ジェットコースター・ハイプ 

文字数 12,990文字





 中学高時代の修学旅行に、特別な思い出がある人は多いのでは無いだろうか?
 中学生とは、小学生ほど子供すぎず、高校生ほど大人すぎない思春期真っ盛り……感性的にも絶妙な年齢だ。
 といっても、僕は思春期真っ盛りながら親に反抗したことは無かったし、むしろ落ち着いていたけどね。
 親に「大人になってから暴れ出すんじゃないか」と心配されたくらいだ。
 まあ、そんなことは今はどうでもいいか。
 
 続きを話そう。
 
 僕が修学旅行に行く日が迫ると、偶然家に訪れた親や親戚の大人達も、中学時代での修学旅行は特別に思い入れがあると語り、その時を思い出してるのか感傷に浸っていた。
 それを見て、自分も大人になれば親や親戚の大人達のように感傷に浸るようになるのか——と、期日が迫るたびに淡い期待感に胸を膨らませていた。

 自身の生徒手帳にポエムじみた、小説じみたとも言える、ヘンテコな修学旅行の思いを綴る位には、だ。
 
 しかし、まあ……そんな期待を抱いていたのは、後々になって、大きな間違いだった事に気づいた。
 僕が体験することになるのは、想像もつかないような出来事だった。
 僕は待ち焦がれていた修学旅行において、別ベクトルでの〝特別な体験〟をする事になった。






ΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔ

 場所は京都、二日目の観光地の散策。
 ふらりと足を踏み入れた土産屋で、目に入った木刀を買うか買わないか。
 そんなくだらない会話で同じグループの友人達と盛り上がっていた。
 そんな予定にない行動を繰り返したせいか、バス乗り場での集合時間も差し迫っていた。
 これはマズいな……。 
 そう思った僕たちは、慌ててバタバタと集合場所に小走りで移動していた。

 そんな時だった。
 ふと僕が小走りしながら視界の端に写った影を見やると——人気の無い路地裏に倒れている人が目に入った。

「うわ、人が倒れてる!」

 僕が声を上げると、同グループの友人達はキョトンとした表情を浮かべていた。
 実際に裏路地に入り、倒れている人物を指すと、友人達は興味深げに近づいてきた。
 倒れている人物はどうやら年配の女性で、少し息を荒らげながらうずくまっていた。
 
「大丈夫ですか?」

 声をかけても、返答は無かった。
 かなり、具合が悪い様だ。

「誰か大人の人呼ぶ?」
 
 僕がそう口にしても、友人達は顔を見合わせるだけだった。
 僕は薄情な友人達に憤り、というよりかは驚いた。
 僕は慌てて裏路地を出て、道ゆく通行人に話しかける。
 
「すみません、あの……」

 最初の通行人には無視をされた。
 次は英語を話している外国人だったのでスルー。
 二人目からは睨まれ、少し萎縮した。

「すみませーん! 人が倒れていて!」
 
 その場で大きな声で呼びかけをしてみる。
 すると、通り過ぎ様の大学生くらいの男の人が携帯に目を映しながら——。

「救急車呼べば?」
 
 そう口にした。
 薄情な捨て台詞だったが、僕はハッとして懐から携帯を取り出す。
 初めて119のコールナンバーを押したので、状況も相まってテンパっていたのか、体がプルプルと震えていた。
 ツーコール目が鳴る間も無く、コールセンターへと繋がった。

『119番救急です、火事ですか? 救急ですか?』
「あっ、えっと、人が倒れてて」
『救急ですか?』
「あ、はい、そうです」

 その後、テンパリながらもなんとか状況と場所を伝えると、救急の人からはその場で待機しておく様に言われた。
 観光地であるため、救急隊員を見つけたら呼び込んで欲しいそうだ。
 僕は了承し、電話を切って友人達へと振り返った。
 すると——。

「なあ、もう行かね?」
「うん、救急車呼んだし、もういいっしょ」
「マジで遅れるよ」

 僕が、コールセンターからその場で待機している様に言われたことを伝えると、友人の一人が——。

「はあ……」

 確かに、聞こえる様にため息を吐いたのを耳にした。 
 友人のあまりの薄情さに、僕はなんだか失望よりも恐怖心を湧いたのを覚えている。
 これは正しいことでは無いのか?
 人命よりも集合場所を優先するのか?
 何でそんなに自分本位なのか?
 様々な言葉が心中に浮かんでは消えを繰り返し、気づけば僕は諦めていた。
 正しいことをしたつもりだったのに、その時の僕は、確かにグループで厄介者のように扱われているのを感じとっていた。

「……僕が残るからさ、皆んなは先に行きなよ」

 僕がそう口にすると、

「はあ? 全員揃わないとフルタ(生活指導)に言われるだろうが」

 友人の一人に、語気を荒げてそう返された。
 僕が驚いていると。
 
「もう、いいじゃん。先いこうぜ」
 
 他の友人が不機嫌そうな友人を連れてその場から去って行った。
 
「いやいや……おかしいだろ」
 
 僕を擁護する者は一人もいなかったのだ。
 僕は裏路地に背中を預け、崩れ落ちるようにその場に座る。
 人の命が懸かっているのかもしれないのに、あまりにも皆んな他人事だ。
 僕はその時、なんだか間違ったことをした気分になっていた。
 
「ぅ、ぅぅ……」

 年配の女性のうめき声が聞こえ、我に返る。

「大丈夫ですか?」

 その後、年配の女性が震えていてなんだか寒そうだったので、ブレザーの上着を掛けてあげたり、とにかく声をかけ続けた。
 救急隊が到着したのはそれから三十分後の事だった。
 どうやら観光地の為、救急車を乗り入れることが出来なかったようだ。
 汗だくの救急隊員が、
 僕はやってきた救急隊員に見つけた時の状況を出来るだけ説明し、救急車の所まで着いて行った。

「もしかして、修学旅行生?」
「は、はい。そうです」
「そうか、分かった。ありがとう、君のおかげでこの女性は救われたんだよ」

 救急隊員の人に映画のセリフみたいな、月並みな言葉をかけられた。
 少し驚いたけど、僕の心のモヤモヤはそのお陰かちょっとだけ晴れていた。
 救急車が去ってから、僕はブレザーを年配の女性に渡したままの事に気がついた。

「うわあ、マジか……」
 
 しばらく道路上で落ち込んでいると、尻ポケットの携帯がしきりに震えている事に気がついた。
 開いてみると、知らない番号からの着信が何十件も入っていた。

「はい?」
『おいコラァ! 何やってんだお前は!』

 生活指導のフルタ先生の声だった。
 僕が慌てて言葉を吐こうとすると——。

『早く集合場所にこんか! 皆んな待ってるんだぞ!』

 プチッと切れる電話に、僕は愕然とした。
 先に行った友人達は何も伝えてくれていないのだろうか?
 なんだか、世界から存在を否定された気分だった。






ΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔ

 集合場所に行くと、生徒の姿は無く、生活指導のフルタ先生だけが仁王立ちしていた。
 
「おい! 上着は?」
「あの……それが」
「もうええわ! 来い!」 

 近づくと、無言で腕を掴まれ、まるで罪人を連行する様にバスが停車している駐車場まで連れて行かれた。

「早よ入れ!」

 乱暴にバスの出入り口に突き飛ばされ、僕は泣きそうになりながら車内へと足を踏み入れる。
 先に帰って来ていた友人達は僕に対し、見向きもしなかった。
 全員の視線を浴びながら、僕は自分の座席に座った。
 ——その時だった。

「えっ、謝るとか無いんだ」

 クラスで一番にやんちゃな女子が、そんな言葉を吐いていたのだ。
 車内はその言葉が発されて以降、シーンと静まりかえっていた。
 その言葉は、クラス全員——いや、学年全員の総意のように聞こえた。
 
 その後、僕は何故集合場所に遅れたのかを一度も聞かれることなく、何が何だか分からないまま修学旅行を終えた。









ΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔ


 家に着いた時はホッとしたのを覚えている。
 あの出来事以降、誰とも会話をしていなかった。
 半日間声帯を使わなかっただけで、ひどく衰えたような錯覚を覚えていた。

「ただいま」

 玄関を開けると、両親や妹から頼まれていたお土産を購入することを忘れていたことに気がついた。 
 預けられていたお金を母親に渡すと、母親はさして何も言うわけでも無く、神妙な面持ちでそれを受け取っていた。
 妹からは文句を言われたが、尋常じゃ無い様子の僕を見て、途中から何も言わなくなった。
 
 次の日は勿論、学校を休んだ。
 次の日も、その次の日もだ。
 学校を休む度に、僕の心は脆くなっていっていくような気がして、怖かった。
 両親はそんな僕に、決して何も言わなかった。

 いたたまれなくなった僕は、学校を休んだ四日目の夜に、両親に修学旅行の出来事を打ち明けた。
 母親は暫く黙っていて、父親は静かに体を震わせていた。

「お前……凄いな」
「え?」
「お前は俺の誇りだ」
 
 父親はそう言って、僕の肩を強く叩いた後に、冷蔵庫から二つのグラスと、キンキンに冷えたビールを持ってきた。
 父親は僕の前にグラスを置き、ビールを注ぐ。

「今日は飲もう」
「……え? 何言ってんの?」
「お前はもう大人だ。俺が認めた。飲もう」

 その無茶苦茶な言葉に、僕は思わず涙をこぼしながら笑みが零れた。
 いつもは父親の突飛な言動や行動に異議を唱える母親も、その日は何故か何も言わなかった。
 それどころか簡単なモノでおつまみを用意してくれた。

 酒に酔って支離滅裂な言葉を吐き出す父親。
 「あーずるい!」と僕のビールを飲もうとする妹。
 「○○も兄ちゃんみたいに大人になったらね」とたしなめる母親。
 ビールの味はものすごく苦かったけど、おつまみはしょっぱくて、視界がぼやけて……もの凄く美味しかった。

 次の日の朝、僕の心は物語みたいに晴れやかになっていたり、強くなっていた訳ではなかった。
 だけど、学校には絶対に行くことに決めていた。
 制服に着替えて、居間へと向かう。
 父親は二日酔いの顔をしながら、嬉しそうに僕の肩を叩いて出勤していった。
 
「行ってらっしゃい」

 母親の言葉を背に、僕は学校へと向かった。
 玄関の扉に手をかけるとき、自転車のハンドルを握るとき、学校の下駄箱を開けるとき。
 常に僕は悪意に晒されている気がして、ならなかった。
 だけど、負けたくは無かった。
 昨日のマズイお酒を飲んだ自分が、その時の絶対的な決意が、僕をそうさせていたのだ。
 
 
 
 
 




ΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔ

 
 クラスではやはり、誰とも話すことは無かった。
 全員がこちらに視線を寄せては、クスクスと笑っている様な気がした。
 僕は人生で、生まれて初めてこんな経験をしていた。
  
 自分がこんな状況になるなんて、思いもよらなかった。
 だけど、構いやしなかった。
 僕は彼らの悪意の為に生きている訳ではない。
 大事な家族の為に生きているのだ。

 何度そう……脳裏に反芻させただろうか?
 午前の授業が終わり、給食の時間が来て、昼休みとなった。
 昼休みはいつも僕の席で集まって友人達と話していた。
 だけど、彼らは僕など見えいないようで、窓際で談笑をしていた。
 僕はただ黒板を眺め、時間が過ぎ去るのを待っていた。

 その時——とある放送が鳴った。

『二年B組、○○。二年B組、○○。至急、職員室にきなさい』

 呼びだれたのは僕の名前だった。
 生活指導のフルタ先生の声だった。
 クラス内の喧噪が一瞬にして止む。
 ……四日も休んだからそのことで何か言われるのかな?

 そんな事を思いながら職員室へと向かった。

 



 



ΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔ


 職員室に入ると、ニコニコと笑っているフルタ先生が手招きしていた。
 こんな表情は初めて見るので、僕は不気味に思いながら先生に近寄っていく。
 フルタ先生は、僕が近づくなり、調子よくこんな事を言い出した。

「聞いたぞ、○○! お前あの修学旅行の時にお婆さんを助けていたそうじゃないか! ご本人から連絡があってな、一度会ってお礼がしたいと。それでな、その時に借りたブレザーも一緒にお返ししたい、とおっしゃてるぞ」

 僕はその時、目の前にいる男に嫌悪感を抱いているのを感じていた。
 フルタ先生は僕が遅刻した理由も聞かず、怒鳴りつけてきた人間だ。
 それがこんな調子よく喋っている。
 ムカムカと腹が立ってきた。

「それでいつが空いてるんだ? 向こうはいつでも空いてるそうだぞ?」 
「必要ありません、断ってください」

 僕がそう口にすると、フルタ先生は不思議そうな顔をしていた。

「どうしてだ?」
「その人のせいで僕! クラス中からハブられてますから!」

 生まれて来て、一番に出した大きな声だった。
 職員室中の視線が僕へと向かう。
 フルタ先生は挙をつかれたようで、呆然とした後——。

「……すまん、詳しく聞かせてくれないか?」

 そう言って、椅子を持ってきて僕を目の前に座らせた。
 僕はあの日合った出来事を洗いざらい白状し、先生に対する恨み節も口にした。
 フルタ先生は全てを聞き終わると——「本当にすまなかった!」と、深々と頭を下げた。

「お前の一緒の班の連中からは……お前が土産屋で突然姿が見えなくなったと言っていたんだ。だから仕方なくバスに戻ってきた、と。俺はてっきり、この話を聞いてお前が自分本位に行動したモノだとばかり思っていた。だけど、実際は違ったんだな……話も聞かずに本当に申し訳なかった」

 その言葉を聞いて、僕は愕然としていた。
 僕の友人達は……自分たちの保身の為に、嘘をついていたのだ。

「今日、午後の時間で学年集会を開かせてくれ。そこで、改めて○○に俺が謝らせてもらって、その時本当は何があったのかの話をしたい。○○はそれでも……大丈夫かな?」

 フルタ先生は「大変不誠実な真似をした」と、僕の親にも謝りに行くと言っていた。
 僕はフルタ先生の言動を聞いていて、本当はこの人は誠実な人なのでは無いかと思った。
 その後、フルタ先生は言葉通り、学年集会を開いて、まず僕に対して「申し訳無かった」と謝罪した。
 そして、本当は何があったのかの説明を行った。
 その日以降、僕への悪意の視線は無くなった。
 アメコミ映画の、バカな市民みたいな手のひら返しだった。

 逆に僕の()友人達の風当たりはもの凄く強くなった。 
 許しを請うためか何度か僕に近づいてきたけど、絶対に許しはしなかった。
 
 因みに、年配の女性のお礼については暫く考える時間を貰い、その後了承した。
 フルタ先生が年配の女性に再び連絡を入れ、場所を聞いて、自分の車で送ってくれることになった。
 日曜日にフルタ先生がお詫びの品を持って家までやってきて、僕の両親に何度も頭を下げた後、僕を私有車に乗せて出発した。
 その頃には僕はフルタ先生に対し、学校の中では一番位の好感を抱いていた。


 
  






ΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔ
 

「ここみたいだな」

 到着したのは古風な喫茶店だった。 
 車を降り、フルタ先生と二人、喫茶店のカランカランッという侵入の合図を鳴らした。 
 いらっしゃいませ、は聞こえてこず、僕らはとりあえず店内を見回した。
 すると、一番奥の席で立ち上がって、こちらへと頭を下げる年配の女性の姿が見えた。 
 僕らが近づいていくと、年配の女性は柔らかな笑みを浮かべながら口を開いた。

「お礼をさせてもらう立場で、わざわざ足を運んでもらって大変申し訳ありません」
「いえいえ……そんな」
「これはあのとき貸して頂いたお召し物です。どうもありがとうございました」

 僕はそれから、何度もお礼の言葉を述べる年配の女性から、紙袋に入ったクリーニング済みのブレザーの上着と、何やら高級そうなお菓子を頂いた。
 これでお礼は終わりかと思いきや……年配の女性は斜め上をいく、こんな言葉を吐いたのだ。

「○○様と少しお話がしたいと思いまして……」

 そう言って年配の女性は、フルタ先生へと視線を寄せた。
 フルタ先生は少し呆気にとられた後、

「あ、ああ……外しましょうか?」

 そう口を開いた。
 フルタ先生がそう口にすると、年配の女性は柔らかな笑みで頭を下げた。
 フルタ先生は立ち上がり、

「○○、車で待っているよ。時間は気にしなくていい。それでは」

 そう言って頭を下げて去って行ってしまった。
 僕は若干怪訝な表情で年配の女性を見ていたと思う。
 なぜなら、わざわざフルタ先生の席を外させてまでする話があるとは思わなかったからだ。 
 年配の女性は穏やかな表情のまま、口を開いた。

「○○様は小説家志望なのですか?」

 僕は言葉の意味が分からず、首を捻っていた。

「どういうことですか?」
「大変失礼だとは思いましたが、お礼を、と思った時、ブレザーの生徒手帳の学校の住所を拝見させていただきました。その時、ちらっと文章が見えたもので……」

 僕は尚も意味が分からず……必死に何の事だろうと考えていた。
 考えても答えがでず、クリーニング済みのブレザーの紙袋に一緒に入っていた手帳を開いて見る。
 するとそこには——。
 瞬時に僕の顔が赤くなった。
 それは、僕が修学旅行に行く前、したためていた恥ずかしいポエムとも小説ともいえる文章が記載されていたからだ。
 僕は何と言い訳をしようか頭を捻っていると——。

「もし、そうだとしたら一つ、私の話を、と思いまして」

 僕はその言葉を聞いて、固まっていた。
 
「どういう、ことでしょうか?」
 
 年配の女性はふんわりとした笑みでそれに答えた。

「私は人が聞いたら、誰もがバカだと口を揃えて言うような愚かな人生を歩んできました。これは、その愚かさ故に、誰にも話したことはありません。ですが、私の愚かな半生の話で、○○様の創作のお手伝いの一つになったら、と思いまして」

 僕はこの時、言い様の知れない、電流が流れるようなゾクッとしたものを感じていた。
 その正体は恐らく〝好奇心〟というものだろう。
 猫をも殺すソレを感じたのは、現代社会に生まれ、情報に塗れた社会を生きてきた中では、恐らく初めての事だったかもしれない。
 気づけば僕は不謹慎ながら、その女性の〝愚かな半生〟というものに興味を引かれていた。 

「……お聞かせ願いたいです」

 僕がそう口にすると、年配の女性に気を取られていた為か、いつの間にか目の前にはアイスコーヒーが置かれていた。
 氷のガチャンッと落ちる音と共に、年配の女性は語り出した。
 その衝撃的な半生を。

 

  
 

 

 
  
 
 

ΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔ



 及川フミは生まれながらにして、その顔立ちの良さから親戚一同に限らず、周囲から美人だともてはやされていた。
 それは成長し、ある程度自意識を持つようになってから、自分でも実感していて、彼女は少し天狗になっていた。
 そんな彼女は小学校にあがると同時に、大いにモテ始めた。
 告白をされてはフリ、を何度も繰り返した。 
 中学校に上がれば、噂が噂を呼び、どんな美人かと遠方から学生が見に来る程だったいう。
 
 そんなフミには共に成長してきた、幼馴染みの男がいた。
 その幼馴染みはケンカもめっぽう強く、フミに乱暴をしようとした教師をとっちめた事があったほどだ。
 その幼馴染みは顔は普通だが、フミに対して紳士的で、何かと困ったことがあれば必ず身を挺して助けてくれた。

 そんな幼馴染みにフミは好感を持っていた。
 いずれ、この人と一緒になるのだろう——そんな事まで思っていた。
 フミはよく気のあるフリをして、幼馴染みをからかっていたのだという。
 幼馴染みはフミの事が好きなようで、何度もアタックをかけてきていた。
 フミは「もっと格好いい告白してきたらOKしたげる」と言って、幼馴染みをからかい続けた。

 しかし、それは高校に入ってから一変した。
 フミに好きな人が出来たのだ。
 それは入学した高校でも、一番の美男子だと言われている先輩だった。
 フミはその人を一目見たときから恋に落ち、彼と付き合いたいと考えるようになった。

 そうして幼馴染みは袖にするようになった。
 それでもへこたれない幼馴染み。
 それを最早面倒に思い始めている時だった。
 先輩は同学年のマドンナとされている女性と付き合い始めた。

 ショックを受けたフミは、幼馴染みの告白を受け入れ、半ばヤケクソ気味に付き合い始めた。
 その時のフミは、人生で一番に自分勝手だったいう。
 幼馴染みに対し、「私に触れないでね」「○○を買ってきて」「距離を開けるようにして」と、恋人となってから、彼に対し当たるように振る舞った。
 それを幼馴染みは文句も言わず、受け入れていた。

 「君と一緒にいれるなら」と、どんな要求も軽く呑んでしまった。
 それは次第にエスカレートしていき、遂には姉の耳にもそれが入るようになった。

「アナタはあんな素敵な男性を奴隷のように扱って……何様なの?」

 姉にそう言われ、ショックを受けたフミはようやく我に返り、幼馴染みに謝罪し、まともに交際をスタートさせた。 
 それからは普通に楽しい日々を送ったという。
 二人して様々な所に遊びに行き、色々なことについて話した。
 やがてそれは、将来のことにまで発展し、二人は学生ながら結婚をも視野に入れていた程だ。
 そんな二人は肉体関係は無く、清い交際を続けていた。  
 
 そうして二人は仲良く同じ大学へと進学。
 同じ会社に入社し、営業部と経理部で社内恋愛を続けていた。
 しかし、思いもよらぬ事態が起こった。
 その会社の営業部に、かつて自分が恋心を抱いていた先輩がいたのだ。

 しかも先輩は自分に対し、アプローチをかけてきていた。
 フミは必死に理性を働かせ、思いとどまっていた。
 しかし、先輩はそれが気に食わなかったらしい。
 自分の後輩であるフミの幼馴染みを執拗に攻撃し始めた。

「あの時はケンカの強かったお前にびびって、及川に手は出せなかったが、社会に出た今じゃ立場は俺のが上だ。奴隷みたくこき扱ってやるよ」 

 そう言って、先輩は幼馴染みの悪評を会社中に触れ込んでいた。
 フミの幼馴染みは手柄をかすめ取られ、ミスをなすりつけられ、それでもへこたれなかった。
 会社は先輩による工作により、先輩を有能、幼馴染みを無能と捉えるようになったという。

 それはフミの耳にも入り、その頃から優秀な先輩と、無能な幼馴染みとを天秤にかけるようになった。
 それでも幼馴染みとの交際は続けていた。
 彼との生活は、嫌なことを忘れられるくらいに楽しかったのだ。
 彼はフミの為に様々なサプライズを用意していたのだという。

 誕生日には大きなケーキとプレゼント。
 記念日には美しい花束。
 何も無い毎日ですら笑わせてくれた。 
 
 当時からすれば、こんな男性は珍しかった。
 だが、フミはその時知らなかったのだ。
 幼馴染みが特別な男性であることを。

 会社にいれば、皆が幼馴染みを無能と影で悪口を言っている。
 そうしてフミは、次第に心が苦しくなっていた。
 
 そんなある日だった。
 有能だとされていた先輩が、突然異動になると噂が流れたのだ。
 様々な憶測が流れる中、先輩はフミに対して、こんな言葉を投げかけた。

「知ってるぜ。お前、俺の事がずっと好きだったんだろ?」

 先輩はフミの机に、自分の異動先となる住所が書かれた紙を渡してきた。

「あの無能と一緒に暮らし続けるか、俺と一緒になるか、最期のチャンスだ」

 そんな横暴な言葉を吐かれ、フミは苛立った。
 しかし、それでも尚、フミは先輩の事が好きだったのだ。
 その晩、悩みに悩み抜いた末——フミは幼馴染みに対し、残酷な言葉を告げた。

「私……先輩のことがずっと好きで、忘れられなくて……」
 
 フミがそう言って泣き出すと、幼馴染みは彼女を抱きしめた。

「知ってたよ……だからわすれさせようと頑張ったけど、これ以上やっても無理なら……君は彼と一緒になるべきだ」

 フミはその晩、一生分の涙を流した。
 そして次の日、会社を辞めた。
 先輩の後を追う気だと、噂が立っていたが、もう辞めてしまったフミからすれば、関係が無かった。
 フミは早速、幼馴染みと同棲していたマンションで荷物を纏める。
 荷造りは夜までかかり、キャリーケース一台分になんとかまとめ上げ、家を出ようとすると。

「送るよ」

 会社終わりの幼馴染みが、マンションの道路で、車のエンジンをつけたまま待っていた。
 フミは彼の車に乗り込み、駅へと向かった。
 気づけば、雪が降り始めていた。
 彼はフミの荷物を持って駅のホームまでついてきてくれて、電車に乗り込むフミを眺めていた。
 フミも同じように電車に乗り込みながら、幼馴染みを眺めていた。

 やがて、出発の笛が鳴る。
 もう扉が閉まる直前。

「幸せになれよ!」

 幼馴染みの叫び声が聞こえ、フミは頭が真っ白になった。


 
 
 

  


 
  

ΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔ


 僕はそこまで聞いた所で、言葉を失っていた。
 今聞いたのは、紛れもない、嘘偽りの無い実話だ。
 何だか、漫画やアニメと違って……感じる重みのようなものが違う気がした。

「それからどうなったのですか?」

 僕が聞くと、年配の女性……及川さんはその後を語った。

「向こうに着いてみればひどいモノでした。先輩は実は異動になったんじゃなく、会社をクビになったのでした」

 その先輩とやらは及川さんの幼馴染みにミスを押しつけていたが、それがバレてクビになったのだという。
 先輩は会社に「後生だから異動になったという旨で他の社員に伝えてくれ」と嘆願。
 会社はクビにした人物だとはいえ、不憫に思ったのか、それを受け入れてそのように発表した。
 先輩はそれを利用し、及川さんを騙して自分の新たな住所までこさせたのだという。
 
「それに気づいたのは一ヶ月が経ってからでした。借金取りが家に来るようになり、先輩の本性を知りました。それに……」

 及川さんは、先輩からほぼ監禁されるように家にとじこめられ、暴力を受け——幼馴染みがどれだけ自分を大事にしてくれていたかを知ったのだという。
 だが、こんな現状、情けなくて幼馴染みに見せられなかったのだという。

「どうして、幼馴染みさんの元に帰らなかったんですか?」
「……負い目があったのです」
「負い目?」
「私は幼馴染みには肉体関係を持たせていませんでした。単純に痛みを伴うと聞いてきた性行為が怖かったんです。そんな私を尊重して幼馴染みは一切私に無理強いすることはありませんでした……でも……」

 次なる言葉に、僕は胸を締め付けられることになった。

「先輩は私が訪れた晩に、無理矢理私を犯しました。処女だったと知られた時には大笑いをされました。『お前の幼馴染みは不能野郎だ』と罵声を浴びせられ……汚されてしまったと考えた私は、彼に会わす顔が無いと考えるようになりました。それが中々彼の元へと帰れ無かった理由です」

 思わず、及川さんの顔が見られなくなってしまった。
 壮絶な内容に、胃が締め付けられるような思いだった。
 彼女のその時の心情を思うと、涙が零れそうになった。

「暫くしたら先輩は『風俗で働け』と、言い出しました。それで我慢できなくなって、彼の元へと帰りました。駅で見送ってくれてから既に四年が経っていました。でも、その時の私はまだ幼馴染みが待ってくれていると幻想を抱いていたんです。それで、心の平穏を保っていたのでしょうね」 
「……それで、幼馴染みさんは」
「会社に連絡して、新たな住所だという場所を訪ねると、一軒家が建っていました。暫く呆然と眺めていると、可愛い赤ちゃんを抱いた彼が私には見せた事の無いような、幸せそうな笑みを浮かべながら、出てきました。その背後にはニコニコと……本当に幸せそうな奥さんが現れて、彼と見つめて笑い合っていました。嫉妬の心は湧きませんでした。彼の奥さんは、彼を幸せにしようと努めているのが目に見えて分かったからです。その時私は考えました」

 幼馴染みは及川さんを幸せにしようとしていた……しかし、自分はどうだったであろうか、と。
 
「気づけば放心状態で電車に揺られていました。全てを失い、こんな年になり、今だに独り身です。どうです? 愚かな話でしょう?」
 
 そう問われても、返答することは出来なかった。
 僕の感情は、及川さんの話によって、ぐちゃぐちゃになっていたからだ。
 パクパクと魚のように口を開くも、何も言葉が出てこなかった。
 好奇心が猫をも殺すという言葉が、附に落ちそうになっていた。
 そこで及川さんは——。

 僕の顔を見ながらクスリッと笑った。

「実はこの話、途中から()なんです」

 僕はその言葉に衝撃を覚えていた。

「な……な、何の為に?」
「少し、時間を巻き戻してみましょう」

 彼女の話は、駅のホームで幼馴染みと見つめ合っていた時まで遡った。

 
  


 
 
 

  


 
  

ΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔ  
  
 
 気づけば、雪が降り始めていた。
 幼馴染みは荷物を持って、駅のホームまでついてきてくれ、電車に乗り込むフミをじっと眺めていた。
 フミも同じように電車に乗り込みながら、幼馴染みを眺めていた。

 やがて、出発の笛が鳴る。
 もう扉が閉まる直前。

「幸せになれよ!」

 幼馴染みの叫び声が聞こえ、フミは頭が真っ白になった。
 そして——。
 そして。
 笛が一際大きく鳴らされ、駅員の怒鳴るような声が聞こえてきた。

「アンタバカか!? 何やってるんだ!」

 フミは電車の扉が閉まる直前、荷物を置いたまま、幼馴染みの元へと走り寄っていた。
 間一髪で扉をくぐり抜けたが、その場でこけそうになる。
 しかし、それを幼馴染みは受け止めていた。
 幼馴染みはフミを力強く抱きしめていた。

「バカ! ……何で戻ってきた?」

 その声音は、怒っているようで、涙声が混じっていた。

「ごめんさない、バカな私をごめんなさい……許して。やっぱり私、アナタが一番なの」
「……本当だよ、勝手なことばっかり言って、本当に……もう、二度と離さないからな」
 
 幼馴染みはそう口にした後、フミを力強く抱きしめていた。



  






ΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔ 


 最後まで聞き終わる頃には、僕は呆然とした様子で及川さんを見ていた。
 
「あ、あの……」
「物語とは虚構よ、あくまで嘘なの。でも、アナタはどう思った?」

 大いに心を揺さぶられた。
 それこそ、今日眠れないくらいに。
 だが——。 

「え? ……え? い、いや……そ、それは……及川さんの話を本当の話と思ったからで」

 僕がそう口にすると、及川さんはふわりと少女のような笑みを浮かべた。

「こうとも考えられない? 世の中にある物語、小説、ドラマ、演劇——虚構だとされるものが、実は真実だとしたら?」

 その言葉を、僕は上手く理解することは出来無かった。
 だけど、衝撃を覚えていたのは確かだ。
 この言葉の意味を完全に理解した時、僕の人生の行く末が決まる。
 それほどまでに、深く受け止めていた。
 
「私は劇団の脚本家をやっています」

 そこで及川さんは僕の背後へと手を振った。
 釣られて背後を伺うと、優しそうな年輩の男性がこちらへと近づいてきていた。

「はあっはあ……遅れてすみません。妻を……妻を助けて頂いてありがとうございました」

 年配の男性は僕の前までやってくると、仏様に祈るように僕に手を擦りあわせていた。
 呆気に取られながら及川さんを見ると、及川さんは立ち上がって、その男性と腕を組んだ。

「創作者は、○○さんがしたような体験を、世の人々に伝えるのが仕事だと思っています。さていかがだったでしょうか?」

 僕はそれを聞いた瞬間、及川さんの思惑がやっと分かった気がした。
 僕は立ち上がり、深々と頭を下げていた。
 本当に、良いお礼(・・)を受け取ってしまった。
 及川さんは満足そうに男性と共に頭を下げ、店から去っていった。

 
 
 




ΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔΔ 


 車に戻ると、フルタ先生が寝息を立てていた。
 肩を揺すると、フルタ先生はハッと我に返り、ハンドルを握った。
 
「すまんすまん……終わったか?」
「はい」
「じゃあ、このまま帰ろうか。寄りたい所はあるか?」
「大丈夫です」

 車が発進する。
 暫くしてから僕は——。

「先生……」
「どうした?」
「僕、将来……小説家になろうと思います」
「へえ! 良いじゃ無いか!」

 フルタ先生が聞いても無いのに、自分の好きな小説について熱く語り始めた。
 それを聞き流しながらも、車窓から流れていくストーリーは——。
 何だか、いつもと違って見えたような気がした。











       『ジェットコースター・ハイプ』  暗室経路
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み