川岸

文字数 2,863文字

 市街地を抜け、私たちは川岸にたどり着いた。スヘルデ川と呼ばれるそうで、北へ向かってオランダを経由し、北海へと繋がるらしい。対岸は遠く、流れはゆったりとしており、水面は陽光を反射してキラキラと輝いていた。
 腹ごなしついでと言って川沿いを歩いたが、結局屋台でアイスクリームを買った。彼はミント、私はチョコチップだ。
「そうゆうところ昔から変わらんよね」
と彼は言ったが、私は彼が何を指してそう言ったのか分からなかった。
「いや、アイスクリームはいつもチョコチップやん」
「そんなことないわよ。チョコチップ以外も食べているし。昔から」
「そうやっけ?」
 と彼はすっとぼけたが、実際に私はチョコチップ以外のアイスクリームも食べてきたし、別にチョコチップを特別扱いしたことは無い。たまたま私がチョコチップを選んだタイミングに出くわしただけなのに、私がチョコチップばかり食べていると勝手に解釈しているだけだ。そうに違いない。
 
 彼の観光案内が無くなると、話題は自然と高校時代の思い出話になった。問18の件を彼は覚えていた。
「いやあ、あの時は使命感に追われたというか」
「使命感って何よ」
「ああいう答えをしやなあかん、って天啓に導かれて」
「導かれるな」
 その他にも部活の話、髭の話、動く点Pの話、学校に住み着いた野良犬の話など話題は尽きなかった。そんな話をしているうちに、なんだか高校時代に戻って校舎裏の川沿いを歩いているような気分になった。それはスヘルデ川とは似ても似つかぬ、用水路のような小さな川だった。ただ、川に沿って数キロ続く桜並木は地元のちょっとした名所でもあった。そんな桜並木を長身イケメンのボーイフレンドを連れて歩けば、絵に描いたような青春にもなったのだろうが、勉強と部活と悪ふざけばかりに時間を費やした高校時代になってしまった。
 今、私の隣にいる彼は当時から1オングストロームも変わっていなかった。誰に対しても人懐っこくて、好きなものに対するこだわりの強い、田舎の呑気なボンのままだった。それなのに、遠い異国の地、言語も建築物も食べ物も違う土地にいるのが不思議だった。環境は目まぐるしく変わっていくのに、彼自身は変わらないまま順応し受け容れられていった。
 対して私は変わったのだろうか?分からない。方言を矯正し、フェチ(髭)を隠しても何かが変わった気がしない。語学力を身につけるわけでもなく、西洋美術史を学ぶでもなく行動範囲を自分で狭めて、小さな隙間に挟まったままなのではないか。自分で作った隙間からはみ出すことを恥じるのではなく、恥じることからはみ出すべきだったのではないか。
「明日フランスに行くんやっけ?」
 思い出話が途切れたところで、彼が尋ねた。
「うん。1日パリを散策してそれから帰国する予定」
「パリか。ええな」
 そう言って彼はスヘルデ川を眺めた。
「僕さ…」
彼は歩みを止めると私に向き合った。その純朴な瞳が今の私には苦しい。
「今の任期が終わって日本に帰ったら…」
 私の手からアイスクリームが滑り落ちた。
アイスクリームが地面に落ちると同時に、ゴーンという音がアントワープの街中に響いた。
「あっ、大聖堂の鐘や」
と言って彼は尖塔の方向を見上げた。
私は屈んで、チョコチップを食べたあとの、ほとんど食べ終わったアイスクリームを拾った。少しだけ心臓の鼓動が早まっている気がするが、鐘の音に紛れて分からない。
「アントワープの大聖堂の鐘は僕でも初めてかもしれやんわ」
 私は立ち上がり、呑気にそう話す彼に向き合った。
「そういうのはね、死亡フラグと言って…」私は一体何を言っているのか。彼もキョトンとしている。「その…、さっきの、日本に帰ったら…、って話」私の声は尻すぼみに小さくなってしまった。
「ああ、そうそう、そうやったわ」
 私の心臓の鼓動は明らかに加速していた。
「高校時代の話したら、昔の気持ち思い出してさ…」
 そんな風に彼が思っていたとは意外だ。
「ほんで僕が日本に帰ったら…」
 私は緊張だか期待だかよく分からない感情で胸が膨らんで破裂しそうだ。
「すぐにとは言わへんから、落ち着いた頃でもいいからさ」
 早く核心に触れろと私は思った。
「また、ニュッポコやらへん?」
「はあ!?」

 ニュッポコは高校時代に私たちが最も時間とエネルギーを費やした活動と言っても過言ではない。1年生の秋に彼を含む同級生達とニュッポコ同好会を立ち上げたのだ。他の部との兼部をするメンバーが多くてまとまった人数で集合することが少なかったり、近隣の学校との対外活動の機会が限られていたりと、当初は活動すること自体に苦労した。活動方針の違いから空中分解しかかったり、地獄の夏合宿で結束力を強めたり、紆余曲折はあったが全国まであと一歩というところまでたどり着いた。今でこそ珍しいものではなくなったが、当時の社会情勢を考えると公立高校の部活としてニュッポコに取り組むのは挑戦的だったと思う。
「今さらニュッポコって何を目指すの?」
 正直、私は高校時代で十分やり尽くしたし、卒業と共にニュッポコは引退したつもりだった。
「プロを目指すとか、お金を稼ぐとかじゃなくて、趣味として社会人のサークルで活動できればと思ってて。高校の仲間に声かけたり、新メンバー募集したりさ」
 仲間、という言葉を聞いて当時の同級生達の顔が浮かんだ。満足のいく活動が出来ず涙を流したり、思わぬ大成功で互いに喜びあったり、時には部室で駄弁って時間を潰したりもした。今思うとそれなりに青春らしいことをしていたのもニュッポコのおかげだ。だが、もうこんな歳になってあの時のような情熱を味わうことができるのだろうか。
「体力だけは学生時代には敵わへんけど、今なら今なりにあの頃とは違うニュッポコができるかもしれやんやん」
 他人に指摘されると悔しいが、確かに私もあの頃ほどは若くない。でもそれなりに人生経験は積んできたつもりだ。昔と何も変わらない彼があの頃とは違ったニュッポコができると言うのなら、私だって…。
「って考えたら面白そうっちゃう?」
 面白そう、それが今まで彼を突き動かし続けたものだ。そんな彼に、少し年を取ったかつてのメンバー、新しい仲間も加わるかもしれない。そんな仲間たちと、今度は社会人として臨むニュッポコ。何が起こるか分からない、失敗するかもしれない。でも、確かに面白そうだ。
「考えとく、一応」
と言って私は彼に背を向けた。
「じゃあ、僕の方でできる準備はしとくから、また連絡するわ」
「うん」
 彼には見せないようにしたが、指先の震えが止まらなかった。久しぶり聞いたニュッポコという単語に反応したのだ。いつでも動けるよ、と指先が言っているようだった。こういうのを武者震いと呼ぶのだろうか。すっかり引退したつもりだったが、身体はまだ覚えている。私は指先に口づけをすると、「おかえり」と呟いた。
 私は再度、大聖堂の尖塔を仰いだ。空は相変わらずマグリットの絵画だ。アントワープの街の何処かから、緊張感の無い笑い声が聞こえた。
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