるで犯人扱いだ。そのことにも、菜々美は腹が立っていた。
「いつまで疑ってるの。借りてないって言ってるでしょ。他の社員には確認してみたの? 私に貸したって決めつけてるみたいだけど、他の人かもしれないじゃない」
菜々美が強めに反論すると、彩夏は唇をきゅっ…と引き結んだ。悲しげな表情だ。儚くて守ってあげたくなる雰囲気。彩夏はいつもそういう雰囲気を持っている。
「本って借りても返さない人が多いんですよね。私、そういう人が許せないんです。たかが本じゃないかって、篠田さんも思ってるんでしょう? 私にとってはすごく大事なんです。お金よりもずっと」
俯きがちに彩夏は切々と訴えてきた。態度と表情こそしおらしいが、彩夏の言葉には強い信念が感じられる。
「ひょっとして、間違えて捨てたんですか? だったら正直にそう言ってください」
会話が噛み合っていない。目眩がしてきた。
これはハラスメントなのだろうか。でも、「本を返してくれ」と言われ続けるハラスメントなんて聞いたことがない。というか、彩夏は本を返してもらえないと本気で信じているみたいだから、彼女の方こそハラスメントを訴えてきそうだ。
「謝ってください」
彩夏の要求に、流石に菜々美は呆れた。バカバカしい。どうして私が謝らないといけないんだ。借りてもいない本のために謝罪するなんて。
「思い出が詰まっているとても大事な本だったんですよ」
彩夏は今にも泣き出してしまいそうだった。彩夏の切実な表情とは裏腹に、菜々美の感情は冷ややかになっていく。そんなに大切な本なら、どうして貸したんだ。いや、借りてないけど。
「そんなに疑うなら、私の家まで来て気が済むまで本を探せばいいでしょ。私は借りてないんだから」
深く考えずに菜々美はそう言っていた。彩夏は完全に黙り込む。少し口調がきつかったかもしれないと反省したが、こちらも我慢の限界だ。いつまでも本の貸し借りの話題なんかで時間を取られたくない。しかも、借りていないのに。
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「篠田さん。彩夏ちゃんに本は返してあげたの? 」
翌朝、オフィスでそう声をかけてきたのが先輩社員の佐野玲子だったので、菜々美は自分の耳を疑った。佐野さんには入社当初からとてもお世話になっていて、社内でも信頼が置ける先輩だ。その先輩が、津山彩夏の本について話している。
「彩夏ちゃんにちょっと相談されたのよ。篠田さんが本を返してくれないって。彩夏ちゃん、ずいぶん悩んでたみたいだから気になったの。ひょっとして揉めてる? 」
信じられない。まさか仕事に無関係な悩み事を佐野先輩に相談するなんて。けれど、彩夏ならあり得る。彩夏が困った表情を浮かべていると「どうしたの? 」と思わず声をかけてしまう。守ってあげたくなる雰囲気。
「揉めてません。私、本なんか借りてないんです。私も困ってるんですよ」
菜々美は慌てて否定した。彩夏が佐野先輩に相談したなら、私だって同じことをしてもいいはず。入社当初から何かと世話を焼いてくれた佐野先輩は菜々美の憧れで、佐野先輩に気にかけてもらえる彩夏が少し羨ましくもあった。佐野先輩と仲良くなりたいという気持ちはあるのだが、菜々美は職場でプライベートな話をするのが苦手だった。
「そうなの? でも、彩夏ちゃんは間違いなく貸したって言ってたわよ」
「それは……津山さんの勘違いです」
そう答えながらも、菜々美は不安になってきた。……私、本当に借りてないよね? あまりにも毎日言われるから自信がなくなってきた。しかも、彩夏だけではなく佐野先輩にまで。
そもそも、借りていないと断言した理由は何だろう。電子書籍を利用しているから。借りた記憶がないから。それだけだ。
電子書籍を利用していても、文庫本を借りることはじゅうぶんあり得る。どうしよう。不安になってきた。
「とにかく、もう一度探してみて? 彩夏ちゃんは絶対に貸したって言ってたから」
それだけ言い残して佐野先輩は去って行った。菜々美は呆然とその場に立ち尽くす。不安が募っていた。
記憶が曖昧な部分を他人から断定されると不安になる。「そんなはずない」と自分の中では否定するのに、他人から自信を持って指摘され続けると揺らいでしまう。どうして彩夏は、あんなにも自信満々なんだろう。佐野先輩まで巻き込んで。ひょっとして、間違っているのは自分なのか。彩夏が正しいのだろうか……。
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「どうしたんだ、菜々美。こんなに散らかして」
帰宅した夫が驚きの声を上げるまで、菜々美は自分が部屋を散らかしていることに気が付かなかった。我に返って周囲を見渡すと、家の中は強盗が侵入した直後みたいに物が散乱している。
「いったい何やってるんだ」
「その……本を探してて」
夫の声に答えながらも、菜々美は自分が何をしているのかよくわからなくなってきた。
今日、職場で先輩の佐野玲子が津山彩夏の味方をしたことが、菜々美を余計に追い詰めていた。
本を借りていないと思っていたけれど、実は勘違いしているのは自分の方なのではないか。本当は彩夏から本を借りたのではないか。もしそうなら、早く返さなければ。彩夏に謝らなければ。そう考えながら家の中をひっくり返すようにして本を探していたのだ。
「本って何のことだ? 大切な本なのか? 」
夫が心配そうな声で問いかけてきたので、菜々美は事情を説明する。彩夏との間に起きたことを説明しながらも、夫がどんな反応するか怖かった。軽蔑されてしまうのではないか。本を借りたかどうか覚えていないなんて無責任だ。相手にすぐ謝るべきだ、と。
「は? なんだそれ。そんなことで追い詰められるなんて、ちょっと考えすぎだぞ。疲れてるんじゃないか。大丈夫だから、今日はもう休んだらどうだ」
驚いたことに、夫は菜々美の話を軽快に笑い飛ばした。そのあっけらかんとした態度に、菜々美は肩の力が抜けていく。我に返った気分だった。
確かにそうだ。オフィスという限られた空間の中で起きた出来事だったせいか、視野が狭くなっていた。しかし、外の世界に居る夫から見れば笑い飛ばせてしまうことなのだ。本の貸し借り。ただそれだけ。
「菜々美は気にしすぎる性格だからな。そんな性格だとストレス溜まるだろ」
笑いながら夫が言ったので少しムッとしたが、事実でもあったので言い返せなかった。人の言葉を気にして気持ちが左右されすぎるのは、菜々美の悪い癖だった。
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