第1話

文字数 174,739文字

ファラオのいなくなった世界は
しばらく続いた。

だが、その空白は
次第に、深刻な影響を時空に及ぼし始める。

世界は
その空白の帝位を埋めるべく、必然的にうねり、激しく捻じれ
波を起こし、気流を変化させ始める。


一方、テオティワカンに集まった神々も
時流の復活を現実のものとするため
あの日のよう

次々と
燃え盛る火の中へと飛び込んでいく。



























  第三部 第七編  ホワイト・エグゼビッション




















「ずいぶんと、久し振りよね。元気にしてたの?」
「まあね。ちょっと、旅行にいってた」
 シカンは万理と久し振りに同じベッドの上で身体を共有しあった。
「あまりに忙しすぎて、自分を見失ってたから。完全に無になりたくて」
「そのようね。あの、ファッションショー。あなたもカメラマンの一人として参加していたらしいわね。エリア何とかっていう、番組の制作をしていたのに、他のこともずいぶんと掛け持ちしていた」
「詰め込むだけ詰め込んだら、あとは全部焼却していくだけだよ。あとには何も残らない。それでいい。そのために、詰め込んで積上げていくんだから」
 万理はうつ伏せになりながら煙草を吸い、枕の横にある灰皿に吸殻を潰す。
「わたしも、そうなのかしら」
「知らないよ」
「あなたと同じなのかしら」万理は仰向けになり、シカンの胸に片手を置いた。「そういえばあなたと初めてやったときは、私はただの女優だったわね。あれから一年経って、ずいぶんと変わっちゃった」
「俺だって。一段と仕事の量が増えた」
「あなた、恋人は?」
「いないね。いないどころか、まったく女とやってなかった。やる暇がなかったというよりは、あまりそんなことを考えることがなかった」
「わたしも」
「お互い持ってるエネルギーの注ぎ場所があったんだ」
「映像の制作ね。それで旅行はどこに?」
「言わないよ」
「海外?」
「そう」
「何日?」
「だから言わないって」
「ケチ」
「ちょっとしたことがあってさ・・・。あまり言いたくないんだけど、爆弾テロみたいな。列車ごと吹っ飛ばされたんだ」
「え。マジ?ニュースになったんじゃないの。そうよね」
「さあね。報道されたんだろうか・・・」
「それで、あなたは、無事だった」
「ああ。隣りの車両だった。本当は、その車両に乗るはずだった。いや、乗ったんだ。チケットも、その車両の席だった。でも乗ってから、何だか居心地が悪くて。乗客は席の半分くらいだったんだけど、妙に圧迫感があって、それで逃げ出したくなった。トイレに行って、そのまま隣りの食堂車に移った。別に腹も減ってなかったけど、コーヒーだけ頼んで。そしたら、食事も注文してもらわないと困ると言われて、仕方なくツナサンドイッチを。そしたら、ボン」
「まじで」
「ああ、移動してから、十分も経ってなかった。我ながら驚いた。昔っから、そういう勘が働くんだ。勘というよりは、体にもろに反応がでる」
「それで、あなたは、無傷?」
「ぎりぎり。爆風で、隣りの座席にいた人は大怪我。俺は、金属の破片が頬をかすった程度。まだ話したくないんだ。正直言ってね、まだちょっと、内心は恐怖で怯えている。あれは何だったんだろう。何だったんだろうって、自問自答を繰り返している。帰国してまだ会った人間は君だけだ。連絡をしたのも君だけ。どうして君だったんだろうな。ほんとに決まった男はいないのか?そんなんじゃ、やっていけないだろ」
「本当にいないのよ。だから溜まっていたのよ。今日は爆発したわ。気持ちよかった」
「爆発って言うのはやめろ」
「ええ」
「俺は、何かにあとをつけられているんじゃないか。いや、単なる強迫観念さ。俺が狙われたんじゃないのか。俺が買った座席が、狙われたんじゃないか。何日か前に予約したんだ。爆弾をセットする準備期間は十分にあった。直前で買った座席じゃない。あらかじめ俺の行動を監視していた奴が。いや、もうよそう。今こうやって君と話しているこの状況も、把握されているのかも・・・。予約してから来なくてよかった。直前で決めて、入ってよかった。ここは、安全だ。エリアの話。そう、あの番組を制作してから、俺は妙な影を感じている。あれから三ヶ月以上は経ったけど、その影はずっと、離れようとしない。あんな仕事、引き受けなければよかった。途中で頓挫してしまえばよかった。
 それと同時期に開催されたファッションショー。君が全体のコンセプトを担当したアレ。あの二つは、俺の中で、妙な関係が築かれているように感じた。あくまでも、俺にとってね。無関係じゃない。
 そうだ。あのショーの最後のキャプションの欄に、井崎の名前があったよ。あの男は知っている。以前に一度だけ接触したことがある。あいつは作家のLムワと懇意の仲だった。Lムワを通じて、CMの撮影の仕事をオファーされた。けれど、その後は関わりがなくなった。そしたら、あのショーで名前を発見した。プロデューサーだった。君と井崎が中心になっていた。それで、俺はピーンときたよ。君の今の男は井崎だなって。そうなんだよな?」
 万理は二本目の煙草に火をつけた。

「寝たことはないし、当然、男女の恋愛感情もないわよ。わたし、セックスは本当に久し振りだったんだから。もしかしたら、前にやったときの相手も、あなただったのかも。そのくらいずっと何にもない。それに井崎さん。あの人には恋人がいるわよ。絶対にいる。そういう話になったことはないけど、彼には奥さんがいるんじゃないかしら。籍は入っていないかもしれないけど。とにかく親密な女性がいるわよ。一人。意外に思うかもしれないけど、あの人は一人の女性を、真剣に長く深く愛するタイプよ。だから、たとえ、私にその気があったとしても、あの人は他の誰とも寝ない」
「本当にそうなのか?」
「あなたの、その、危機を予知する勘と同じくらい、男女関係の直観は、私もすぐれていると思うけど」
「じゃあ、俺のことは、どうなんだよ」
「あなた?そうね、あなたの言葉は、半分くらいは信じられるわ。恋人はいない。半年のあいだ、一夜の恋はあったにしろ、まあ、ほぼ、女の影はなし。あなたの言葉通り。仕事人間のよう」
「これからは?」
「あなた、何よ。ふふ」
 万理は起き上がり、煙をゆっくりと長く吐き出していった。
「占い師じゃないわよ、私」
「いいから、言ってみろよ」
「じゃあ、適当に言ってみる。そうね、今度は、仕事が手につかないくらい、女性の影がたくさん見える」
 万理の眼は、シカンの背後に、じっと焦点を当てていた。
「影って、そういう影かよ」
 シカンは、天井を見上げた。
「違う影もあるわよ。でも、そっちのことは、私はよくわからない。あなたが、専門でしょ。とにかく、女性がたくさんいる。妬けるくらいに。私もその一人ね、きっと。あなたと、裸で抱き合うのは好きよ。単純に。そういえば、あなたを題材にした脚本も、一本書き始めてるの」
「俺?何で、また・・・」
「この前、Gくんと、三人で食事したでしょ?」
「ああ、そんなこともあったな。あのおかしな奴だよな。あいつは、今は?」
「あの子は、井崎さんのところの子」
「そうなのか?何だか、複雑な関係性だな、それ」
「そのGくんと、あなたが、ずっと話しているのを見ていて、物語が浮かんできた。それを書き始めたの。途中までなんだけど、けっこう進んでしまった。あなたたち、知り合いじゃないわよね?」
「ああ、知らないね、あんなおかしな奴。あいつ、そういえば、エリアの話をし始めていたな。何だっけか。思い出せない。何か重要なことを言っていたような」
「そうよね、あなたとGくんは、初めて会ったんだものね。やっぱり私の妄想だわ」
「妄想が仕事に繋がるんだからな、羨ましいね。俺が何か妄想しても、それは行き場を失った生霊みたいなもんだ。所詮は、ノンフィクション、映像作家だ。辛いな。まあ、でも、君と井崎が、親密な仲じゃないってわかっただけでも、こっちは嬉しいね。来た甲斐があった」
「そうなんだ」

 Lムワの死を知らされて気が動転したシカンは、反射的に井崎に連絡をとった。そして、彼と二人で埋葬地を訪れて墓石を眺めた。そのときのことは覚えている。位置に刻まれた生涯の年齢である13という数字を思い出す。あれはどういう意味だったのか。もう一度見てみる必要がある。今度は井崎抜きの一人きりで。
 そういえば北川裕美はどうなったのだろう。行方をくらませたままなのか。あなたは絵をかくべきだと勧めたのは、この俺だった。どうしてあんなことを言ってしまったのか。北川裕美はその言葉を真に受けて、本当に絵描きにでもなったのだろうか。今まで嵐のようにやってくる仕事に忙殺された日常を送っていたため、立ち止まって振り返るということが全くなかった。自分と関わりのあった、いろいろな人や物事を、そのまま放ったらかしにしていた。それなら、そのまま放ったらかしにしておけばいいものを、中途半端にも、こんなときにまた思い出してしまう。
「ねえ、ちょっと聞いてる?」
「えっ?」
 シカンは、横に裸の万理がいることに気づき、我にかえった。
「私を見い出したのは、そもそもは、あなたなのよね」
「なんだよ、いきなり」
「私、ずっとそのことを忘れていた。そうなのよ。鳴かず飛ばずの私を、ちゃんとした舞台に乗せてくれたのは、あなただった」
「そうだ。俺だ。俺だった」
 シカンは答えた。「最初のきっかけを作ったのは」
「そうよ!」
「北川裕美もそうだ」
「北川?って、あの昔、女優だった?」
「そう」
「絵をかくことを勧めたんだ。まだ、Lさんが生きていた頃のことだ。Lさんの家にいったときに、北川裕美に会って。そのときに」
「それで?」
「その後は知らない」
「そうなんだ。じゃあ、彼女は、画家になってる頃ね。あなたにはそういう力がある。見い出す力というか、予言する力というか。あなたの、最初のインスピレーションの通りになっていく。絶対にそう。知ってた?」
「もう一人いるな」
 シカンは過去に関わったことのある女性を、次々と思い浮かべていった。
 北川裕美の次に強烈に浮かんできたのは、沙羅舞だった。
「その名前は、聞きたくなかったわね。けれど、私と同じ事務所にいるから、いつかは顔を合わせるときがくる。でも今は嫌。やめて。関わりあいたくない」
「沙羅舞も、君と同じタイミングでオーディションを通った。選んだのは俺だ。理由はキミの隣にいたから。キミと仲良く話していたから。それも、俺が、彼女の中の何かを見い出したことになるのか?彼女は今、どうなっている?」
「やめて!」万理は不機嫌な表情をあらわにし、シカンに背をむけて布団をかぶってしまった。
「わかった、やめる。もう二度と話題にはしない。沙羅舞のことは」
「ほんと?」
 万理はすぐに布団を振り払い、シカンの方に体を反転させ、シカンの身体に抱きついた。
「好きよ」
 そうは言ったものの、過去の女たちの影は、シカンからは消えなかった。
「ねえ、あなたはどうなのよ。あなたは映像作家になる前は、何をしていたのよ?どんなきっかけがあって、今に至ってるの?私、何も知らない。男の人の過去なんて、あまり興味はないけど。私を見い出した男は、自分を、どうやって見い出したのか。誰かに見い出されたのか。ルーツを辿りたくなってきたわね。ねえ、聞いてるの?」
 シカンからの反応はなかった。万理はシカンの胸に自分の右頬を押し付けた。心臓の音を聞こうとした。しかし音だけでなく、振動ひとつ感じなかった。
「ね、ちょっと」
 万理はシカンの体を揺り動かした。
「えっ」
 万理は上半身を起こして、シカンの顔を覗きこんだ。シカンは眼をつぶったままだった。口から息をしている様子もなかった。
「うそっ!そんなばかな。ちょっと起きてよ、ねえ、ねえって」
 人工呼吸と心臓マッサージのやり方の記憶を、必死で探している自分に万理は気づいた。
このままシカンが死んでしまい、取り残された自分が、救急車を呼んでいる姿も想像してしまう。警察に取調べられている自分も、想像する。男女二人が、裸でどんなことをしていたのかを、執拗以上に問いただされている自分がいた。シカンの葬式にも参加している。納骨している状況も浮かんでくる。
「ごめん、ちょっと、具合が悪くなってしまって」
 次の瞬間、シカンは蘇生していた。
「もう聞かないわ」
 万理は再び事態が元に戻ったことに心底安堵した。


 真夜中、シカンは万理のマンションから外に出た。泊まっていけばという彼女に対しては、当然のことながら素直に受け入れることはなかった。付き合っているわけではない女の家に、長居しているわけにはいかなかった。ホテルのように、数時間で出ていくのが筋だとシカンは思った。万理の男がいつ訪ねてくるのかもわからない。その男は井崎の可能性があった。万理の部屋で、井崎に遭遇などしたくはなかった。万理は否定したが、シカンの疑いが晴れることはなかった。あのショーにおける制作側の二人の立ち位置に、ピンと来た。
 シカンは春の直前の冷たい夜風にあたりながら、昨日までの休暇の旅行のことを、頭の中に蘇えらせていた。あの爆発。車両に爆弾が仕掛けられたわけではなく、何かの上を通過したからではないか。何かのラインと線路が、たまたま交差してしまっていた場所。その線路は、長いあいだ使用されてなかったという。その理由はわからない。しかし今年、これもどういった理由なのかはわからなかったが、線路をすべてメンテナンスし直し、開通させたのだ。国境を跨ぐ新しいラインとして、その第一号の列車に自分は乗り合わせた。LCCによる低料金での飛行移動が拡大するに伴って、国を跨ぐ低料金の特急列車の整備もまた、同時に進んだ結果だった。
 だがその一発目の列車で、爆発による大惨事が起こってしまうとは・・・。
 シカンは、その恐怖で自分が狙われているという思い込みが募っていったが、こうして無事に帰国し、万理と裸で抱き合ったことで、平静な気持ちを少しずつ取り戻してきた。するとあの路線が、かつては、エリアと大都市を結んだラインの上を通過していたんじゃないかという思いが、湧いてきた。あれは過去の名残だ。遺産だ。そうに違いないと。


 シカンが帰ったあと、万理はしばらくのあいだ、裸のまま一人布団の中でじっとしていた。男とセックスをしたあとで、こうして一人で取り残されたことは初めてだった。しかも半年以上、一年近くも性行為とはずっと無縁だった。シカンから電話があったとき、ちょうど脚本を書いていた。シカンは私と寝たがっている。突然そう思った。外で会うのではなく、家に招いた。そして予感した通りの結果になった。
 けれど、こうして一人で取り残されることになるとは思わなかった。初めてシカンに対する恋焦がれる気持ちが湧いていた。しかし寂しさと同時に、彼に対する本当の興味も募っていった。彼は過去に触れられることを、極度に嫌った。私が地雷の側を踏んでしまったものだから、こうして真夜中にもかかわらず、彼は私の側を離れざるをえなくなった。本当は朝まで一緒に居たかったはずだ。私が余計なことをしてしまった。映像作家になる前の彼のことを、どうしても知りたかった。好きな男のルーツを知りたいと思うのは、当然のことだった。
 しかし彼は頑なに拒絶した。興味はますます募っていった。すると突然、妙なインスピレーションが万理を捕らえた。妊娠し、そして次第におなかが大きくなっていく女性の姿が天井に映し出された。
 妊娠してからの時間の推移、赤ちゃんの成長の具合を、スライドで見せられているかのようだった。高速度カメラで、植物の成長を見せられているようだった。だが臨月を迎えた女性の映像は、そこで一端停止をしてしまう。光は顔へとその焦点を変えた。
 顔は男だった。女性だと思いこんでいた妊婦が、男であることに万理は気づいた。はっとした。そして、その妊婦の全体に光が当てられる。完全なる男だった。上半身の骨格、筋肉のつき方はもちろんのこと、下半身の性器だって男だった。しかも勃起までしていた。なのに、その上部は前に膨らんでいる。勃起した性器が、膨らんだお腹に触れていたのだ。触れていたというよりは、突き刺さっているように見えた。膨らみきった風船に、鋭利な刃物が貫通しているように見えた。
 その男の姿は消えた。真っ暗な天井がそこにはある。万理は我にかえった。シカンの残像にしては強烈すぎた。
 俺には見切り発車することへの恐怖がある。
 脚本の中のシカンは、Gにそう言った。出産予定日よりもだいぶん早く、帝王切開で、無理やりに外の世界に引きずりだされたと言った。臍脳が首に絡まり、そうせざるをえない状況になってしまった。誰のせいでもないが、事実としてそういうことなのだ。俺は、見切り発車をすることが異常に怖い。きっと、俺の出生の事実と、何かしらの関係があるに違いない。シカンはGに言った。Gは何も答えることはなかった。
 シカンが、母親の子宮の中にいたとき・・・。
 万理は再び、書きかけの脚本の続きが、始まったことを知る。

 裸のまま飛び起き、下着を身につけ、部屋着を羽織る。
 ペンを用意して、白紙に試し書きを始めていた。
 シカンの母親の姿は暗くて、影になっていてよくわからなかったが、その向かいにいる男、おそらくシカンの父であろう男の姿は見えた。井崎だった。なぜか、そのイメージの中には井崎がいた。井崎は金銭問題を抱えていた。夫婦と思われる二人の男女は、ずっとお金の話を続けていた。出産費用がどうだとか、結婚資金がどうだとか、生活費のこと、かなり、困窮しているようだった。焦燥感が漂っていた。実際にお金が足りないのか、ある程度はあるのだが、不足しているという思いが、常に募っているのか、負債がかなりあるのか、状況はわからなかった。とにかく、金銭による問題が二人のあいあだにはあった。そしてそれはシカンの周りの空気に色濃く染み付いていた。
「とにかく、稼がなくちゃ」男はその言葉を連呼した。「とにかく増やさないと。一生懸命に働く。それは当然のことだ。でもそれでは、全然、足らない!何か投資のようなことをしたい。時間が問題なんだ。短時間で早く大きな金を作りたい」男は荒れ狂う心を何とか抑えながら、妊婦に向かってしゃべっていた。「とにかく落ち着いてよ。出産費用はちゃんとあるんだから」「でも」「でも、何?」「俺たちは結婚しているんだ。これからは三人になる。四人、五人と増えていくかもしれない。足りないんだ。明らかに足りないんだよ!」「大丈夫よ。そのときはそのとき。何とか回るようにしていきましょ」「駄目だ。今必要なんだ。今ないと、いけないんだ。もっと稼がなきゃ。稼がなきゃ。成功しなきゃ。評価もされないと。結果を打ち出さないと。結果がすべてなんだから。とにかく覆したい。結果を見せ付けて、俺への評価を覆したいんだ。そのために退社したんだ。システムから外れたんだ。なあ、努力するから。努力すれば、必ず結果は伴ってくるから。そうすれば、みんなに評価もされて、認められて、しかも、お金もいっぱい入る。そうすれば、俺たち三人の生活も安泰だ。四人、五人と増やしていける。そうだろ?でも結果が出るまでは、少し時間がかかる。子供は、もうすぐにも、生まれてくる。時間はない。投資でも何でもして、利回りを得たい。でも俺は、ギャンブルは嫌いだ。稼がないと。人一倍働くよ。それが一番だ」
 井崎がしゃべり続けているあいだ、妊婦は、そのあと急に無口になった。そして、その影は俯いていった。
 これは、一体、何なのだ?

 万理は、紙に埋められた文字を見ながら、茫漠とした気持ちになった。部屋の電気をつけた。しかし続きはまだあった。すぐに電気をまた消した。
 その同じ時期に、臍脳の事件が起こったのだった。緊急の手術が始まり、シカンは生まれた。出産に立ち会う男の姿はなかった。その後も、産婦人科に見舞いに来る男の姿は、なかった。女性はシカンを抱えて退院する。アパートの部屋に戻るものの、男は一度たりとも訪ねてはこない。夫ではなかったのか。だが何日も経ってから、井崎の風貌そのままの男がやってくる。
「やってくれるじゃないか」と男は言った。「時間がないといったはずだ。それが、もっと早く生まれてくるとはな。クククク。皮肉なものだ。俺に対する嫌がらせか?そうなんだろ。なあ、おい。金がまだ、作れていないときに、生まれることを先延ばしにしてくる、そんな利口な赤ちゃんに、俺は縁がないってことかい?ククク。おい、何とか答えたらどうだ。このガキが。まあ、いい。俺は性根腐った男じゃないからな。ちゃんと働いて稼ぎを持ってくる。いいな。けれど、そうして続けている以上は、文句は言うんじゃないぞ。金さえ家にいれていれば、文句はないはずだ。わかったな。ただし、俺は真面目に働くことだけが取り柄の男だ。勘違いするなよ。犯罪に手は染めないし、人を陥れて手にいれることだけは、絶対にしない」
 男はシカンが育っていくなか、子供に対する愛情は見せていたが、女性に対してはそうではなかった。家に帰っても、ほとんど会話をすることはなく、無視するようにすぐにシカンの元へと向かった。しばらく遊んだあとで、女性とは、同じ時間を過ごすことなく、自分の部屋に行くか、外に出て行ってしまうか、そのどちらかだった。
 確かに男は真面目に働いた。だが、その低賃金を恨んでもいた。自分はもっと、人に認められる仕事ができるはずだ。男は勤務時間の外で勉強のようなことをしていた。最難関の試験を突破することで、現状を大きく打開できると信じた。それは、結婚した女性を見返すことでもあった。復讐心にも似た想いだった。


 シカンの休みは、残り12日あった。
 彼は、空白の日々を過ごすことに慣れてなかった。
 すぐにでも埋めよう埋めようと、心が疼きだすのがわかった。
 けれどシカンは、努めて空っぽになるように自分自身を仕向けた。しかし万理のことだけは除外することができない。毎日でも、彼女と抱き合っていたかった。彼女といると、ほっとした気持ちになれる。たとえ束の間であるにしろ、その時間が永遠に続けばいいと思った。けれども彼女は休暇中ではなかった。それに付き合っているわけでもなかった。厚かましく、頻繁に連絡をすることは自粛した。彼女の仕事のことを考えた。
 よく考えてみれば、自分と彼女の仕事は実に正反対だった。フィクションとノンフィクションの違いは、誰が見ても明白だった。俺が彼女を抜擢してからの、彼女の女優としての活躍は、目覚ましかった。しかしその後にやってきた、彼女自ら映画を撮るということまでは、誰が想像できただろう。その時点から、俺と彼女の仕事は、対極に位置するようになった。
 一本目の映画は「ユダプト」。これでアカデミー賞作品賞をとった。二本目は「オンザバプティズム」。散々な出来だった。観客も入らなかったし、内容を評価する専門家も皆無だった。だが「ラスト12DAYS」はよかった。二本目の汚名は、これで少しは挽回した。そして今は、三本目の映画の脚本を書いているという。
 シカンは万理に対する想いが募ってくればくるほど、彼女と結婚し、共に生活をするという映像ばかりを思い浮かべてしまった。別の場所に、お互いが住み、どこかで待ち合わせをし、デートをしたり、食事をしたり、付き合うといった映像は、これっぽっちも浮かんではこなかった。同じ場所で生活し、まったく真逆な創作活動をしてみたい。そうすることで、シカンは、自分の仕事の内容が、劇的に飛躍するのではないかと思った。


 シカンが成長していく月日に比例して、父親の家に帰ってくる日は、目に見えて減っていった。給料だけは滞りなく、律儀に家計に入れ続けていた。父親は工場に勤めていた。勤務態度はいたってまじめだった。仕事をしていない時間は、すべて試験勉強に当てていた。父親に恋愛感情を抱く女性も少なからずいた。彼が結婚をしていることを周りは知らなかった。シカンの父親は勉強があるからと、女性からの誘いを頑なに断っていたが、あるときそんな禁欲生活も終わりをつげた。夫婦関係は肉体的なものだけでなく、顔を合わせて会話することさえなくなっていた。単純に、誰かと世間話でもしたかったのかもしれない。男女の密会が肉体関係に発展するのに、たいした時間はかからなかった。シカンの父親は、こういった女性との気軽な関係を好んだ。相手の女性には、配偶者がいる場合もあった。いない場合でも、特に結婚を望んでくるような女性はいなかった。
 シカンの父親は、試験勉強と女性とのデート、そして仕事との三つのバランスを、常に整えていた。家族はそこには含まれてはいなかった。シカンに対する愛情だけはあった。母親抜きで、よく遊ばせたものだった。だがシカンが、五歳になる前に、突然、工場の爆発事故で、彼はあっけなく死んでしまった。けっこうな額の、生命保険に入っていたため、シカンの家には、まとまった金額がすぐに振り込まれた。
 シカンは、父親との出来事をほとんど覚えてなかった。母親も特に事故のこと以外で、息子に父親の話をすることはなかった。だが、母親からの無言の教育の中に、母親の父親への憎悪の念が、自然に組み込まれてしまっていた。無条件で普通教育を受けさせることには反対を示し、勤勉で勤労を美徳とした価値観を、伝達することはほとんどなく、それとは正反対の人生観を、植え付けていったのだった。
 シカンの母親は、夫が選択したことの、ほとんど逆のことを、シカンに選択させるよう仕向けていった。みなが同じ試験を受けるような、そんな勉強などは、すべて否定し、会社から給与をもらうという労働の在り方も、否定した。生命保険のお金は、生活費と、息子が何か自分でゼロから事業を、起こすということに、全額を投入することにした。シカン家の方針は、明確に文字にすることはなかったが、その哲学は、シカンの父親の生き方の全否定という、確固たる世界観を、影で形成していった。それはそのまま、シカンへと注がれた。
 母親は、自らの血の奥に潜んだ、暗い影の存在を自覚していた。単なる夫への復讐心だけが、このような反動的な行動に出てしまう原因ではなかった。これまで自分の夫がいることで封じ込められていた、自分の暗い血の影が、ここで突如生気を帯び始め、延々と抑圧されたままだったその死に体に、命を吹き込んだのである。それはシカンの女性の選び方にも及んだ。父親のように、パートナーである配偶者を冷遇し、どうでもいい女とだけ、憂さ晴らしのために交際するといった生き方は、しなかった。選んだ女性を、自らの仕事の源泉とすることで、仕事を成功させ、パートナーの女性に対する愛情を、さらに深めていく。
 そういう想いを、遺伝子の中に巧妙に組みこんだのだ。
 十代や二十代の前半では、気がつかないだろうが、必ずや、人生が大きく動き出すときに、この遺伝子が目覚めるはずだろう。母親は、幼いシカンを、優しい目で見つめ続けた。

 万理の携帯電話には、何度か、シカンからの連絡があった。しかし、万理は一度も出なかった。それどころではなかった。脚本はすでに動き出しているのだ。デートをしている場合ではなかった。女優の仕事も何本かオファーされたが、ことごとく、断ってしまった。書き上げるまでは放っておいてもらいたい。シカンからの留守電を、聞くこともなければ、メールを送ることもなかった。

 ただ一つだけ、シカンの母親は、ずっと不思議に思うことがあった。
 シカンがまだ子宮にいるとき、それは女性だったのだ。エコーでも、それは女性だと判定されていた。娘を出産するのだと母親は思っていた。すでに心構えはそうだったのだ。女の名前の候補だって、いくつも考えていた。夫とはそのことで楽しく会話をすることが多かった。ふとこのとき、シカンの母親は顔をひきつらせた。じぶんの夫と、そんなふうに平穏で幸福な時間を共有していたことを思い出したのだ。ぞっとしてしまった。どこかで、子供の性別が変わってしまった。臍脳が、赤ちゃん自身の首に絡まる前だったのか、後だったのか、その最中だったのか。それとも、帝王切開で出す時か。しかしどれも、現実実がない。エコーでは、女性であり続けたのだ。開いて取り出したときも、女だったはずだ。ということは、病院か?医者が、意図的に別の赤ちゃんとすり替えたのか。いや、意図的ではなく、何かの取り違えが、どこかで起こってしまったのか。人為的なミスか、
何かが。
 それとも、そんな摩訶不思議なことが、ほんとうに平然と起きたとでも・・・。

 何日が過ぎたであろう。万理は、シカンに電話をかけた。
「ごめんなさい。忙しくて」
「こっちこそ、しつこくて、ごめん。鬱陶しい男だよな。ほんと悪かった」
「いや、そうじゃなくて。その、私も、ずっと会いたかった。ほんとに。私から、かけたかったのに、あなたのほうからかかってきて、うれしかった。でもあまりに忙しくて。特に脚本作りが。入り込んでしまっていた」あなたのことに入り込みすぎてしまったのよと、万理は心の中で呟いた。架空ではあるけど。あなたのことなのよ!
 その夜は、ホテルの一室で一晩中、二人は裸で抱き合った。万理はシカンの肌や筋肉、吐息から、彼の性的エネルギーのすべてを、自らの体の中にとり込んだ。情報は、本人の肉体からしか、伝達されてはこないのだと言わんばかりに。シカンのSと、もう一人の登場人物の、Gで、S・Gというタイトルが浮かんできた。S・Gは、まだ先があった。脚本にするべき、情報はまだあった。「あっ、いく。もうだめ・・・」そのとき万理は、シカンと完全に一つになっていた。子宮の奥に放たれた狂気に、万理はむしゃぶりつきたかった。


 シカンにとっては、束の間の休息だった。万理はシカンが目を醒ますと、すぐに彼の下半身へと執着してしまった。小さく丸まったままの性器を、口に含み、上下に動かしていった。しかし、反応は鈍かった。シカンはこのまま、性器が噛み千切られるような気がした。
「やめてくれ」とシカンは言った。「そういうのは、好きじゃない」
 そういえば、昨晩の彼は、非常に長い時間をかけて、わたしを愛してくれたと、万理は思い返した。
「あなた、本当は、性病を恐れているんじゃないの?」
「おい、どうしたんだよ。いいから、口を離してくれ」
 万理はそれでも、性器への愛撫をやめなかった。
「無理だ。朝は無理なんだよ。一人にさせてくれ」
「ひどいわ。あなたがここに押しかけてきたのよ。あなたのほうから。あなたは性病を恐れているだけなのよ。だから、私が、その恐れを溶かしてあげる。ねえ、あなた、本当は女として生まれてくるはずだったんでしょ?それが生まれる直前に、性別は入れ替わってしまった。そのときいったい何が起こったのか。あなたは何も知らない。あなたは自分のことは何も知らないのよ!どの瞬間に変わってしまったのか。私もまだわからない。でも、その地点を見つけるのは、あなたじゃない。この私よ。あなたに纏わる問題のすべての根源は、ここにある。ちょっと待ってなさい。必ず突き止めるから」
 シカンはいつのまにか、床に仁王立ちしていた。立ちもしない性器に、口づけをし続ける万理を見下ろしていた。この女の話すことは、全くもって理解することができなかった。
 その話題は、いったいどこからやってくるのか。脈絡もなければ、話そのものが噛みあわなかった。二人の時間を共有することに、シカンはだんだんと、居心地が悪くなってきた。こんな頭のおかしい女と、ずっと同じ場所で生活して、あわよくば、お互いが異なる創作の仕事を、同じ場所で続けていきたいと願った、あの盛り上がりは、一気に冷めていった。
 勘違いだったと、シカンは思った。この休暇中に、彼女と深い関わりを持ったことは、非常に危険なことであったのだ。
「あなたは、とても優しかった。長い時間をかけて、わたしを愛してくれた。そのお礼よ」
 万理が言葉を発した様子はなかったが、シカンには、彼女がそう言っているように聞こえた。
 冗談じゃない!こんな、礼のされ方は御免だ。ゆっくりと、優しく愛した結果が、こんなにも凶暴性を発揮した女になるとは・・・思ってもみなかった。やさしく癒せば癒すほど、その返礼は強行で、苛烈で、不快なものになる・・・。
「もう、帰ってくれ!」
 シカンは耐え切れずに大きな声を出した。
 万理はやっとシカンから離れた。すると、性器はものすごい勢いで勃起し始めた。それまでの万理に対する拒絶感が、一気に吹き飛んでしまった。すぐにでも彼女の中に入り、膣壁に振動を与えたいという想いに変わった。
「だめよ。すぐに入れては。昨日の夜のように、ゆっくりと愛して」
 はちきれんばかりにそそり立った性器の矛先を失いながらも、シカンは彼女に言われたとおりに、全身を手と舌で愛していった。
 すると、自分の屹立した性器が、ふと消えてなくなってしまったように感じた。慌てて自分の下半身に目を下ろした。だが性器は存在している。屹立具合はさらに強まっているようだ。しかし感覚が一瞬、消えてなくなってしまったように感じられた。それは断続的に起こるようになった。
 こんなことは初めてだった。自分の性器の感覚は、光が点滅するように、消えたり戻ったりを繰り返している。次第にそこにはない感覚が長く続いていく。
 万理に話しかけようとしたが、彼女はすでに深い陶酔の中にいた。ほとんど目をつぶり、顔を左右に動かし、顎をあげ、吐息を漏らしている。シカンは自分の性器が内側に捲れ込んだ感覚へと変わるのを、完全に自覚した。入れて欲しい入れて欲しいと、彼はそう思い始めた。もう待てない。入れて欲しいのだ。彼はそう強く思う。自分の体の中に、別の異質な肉体を挿入して欲しいと、心から願っていた。そして、殺してほしいとまで思った。
 それほどの快楽を求めていたのだ。そして、そんな感情を抱いたままに、内側には決してめくれこんではいない、自分の性器を手に持った。彼女の濡れた膣の中へと、その無感覚になったペニスを滑らせていった。
 シカンの母親は、ずっと息子に無言で言い続けていた。〝あなたはゼロなの。そして、ゼロからものを生んで、そのあとで、その生んだものを、ゼロへと返すのよ。無に返すのよ。その全工程を、あなた一人が担うの。創業から廃業までのすべての過程を、あなたが担うのよ!〟


 休暇の最終日にも、シカンは万理と会った。昼過ぎにカフェで待ち合わせをした。彼女は会うなり、新作S・Gの内容を話し始めた。
 最初は上の空だったシカンだが、その内容もさることながら、彼女の話し方に、次第に引き込まれていった。気づけば日が暮れ始めていた。
「わかった。その、俺を題材にした男のことはわかった。俺にそんな事実はないが、まあ、フィクションだ。たまたま俺の名前を使ったということで、それで、いい。ところで、その、Gの方はどうなったんだ?」
「どうなったって?」
「Gの過去が、これっぽっちも出てきてないい」
「そうねぇ。確かに」そう言って万理は天井を見上げた。「でも、あれよ、Gくんのことは、放っておけばいいのよ。そのうち収まるところに収まるから」
「どういう意味だ?」
「映画を撮るってことよ」
 シカンはやはり、万理のことが全然理解できなかった。
「撮影を始めることで、Gくんは勝手に動いていくの。わかる?映画なんてそんなものなんだから。脚本っていうのは完成形じゃなくて、全然いいの。撮影の入り口になってくれさえすれば、それでいいのよ。設定が固まった時点で、ゴーサインは出てるの。今回は、逆に、脚本を書きすぎた方よ。あなたの回想シーンを、長く書きすぎた」
「あなたって・・・俺じゃないし。まあ、そのSって男のことだって、そうさ。結局、その回想は、どこに繫がるんだ?」
「どこって・・・そうね、エリア151なんじゃないの?ふふ、急に顔色変えないでよ。わかりやすいのね、あなたって。そんなに極端に反応しなくていいわよ。SとGは、同じ大学の同じゼミに所属していたって、言ったでしょ。それで卒業してから、しばらく経って再会したとき、二人であるプロジェクトを立ち上げた。その名前が、エリア151」
「いかげんにしろよ!」シカンは、静かだが、感情のこもった声を上げた。
「どうして俺にまつわる実在する言語を選ぶんだよ!フィクションならフィクションで、現実の名前とは、全然違うものを付けてくれ!なんなんだよ、いったい」
「ちょっと、そんなに怒るところじゃないでしょ」
「Gだって、実在する人間だ。それで、配役はどうするんだ?」
「まだ、何も決めていないわ」
「名前を変えてくれ。最低でも、ジーとシカンと、それと、エリア151だけは早く」
「もちろんよ・・・。ごめんなさい」
 シカンはふっと溜息をついた。
「それで、そのSってやつの、母親。彼女は、その後、どうなったんだ?旦那が若くして死んで、息子と二人暮し。それで、誰か、新しい父親はやってきたのか?」
「あっ!」万理は突然立ち上がった。シカンは万理を見上げた。
「今日は、何日だった?今日が、最終日じゃなかったかしら」
「そうだよ。俺の長期休暇の、最後の日だよ」
「そうじゃないわ。あなたのことじゃない。北川裕美のこと」
「北川って、Lムワの奥さんの・・・」
「そうよ。その北川よ。彼女の絵の展覧会って、確か、今日までだったような・・・。前売りは買っておいたから、ほら。ね。今日じゃないの。二枚あるわよ。今、何時?」
 時計の針は、四時半を回ったところだった。
「やだっ。五時までじゃないの。場所は、ええっと。上野の森美術館。ここは新宿だから。うそっ。無理よ。間に合わない。どうしよう。北川裕美の絵を見たかったのに。脚本なんて書いていたから・・・、すっかりと忘れてしまっていた。それに、あなたと優雅に、お茶なんて飲んでる場合でもなかった」
 シカンはこのあと、万理の部屋に行って、深く愛し合うことを前提として、こうして談笑にふけっていたので、この急展開に戸惑い、不快感が湧き起こってきた。しかし物理的に、もう展示会には間に合わない。どんなに急いでも五時半は回ってしまう。万理はすでに美術館に電話していた。電話を切ると、シカンの手をひいて、すごい勢いでカフェから外に連れ出した。「間に合うわ」と彼女は言った。「最終日の今日だけは、七時までやってるんだって。よかった。今、気付いて、よかったぁ。五時半には着くから、一時間以上は見ることができる。何とかセーフよ」
 結局、シカンの知ることのできる『S・G』は、そこで途切れた。
 彼女は嬉々として、電車の中でも落ち着かなかった。慌てて出てきたために、彼女はすっぴんに近く、顔を覆うものは、何もしてなかったので、乗客の何人かが、次第に万理の存在に気づき始めていた。それに、万理は、大きな声で一人でずっと話していたので、異様に目立った。シカンに向かって、抱きつくように迫ってきたりもした。
 シカンは、自分が恋人のようには見えないように、マネージャーにでもなったつもりで、テンションの高いタレントを、必死で嗜めているという空間を演出した。これは、次の現場までの短い距離の移動中であって、電車などは、ほとんど乗ったことのないタレントが、一緒であり、その彼女は、子供のような好奇心で浮かれているのだという構図を、必死で演出しようとしていた。
 そのときもシカンは、Sのその後と、Sの母親のその後。そして、SとGの、再会の後の二人の行動を、ずっと考えていた。


 井崎からの電話を、常盤静香は、自宅の寝室で受け取っていた。井崎と会うことがなくなってから、三か月が経っていた。そのあいだ、音沙汰はまったくなかった。メールによるやりとりもなかった。常盤静香は、時々、井崎とはすでに別れてしまったのだと思うことがあった。井崎からの手紙に書かれていた、『二人はしばらく、距離を置いたほうがいい』という言葉は、別れようと主張しているように感じられたのだ。
 常盤は仕事で日々を忙殺し続けようとした。井崎のことを思い出してしまうときは特に。しかし、皮肉にも井崎と会わなくなってからは、仕事が以前ほどは忙しくなくなってしまった。
 一週間に一日と半分くらいは暇な時間ができてしまっていた。常盤を誘う男性がいた。そして常盤は、その男性と食事に行くことが多くなっていった。次第に休みだけではなく、平日の夜も、一緒にお酒を飲むことが増えていった。
 その男は、常盤に全く男の影を感じなかった。そんなことは、聞くまでもないと、男は思った。彼女からは、セックスの匂いがまるでしなかった。彼女の声や肌の張りからも、やはり感じられなかった。しかし男は、この常盤という女がまったく化粧っ気がないにもかかわらず、まったくオシャレには気を使う様子がないにもかかわらず、二人きりになり、デートを重ね、そして裸にしたときに、彼女から突如立ち上ってくる香気を想像しただけで、高揚してしまったのだった。地中深くに眠ったままになっている欲望を、感じていたのだ。他の誰も気づいてはいない。誰も近寄ってはこないし、彼女自身ですら気づいてはいない。自分が彼女のその水脈を探り当てる、最初の男になるのだ。そして、一人占めをすることになる。なんという女に巡り合えたんだろう。男は有頂天になった。
「井崎さんね。どうしたの?」
 ベッドの上で携帯電話の着信に出ている、全裸の常盤静香を見つめながら、男は携帯から漏れてくる井崎という男の声に、耳を澄ませた。
「しばらくだったね。どうしてた?まだそっちに行く予定はないけど、君の方はどう?東京に来ることはない?」
 常盤静香はすぐに答えはしなかった。
「ねえ、ちょっと、今忙しくてね。また掛けなおしてもらっても困るけど・・・。その・・・、今ね、ゆっくりとしている時間がないのよ。わるいけど、邪魔しないでくれる?それに忘れてないわよね。あなたが私に出した手紙。自分の言葉に責任は持ってるわよね。まだ、あの言葉の効力は、絶大だと思うんだけど」
 常盤静香は電源を切った。
「なあ、いいのか?」
 男は、常盤静香にもう一度かけ直すように言った。常盤静香は素直に従った。
「井崎さん、ごめんなさい。その、この先、ゆっくりと話しをする機会は、ないと思うから。今、伝えたいことはすべて話してくれるかしら」
 井崎が電話越しに話してるあいだ、ベッドの中の男は、膝達立ちしている常盤静香の性器に手を伸ばした。中指をそっと膣にあてがった。そこはショックなほどに濡れていた。男は第一関節まで挿入し、そしてゆっくりと左右に揺すぶった。常盤静香はほんのわずかの溜息を洩らしたが、自分の口元を右手で塞いだ。
「誰かいるのか?」井崎の声が受話器越しに寝室に響き渡る。
「ううん。誰もいない・・・うぅぅ」と常盤は首を必死で横に振りながら、膣に入った男の指の存在を、全力で否定した。男の指は第二関節にまで達していた。膣壁を圧迫されるのを感じた。男はすでに、常盤を背後から、包み込むように抱いていた。男の唇が首の裏に感じる。舌が背中を這ってきた。常盤静香はすでに耐えきれなかった。大きな喘ぎ声を出した。すでに井崎が何をしゃべっているのかも、定かではなくなった。それなのに、常盤は、受話器を放すことも、通話を切ることもしなかった。そのまま受話器に向かって、声を上げていた。その様子に、男はさらに興奮して、左手は乳房を揉んでいった。
 性行為は終わった。
 携帯電話は床に転がっている。男が拾い上げてベッドの上に置いた。ちょうど常盤の股のあいだに置かれた電話機を、彼女は顔を少し起き上がらせて、場所を確認した。手を伸ばした。すでに通話は途切れている。いつまで繋がっていたのだろう。着信履歴を確認する。井崎からの電話が、二十時三十二分にあった。発信履歴を確認すると、そこにも井崎の名前があった。二十時三十七分だった。井崎からの連絡は夢幻ではなかった。目の前の男に促され、掛けなおした現実も、確かにそこには存在していた。
 常盤静香の心は、ずっと乱れたままだった。この数十分のあいだに起こってしまったことを、冷静に振り返ることもできなかった。そもそもどうして、井崎から連絡があったのか。どうして他の男と寝ているときに、電話に出てしまったのか。そして一度、断絶したにもかかわらず、何故再び繋いでしまったのか。その理由が全然わからなかった。ただ何も考えずに、すべてが反射的になされたことだった。
 だが時間がどんどんと深夜に向かっていくにつれて、自分が取り返しのつかないことをしてしまったということを自覚していった。落ち着きを取り戻していくにつれて、心の中では、実は井崎に対して、別の男の存在を見せつけたかったのだと自覚していった。私は井崎に隠れて、他の男と密会することを望んでいたわけではなかった。井崎に堂々と見せつけることこそ、この目の前の男が存在する価値、そのものだったのだ。タイミングよくやってきた井崎の電話に、私はここぞとばかりに、そのチャンスをものにした。常盤静香の心は、何故か晴れやかになった。今まで抱えていた、もやもやとした気持ちが解消した。あの手紙を、井崎からもらった時点で、すでに井崎に対する復讐心に火はついていたのだ。
 男は、性的絶頂を果たしたあとで、電話を拾い上げ、また常盤の体を覆うような体勢をしばらくとった。何も話かけてはこなかった。こういうときは、私から何か言うべきなのだろうか。この男は今どんな気持ちなのだろうか。私に男の影があったことに、素直に驚いているのだろうか。そのことがさらに、自らの性欲に拍車をかけ、私に対する気持ちも、より強くなっていったのだろうか。嫉妬心がどの程度高まっていくことが、男の人にとってはベストなのだろう。常盤はずっと考え続けた。
 男にかける言葉は、思いつかなかった。男の鼓動に耳をすませた。やはり、高鳴る鼓動は治まりはしなかった。このあとが楽しみだった。いったいこの三角関係はどういった進展を見せていくのだろう。井崎はいつ、通話を断ち切ったのか。それが最も知りたいところだった。性的絶頂を迎えるまで、井崎は耳を澄ませていたのだろうか。
 私は井崎と次に話をするとき、何をどう伝えればいいのだろうか。男と関係をもっていたことを、素直に伝えるべきなのか。それともあれはただのマスターベーションだったと、あからさまな言い訳をしたほうがいいのか。
 この男の手は、今も、私の内腿から膝にかけて、優しく触れていた。


 『ホワイト.エグゼビッション』に入場したのは、結局、六時を過ぎてしまった。
 乗っていた列車の安全ブレーキが、突然作動したらしく、その確認のために、三十分以上も止まってしまった。乗り合わせていた人たちは、万理に群がった。サインを迫られた万理は、仕方なく応じた。同じ車両にいた人間の、ほぼ全員に応じたのだった。そのおかげで、緊急停止している間のやきもきした不快感を、逸らすことができた。シカンはやはり、マネージャーの役割をずっと演じ続けていた。万理は次から次へとやってくる仕事をこなすかのように、そしてサインのあとには、握手までしていた。
 万理も、内心は焦っていたように思う。展覧会の最終日の、最後の一時間に、まったく間に合わなくなるという事態を恐れていた。万理は時計を気にすることなく、笑顔で人々に対応していたことが、余計にシカンには焦燥感の表れだと感じた。
 列車は動き出し、乗務員の説明が続いた。安全確認ができたのだという。人身事故ではなかったようだ。信号トラブルだった。上野駅に六時二分前に着いた。
 上野公園の入り口には、人の唇のようなオブジェが縦に飾られていて、それが数メートルおきに並んでいて、美術館へと誘導していた。
 唇のオブジェは、人の背丈よりも大きかった。公園の入り口にあったものよりも、だんだんと背丈は伸びていた。赤みは帯びてなかった。白い唇だった。その連続性に、唇の残像は、頭の中にくっきりと残ってしまった。
 いつの間にか、唇のオブジェはなくなってしまったにもかかわらず、目の前には巨大な白い唇が、縦になって浮かび上がってきた。そしていつのまにか、その唇は横に広がり、パックリと開いてしまっていた。そこに、自分の身体が吸い込まれていった。
 万理を探した。急に視界に異変が起こった。チケットは万理が持っていた。
 シカンは、巨大な白い唇の中に吸い込まれていくように感じた。しかし、その出口を今だに探りあててはいない。シカンは、妙な空間の中に入り込んでしまっていた。気味が悪かった。万理!と叫んでみたが、声は少しも出なかった。
「いらっしゃいませ」
 チケットを切る女性のスタッフが目の前に現れる。横には万理がいた。万理は二枚のチケットをスタッフに渡した。
 二人は入場した。すると、再び、白い唇が現れる。ぱっくりと開き、今度は本当に入場ゲートとして、目の前に現れる。唇は赤へと変化していった。赤いライトが発光していた。充血し、今にも張り裂けてしまいそうだった。
 我々二人はくぐって、中へと進んだ。するとそこは、野外だった。シカンは万理を見た。夜空が広がっていた。横には確かに万理がいる。周りを見回したが、そこには茫漠とした暗闇が広がっている。空には星が瞬いている。後ろを振り返る。くぐり抜けたゲートはどこにもない。
 すると、空には白い巨大な唇が、また縦になって左右に並んでいる。
 今度は、横へと回転し、本当に人間の口元のように変化する。口はほんのわずかだけ、開かれ、それは不敵な笑みを浮かべているようだった。本当に、笑い声が聞こえてきそうだった。そして唇は闇夜に消えた。
 ようこそと、挨拶をされたかのようだった。
 空に一瞬稲妻のような光が走った。縦に亀裂が入った。そこが裂け目となって、夜空がほんのわずかだけ開いた。光がもれ出ていた。すると引き裂くように、その裂け目は一気に広がっていった。眩しさにシカンは耐えられずに、手で目を覆った。闇の向こうから光が生まれ出てきた。シカンは出産に立ち会ったかのような錯覚を覚えた。生命が生まれるその瞬間を見たように感じた。一瞬だったが、世界が一面光に覆われた。何のデモンストレーションなのか。恐る恐る目を開けたシカンの目の前には、真っ白な曇りのない一つの部屋が現れた。
 万理とシカンは二人で佇んでいた。
 どれほどの時間が経っただろう。二人は言葉を失っていた。身動き一つとれずにいた。
 金縛りにあったままのようだった。横にいる万理の姿を確認しようとしても、首は少し
も動かない。声帯は膠着したままだった。白い部屋はゆっくりと、日没の刻のように光を
失っている。その部屋は、どこか宙に浮いたままの空間であって、その立方体が浮かんで
いるような気がする。
 だが、その光源はエネルギーを失い、空間は暗闇に包まれていく。

 再びシカンと万理は、草原の中で夜空をみているような世界へと戻っていく。笑みを浮かべた唇が、夜空に現れるのを期待したが、それは一向に現れなかった。夜空にはあらゆる星が、点滅を繰り返すようになった。タイミングはすべてバラバラで、その複数のリズムの融合は、不協和音を発生させているようだ。すると空は、渦を巻き始める。あらゆる場所でうねりを始める。それは本当に、気味が悪かった。蛇がのたうちまわるように、空全体が異なる方向へと動き始めている。ある部分は赤い鱗に見え、ある部分は黄色い鱗のように見えた。大粒の雨が落ちてきて、遠くの方から雷鳴が聞こえた。虎の嗚咽のような叫びが聞こえるようになる。遠くの方には、先の尖った山のようなシルエットが見えた。城のようにも見えた。遥か彼方に見えた、その先の尖った影だったが、やがては降りしきる雨の滝で、次第にその輪郭を失っていく。
 シカンはずぶ濡れになっていた。雨は止むことがなかった。虎の嗚咽も続いていた。爬虫類か何かが地を這うような音が、わずかながら聞こえてきた。人の悲鳴も聞こえてくる。女性の淫靡な声も。だがそれは、別の人間を体内に受け入れているときの声なのか、別の人間を体外に輩出しようとしているときに出した声なのか、そのどちらのようにも聞こえた。


 『ホワイト・エグゼビッション』の世界からは、いつ抜け出たのか。
 シカンには、その自覚がまったくなかった。気づけば、万理と共に上野駅に向かって、公園の中を歩いていた。何と言ったらいいのか、言葉が見つからなかった。しかし、万理がそのあと話していた内容によれば、どうも展覧会には、シカンが今さっきまで体感していた世界が、そのまま絵の中に封じ込められていて、それを我々二人は、一緒に見て回っていたらしいのだ。額に入った北川裕美の絵は、五十点を超えていた。整然と並べられた絵の数々を、我々は一つ一つ吟味しながら、閉館まで居たのだという。
「ほんとに、そうなのか」
 シカンは万理に訊いた。「野外ではなかったのか?」
「なに、言ってるのよ。ずっと、私の横にいたのに」
「確かに、横にはいたさ。問題は背景のことだよ。空間のことを言ってるんだ」
「そんな変なこと、いつまでも言ってないでさ、それよりも、あなたの休暇も終わってしまったわね。別れましょ、私たち。もう二人で会うのは、今日でやめましょ。もともと付き合ってるつもりはなかったでしょうけど。プライベートで会うのは、やめたほうがいい。といっても、今後はどんなに努力しても、この二人の生活は重なり合わないけど。そろそろ、別々の道を、歩むときが来たようよ。今までありがとね。私も、この12日間は楽しめた。心から安らぐことも多かった。最後に、北川裕美の絵も見れたし。今が一番いいときよ。ここを逃したら、わたしたち、きっと今度は、憎み合う仲に変わっていくわ。一番いいときに別れましょう。でも約束したいこともあるの。今後、私たちは、プライベートでは会わなくはなるけど、必ず一緒に闘いましょう。舞台も生活もまったく重なり合わなくなるけど、それでも戦友になる。全然交わらない異なる道を、歩むことにはなるけれど、同志として、心の中ではいつまでも結ばれていたい」
 シカンはずっと無言で聞いていた。
 やはり、この女の言葉は、表面的には理解できなかった。何度も何度も、頭の中で繰り返して、再現して、丁寧に咀嚼していかなければならなかった。シカンは必然的に無言になった。
 ふと、別の女の影が万理と重なった。シカンは、その蘇ってきた女の姿に、愕然とした。亜子だった。かつて自分がマネージャーをしていた時代に、担当していた女性の画家だった。半年ほどではあった。あの女も理解不能であった。突然、短期間で無数の絵をかき上げたと思ったら、次の瞬間には、ぱったりと蝉の抜け殻のように、ぐったりと何もしなくなる。書き上げた絵の展覧会の手配を、自分は担当していた。その展覧会に、作者本人を登場させるため、亜子の移動を手伝っていた。常に行動を共にしていた。彼女とは恋人関係にあった。勢いで籍までいれたこともあった。だが展覧会が終わり、いつ終わるのかもわからない彼女の休暇に入ったとき、シカンは文章を書き始めていた。脚本にまで仕上がることはなかった。そのままどこにも発表することはなく、どこかに行ってしまっていた。
 しかし、あれがきっかけで、亜子のマネージャーをやめた。
 映像の世界へと一人で入っていった。万理にも過去の自分を訊かれた。しかし、冷静に振り返るには早過ぎた。今がそのときだった。亜子の残像が、こうして万理の不可解で突拍子もない言動や行動に、反映されているかのようだった。
 そして、北川裕美の画家の活動にも、反映されているかのようだった。しかも、自分が映像の世界に入るきっかけとなった、脚本の真似事のようなことを、この万理という女は実際に自ら何本も書きあげ、完成させ、そして映画へと仕上げていっている。また、あらたな脚本も書き上げたのだという。このことは、すべて、偶然とは思えなかった。亜子の幻影が、あちこちに散らばっているかのようだった。分散してしまったその要素を、一か所に集めると、そこには、あの女の姿が立ち上ってくるようだった。

 別れようという万理からの言葉を、シカンは、真摯に受け止めた。
 自分は亜子に対して、直接別れをつげなかった。マネージャーをやめるということを、会社の方に言っただけで、亜子に面と向かうことはなかった。自分は逃げるように去ってしまった。だが、万理は違った。確かに不可解な言動は多かったが、それでも、正直な気持ちを相手に伝えるという行為は、少しも怠ることはなかった。
 シカンは、この自分の逃げ癖を呪った。今度こそは、逃げてはいけないのだと、自分に誓った。万理との別れを受け止め、彼女の不可解な言葉を、きちんと咀嚼し、時々襲ってくるエリア151の存在の影に対する、見て見ぬふりもやめ、逃げたままになっている亜子の存在も、否定せず、そして自分を立て直すべきだと感じた。
「一緒に闘うという意味が、俺にはわからない」
 正直に、シカンは、万理に訊ねた。
「何かを、すでに、共有しているのだろうか」
「共有したじゃないの」万理は即答した。
「私は、あなたの過去と、少しだけ重なりあった」
 確かにそうだと、シカンは思った。この女の言葉は、妙に的を得ていた。説明的ではない、順序もめちゃくちゃで、論理性も整合性も何もなかったが、ずばり核心をつく鋭さだけは、最初からあった。それは、万理を映画監督として、成功させている唯一の才能だった。彼女の発信する何かを、理解できないというのなら、それは受け取った方に、何か問題があるからなのではないか。シカンは今、初めてそう思うようになった。受けとる方に、歪んだ考えや、光を遮る黒い雲が、かかっているからではないか。それを取り除いたとき、彼女の発信は、何の違和感もなく、自分の元に通ってくる。
「S・Gは、いつ、公開するの?」
「来年ね。今年の夏には、撮影に入りたいから」
 その撮影現場を、見せてはくれないだろうか。シカンはそう言いたかった。しかし、『明日からは、別々の道を歩むことになる』と言った、彼女の断定的な言葉を、思い出し、喉を詰まらせた。場違いで、見当違いな言葉を発するのは、避けたかった。
「わかったよ」
 シカンは、それ以上、何も質問することなく、万理と別れた。


 その夜、シカンは万理と別れたあと、一人でLムワの墓石へと向かった。
 昼間であっても、墓地に一人で行くのは嫌だったが、シカンはどうしても今日中に行くつもりだった。休暇の終りが、迫ってきていた。すでに八時を過ぎていた。電車を乗り継いでいった。余計な雑念を取り払い、ただLムワの墓石を確認することだけに集中した。
 明日になってしまえば、この行動もすべては、意味をなくしてしまう。生存していた期間が、13年であることを明記した墓石。そして、『この心臓は、誰にも掴ませてはならない』といった言葉が、刻まれた墓石。井崎と二人でいったときには、確かにそう彫られていた。あのときは、あれ以上、特に気になることはなかった。当然、おかしいなとは思ったが、それ以上、継続的に、頭に引っ掛かり続けることはなかった。すぐに、仕事に忙殺された。プライベートでは、もう私たちは、会うことはないと断言した万理の言葉を、何度も反芻した。プライベートでは、という下りが、ほんのわずかではあったが、今思えば、強調されていたように感じた。ということは、仕事では、再会することがあるのだろうか。そう言われてみると、『ラスト12デイズ』では、すでに間接的にではあったが、二人の仕事は重りあっていた。来たるべき、何かの前哨戦であるかのように。暗示的だった。
 墓地に、最も近い駅に降りたった。そして、タクシーに乗り込んだ。歩いても十分くらいの場所だったが、あえて車に乗った。墓地につくまでのあいだに、心が萎えてしまいそうだった。引き返してしまいそうだった。歩くのは、墓地の入り口からでいい。運転手は不信に思ったことだろう。墓地のほとんど目の前で降りたのだから。致命的なミスを犯してしまった。そのままタクシーを帰してしまった。気づけば、帰りの足をなくしていた。『ラスト12デイズ』の撮影のときも、ショーを行ったホールは、天井が存在していたにもかかわらず、途中から夜の空が現れていた。稲妻が走ったのも覚えている。空の闇が、のた打ち回るかのごとく、捻じれていったのを、この目で見ていた。空を染め上げる、赤や黄色や青の色で描かれた、龍のような爬虫類のような肉体が、会場全体を見下ろし、今にも地上に降りてきて、そこに集まった群衆を蹴りつけ、あるいは飲み込んでしまうかのようだった。
 群衆に対する攻撃性というよりは、天に生息する動物たちが、その自らの重みを支えることに、限界がきたかのようだった。そして、地上に落ちてくる。大地は、激しく揺れるだろう。傾斜が変わり、水の流れが変わるだろう。だが、あの空を覆った奇妙な生物は、自らの重みに、引っ張られることはなかった。地上の生物とは違い、重力とまったく関わりはないのだから。それでも、あのとき、確かに、我々の側に出現した。首が伸びてきた。あそこにいた観客の何人かには、触れたのではないか。危害を加えたわけではなかったが、結果的に、何人かの人間は、傷害を負ったのではないか。もう一度、ビデオを見る必要があった。来たるべき何かの洗礼を受けた人間が、そこには、何人かいたのではないか。
 シカンはここに来て、過去において、自分が関わった仕事の一つ一つが、気になり始めていた。ただ、前にだけ突っ走っていた。わき目も振らず、余計なことは、削ぎ落すかのように。だが意識の中には、それまでの記憶が、リミットぎりぎりまで、積もってしまっていた。無意識に長期の休暇をとったのも、偶然ではなかった。もう心は限界に来ていたのだろう。清算のときが来ていたのだろう。けれど、12日目の、しかも、残り三時間を切ったところで気付くとは遅すぎた。
 墓地に入ってから、どれほど、時間が経ったことだろう。
 Lムワの墓石には、最短距離で辿りつくことができなかった。完全に場所を忘れていた。整然と区切られた、道だったが、そのどこに自分がいるのかも、わからなくなってしまった。入り口がある方向も失っていた。運転手を帰らせてよかったのかもしれない。今日中に帰ることはできないかもしれない。そんな不吉な予感に襲われる。
 万理と井崎は、本当に付き合ってはいないのだろうか。恋人ではないのだろうか。万理は言っていた。井崎さんには彼女がきっといるのだと。決まった一人が。女の本能的な勘で、そう感じ取ったのだろうか。万理のことを考えると、何故かしら、井崎のことばかりに繋がってしまう。Lムワのことに近づけば、そこにもまた、井崎の影を感じとってしまう。どこにいっても、井崎という男の引力が、巧妙に働いているようだった。顔のない化け物のように、その男は、シカンの潜在意識に現れてくる。『ラスト12デイズ』、『ホワイトエグゼビッション』で姿を見せた、あの化け物と同様に。間接的に。実体はあるのに。まるでないかのように。
 井崎と性行為をしている万理の姿など、簡単に想像できた。
 井崎がどんなセックスをするのかもわかる。ほとんど暴力だ。だが万理はその衝撃に、快感のあまりに、のたうち回っている。それは肉体的に傷つけられるのではなかった。精神世界の領域のことだった。万理の心の、一番柔らかいところを狙って、引きちぎり、大量の血を、そして、汚物を垂れ流させている。見るに絶えない絵だった。けれど、それはどこか、北川裕美の絵にも似ていた。今となっては、あの絵が、どんな風景を描いていたのか、ほとんど忘れてしまっていたが、胸くそ悪い印象だったということだけが、この身体には残り続けていた。
 万理は、井崎に蹂躙された、そのお返しに、彼の性器を噛み千切り、そして床にぽいっと吐き捨てる。井崎はものすごい形相で、その痛みに耐えている。しかし、次の瞬間、彼にはまた、別の性器が生えそろっている。より強力な性能をもった性器が。そして、その凶暴性は、再び万理へと向けられる。
 Lムワの墓標を、いまだに発見できずにいた。


 数日後に目を覚ましたシカンは、病院のベッドの上にいた。聞けば、上野公園の敷地内に転がっていたのだという。雨に濡れ、着ているものは、至るところが切れてしまっていた。そうじゃないと、シカンは答えた。自分が意識を失ったのは、荻窪だと主張した。そこに知り合いの墓地があって、夜中に突然墓参りすることを思い立って、そして訪問したのだ。駅のタクシー運転手に訊いてみたらいい。その日の九時近くに、墓地の前で下車した男がいたと、証言するだろうから。それが俺だ。しかし、そんな証言は、結局取ることができなかった。
 さらには、もっと不可思議なことまであった。
『ホワイトエグゼビッション』は、まだ開幕してさえいなかったのだ。


 万理は、シカンに言われた『井崎と付き合っているんじゃないか』という言葉が、ずっと消えずにいた。そんな事実はなかったが、そう言われると、妙に意識が過剰になっていった。しかし、それは、井崎に対する恋心ではなかった。彼に自分の弱みを握れられているという、恐怖心だった。井崎と初めて会ったとき、彼は私を撮ったビデオを持っていた。私が深夜に一人で行動していたその様子を、彼はどういった方法で、入手したのかわからなかったが、その一部始終に追っていた。そして、私の前に、その映像を差し出してきた。気持ちの悪い初対面だった。けれど、今になって考えてみると、あの夜、井崎に会う以前には、映画を自分でとったり、脚本を自分で仕上げたりするようなことは、なかった。シカンによって、女優として演じるという才能が見い出されたが、今度は井崎によって、作品を生み出すという才能が開かれたのかもしれない。あのとき撮られていたビデオのことは、すっかりと忘れていた。
 そしてさらに、井崎に命令された唯一の事を思い出した。Lムワがそのとき書いていたであろう、著書のデータを盗んできてほしいということだった。そのときは、舞と二人でLムワの邸宅に行った。ところがLムワは、自宅から錯乱した様子で、飛び出してきた。そして、ラブホテルへと、一人で駆け込んでしまった。舞と私は、その後を追った。Lムワのチェックインした部屋へと向かった。三人で過ごした夜だった。
 この二つの記憶が、いつだって、意識の下に封じこまれていた。女優から映画監督にまで、大きく飛躍した原動力がそれだったのだ。『井崎の女じゃないのか』というシカンの直観は、大きく外れているわけではなかった。
 井崎は、私の中で重要なポイントを占めていた。そこをシカンは、嗅ぎ取ったのだ。万理は井崎に電話をした。彼はすぐに出た。
「何か、用か。ちょうどよかった。話し相手が欲しかった。元気なのか?仕事はどうなんだ?」
 その井崎の第一声は、今までにない、落ち込んだような調子だった。
「俺は、あのファッションショーからは、ほとんど何もやっていない・・・」
「そうなの?そんなことはないでしょ?あなたのことですもの。あ、そうそう。北川裕美の展覧会も、もうすぐじゃないの!あなたも関わっているんでしょ?それに先立って記者会見があるのよ。八年ぶりかしら。彼女が公の場に姿を現すのは。とっても楽しみ。どういう雰囲気になっているのかしら。何を話すのかしら。けっこうな注目を浴びると思うんだけど。ねえ、井崎さん。彼女と会わせてくれないかな。その、仕事がらみでもいいし、プレイベーとでもいいし。そうだな、やっぱり、仕事で会ったほうがいいのかもしれない。私、あの人に憧れて、この世界に入ったんだから。私が入ったときに、ちょうど入れ違うように彼女は結婚して、引退を決めてしまった。だから、今度は、入れ違いにならないようにね。同じ世界に一瞬でもいいから、一緒に立っていたいの。ずっとそう思っていたの。夢だったのよ」

「なあ、こんな気持ちになるのは、初めてだ」
 井崎は力のない声で言った。
「俺は、見捨てられたんだ。死んでしまいたい」
「ちょっと、冗談はやめてよね。どういうつもりなの。酔っぱらってるの?」
 万理は、井崎が半分からかっているのかと思った。
「ああ、酒はずいぶんと飲んだな。昨日までは、体調は万全だった。仕事も順調だった。ところが、深夜、日付けを跨いだ刻だった。ふと、彼女の声が聞きたくなって、それで静香に電話をかけた。すると、ああ、思い出したくもない。なんということだ。そんなばかな。俺が甘かった。騙されていたんだ。あいつは、いとも簡単に俺を裏切っていた。そんな調子なら、過去にだって、何度もあったはずだ。信じられない。そういう女だったんだ。ついに本性を現した。俺は今まで、ちっとも気づかずにいた。馬鹿な男だ。そんな男に、いい仕事などできるはずもない。これまでの自信は、あっけなく吹き飛んだ。すべては駄目になる」
 井崎の、今にも泣きそうな声を、万理は黙って聞いていた。
「大丈夫だから」と万理は言った。「何もかも、大丈夫だから。本当よ。あなたは守られているんだから。それに私が守ってあげる。私の胸の中で、思いきり泣いたらいいのよ」
 急に井崎が、自分の子供のように思えてきた。彼が愛おしくなった。
「どこにいるの?」
「ホテルだ」
「どこの?」
「覚えているか?」
 井崎の声は、少しだけ勢いを取り戻していた。
「最初に会ったときの、ホテルだ。そこの、6460号室にいる」
 それだけを聞くと、万理はすぐに部屋を出ていく準備をした。メイクもそこそこに、駐車場まで降り、自ら車を運転して、言われたホテルへと向かった。
 そのときも、ずっと、彼が持っているはずの、あの夜のビデオのことを考えていた。決して公表されたくはない映像を、彼は握っているのだ。どうしてかはわからなかったが。
 けれども、今は、彼を元気づけたいと思った。静香という女の名前は、初めて聞いた。あいつが裏切ったと、井崎は言った。やはり付き合ってる女がいた。話しの感じからは、長い付き合いのようだった。二人はずっと、着かず離れずの、長い交際を経ているに違いない。きっと、井崎の仕事についての理解も、かなりあったのだろう。彼の邪魔をせず、彼が自由に動いていけるように配慮できる、そんな女だったのだろう。井崎も当然、信頼していた。
 しかし、その信頼が、裏切られる何かがあった。男しか考えられなかった。彼女もやはり女だったのだ。井崎に配慮するあまりに、自分の私生活の寂しさを、犠牲にしていたのだ。そんな心の隙間には、別の恋で慰めるしかなかった。恋とも呼べない、ただの肉体関係なのかもしれない。どういった状況で、井崎にばれてしまったのかはわからなかったが、とにかく、井崎はその事実を知ってしまった。あるいは、その現場を目撃してしまった・・・。
 ひょっとすると、これから行くホテルが、その舞台だったのでは?
 ホテルに着くと、すぐにエレベータに乗り、604号室を一直線に目指した。

 井崎は、604号室のベッドの上で小さく包まっていた。ドアにはロックがかかってなかった。部屋に入ったとき、井崎の姿は、一瞬どこにもなかった。布団の上掛けのようにも見えた。
 万理は井崎に近づいた。
 井崎は体を丸め、顔をベッドに押し付け、肩を小刻みに震わせていた。身体そのものが、縮んでしまっているかのように見えた。それが井崎なのかどうかさえわからなかった。声をかけてみても、顔を上げる様子はない。何度も肩を叩いたり、背中をさすってはみたものの、井崎は一向に反応を示してはくれなかった。自分が万理であることをちゃんと伝えようとした。
 しかし井崎は、自分以外のすべての人間を拒絶しているかのようだった。
 自分が万理であることを告げてみても、結果は同じような気がした。万理はそれでも、井崎を包み込み続けた。ほんの少しだけ、体が大きくなっていくように感じた。ちゃんと自分が万理であるということが、伝わっていればいいと思った。たとえ、今日の一晩を、覚えていないにしても、自分が、確かに、この手で温もりを伝えたという事実を、刻みこみたかった。井崎と出会ったからこそ、今の自分があるという感謝の念を、どういった手段であっても届けたかった。今、自分にできることは、これくらいしかなかった。
 深夜、万理の睡魔が、ピークに達した頃、ほんのわずかだが意識を失っていたとき、気づけば井崎は起き上がっていた。横たわる万理を、井崎は見下ろしていた。その瞳は、すでに濡れていなかった。いや、そもそもの初めから、泣いていたのかどうかもわからなかった。部屋に入ってから、初めて彼の顔を見た。
「何でも言って」と万理は言った。「あなたのしてほしいことを、何でも」
 万理は、服を脱ぎ始めた。井崎の性器を撫で始め、彼の下着に手をかけた。
「ちょっと、待ってくれ」
 井崎は、万理の右手首を押さえた。そして俯き、何か物思いにふけるような、空白の時間が続いた。「ごめん」と井崎は言った。「君と、そういうことはできないんだ」
「いいのよ。そんふうに言わないで。遠慮しないでいいから。今日のことは、誰にも言わないから。それに、あなたには、ずっと感謝していたのに、それを伝えてなかった。伝えてなかっただけでなく、自覚もしてなかった。言葉だけじゃ伝わらないわ。あなたが弱っているときに、力になってあげたいの。エネルギーを充填させるには、コレが一番でしょ。今、私は、恋人がいないの。気にすることは何もないの」
 しかし、井崎は、万理の体に触れることはなかった。
「駄目なんだ。君を抱くことはできないんだ」
 万理の触れていた井崎の性器は、まったく変化を見せなかった。
 むしろ、最初に触れたときから、小さくなっているように感じた。
「昨日の未明に、一体、何があったのかは知らないけど」万理は仕方なく、その話題に触れざるを得なかった。そんなことは忘れ、無心に体を合わせることが、一番だと思ったのだが、やはり井崎は、その話をしたがっているのだろう。しかし井崎は、その話はもうしたくはないと答えた。
 じゃあ、一体、どうしてほしいのか。
 一晩中、頭や肩や背中をさすっていてほしいのか。冗談じゃないと万理は思った。
 静香って女に浮気されたんでしょ。あなたたちが、どういった付き合いをしているのかは、わからないけど、そんな女とは別れなさい!それが嫌なら、浮気の一つや二つ、気にしないことね。私の個人的な意見を言えば、そんなことに拘ってどうするの。
「君とは寝ない。他の誰とも寝ない。俺はあいつとしか、そういう関係にはならない。理由は一つ。体は正直だからだ。君がいくら頑張ったとしても、俺の肉体は、君との合体を拒む」
「馬鹿、言ってんじゃないわよ。セックスだけが、すべてじゃないわよ。男と女が、裸で抱き合うこと。肌をつき合わせることのほうが、重要なのよ。あなたのあそこが、立つか立たないかなんて、そんなことは関係ないわ。二人の気持が分かり合えるってことが、何よりも大事なことでしょ。こんな、言葉の応酬を続けていても、何の進展もない。そうでしょ?」
「俺にはできない。跨ぎこすことなどできない。俺と静香は、一心同体なんだ。たとえ、遠く離れた場所にいたとしても。誰にも、その糸を断ち切ることはできない」
「まさか、あなたが、そんなにも情けない男だとは思わなかった。誰でも抱けるとは言わないけど、それに近い・・・いや、もっと言うと、男とさえ肉体関係を持てるんじゃないかと、ちょっと思ってた。残念ね。今となっては、そんなあなたと、エッチがしたいとは思わない。惨めな男。そんなんだから、彼女にだって、振られるのよ。愛想を尽かされるのよ。ところでさ、その女。静香だっけ?苗字は何なの?なに、静香?何をやってる女なのよ。いい度胸してるじゃないの。そうだ。あなたは、どこで、浮気現場を押さえたのよ。何も訊いてなかった」
 井崎は、そのときの情況を、細かく話した。
「なんだ。現場を押さえたわけじゃないんだ。証拠の品を押さえたとか、そういうことでもない。じゃあ、何も確定してないじゃない」
 井崎はあの受話器から聞こえてきた喘ぎ声を思い出した。自分との性行為のときには、決して出すはずもない快感におぼれた、あの声。違う男とは、あんな声をあげるくらいに、淫靡な行為をしている。
「どうして電話を切らなかったんだ?俺への当てつけなのだろうが・・・しかし・・・。別れたいのか?常盤静香という女だ」

 そのとき、井崎はふと、その受話器の向こう側にいた男が、Gなのではないかという幻想に襲われた。今はっきりと、その映像が頭に浮かんできた。Gがこれまでも静香に接触したときはあった。Gが、静香のことを知っているわけではなかったので、きっかけは静香からだったのだろう。あのとき、自分と最も接触のあった男に、静香は自ら近づいていった。そして、俺に対する情報を得ようとした。
 Gを、そのように利用しているのだと思った。結局は、俺のことを、もっと知るために、別の人間を必要としたのだと思った。でも、それこそ、思い込みだったのかもしれない。あのときも、Gと静香は、受話器の向こう側の世界を、繰り広げていたのかもしれない。Gだけなのだろうか。他にも、もっといるんじゃないのか。
 そう思えば思うほど、自分の知ってる男たちが、みな、常盤静香と肉体関係を持っているんじゃないかという妄想すら膨らんでくる。
 こんなことなら、常盤静香を、遠くに手放すべきではなかった。もっと近くで生活し、もっというと、結婚してしまえばよかった。静香を完全に、自分の見えるところに置いてしまえばよかった。そんな自分の気持ちを、井崎は完全に封印した。見て見ぬふりをした。他人の自由を、そのように、束縛しようとする自分の醜い心を、ないものとした。
「あのまま、朝までずっと、頭を撫でてもらいたかった」
 井崎は初めて、本心を語った。これまで、自分の気持ちと正直に向き合うことがなかった。そんな女々しい自分は嫌だった。人にそう思われるのも、嫌だった。
「ほんとのことを、言うとね」万理も、自分の心を吐露し始めた。
「あなたの、その、プラトニックな状態を望む心。嫌いじゃないのよ」
 そのとき、朝日が、カーテンの隙間から部屋に入り込んできた。


 テレビをつけると、朝のワイドショーで、前日に行われた北川裕美の記者会見が放送されていた。
 彼女を見たのは、Lムワ邸で一年前に会ったとき以来だった。たくさんの報道陣の前に、姿を現した彼女の風貌は、そのときとは変わっていた。八年前と、まったく同じ姿だった。一年前の彼女とは、大きく変わっていた。本当に同じ北川裕美なのか。シカンは疑った。
 北川裕美は、まずは二科展での受賞コメントをしていた。その事実を知る人間は、少なかった。あの、元女優の北川裕美であるとは、誰も思わなかった。彼女は、その一枚の絵をきっかけに、こうして大規模な展覧会を開ける道筋がついたのだと言う。
「この八年は、とても長かった」と彼女は言った。
「私と関わりをもった人間は、その時期、驚くほど少なかった。そして八年ものあいだ、その面子は、ほとんど変わることはなかった。新しく出会うひとは皆無で、しかも、かつての友達との交流もなくなっていった。世間からは忘れさられ、私はほとんど同居している男性だけが、人間関係のすべてだった。そんな生活が七年以上、続きました。
 こうして、表舞台に戻ってこられたのには、きっかけがありました。ある男性が、私に助言をしてくれたんです。あなたは絵を描いたほうがいいと。私は思いました。この七、八年の生活は、私の人生にとって、いったい何だったのかと。どんな意味があったのか。役割のようなものがあったのか。私は、その男性に言われるまで、このときの生活を、憎んでいたことに気づいたんです。自分自身、完全に受け入れていないことに、気づいたんです。しかし、それはそのとき、始まったことではありませんでした。七年前、女優として活動していたときからそうだったのです。あのときは自由になりたかった。スケージュルに縛られない、どのシステムにも所属しない、そんな自分を望んでいたんです。私の望みは、芸能界引退という形で、実現されました。しかし、引退してからは家庭に入り、そしてしばらく経った頃に、自分は間違った選択をしてしまったのではないか。あるいは、運命は私を、どうしてこんなに孤立した環境へと歩ませていくのか。そんなふうに、自分以外のものに憤りを感じることがたくさんありました。同居していた男性とは、険悪な雰囲気になることはありませんでしたが、それでも、内心では彼に対して、いつか復讐してやると思っていたのかもしれません。それも、私に絵を描いたほうがいいと、助言してくれた男性がきっかけで、気づいたことでした。
 私は、この八年のあいだに、心の中にたまっていった眼には見えない感情を、ここで正面から見つめなければいけないことを悟りました。私は覚悟したのです。どんなことになろうとも、すべてを曝け出さなければならない。そのためには、心の闇を映し出すための鏡、それが必要だった。私は、空白のキャンバスを鏡に見立てたのです。そして、その黒い世界に対面することで、今を生きようと真剣に考えたのです。同居していた男性も、認めてくれました。結果、彼とは、今、一緒に暮らしてはいません。今、私たちはお互いを必要としてはいません。八年前は、お互いを切実に必要としていました。それはまぎれもない真実です。今はそうではない。私たちは、同じ家に住むことをやめました。今は一人暮らしなのです」
「離婚したんですか?」
 レポーターの激しい声が飛び交った。
「そうではありません」と北川裕美は答えた。
「別居、ということでよろしいんですね」
「そうです」と北川裕美は答えた。「そして絵を描いていくうちに、私はこの七年のあいだの生活を、愛おしく思えるようになっていきました。絵はとてもグロテスクで気味の悪い、荒々しいものではありましたが、それでも私は、かつて女優をやっているときよりも、本来の自分に、近づいているのだと感じたのです。私は家庭に入り、社会からは引きこもった生活を続けていたわけですが、どこか無意識では、かつての華々しい生活のことを羨ましく思っていて、そこに帰りたいと、呪文のように、心の中で繰り返したていたような気がします。不幸になってしまった。かつてはよかった。そのことを繰り返し繰り返し、唱え続けていたのです。そんな私でしたが、風貌は昔とちっとも変らなかった。時々、会った人にはそう言われ続けました。北川裕美は、家庭に入って、それなりの幸せを掴んだのだと、周りにはそう思われていました。
 私は一年以上をかけて、絵の制作に没頭しました。この八年間と、向き合うことにすべての時間を費やしたのです。出来上がってからは、しばらく時間が経ち、その絵たちと、今度はコミュニケーションをとることにしました。私の中から生まれ出た、自分の赤ちゃんのような存在でしたが、『私たちは、もう、それぞれ別々の道を歩むべき時が来たようです』と声をかけました。私の分身ではありましたが、半永久的に傍にいるような関係になってはいけない。そう思いました。こうして絵にしなければ、ずっとその闇の子供たちは、自分の子宮の中に住み着いていて、私と撞着したままに存在していたでしょう。私は自覚していないのに、寄生虫のように、私と同化しているんです。けれども絵として、私からはほんのわずかな距離ですが、切り離され、しかも、その存在を、きちんと確認できる今は、お互いが、独立できるチャンスでありました。このまま、それぞれの道を歩んでいくようにならない限りは、切り離されはしたものの、ずっと、同居を続けていってしまうのと同じだと感じました。それでは、以前とまったく同じ状況のままです。それではいけない。もうすでに、こうして生命体としては、別れてしまったのです。そのまま、お互いの意志を尊重しないといけない。私は絵に話しかけ続けました。私たちはこれ以上、長くいる必要がない。あなたは、あなたが本来いるべき世界に、行ってほしいと。私もそうだと思う。別々の道を生きましょうと。今までありがとう。八年間、本当にありがとうと。そして、今、こうして私は、この舞台に立っているのです。あのときの北川裕美とは違いますが、しかし、北川裕美なのです。どうぞ、よろしくお願いします」
 マイクの前で、頭を深々と下げた彼女だったが、シカンの眼には、次第に、以前の北川裕美の風貌へと戻っていった。
 会見の始まったときの彼女の印象は、すっかりと、思い出せなくなっていた。退院の日の朝だった。


 そのとき、井崎もホテルのベッドの上で、万理と共に、北川裕美の記者会見を見ていた。
『よく、私の絵を観た人には、巨大な生き物が、画面から外に出てくることがあると言われることがあります。私はそういったものを描いたつもりはないのですが、それでも、そのように言われます。それどころか見ているうちに、その鑑賞者の周りの風景まで、一変してしまって、別の場所にいることがあるというのです。もはや、絵はどこにもなく・・・。何となく言ってることはわかります。とにかく、みなさんには、一度、美術館まで足を運んでもらいたいです』
―旦那さんは、お亡くなりになったんですよねー
 そういう質問がきても、北川裕美の表情は、ほとんど変わらなかった。
『そうです。火事で亡くなりました。残念です。そのまま自宅は引き払いました。その前に、私は家を出ていました。彼が一人で住んでいました。火の不始末のようです。ちょうど、半年くらい前でしょうか。私は絵を描いていました』
―そのとき、あなたとは、連絡がとれない状況にあったと、そう伝えられています。いったい、どういうことなのでしょうかー
『正直に言います』北川裕美は、やはり表情を変えなかった。口元には、だらりとした締まりのない様子はなかった。『知っていました。けれども、私は、自分からアトリエの外には出ていきませんでした。あのときは、出ていきたくなかった。元女優の北川裕美ということで、きっとカメラの前に立たなければ、ならなかったことでしょう。それだけは避けたかった』
―だからと言って、北川さんー
『おっしゃる意味はわかります。けれどこれは、私の問題なんです。彼には心からの祈りを捧げました。と同時に、私には、やらなくてはならない仕事がありました。雲隠れしていたことは、人格を疑われることにもなるでしょう。それは百も承知です。どんな誹謗を受けようとも、私には完遂せねばならないことがあったのです。今思えば、そんなに頑なにならなくてもいいと思うのですが、そのときは、駄目でした。しかし結果として、それを貫いてよかった。でないと、今日という日は、やってこなかったから』
―どうしてそんなに、元女優の北川裕美としては、カメラに映りたくなかったんですか?あなたは、昔のあなたと、少しも変わっていない。何も、恥ずかしがる状況にはないー
『夫は、わかってくれていると思います』
―私の質問に、正確に答えてくださいー
『二人のあいだのことは、二人にしかわからない』
―では、旦那さんのことに、話を戻したいのなら、・・・わかりました。あなたの旦那さん、そう、作家のLムワ氏ですが、一度、事故死だと確定はされましたが、そのあとで、疑惑が浮上しているそうです。事故死を取り下げるように、警察が動き始めているようです。もし、事故死だったとしても、それは、ただの事故ではない。最悪、いや、よしましょう。今日は、そういう場ではないー
『どうぞ。構いませんよ』
―殺害されたのではないかと、そういう疑いがあるんです。容疑者はまだ、絞られてませんが、当然、あなたも、重要参考人の一人になります。警察の捜査が入る。あなたの画家としての前途に、暗雲が立ち込めてしまうかもしれない。そのことはご存知ですか?―
『週刊誌の記者の方が、さっき来ましたよ』
―そうですか。ご存知でしたかー
『たとえ、変死ということになったとしても』北川裕美は、はっきりとした口調で、答えた。『私はまったく関係がありません。あの火事の、一か月前には、私はすでに今のアトリエに移り住んでいて、彼の居た家には、一度も行っていないからです。そして、誰かと共謀したとか、そんなことを疑われても、そのときの私の人間関係は、ほぼ誰もいなく、孤立した状況でしたから。絵を描くキャンバスとだけ、会話をしていたくらいですから。そんな、共謀する人間がいたのではないかと、疑われるだけ、逆に光栄です。そうなりたかったです。たとえ、犯罪であったとしても、誰かと繋がりが欲しかった。
 私は、別居する前に、長い時間、あの家そのものと、ずっと会話をしていた。やはり、人間関係は、ほとんどゼロですからね。ほとんど、日常的には旦那とだけですから。その旦那と別れたわけです。コミュニケーションをとる人間は、誰もいなくなります。私はそれまでの八年間、お世話になった生き延びさせてくれた家に、感謝の気持ちを伝えました。これからは別の道を歩むようです。今までありがとう。これからは会うことはなくなるけれど、お互いに元気でと。そのあと、火事が起こったことを知ったとき、私は驚きました。一体、誰が?夫の火の不始末ということになっていますけど、実は、私はそうは思っていないんです。誰か、別の人間が、故意に火を放ったとも、思いません。私はこう思っているんです。『家は自ら火を噴き出したんじゃないか』と。爆発したんじゃないかと。身勝手な発言であることはわかっています。でも、私はそう感じたんです。すいません。もうこれくらいでよろしいでしょうか。家そのものは、なくなってしまいましたが、そのあとも私は、家とコミュニケーションをとる努力をしました。そしてそれは、ちゃんとなされました。家はこう言ったんです。悪いことは何も起こってはいないと。もしそう見えたとしても、時間が経てば、必ずよい方向に進んでいくと。だから、他人に何を言われたとしても、あなたは堂々としていればいい。それよりもあなたは、あなたの道を進むことに躊躇してはいけない。この火事は、この事故は、あなたを、停滞させるために起こったことではないのだから。もっと言うと、あの人は、本当に死んでしまったのでしょうか・・・。もうやめましょう、本当に。これ以上続けると、『ホワイトエグゼビッション』が台無しになってしまいます。この事故のことは、展覧会とはまた別の機会を設けて、答えるつもりです。なので、ご容赦を」
 それ以上、集まった記者からの質問はなく、そのまま会見は終了してしまった。
 おはようございますと、朝の報道番組の司会が三人並び、陽気な音楽と共に登場した。
 井崎は大きく一息吐いた。万理も同じだった。604号室は、極度の緊迫感からは、解き放たれた。
「なあ、今、思い出したんだけど」
 井崎は、万理の頭に触れ、髪を撫でていた。
「なに?」万理は、眠そうなとろんとした目で、井崎を上目づかいに見上げた。
「前にも、女とベッドにいて、テレビを一緒に見ていたことがあったよ。常盤静香とね。画面に映っていたのは、雲中万理。君だよ。アカデミー賞の授賞式だった。そんなことがあったよ。今は、そんな女など、どこかに消えしまい、雲中万理が横にはいる。そして、画面には、北川裕美だ。変なものさ」
「ふふ。すっかりと、調子を取り戻したようね、あなた」万理は口角を上げ、微笑んだ。「昨晩のあなたも、本当のあなただけど、やっぱり今の方がいい。あんな姿、誰にも見せちゃ駄目よ。もしそういうときがあったら、私を呼んでね。私にだけ見せて」
 万理は、井崎の顔に近づき、軽いキスを唇にした。
「本当に変な朝だ」
 井崎はずっと、その言葉を繰り返した。結局、朝になっても、万理と井崎は、裸になることはなかった。
「私たちも、別々の道に」
 万理はそう言いながら、ドアを開けるときに、一瞬振りかえった。手を何度も振り、颯爽とホテルをあとにした。


 『家が自ら発火した』発言は、その後も波紋を呼んだ。
 そして、夫のLムワの事故死、という衝撃的な事実も明らかになったことで、展覧会の開催を危ぶむ声も囁かれた。何日か後に発表された、北川裕美からのコメントで、離婚の手続きが、もうずいぶんと前から進められていたことが明らかになった。夫婦の不仲説も、公にはならなかったものの、何年も前から噂されていた。夫のLムワが、不審な死を遂げたことが、北川裕美の絵と共に、いやそれ以上に、注目を集めていた。家が自ら発火したいうその発言も、そのあとで特に、北川裕美は言い替えることも、補足の説明をすることもなく、野放し状態であった。雑誌の取材でも、家の話はまったくしなかった。むしろ、コメントはいつになく辛辣だった。話は引退した後の八年間のことに及んでいた。絵の話や展覧会の話よりも、自らの孤立した生活について、彼女は語っていた。
 この八年間が何だったのかを、客観的に捉えることができる時期では、まだないかもしれないと彼女は言った。それでも、私自身を振り返ってみると、何もこの八年だけが、孤独だったわけじゃなかった。以前からずっと、自分の中に存在しているものだった。たくさんの人と関わりがあった頃から。たとえ、楽しく幸せなときを過ごしていると感じていたときでさえ、私はずっと、別の冷たい自分の視線を感じ続けていた。どこか冷めた景色をずっと見ていた。何か違うとずっと感じていた。何が本当の世界なのか、わからなかった。自分がそのとき体験している悦びを、醒めた目で見ている、もうひとりの存在を、ずっと感じ続けた。自分が繋がりたい世界は、もっと違うところにある。もっと深いところで、共振する何かを感じたいのだ。そう漠然と思っていたのかもしれない。孤立してはいなかったけど、ずっと孤独を感じていた。結婚して引退して、家に引きこもってからは、孤立もしてしまった。しかし、着ている洋服が変わっただけで、自らの心の中は、何も変わってなかった。しばらくすると、私は、そのほとんど一人きりの生活を、呪い始めていた。たくさんの人に囲まれていた過去に、もう一度憧れ、そのときに戻りたいとさえ、感じるようになってしまった。でも、それも今考えると、どっちにしろ、孤独はそのとき始まったことではなかった。物心ついたときから、そうだった。それが絵を描き始めたときから、少し状況が変わった。絵を描いているときだけ、一人きりであるという、あの違和感からは、解放された。しかし描き終わり、それを誰かと共有できるのかといえば、そのときはまた、一人きりになった。前よりも増して、一人きりであるということが、強調されていった。
 日々、絵がたまっていくにつれて、私はアトリエの外に、今度はそれを出そうと決意した。自らの部屋に置いておく、その許容量が、ついに限界にきたのだろう。だが外に出そうと決意したものの、その世界を共有してくれる人間は、誰一人いない。夫とは断絶していた。かつての友人とも、コミュニケーションが取れる状態にはなかった。私に知り合いは誰もいなくなっている。私は公の場に出ることに決めた。不特定多数の人の前に、立つことに決めた。しかし、そんな場にいきなり立てるはずもない。私の孤立感は増していった。孤立した状況は極まっていった。そんなときがずっと続いていった。
 しかしあるとき、行き着くところまで行ったのだろう。ふと、自分が、本当に信じる世界。感じる世界を、進んでいくことの本当の意味のようなものを感じた。最初は一人なのだ。そういう声が聞こえた。すべては一人から始まるのだ。そして、一人でやれる実力をつけろ。そういう声が聞こえた。私は、孤立をしている理由がわかった。それは、一人でやれる実力をつけるために、どうしても必要なときだったのだ。そして、そのつけた力を発揮するとき。外に向かって、解き放つ時というのは、必ず一人から始まるものなのだ。
 そのとき、頭上にあった曇ったままの覆いに、光が射したのだ。
 私の人生の何かが開いた瞬間だった。


「いよいよ、来年だな」
 年配の神官の一人が、若年の神官に向かって言った。
「来年が、何か特別な年なのですか?」
 若年の神官は、背筋を正して答えた。
「こいつに言ったって、仕方がないだろう」
 また別の年配の神官が言った。
「何か変わったことは、あっただろうか。何か気になるような変化が。そんな兆しが。どうだ?若い目から見た、今年の夏至の儀式は。それを訊きたいんだ」
「そういうことか」
 もう一人の年配の神官は納得した。部屋には三人の神官だけがいる。
「そうですね」若年の神官は、考え込む仕草をした。
「私は、七年間、神官を続け、夏のピラミッドを見続けていますが、そうですね・・・特に、今年が・・・いやどうだろう。そう言われてみれば・・・。すみません。やはり、七年前と、見た感じでは、特に変わりはなかったような・・・」
「本当にそうか?」
 年配の神官は、もう一人の神官と顔を見合わせた。訊かれた神官は、同意を見せるようにゆっくりと頷いた。
「君の目にも特に変わらずか。そうだよな。我々にも、まったく感じなかった。違和感という名の異変が。いったい、どういうことなんだろう。何か兆しがあってもいいじゃないか。なあ、そうだよな?」
 やはり、年配の神官は、同世代の男に言った。
「しかし、言い伝えによると・・・」
 そこで年配の神官は、声を途切れさせた。
「はっきりと、おっしゃってください!」
 若い神官は声を張り上げた。二人の神官の、たただならない様子を、感じとったようだった。
「君は本来、知るべき立場にいない」と年配の神官は言った。「しかし、まあ、誰にも口外しないという約束が守れるのならば、少しだけ話してやってもいい。ただし、もし口外した場合は、あの地下の池に放り込まれることになる。代々、そういう掟がある。しかし、我々が、君に伝えたことがバレてしまえば、当然、我々も同じことになってしまう。つまりは、三人があの池の中に沈み、お陀仏ということだ。そのまま放りこまれるのなら、まだいい。しかし当然のごとく、傷害を負わされてから、ということが・・・、この国のやり方なのは、言うまでもない。君も承知だ」
 この老人たちは、俺に、その秘密とやらを話がっていると、若い神官は感じた。
 一体なぜなのだろう。若い感性を必要としているのだろうか。
「来年で、夏至の儀式は、終わるということだ」と年配の神官は神妙な顔で言った。「終わるということが、どういうことなのか、私にはわからない。夏至の儀式が、予定されていないということだ。こんなことは、我が国が始まってからは、初めてのことだ。私が神官になってからも初めて。その、私でさえ、なんと、二年前に知ったのだ。神官を三十年以上勤めあげた人間にしか、儀式を司る日程を、正確に知ることはできないのだ。君は、あと、二十二年の歳月を必要とする。しかし、悠長なことは、言ってられない。
 我々二人は、神官の中では、いったいどの位置にいるのか。ピラミッドに見立てたとき、そうだな、上から三段目あたりの地位だろうか。しかし、こうして、何も詳しいことはわからない。知らされたのは、来年で、夏至の儀式が終わるということ。つまりは、再来年の夏には、儀式は執り行わない。そういうふうに、代々から続く未来の出来事は、語っている。神官は、儀式のための準備を、しなくていいということだ。する必要がないということだ。これが、いったい、何を意味するのか。そのさらに翌年になっても、儀式の復活はない。予定がすべて刻まれた石には、そこで、ぱったりと夏至が終わってしまっているのだ。今から二年後、その夏のピラミッドは、君がこれまで七年のあいだ見続けてきたものとは、様相が一変する」
「七年ではありません。物心ついたときからです」
「そうだったな。何も、神官職の人間だけのことではない。国全体のことであった。すべての人間が、体験していたことだった」
「そのとおりです」若年の神官は答えた。
「それでだ。君は、七年のあいだ、夏至の儀式の手伝いをしてきたんだよな。だが、二年後、君のやるべき仕事はなくなる。我々神官の、最大の仕事が消えてなくなる。もちろん、神官の仕事がなくなるということではない。国が亡びるということでもないだろう。ピラミッドが消えてなくなるということでも、おそらくはない。我々は神官として、存在し続ける。国もまたしかり。しかし、夏至の儀式は消えてなくなる。どういうことなのだろう。何が起こるのだろう。少なくとも、二年前の夏には、何も起こらなかった。もう消滅のカウントダウンに入っている。しかしそうはいうものの、若い君にも何の変調も見てはとれない。君が感じないとなると、我々には感じようがない。しかし、君には悪いことをした。こんなことは、君が知るべきことではなかった。希望に、期待に、胸を膨らませていたであろう若者に、“終わりの刻”を告げることほど、残酷なことはない。だが、一人くらい、構わないだろう。我々は、君を選んだ。侵犯をおかしてまで、誰か、次の時代を担う人間に前もって教えておきたかった。我々が、勝手に選んでしまったことに関しては、本当にすまないと思っている」
「どうか、そんなふうには、おっしゃらないでください。それよりも、僕は、真実を知りたい」
「そうだよな。そのとおりだよ」
「神官の中に、その真相を知っているものが誰かいると、そうお考えですか?」
 若者は訊いた。年配の神官は、お互いの顔を、見合わせることはなかった。最初に口を開いた方ではない神官が、今度は答えた。
「いると思う」
「王はどうなんですか」
「王は知らないと思う。宗教行事に関しては、我々にすべてを、一任されているから」
「そうですか」
「神官の中で、特に地位の高い人間。一人は、確実に知っている。私は一人ではないかと思っている」
「わかりやすい話ですね」若年の神官は言った。
「訊きだすことは、不可能だ」
「文献ですか?」
「わからないな」
「僕に盗み出してほしいんですか」
「そうは、言っていない」
「二年ありますね」と若年の神官は言った。
「二年あれば・・・来年の夏までには、何らかの」
「ばれたら終わりだぞ」
「けれど、まさか、儀式だけではなく、国自体が滅びるとしたら」
「それは、ない」
「なぜ言いきれるのですか?」
「儀式以外の、未来の刻は、ちゃんと刻まれているから。神官の仕事は、変わらずに、明記されている」
「そうなんですか・・・それが、本当なら、特に問題はないのでは?」
「よくも、そんな口が叩けるな」年配の神官が声を荒げた。「すまない。感情が一瞬、爆発してしまった。本当に申し訳ない。けれど儀式というのは、我が国の世界においては、それこそ、一年の大きな柱のような存在だ。これは、一種の、時計の役割を果たしている。その先、一年のモーターを発動させるためのネジを、しっかりと巻く役割を果たしている。それだけではない。それまでの一年の間に、溜まってしまった、不浄のエネルギーを、ここで、一気に清算する役割を果たしている。未来と過去の、繋ぎ目になっている。その繋ぎ目が、二年後に崩壊する。
 想像できるかね?
 その後、『一年の時間』が、やってくるのだということを、天と地を結ぶことで、人々に確かに約束し、つまりは確約をとり、そして世界は再び、陰陽のサイクルを刻んでいく。陽が登り、日が沈む。季節が移り変わってゆく。そのサイクルが崩れていくきっかけとなることだろう。そして、一年の不浄は、どこにも清算されることなく、漂い、空間の中に積み重なっていく。一年後、再びピラミッドは機能の一つを失う。儀式は執り行われることはない。さらなる不浄は積み重なっていく。まるで眼には見えない別のピラミッドが、着実に積みあがっていくかのように。来年の儀式は、約束されている。我々にとっては、最期の行事だ。そのことがわかっているのは、本来は十数人の神官だけ。しかし、極秘に君が加わった。君はおそらく、同世代の人間とは、著しく違った感情を抱きながら、来年のこのときを迎えることだろう。君は、別の意味での、イケニエそのものだよ」
「儀式の予定が、消えてなくなっているということは、生贄を選び育てるということもなくなるのですね」
「もちろんだ」
「残虐な世界というものは、綺麗になくなる。後世にとっては、きっといいことなのだろう。そう信じるのが、唯一の救いだな。本当のところ、君はどう思うんだ?儀式の予定が消えているということは、逆に考えればも、うその必要が、なくなるとも言えるよな。良い方に捉えることもできる」
「そうですね。わかりました。僕はその事実をちゃんと聞きました。そして受け入れられるように努力してみます。自分の中でそれを必ず消化させます。他の誰にも言わないことも約束します。ただ、自分の問題として、今受け入れました。日々、血となり、肉となるように生きてみます。もうこの話は、我々三人ではしないほうがいいと思います。来年の今日、またこの場所に集まりましょう。そのときまでに、僕は、僕なりにできることをしておきます。それでは失礼します」
 若年の神官は、丁寧にお辞儀をし、年配の神官の家を後にした。


 一年後、夏至の儀式は執り行われた。結局、若年の神官は、この八年目にも何の異変も感じることはできなかった。天候が異常になることもなかった。不作で食糧不足になることもなかった。奇怪な事件が起こっても、特に例年よりも多い、という感じはなかった。
 だが、不思議なことは起こった。
 その翌年の夏至の儀式の準備が、始まったのだ。
 誰も、そのことに不審がるものはいない。それはそうだ。例年の決まりごとである。その年の儀式が終われば、翌年の儀式の準備へと取りかかる。つまりは、一年を通して、夏至の儀式に関わる何らかのことを、人々はしているのだ。何も不自然なことはなかった。
 だが、若年の神官は、儀式の予定表の存在を知っていた。年配の神官に言われた通りなら、今年で終わりだった。来年の準備をする必要はない。だが現実には行われている。
 いったいどういうことなのか。若年の神官は、二人の年配の神官を探した。また来年の今日という日に、この部屋で会うことを約束していた。彼らの家へと向かった。しかし姿はない。部屋は空っぽだった。近隣の住民に訊ねてみたが、もう住んでいる人は誰もいないのだという。半年以上も前から空家になっている。
 若年の神官は、自分が騙されたのではないかと思った。年寄りの悪戯に、まんまと引っ掛かってしまったのではないか。怒りの矛先がなかった。その儀式の予定表が刻まれた、石という存在も、どこにもなかった。ただの年寄りが、恐怖と好奇心であたふたする坊主を眺めて、楽しんでいただけなのではないか。
 一度、位の高い神官に、直接訊ねてみた。来年の儀式は、今年と同様の内容なのですかと。
 彼は顔色一つ変えずに、そうだと答えた。そうして、月日は経った。春が過ぎた。生贄になる若者は、神聖な国の王となるための豪奢な生活を送っている。その王の女となるべく、処女のままに、様々な教育を受けた美しく若い女も、四人、若者との同居を続けている。いまにして思えば、高層のあの神官が、何故、顔色一つ変えずに、そうだと、その一言のみの反応だったのか。若年の神官が、何故、そのような質問をしたかについては、何も訊き返してはこなかった。そのことが、今になって不自然に感じてきた。そして、夏至の日はやってくる。
 だが、儀式は開かれなかった。
 若年の神官は震撼した。本当に、その現実はやってきたのだ。まさかとは思った。あの二人の神官の姿を探しても、あれ以来、彼らを見たことはなかった。本当に、あの二人の神官は実在したのだろうか。そのことでさえ、疑う自分がいた。あれは夢の中の出来事ではなかったのか。いや、そう思うのなら、今この現実こそが、夢そのものだった。若年の神官は、何が夢で何が現実なのかが、次第に混乱してきて、分からなくなってしまった。しかし、この夢は醒めなかった。夏至の日の当日、そして今から祭りが始まるという、まさにその直前まで、例年通りに、行事が始まろうとしていたのだ。
 ピラミッドの側面に少年が現れ、彼がピラミッドの階段を登っていくまでは。

 少年は集まった群衆に向かって叫んでいた。自ら神殿まで登り、そして火を放った。神殿は炎に包まれた。異変はほんの数十秒のあいだに起こった。
 だがその少年の歩みを止め、ピラミッドから引きずり降ろそうとする神官の姿は、見当たらなかった。まるで、少年のそのような行為を、見て見ぬふりをするかのように。あるいは、少年のそのような行為を、後ろから、バックアップしていたかのように。
 やはり神官の一部は、知っていたのだろうか。
 本当に儀式の予定が刻まれた書物があるとしたら、今年からは、儀式の予定はない。でも、それは、する必要がなかったのではなくて、してはいけないということだった。そういう可能性はないだろうか。若年の神官は突然そう考えた。何としても、とりおこなってはいけない理由が、あったのではないか。だが、その理由を民衆に向かって正直に告白することはできない。偶発的な事故のようなものとして、演出することで、何とか強制的にやめさせるしかない。その策としての、少年の登場だった。
 そうは考えられないだろうか。そして、来年以降は、やる気も起こさせないくらいの何かきっかけとなる出来事を、今年の夏至のときに演出しないといけない。そういった意図のようなものが、隠されていたのではないか。一部の神官が、そのように夏至を彩ったのではないか。
 じゃあ一体、自分に事実の欠片を付与していった、あの二人の神官は、今、どこにいるのだ?もうこの街の中にはいないのではないか。どうしてそんなふうに思ったのかはわからない。そして、真実を知る神官も、今年の断絶の儀式を行ったことで、そのまま、この街に留まることをやめてしまうのではないか。
 神官が続々と、街を引き上げていく様子が、浮かんでくる。
 来年の夏至は、一体どうなるのだろうか。生贄の準備はなされない。
 ピラミッドは閑散としたまま、ただの山のように、そこに佇んでいる。
 人々の営みを見下ろしているだけだ。ピラミッドと、民衆の精神的な繋がりは、薄れていく。消えてなくなっていく。ピラミッドと天を繋ぐ回路は絶たれ、天と人間を繋ぐ回路も遮断されてしまう。


 そんなときだった。
 新たなる神官の見習いたちの中に、変わった存在の男を見つけた。
「そうですか。テオティワカンからですか。大都市ですね」
 若年の神官は言った。「あなたも神官をなさっているのですか?」
「そうです」
 テオティワカンから来た男は言った。
「一度も行ったことがない。今度、ぜひ連れていってはくれませんか。あなたはいつまでここに?」
 若年の神官は、この先半年のことを思った。
 二度とおこわれることのない夏至の行事のことを思った。
「暦上では、あと、一年近く滞在する予定です」と男は答えた。
「私がこちらに来た目的というのは、時の流れと共に刻まれた、祭りの勉強なんです」
「祭りですか?なるほど。それは、王の方の仕事だ」
「えっ?」
「我々、神官が、直接、関わる仕事ではありません。我々のほうは、・・・その。まあ、いいです。そうそう、王と神官は、まったくの別の行事を、主に司っていまして。王は、祭事を。我々は・・・、いえ、もう、よしましょう。そのうち、あなたにもわかるときが来ますから。夏までいらっしゃるようですから。そのときには、必ずわかるはずです。いえね、僕も、本当のところは何もわからないんです。あなたと同じ時に、世界の真の姿を、知ることになるかもしれない」
 テオティワカンからやってきた男は、不可解な表情を浮かべた。話す相手を間違えたらしいと、その表情は語っていた。
「あなたは、何を学びに、やってきたんでしたっけ?」
「時を刻む、祭り事です。おそらく、テオティワカンでも、祭り事を始める必要性が出てきたのではないでしょうか」
「今までは、そういったことは、行われていないのですね」
「ええ、そうです。神官と呼ばれる人間が、祭り事を司るようになります。そこに、王という顔を組み込んでいく。王と神官たちが一体となって、創造するようです。しかし、あなたがたはそうではないのですね。王と神官は、それぞれが、別々の行事を取り仕切っている。それでも、意志の疎通はあるんでしょ?」
「我々の行事の季節になると、王は、この街から出ていかれます」
「まさか」
「ほんとうです。人々に、公表したことはありませんが。王の代わりを立てます。王がいちおう存在するように見せかけるための。ただのダミーの人形です。我々の行事の、主役というのは、王ではないからです」
「王ではなくて、一体、誰なんですか」
「一般人から選ばれた一人の男です。もっと言うと、戦争による、他国からの捕虜の中から選んだ、一人なんです」
「なんと、この国とも、関係ない人が・・・」
「もちろん関係はあります。争ったことのある、対立したことのある関係ですから。かつては、そういった対極の関係だった。そのことが大事なんです。あらゆる対立による関係性というのを、際立たせた配置、というのでしょうか。そのことが最も、重要視されるんです。対立の記憶を、そのまま放置しておいてはいけない。野放しになったままだと、いずれ形を変えて、その対立は表面化していき、そして繰りかえされます。どこかで終わりにしないといけないんです。だから、その対立の構造を、早い段階で、鮮明にした『入れもの』のようなものを、用意する必要がある。それが選ばれた一人の捕虜、という形で実現するんです。彼は生贄となります。生きたまま、我々の国の人々の前で、殺されます。彼は、神の化身として、天へと捧げられます。彼は敵国の、しかも、一人の人間として、死を迎えるわけではない。そのとき、我々マヤの王国の中においては、最も尊厳ある存在は王ではなくなる。王は失墜し、地の底へと放り込まれる。そのとき、国の中には、実際に、王の姿はないのですがね」
「勉強になります」とテオティワカンから来た男は、最初の懐疑的な表情からは、一変していた。瞳はぎらぎらと輝いていた。
「祭り事は、王の独壇場です」
 若年の神官は先を続けた。「そのとき、神官には、まったく出番はありません。神官は、自分の本来の職を捨て、着ている衣を脱ぎ捨て、民衆の中へと、溶け込んでしまうのです。そういった階級による差を払拭して、祭りそのものを楽しむということが、目的なのです。我々が司る厳粛な儀式とは、まさに対極の存在なのです。その二つがあることで、時を刻むサイクルは、淀むことなく、自然に流れ続けていく。その二つがあることで・・・」
「そうなんですね。私たちの都においても、そういったことが、可能かどうか。持ち帰ったときに、検討していただけるようにしてみます」
「いや、いいんだ。君たちのところは、君たちのところで。またこの場所とは、与えられている条件が、まったく違う。真似をする必要は、まったくない。取り入れていく過程で、もっとも適する形が、生まれていったらいい。そもそも、都の規模自体が、違うじゃないか。どうして、こんなに小さな国にわざわざ?」
 若年の神官は訝しんだ。
「ですから」テオティワカンから来た男は、諭すような落ち着き払った声で、答えた。「時の刻み方を、我々は知らないんです」と男は答えた。「あなた方の国は、それが、高度に発達していると、そういうふうに言われました」
「君はそれを信じたわけか」
「あなたの話を少し聞いて、それまでは半信半疑だった気持ちが、確信へと変わりました。対極の話は、なるほどと思いました。王の祭り事と、あなた方の行事とでは、対極の存在で、対立的な役割を果たしている。ある意味、その二つは、ぶつかりあっている。暦の上で。繰り返される時のサイクルの上で。だから、お互いが力を発揮することができる。そのどちらかが欠けても、力は失墜していってしまう。テオティワカンで、その二つの行事を作るかどうかはわかりません。一つの祭り事の中に、その対立的な要素を混ぜて、合わせてしまうことが、我々の都にとっては、現実的なことなのかもしれない。とにかく、勉強になります」
 その一つはすでに、消滅してしまったんだぜと、若年の神官は心の中で呟く。
「こういった事を訊くのは、不躾かもしれないが、どうして君は、この時期に来たんだ?一年前でもなく、一年後でもなく、どうして、今このときに」
「そう言われましても」男は言葉を詰まらせた。
「そうだよな」
「それは僕も、疑問に思ったことです」
「えっ?」
「あなたのその質問を、そのままテオティワカンに、投げかけたいくらいです」
「テオティワカンに、投げかける?」
 その言葉の意味がわからなく、若年の神官は戸惑った。
「テオティワカンが、それを望んだからです。我々の中の、誰かが、私に命令をしたわけではないんです。王という存在は、いまや、特定することはできなくなった。共同統治のような形が、ずっと続いています。誰が王かと申されましても、よくわからないのが現状です。しかし、統治の柱というものはあります。それが、テオティワカンなんです。テオティワカンそのものが、俗に言うリーダーなのです。それは、神そのものでもあります。テオティワカンには、ピラミッドが二基あります。非常に巨大なものが二つ。しかし、我々が作ったものではない。もうそれはすでに、そこにあったのです。誰かから譲り受けたものでもない。勝手に自分たちのものにしてしまったのです。荒廃していましたが、すでに、そこは、都だったのです。人は誰も存在してはいない。かつて誰かが、都そのものを建造し、そこでたくさんの人が、生活を営んでいたようです。どういった理由でいなくなったのかはわからない。人骨を発見することはありませんでしたので、餓死したり、戦闘で絶滅したわけではないようです。
 ということは、何かが起こる前に、自らの意志で、出ていったと考えるのが普通です。あとは、そこに暮らしていた人間を、そっくりとそのまま、どこかに連行してしまったか。ああ、それと、人が暮らしていたかどうかも、本当はよくわかってないんですよ。なにせ、生活していた形跡がまったくないんですから。本当に人がいたのでしょうか。よくわからないことだらけで。しかし、事実としては、ピラミッドを含んだ都市の構造が、そっくりと存在している。我々の先祖が、その地に辿りつき、建造されていた都を、そっくりとそのまま使うことになった。
 テオティワカンそのものが、神だと考えるのは当然のことです。しかし、これが、我々の知らない人間たちがつくり、束の間の外出をしている可能性は、考えられた。いつか、時が来たときに戻ってくる。理由はわかりません。刻まれた時というものに、我々が怯え、その怯えが限界を超えたときに、こうして、あなた方の地に足を踏み入れるということは、自然な流れのように思います。何かが迫ってくる。すでに着々と、迫ってきているということを、我々は、無意識の領域で感じ続けているんです。テオティワカンに移住し、生を営んでいる限り。死を恐れている。死は外部からやってくる。その外部というのは、ここの内部を創造した、今はなき、神々たち・・・」


『一つのことを、貫くっていうのは、楽しいことばかりではないですよ』
 シカンは、新聞誌上に、北川裕美のインタビュー記事を見つけた。
―あなたの絵の創造は、もしかして、ここ数年のあいだに始めたことではないのではないですか?もっと前からしていたのでは?―
『いえ、本当に、ここ一年の話です。一気に書き上げたんです』
―しかし、構想の方は、ずっと前からあったのではー
『構想なんてありません』
―そうでしょうか。あなたの結婚生活そのものが、構想の土台になっていたのでは。それと、それ以前のあなたの女優としてのキャリアのことがあります。その時代に感じ続けた精神の積み重なりが、構想の土台になっている、とも考えられる。あなた、言ってたじゃないですか。いつだって自分は孤独であって、そこに着せている服が、違っていたのだとー
『家は泣いているんです』
―家ですか?あなたが住んでいた家のこと?火災にあった、あの家のことですか?ー
『あの家は、私たちの営みのすべてを知っている、唯一の存在です。他の誰も知らないことを、あの家は知っています。そこでの八年、何が行われていたのか。すべてを見ています。そして、その土地のほうは、私たちよりも遥か昔から存在しています。そこで繰り広げられた歴史のすべてを見ています。遥か太古からの、時間の重みを知っています。我々はどんな理由があってなのかは知りませんが、その土地を選んだ。そしてその上に、住居を建てた。そこに、別々の世界からやってきた二人の人間が、腰を落ち着けた。さまざまな記憶がそこで交差した。交流し続けた。私たち夫婦は、そこで何度となくセックスしました。その土地では、過去にわたって、何度もセックスが繰り返されました。でもそれだけではありません。とてもここでは、お答えできないような事だって、ずっと繰り返されてきた。さまざまなエネルギーが、そこには今も、発生しています。まさにカオス状態です。私は漠然と、それに気づかないように暮らしていましたが、だんだんと生き苦しくなっていきました。その息苦しさに耐えられなくなっていきました。そこを離れたい。一刻も早く解放されたい。自由になりたい。そういった思いが強くなっていきました。おそらくずっと、私は今までの人生の中で、絵を描いていたのだと思います。いつ、どんなときでも。今はそう思います。たまたま筆をとって、キャンバスと向き合っていなかっただけで。でも実際に描くと描かないとでは、大きな違いです。ある概念を思っているだけで、行動には移さないという状態と、同じです。私はずっと前から思っていた。それを実行する時を、運命は待っていた。そういうことです。そして、描くことで、自分の肉体の内部から、外へと出る。対等の立場で、自分と対置させることができる。そこに、一つの人格を認めることができる。私たちはそこで、別れをちゃんと言うことができる。別々の道に行くことを約束し、お互いを解放することができるチャンスが、そこにはある』
―なるほどー
『それでも、一つのことを貫くっていうことは、楽なことではないですよ』
―これからも、描き続けるのでしょうかー
『私は自分が自由になることを望んでいます』
―わかりますー
『描くことで自由になれるのであれば・・・。描くことが、執着心となってしまわないのであれば』
―あなたの今までの発言を聞いている立場としては、あなたを縛っていくものにはならないようです。描くことで確実に、自由に近づいていくはずですー
『そう言っていただけると心強いです』
 シカンは、新聞のページを捲った。
 近い将来、この北川裕美へのインタビューを敢行するのは、この自分ではないだろうか。
 北川裕美からオファーが来るような気がしてならなかった。
 彼女はこの自分に向かって話しかけているような気がしたのだ。テレビを通じ、雑誌や
新聞の誌上を使って。この自分にアピールをしているかのように。

 休暇は、この病院のベッドの上において、ほんの数日ばかり、延長されてしまった。すでに、三月も最後の週になっている。来月からは、仕事に復帰する。夏まではとりあえず、頑張ろうと思った。それまではとにかく、来る仕事、来る仕事を、詰めまくり、こなしていくことにしよう。夏になったらまた、一息つく。そのとき考えなおせばいい。
 俺は北川裕美とは違う。彼女のような生き方は決してできやしない。彼女を見ていると、ふと、自分の本来の姿というものは、これまでの仕事のやり方、そのものなのではないかと思えてくる。それをさらに、発展させていくという形が、今は大事なのではないか。もうすでに、自由は自分の中にあって、それを掴んでいるのではないか。むしろ、北川裕美のような生き方に憧れ、やり方を真似ていくことこそが、自殺行為だった。そうなってしまえば、必然的に自分を縛っていくことになりかねない。
 とりあえずは、北川裕美のことを意識しながらも、これまでの仕事のスタイルを、生活のスタイルを、貫いていくことだった。夏になれば、一つの結果が出る。変わるのなら、そのときだった。新しい道が現れてくるのであれば、その時だった。それまでの四か月は、これまでのスタイルを続けていくことができる、最後の機会のつもりで、清算するつもりで、彼女とは違った道を走り続けていくことにしよう。シカンは心の底からそう思った。


「まさか祭りも、夏至の儀式と同様に・・・」
「何か言いました?」
「いや、何でもない・・・」
「夏至の儀式と同様にって、今、そう言いませんでした?どういう意味なんですか?聞き捨てならないですね。僕の耳は、結構聞き逃しません。頭はよくないですが、不思議と重大なヒントだと思ったことに関しては、感度が急激に上がる。夏至の儀式に何かがあったんですか。そうなんですね。何か良からぬことが。そのときと同じ何か、不吉なことが、また繰り返されるんじゃないか。あなたは怯えてるんですね。もう、僕とは、何でも話あえる仲だと、思っていましたが」
「もう、自分一人だけで、抱えているのは嫌なんだ。限界にきている。君がいてくれて、本当によかった。感謝してる」
「そんな・・・、そんな、あらたまっちゃって・・・お恥ずかしいです。僕は何の役にも立っていないのに・・・。一方的に勉強をしている身なのに」
 テオティワカンからの男は、若年の神官の眼を、直視できなかった。
「あなたが正直におっしゃっていただければ、僕もずっと、秘密にしておこうと思ったことをあなたに打ち明けます。そういう信頼関係が、僕たちにはあるということを、あなたにも、知っておいてもらいたいから。僕らはお互いに似たような存在だから。僕もあなたも、同じような哀しみを背負っている。そう僕は感じるんです。あなたはこの国の人間でありながら、どうも馴染めていないような感じがする。もしかすると、これからあなたが話そうとしていることと、関係があるのかもしれない。あなたもどこかの時点まで、この国、この文明、この人々たちと、同調した人生を送ってきた。しかし、あなたは何かを、感じとってしまった。いや、知ってしまった。誰かに命令されたか、強制的に知らされたのかはわからない。どっちにしろ、あなたは、ここの共同体の中では、もうすでにその心は完全に離れてしまっている。何歩も下がったところに、今は存在している。まったく溶け込んでいないことは、すぐにわかりました。あなたの輪郭は、はっきりと濃すぎます。際立ちすぎているんです。知っていましたか?一目瞭然ですよ。特に、外部から来た人間の眼に映った、あなたの姿は・・・」
 その言葉に、若年の神官は、警戒心を抱いてしまった。
 だがそれでも、自分の体の外側に、情報を出したいという想いに変化はなかった。
「以前に、祭りと儀式の両輪の話をしただろう。君も理解した。対極な存在があって初めて、お互いが機能する。存在していられる。ところが、その片方を、我々はすでに失ってしまっている。このことが、我が文明に、何を引き起こすのか。僕はずっと、そのことに怯えている。君が来る前のことだ。君は、夏至の後で、この地にやってきた。だから僕は何故その時期に来たのだろうと、そのタイミングの理由を執拗に迫った。夏至の儀式の半年後に、祭りはやってくる。ちょうど、冬を越した時にね。君はすでにその方輪を失ってしまった国にやってきて、そしてもうひとつの片輪の行方を、見届けようとしている。学ぶことがあって、この地にやってきたという君の言葉は、素直に信じることができなかった。もうこの場所で学ぶことなんて、何もないのだから。もし学ぶことがあるとしたら、それは世界がどのように崩壊するのかという、ただのそれだけだろうから・・・」
「崩壊するんですか?」
「ああ。俺はそう思う。確実に崩壊する。あるべきボルトは、すでに吹き飛んでしまっている。それも要となる大きなものが・・・。今まで、自分でも認め難かったことだが、今はっきりと断言してしまって、すっきりとした。俺はずっとそう思っていた。そんなわけがない、そんなわけがないと、けれど、否定し続けることはもう辛い」
「やっぱり、あなたと僕は似ている」
 テオティワカンの男は、小さな声で俯きがちに話した。
「僕は、テオティワカンから追い出されたんじゃないかと思うんです。おそらく、仲間外れにされたんじゃないかと。僕のような存在は邪魔になった。本当に、勉強が目的であるなら、一人で派遣されるわけがない。前にも、一度、同じようなことがあった。測量師という職業に、ついていた時のことです。そのときも、国を追い出されるように、調査という名目で外に出されたことがある。そのあいだに、一体、何が行われていたのか。僕を一時的に排除することで、何かを進めたかったのか、何なのか。今となっては、何もわからない。大事なことを見せないようにするために、僕を、核心から遠ざけようとする力が、何か働いていたように思う」
「俺とは正反対さ。俺は、核心を、耳元でささやかれるんだ。誰とも共有できない、核心をね。この頭の中に、吹き込まれる」
「どっちにしても、共同体から、はじかれた人間であることは、間違いない。年齢も同じくらいに見えるし」
「どうだろうな。それで、君の方は?告白したいことがあったんだろ?」
 テオティワカンの男は意を決したように、息を大きく吐いてから、急いで吸った。
「あなたがた、マヤが、あのテオティワカンを作ったんじゃないですか?」
 男の眼光が強烈に光った。
「マヤ人が、もともとのテオティワカンの建造者。そして住人だった。ここで生活し、しばらく経ったときに、僕はそう思うようになった。あなたたちが、あの巨大な都市を放棄した。そして、いささか小ぶりなこの都市を建造し、移住した。あなた方はそうして放棄した都市を、完全に消滅させることを、望んでいたわけではなかった。帰る機会を伺っていた。いや、帰る時期というものを、あらかじめ決めていた。決めてから、出ていったのかもしれない。その時期はもう近づいている。あなたたちの夏至の行事に、すでに異常は起こった。
 しかし、それは、あなたの勘違いだ。あなたは、誰かに嘘を吹き込まれたんだ。核心的な情報だと、あなたを勘違いさせるために。あなたを共同体の中から除外するために。僕はそういうことには敏感な男だ。なぜなら、僕自身が、そういった排除される運命に、ある人間だから。あなたのことがよくわかる。よく見える。両輪の片方を失っていて、この先、崩壊するのは確実だと、あなたは思い込んでいる。でも現実は違う。それは予定通りなんですよ。当初、予定してきたことを実行しようとしているにすぎない。もうここでの生の営みを、終わらせようとしているんです。折りたたんで、そして、祖国へと帰ろうとしているんです。わかりますか?ここは本来、あなたたちがいるべき場所ではないんです。仮初めの土地にすぎないんです。あなたは、騙されているんだ。早く目を覚ましたほうがいい」
「何だって。いい加減なことを言うなよ、お前。テオティワカンを作ったのは、我々だって?そんな作り話を、よく・・・」
「かつての都に、つまりは、空家だったところに、別の人間たちがそれを発見し、移住したことを、あなたたちは知っていた。しかしその時点では、帰る刻ではなかった。なので、そのまま見て見ぬふりをした。むしろ人が誰か、住んでいたほうが、荒廃が進まなくて都合がよいと感じたのかもしれない。あとで戦争をしかけて、奪還すれば、問題はないのだから。僕らのような、あとから来た人間たちとはちがって、都市の構造とか、機能とか、細かいところまで、あなたたちは把握している。奪還することなど、実に、容易いことだ。僕らは何も知らない。物事は何でもそうだ。作った人間が勝つようにできている」
 そのあと、二人の男は急速に無言になった。数日後に、祭りを控えていた。
「おそらく、テオティワカンに住む人間は、誰も、僕のような考えには至っていないはずです。僕だって、あの大都市にいたときは、少しも思わなかった。ここにやってきてしばらく、この土地と交流をもった時から、芽生え始めたことだった。僕の意識は、次第に覚醒し始めている」
 若年の神官は、そのあともずっと、黙ったままだった。
「テオティワカンを先に攻めてくる死神は、そう、あなたたちなんだ!」
 男は叫んだ。

「私は、全然、いい妻ではなかった。Lムワにとっては、私は単なる爆発物で、不発弾そのものだったと思います。彼を潰したのは私です。間違いなくこの私です。私の心はいつ暴発してしまうのか、その見当がまるでつかないんです。時間を選ばず、場所を選ばず、突然何の理由もなしに、火がついてしまう。そして、筋はまるで通っていない。
 私自身、なぜ感情が爆発してしまうのかが、わからないんですから。因果関係なんて、まるでわからない。Lムワは、非常に頭を悩ませていました。彼はとても理性的で、物事を論理的に考えるタイプでしたから、私の言動や行動も分析したり、なぜそうなったのかを、深く考えるということを繰り返していました。そして、工夫して、私に対応しようとしていました。でもそんなふうに理性的になればなるほど、わけがわからなくなっていく。彼自身も巨大な負荷がかかり、そのストレスで、とても暴力的になることも、一度や二度ではありませんでした。彼のそんな眠っていた凶暴性を、目覚めさせるのは、常に私でした。本当に。彼自身の姿なのだろうか。何かがとりついたように、私を殴ることもありました。絶対にそんな人ではないと確信できる男性が、私をめちゃくちゃに壊そうとする。私は怯えて発狂します。家の中はカオス状態に包まれます。そして、静寂が訪れます。二人の心はぼろぼろにすり減り、Lムワは家を出ていきました。
 残された私は、それまでの喧噪に失望し、哀しい気持ちになります。数日経つと、Lムワは帰ってきます。簡単な謝罪をお互いにして、また元の生活へと戻ります。
 いったいあの戦闘は何だったのか。無意味な暴力が飛びかった上に、心を暗くさせる後味の悪い出来事が、何か月かおきに、あるいは一か月おきに、行われるのです。まるで何かの周期が宿っているかのように、八年間、それは繰り返されました。
 私はあるとき思いました。
 そのタイミングに、何か法則があるのではないか。でもたとえそこに法則があったとしても、次に来る戦闘の時期を、予測することができるようになるだけであって、何故それが起こってしまうのか、起こったことで何がどうなるのか。結局は、そこがわからずじまいなのです。意味のない戦い。理由のない争い。そして、何を争っているのかが、ちっともわからない現実。何かを争っているのではないかもしれない。ただ傷つけ合うことそのものが、最大の目的なのかもしれない。
 八年の生活は、終わりました。私たちは別々の道を歩むときがきました。彼とはずっと離れることなく、人生を歩んでいくものとばかり思っていました。しかし、よく考えてみれば、Lムワは私と結婚してからの七年間、仕事では、何ひとつ結果を残すことはありませんでした。彼の過去の著書はすべて、絶版になっていました。その作品でさえ、制作をしたのは結婚の前のことであって、新作はまったく発表されることがありません。短編映画の、ちょっとした脚本を、担当することはありましたが、収入はほぼありません。私の蓄えで家を買いました。生活費もそこから出ていました。彼は日頃から、お金をあまり使うことがなかったので、ガスや光熱費や、電気料金、水道代や食費が、出費のほとんどを、占めているだけでした。
 私も、この七年間は、ほとんどがそうでした。物欲のピークはすでに過ぎてしまっていました。そもそも私は、芸能界の喧噪から逃れたかったのだし、それまで経験のしたことのなかった、静かな生活というものを、最も望んでいた。だから満足でした。ただ静かな生活といっても、そのLムワとの戦闘は、別でしたが。それは本当に恐ろしかった。一歩間違えれば、お互いを刺し殺してしまっていたように思います。どちらかが死ぬまで、その激しい怒りは収まりつくことがない。それは、憎しみの応酬でした。死ぬ一歩手前で、やっと治まりがつくんです。Lムワと私は、別居することに決めました。
 最後の質問でしたね。何でしたっけ。
 ああ、そうでした。その疑惑ですね。Lムワを殺したのは、私ではないかという。違いますよ。わかりませんか?
 もしですよ、あまり適切な発言ではないですけど、彼を殺したい、殺そうとしますよね。でも火をつけて自分が逃げるなんて、そんなおとなしいやり方を、すると思いますか?顔をつきあわし、顔をめちゃくちゃに切り刻んだあとで、彼を縛りつける。そしていたぶる。血だらけにして、それから火を放つ。そして当然のことながら、私も無傷ではない。彼を傷つけたい、殺したいと思うのは、彼と離れて過ごしているときに、理性的に湧き起こってくる感情ではないのですから。彼と顔を突き合わせて、言葉を交じえて、コミュニケーションをとっていく中で、発生してくることなのですから。離れてしまえば、それで終わりです。鎮静のままです。だから別居してから、そのような激しい気持ちが湧きおこるはずもない。私は、家庭に入ったことが間違いだったのかもしれないと思うようになりました。しかしかといって、かつての女優のようなことも、現実的にはもうできない。したいとも思わない。私は新しい道をつくっていかなければならなかった。新しい北川裕美を、創造していく必要があった。
 結局、私は、この自分の秘めたる凶暴性を、発揮する場所、それをちゃんとつくる必要があった。そういう場所を失ったままだから、Lムワをどんどんと駄目にしていく方向へ結果的に走ってしまった。彼は七年間、何も生み出しはしなかった。出版物はゼロ。けれど私が別居することを考え始めたときでしょうか。かつての絶版になってしまった著作物の、復刻を提案する企画が、彼に舞い込んできたんです。そして、彼もその話に乗り気でした。さらには、その復刻に合わせて、新作も一緒に世に出したいと、そういう前向きな気持ちも湧いてきているようでした。
 私は横目でその様子を見ていましたが、それは私たちが結婚してからは、初めて彼に光が射しこんだ瞬間でもありました。私という存在が、家庭を黒い雲で覆わせていたのです。彼を黒い闇で包みこんでしまっていたのです。すべては私が原因。私はそのような黒い世界を必要としていたから。黒いベールで自分を覆う必要があった。今は必要ありませんが。そのときは必要だった。そこにLムワを巻き込んでしまった。彼には本当に申し訳なく思っています。私と出会ったばっかりに。私と結婚してしまったばっかりに。あんなにも豊かにあった才能が干からびてしまった・・・』


 シカンの耳には、北川裕美の声がずっと響いていた。
 テレビ画面を通して、彼女が話していることと、雑誌や新聞紙上で話していることとが、混在し、だんだんと彼女自身が発していないことまでが、頭の中で鳴り響くようになってきてしまった。
 その時、シカンはすでに仕事を再開していた。いくつもの仕事を、並列的にこなしている時期だった。一つのことに没頭することが苦手だったので、この混在した状況そのものに喜々としていた。けれども、北川裕美の存在は、まったく消える様子はなかった。彼女の声はますます色濃くなっていった。
『私に絵を描くよう、助言をしてくれた男の人がいました』俺のことだ。『私にとっては、衝撃的なことでしたよ。ずっと目標も夢もなく、引き籠っている私を、もったいないと思ったのか、憐れに思ったのか、それはよくわからないけど、でも、私の全盛期を知っているのなら、何か活動を、してほしかったのかもしれません。ひょっとして、昔は、ファンだったのではないか。少しそう思いました。今でも私に好意を抱いてくれている。でも今となって考えてみると、彼の興味の対象は、どうも私ではなかったんじゃないかと、そう思うようになりました。Lムワのことを想っての発言だったのではないか。その男性はLムワを助けようとしたんじゃないのか。Lムワを私から引き離そうとしたんじゃないのか。Lムワが奥さんに完全に破壊される前に、助け出そうとしたんじゃないのか。Lムワと彼は、とても仲がよさそうに見えましたから。人付き合いの悪いLムワでしたが、その男性に対してだけは、信頼感を抱いているようでした。男として認めているようでした。お互いに。ただの友達ではなかった。だからこそ、そこに割って入ってきた女を、許せなかったのかもしれません』
 そんなことなど、シカンは、考えたことすらなかった。
 Lムワを救うために、北川裕美に絵を描くように助言をした?そんなことはない!
 北川裕美の声はすでに途切れていた。あの夫婦二人を、俺は、羨望の眼差しで見ていたのだ。最初は、Lムワが結婚していることすら知らなかった。奥さんがいて、それが北川裕美であることなど、家に招かれたときに初めて知ったことだった。七年前に引退した北川裕美の風貌は、そのときも素晴らしかったし、Lムワと一言二言会話をしているのを見ても、彼らが、愛のある結婚生活を育んできたように思えた。けれど、Lムワが居なかったとき、彼女と二人きりになったときだった。北川裕美は、俺に肉体関係を迫ってきた。
 確かにそうかもしれない!
 俺はあのとき、Lムワを救おうとしたのかもしれない。それよりもずっと昔、学生のときだった。中学、高校と仲のよい同級生がいた。その男は高校二年のときに、ある女子高校生と付き合い始めた。その女子高校生は、俺もよく知っていた。同じ中学に通っていた。中学のときに仲の良かった、男女十人くらいのグループの中にいた。俺とそのもう一人の男だけが同じ高校にいき、あとはそれぞれがばらばらに進学した。同級の男がその女と付き合い始め、男同士で遊ぶことが、めっきり少なくなった。その男を、Aということにする。Aと遊ぶときには、その女Bも、一緒についてくることが多くなっていった。三人で遊ぶことが急激に増えた。Bという女とも、俺は個人的には馬が合った。嫌いではなかった。異性としては、特に好きにはならなかったが、それこそ同性のような感じで付き合えた。むしろ、そのAとの方が、男女関係のような、感覚だった。だから、同じ高校に進学し、二人でいる時間が増えたことを、俺は喜んだ。
 だが一年後、そのあいだに割って入ってきたのが、Bだった。彼女が積極的に入ってきたわけではなく、Aの熱烈な恋心から、Bは付き合うようになった。今でも思うことは、本当に、BはAのことが好きだったのだろうか。とにかく、AとBの交際は始まった。Bの学校はとても遠いところににあったので、俺らよりもずいぶんと早く、家を出ていかなければならなかった。なんとAは、その時間に合わせていた。Aは親には部活の朝練だとか、学校で早朝自習をしているのだとか、そういったことを言って、毎朝、Bの学校の最寄駅まで見送りに行っていたのだ。俺はそれを知ったとき、かなりの嫉妬を覚えた。Aは心身共に、完全にBに心酔してしまっていたのだ。
 その頃から、俺とAの関係は変わった。表面的には、まったくそれまでとは変わらなかったが、俺は心の奥底で、完全な断絶感を味わっていた。Aの方がどう感じていたのかわからない。しかし少なからず、俺の心の変化は、伝わってしまっていたように思う。俺はあのとき、とんでもない危惧を抱いてしまっていた。Aの人格は、Bという女によって、壊滅状態にさせられてしまうんじゃないかと。当時は、自分の気持ちがよくわからなかった。見て見ぬふりをしていたし、そこまでの理解力は、全然なかった。Aに嫉妬をしていたことも、それからだいぶ経ってから、理解することができた。異性に対する束縛感のようなものだった。
 Bという女の中の、いったい何が、Aを壊滅状態にさせてしまうのか。何も具体的なことはわからなかったが、とにかく、Aが再起不能になるくらいのダメージを負ってしまうと、そう思ったのだ。いや、そのとき、思ったことではない。今、思ったことだった。北川裕美が、Lムワを破壊してしまうと今感じたことが、自分の十代のときに経験した、出来事と重なったのだ。それは形を変え、何度も自分の前に現れる、「不死身の無性生物」のようでもあった。
 十代の俺は、次第に、Aとの心の交流を薄れさせていった。別の人たちと、表向きは楽しい生活を送った。本当はAと、もっと深い交流がしたかったのにもかかわらず。あのときあの十代のときに、俺らはもっと、真剣に話をする必要があった。そう感じたからこそ、Bという女の出現による、それまでのAとの関係性の淀みに、怖気づいたのだ。そう、俺は、あのとき、引き下がるべきではなかったのだ。Bに遠慮することなく、A一人を呼び出し、二人で気のすむまで語りあったらよかった。だが、俺はひいてしまった。そうなのだ。俺はいつだって、物事の渦中に身を置くことに怯えるのだ。波乱が起こりそうなことを察知すると、すぐにその場所から、いち早く逃げ出してしまう。俺にまで、被害をまき散らさないでくれよと。
 結果、十年後。AとBは結婚することなく別れた。
 そのあとで、俺は、Aと二人で、ほとんど中学以来初めての食事をしたのだが、彼と真剣に話すようなことは、何もなかった。すでに、Aという男の実体は、Bによって完全に骨抜きにされていたし、しかも二人きりで話し合う時期としては、完全な賞味期限切れだった。十年以上も前に、通りすぎてしまっていた。そして、二人で食事をした一年後、彼との音信も不通になってしまった。彼が今、どこで何をしているのかもわからない。
 俺はあのLムワ邸で二人を見たとき、たしかに、北川裕美からLムワを切り離したかったのかもしれない。Lムワが致命的に破壊される前に、俺の本能は彼を助け出したかったのかもしれない。Aの存在と共に。何度も繰り返される景色に、終止符を打つために。
 けれど、それは間に合わなかった。Lムワはすでに、この世にはいなかった。


 三人で会ったときのAは、Bに呼吸の調子を合わせ、Bの顔色を窺うようなしぐさが、目立っていた。Aは以前よりも、表情に精彩を欠き、虚ろになっているように見えた。
 当時だって、それに気づいていたはずだ。シカンは思った。そのことを無理やり感じないようにしていたのかもしれない。自分の意識の中からは、無理やり排除していたかのように思う。受け止めることが怖かった。そんなAの姿は、認めたくはなかったのかもしれない。そして、この自分だけは、Aのようにはなっていけないと、強く言い聞かせた。あいつはもう終わりだ。俺はAを避け始めていた。彼を呼び出し、男二人で過ごす時間を作ることはなかった。それでいながら、俺はBとは二人で会っていた。大学が近かったこともあり、偶然によく駅のそばの大型の書店で、顔を合わすことがあった。お互い、経済学部に通っていたこともあって、同じフロアで似たような書籍を物色していた。Bと二人で食事をすることもあった。Aには内緒で。もし何かのきっかけがあったとしたら、Bと性的なことをしていた可能性もあった。だが、現実はそうはならなかった。三人で遊ぶんだときも、俺とBは二人だけの秘密事があるような感覚を、ずっと持ち続けていた。本当に浮気をしても、おそらくは同じように、三人の関係を続けていくことが、簡単にできたのではないかと思う。
 とにかく三人で会うときには、よくBと目が合い、秘め事の確認のようなことを、お互いの目で交換しあっていた。本来は、そのような男同士の秘め事を、Aと持つべきだったのに。
 結果的に、AとBは十年後に別れ、Aは行方不明になった。Bは別の男と結婚し、二児の母親となった。つい最近も、かつての友人同士の集まりで、Bとは会い、あの頃と変わらない関係で仲良く話までした。


 地下水の水位は劇的に低下した。泉のいくつかが干からびてしまっていた。神殿に並べられた神官の石像は、ばらばらに壊されていた。それが夏至を過ぎてから、次々と起こった都の変化だった。人々は殺し合い、頭蓋骨が陥没し、さらには体をバラバラに切り離された死体が、その干からびた泉に無造作に捨てられた。その急激な環境の変化に、若年の神官は目を疑った。人々の眼の力は急速に失われていった。虚ろになったその意識の中で、彼らは自分が何をしているのか、何をしようとしているのか、完全に見失ってしまっているように見えた。
 こうも、急激な変化が起こるとは、思わなかった。出会う人間、出会う人間が、そうだった。テオティワカンから来た男とは、すでに別れてしまっていた。彼が一体どこに行ってしまったのか、わからなかった。急に行方不明になってしまっていた。
 テオティワカンに帰ってしまったのか。マヤが、テオティワカンの生みの親で、都市の建造者であり、かつての住人であったという思い込みを抱えて、彼は自分の国に帰ってしまったのだろうか。いち早く、そのことを報告するために。防御の対策をたてるために。戦闘の準備をするために。
 残された若年の神官は、話し相手を失った。
 老年の二人の神官の姿もない。だが、戦闘が局地的に起こる一方で、いるのは夢遊病のような住人ばかりだった。これは本当に、夏至の儀式がその役割を終えたことが、原因なのだろうか。大聖堂の鐘が鳴り響くのをやめた、中世の都市国家のようだった。鐘が鳴ることは二度となかった。時を刻む生活のリズム、サイクルは消滅した。リズムやサイクルが、ここまで人々の精神の柱を支配していたとは思わなかった。
 だが、祭りの刻は着々と近づいてきていた。準備も進められていた。まるで泉の水位がそのときに合わせて、目盛を減らせているかのようだった。本当にすべては予定通りなのだろうか。まるで誰かが、水を地下の奥底から今まで湧き立たせていて、もうこれ以上は必要がなくなったために、その湧きあげを緩めた。あとは、残った水で過ごしてくれればいいといった、あらかじめ決められている詳細な予定表を、律儀に貫徹させるかのような、そんな用心深さも感じてしまうこともあった。
 そして、人々も皆、その終わりの刻に合わせて、心穏やかに過ごしている。
 そうだ。これは、夢遊病なんかじゃない!平穏な心を取り戻しているのだ。焦燥感と不安に支配されているのは、自分だけなのではないか。こんなことは間違っていると、憤りを感じる人間は、そもそも自分だけなのではないか。すれ違う人間たちの表情を凝視した。やはり、夏至の前と後では、その顔つきは一変してしまっている。意識が完全に失われ、意志の欠片の持ち合わせもないような顔だった。どこを見ているのか。何に向かっているのか。さっぱりわからない。
 何故、自分だけは、意識が保たれているのか。死にたいと、若年の神官はこのとき初めて思った。死んでしまいたい。今まで生きてきて、そういう強い感情が生まれたのは初めてのことだった。と同時に、彼は天を仰いだ。空の彼方に向かって、無言の叫びを貫いた。一体、なにが起こっているのだ?その疑問を、空の彼方に叩きつけた。いったい自分は誰なのか。何者なのか。何故ここにいるのか。生まれてきたのか。何を見届けようとしているのか。どんな働きかけをしようとしているのか。
 若年の神官は、自らが時計の針になったかのように、そして止まってしまった時間の象徴となったかのように、自らの両手を、地面に水平になるように持ち上げ、そして静かに目を閉じた。


 シカンは、Lムワを取り戻すべきだと思った。何度となくそう思っていたことを、今はっきりと自覚した。この前、彼の墓地へと行ったときも、そうだった。途中で気を失って病院に担ぎ込まれてしまったが、もうずっと前から、彼のことが頭から離れなかった。初めてLムワ邸に行ったときから、彼とは一心同体、運命共同体のようなつもりだった。まさかとは思ったが、このときシカンは、Lムワがまだ生存していることを確信したのだった。
 Lムワは死んでなどいない。世間では、北川裕美が事故死にみせかけて、殺害したのではないかという噂が囁かれていたが、それは百パーセントない。彼女は本当に、Lムワが火事で死んだと思っている。実際、葬式も行われたようだし、埋葬もなされた。けれど、シカンは、その現実は信用できないと思った。気が狂ったてしまったと言われようが、そんなことは関係がなかった。Lムワは死んでなどいない。自分がそう感じるのであるなら、その感情を無視することは、適当ではない。むしろ向き合い、さらにその核心部分へと、近づいていくといった積極性が、必要だった。
 もし逃げたまま、そのままないものとして無視をするのなら、いつまでもLムワの存在が脳裏から消えることはない。まだ生きているかもしれない。いや、本当に死んだのかも。その反芻が、いつになっても、消滅することはない。
 Lムワが死んだという情報を聞いて、俺は完全にその事実を信じた。
 とりおこなわれた、死のセレモニーに参加し、天へと送る、そのプロセスを経験したことで、何の疑問もなく、受け入れてしまった。しかしそれは、単なる思い込みなのではないか。何かの加減で、Lムワは死んだことになっているだけなのではないか。夢を見ていたわけではなかったが、夢を見ていたときのような感覚が残った。自分自身で、ケリをつけなくちゃいけない。このままでは、他人に決めつけられているような気がしてくる。あのとき、俺はもしかしたら、北川裕美からLムワを救ったのではないか。けれど、完全に救えたわけではなかった。中途半端だった。とすると、彼は生と死の狭間で、今も、もがき苦しんでいるのかもしれない。自力で対岸にありつけることができず、ただ水の上に無力に浮いているだけかもしれない。体力を温存し、生還できるチャンスを伺っているのかもしれない。
 火事になったのは事実だ。
 焼け焦げた跡の焦土と化した元Lムワ邸を、この足で確認していた。井崎も証人だ。万理にも近くで会った。そういえば、火事がおこる前のLムワの目撃談があった。彼は婚約者の女性と一緒にいた。万理からの情報だったか・・・。Lムワの母親の証言だったか・・・、記憶は曖昧だった。
 その女は実在する。シカンはそう思った。新しい女の存在。北川裕美が出ていったあとにまた新しい女を家に呼び込んだのか。懲りない男だった。せっかく俺が、北川裕美と切り離すきっかけを作ってやったのに、どうしてまた、違う似たような気質の女を引き寄せるのだ?やってることが、いつまでも同じだ。いや、そうじゃない。違う。俺は、そこも思い違いをしている。Lムワが北川裕美に潰された。それは違う・・・。
 彼は潰されることを知っていて、それでわざと彼女と一緒になった。
 Lムワは、北川裕美と共に生きていこうなどとは、思わなかった。北川裕美が自分を殺してくれると思ったのだ。俺の思い違いは甚だしかった。彼とは正反対のことを、平然と思っている。価値観がまるで違った。俺は死を求めたことなんてない。それでも、Lムワは本当に最後に殺されるときになって、SOSを出した。きっとそうだ。俺に対して。彼にとっての、男の友情とは、まさにこれだった。俺は彼に選ばれたのだ。そういえば最初に、一緒に仕事をすることになったときも、彼がこの俺を指名してきたのだ。数ある映像ディレクターの中から、特別才能があるわけでもない俺を、彼は選んだ。俺は無意識にLムワに動かされていたのではないか。北川裕美と会わせ、北川裕美が自ら、この俺に迫るように仕向けた。俺の本能が、目覚めさせるために仕組んだ、彼の思惑だったのではないだろうか。
 Lムワは、自発的に北川裕美に近づき、心も体も彼女と一つになった。七年のあいだ、彼は彼女の分厚すぎる高濃度の光線を、近距離で浴び続けた。何故だ?この七年のあいだ、Lムワは、何も生み出せなかったはずでは・・・。
 北川裕美は会見でそう言った。
 俺はまたもやそれを素直に受け取ってしまっていた・・・。それも思い違いの可能性があった。Lムワは、北川裕美の眼の届かないところで確実に作品を刻みこんでいた。だが、それと引き換えに、失うものがあった。命だった。北川裕美に殺されるつもりで生きていたが、本当にLムワの身体が、その滅亡へのカウントダウンに入りかけたとき、彼の本能は死にたい、焼かれたい、壊されたいと願う、その奥にある、生きたいと芯から叫ぶ、自分を発見した。
 Lムワは、俺との劇的な邂逅を果たす。火事は、本当に起こったのだ。しかし、その直前、Lムワと北川裕美は、七年以上にもわたる接着が溶けた。出火したとき、彼には緊急脱出できる身軽さが、直前に備わっていた。逃げ切れたのだ。そして、彼の手には北川裕美との生活の記録があった。作品は途切れてなどいなかった。それは今もどこかにある。Lムワの存在する場所に共にある。
 Lムワとその記憶は、いまだに、それぞれの道を歩みきれてはいない。切り離されてはいない。それを切り離そうとしているのだろう。自分だけの力で、切り離すことは不可能だった。誰か、協力者の存在が必要だった。井崎だ!そのために、井崎が必要だったんだ。LムワとLムワの過去の記憶を、それぞれ独立させるためのきっかけが、彼には必要だった。
 話しの筋がすべて繋がり始めていた。俺がLムワ本人を生還させることに手を貸す。
 井崎が、Lムワの記憶を、彼から引き離すことに手を貸す。自由にしていくことに手を貸す。
 男三人は、目に見えない薄い絆のようなもので、結ばれている。
 井崎と、俺は、黒く焼け焦げた廃墟となったLムワ邸を、あのとき虚空を眺めるように見つめていた。


 若年の神官は、婚約していた。二人の老年の神官に、夏至の儀式が終わる刻を告げられる、だいぶ前にそれは決めていた。相手は神殿娼婦だった。彼女は毎日のようにやってくる、心と体と魂のバランスを著しく損なった男たちを相手に、セックスを通して、そのズレを解消するための役割を担った。
 ピラミッドの側に、住居を構えていた。男の粗暴で野蛮なセックスを、時間をかけて矯正し、女体を丁寧に慈しむやり方を、教えこんだ。男達の、狂気に走りかけた性向を、本来の姿に取り戻すための行為に、日々没頭した。彼女の年齢は不明だった。自分で思い出すことはできなかった。考える必要性もなかった。しかしいつまでも、神殿娼婦が務まるわけではない。体力的な限界もある。気持ちの継続の問題もあった。
 彼女が引退を考え始めたときに出会ったのが、この若き神官だった。
 神殿娼婦は神官と結婚し、所帯を持つことが慣例だった。彼女もそれに従った。
 神殿娼婦という女の存在の意味を、精神的に理解している人でないと、結婚後に必ず、夫婦に深い亀裂が生まれることになる。大半はそうだった。たくさんの男と関係を持ったことを、頭では折り合いをつけられていても、しばらくすると、激しい憤りの感情に、男は支配されるのだ。女の体の中に入っているときに、無数の男の記憶が、その繋がっている性器を通じて、体の中に流入してくる。そんなことなど、思い込みにしかすぎないのに。しかし、この新しい夫は、病的に他の男の影に強い反発を感じるのだ。そんな事例が増えていったため、神殿娼婦の在り方を、魂の問題として、深く理解できる人間に、結婚相手を限定することを原則とした。

 若き神官は、神殿娼婦との婚約を発表する。
 彼女は、結婚後、夫以外の男とは、当然のことながら、肉体関係を持つことはなくなる。今年の春の祭りのあとで、若年の神官は結婚する。
 そのあいだも、祭りの準備は進んでいった。しかし、見た目にはまったくの例年通りだったが、それでもどこか、この若年の神官には店じまいをするときのような雰囲気が、隠しきれていないように感じた。商店には、すでに新たな商品が補充されることはない。あるものを売り尽くすだけだった。活気はなく、どんよりとした暗い雲が漂っている。空気も湿っている。極端に商品は減ってはいない。そのため、店を閉めるんですと言わない限りはわからない。
 若年の神官は、毎日夕暮れ時に、ピラミッドを見つめていた。ピラミッドの形態は少しも変わらない。完璧なる角度を永遠に保っている。祭りが終わろうとも、人々がこの街を放棄しようとも、たとえ文明が崩壊してしまおうとも、この建造物は、壊れることもなければ、壊されることもない。生命力の塊のような存在だった。人間が作ったものなのに、人間よりも力強い生命を宿している。人間が時の趨勢に激しく左右されていても、この建造物は、周りの気流の変化に、少しも振り回されることはない。暴力が吹き荒れようとも、それを軽く受け流した。人が完全にいなくなり、誰にも相手にされなくなったときも、建造物は誇り高く、そして天へと向い、その威厳を示し続ける。おそろしい存在だった。本当に人間が、このマヤ人が、長い時を経て積み上げたものなのだろうか。そしてこれを、一体、誰が壊すことができるのだろうか。闇に葬り返すことができるのだろうか。
 神殿娼婦と、セックスをする男たちは、射精が許されなかった。
 女体の外に射精することも禁止されていた。神殿娼婦とセックスをしていると、射精したいという本能もなくなっていった。とにかく長い時間、男は彼女の中へと留まる。そして何事もなかったかのように魂は浄化され、心身に力が蘇ってくる。男は帰路へとつく。神殿娼婦も性的絶頂を迎えたまま、男と別れる。神殿娼婦の方もみるみるうちに、日々、エネルギーを漲らせ、そして、本来のあるべき自分の姿へと近づいていった。引退し、普通の女へと戻るが、はたしてそれで、他の女と同様の機能を取り戻せるのだろうか。
 若年の神官は、彼女とまだ肉体関係を持ったことがなかった。結婚前に性行為を行うことはなかった。本当に自分は彼女を受け入れることができるのか。別の神殿娼婦とセックスをしたことは何度もある。初体験は神殿娼婦と行うことになっていた。十五の歳になると、それは執り行われる。神殿への招待状が家に届く。神殿娼婦はかなりの数がいた。青年になるときに、性的な洗礼が執り行われ、そしてしばらくのあいだ、その訓練は続く。
 そしてあるときから、今度はぱったりと行えなくなる。男は自らの進むべき道を決め、仕事における、基礎の土台作りの時期へと、すみやかに移行する。その見習い期間は長く続き、そのあいだ、女性との性行為は完全に禁止される。
 性的欲求は、仕事の確立へと全面的に注がれ、そのあと一人前になったあとで、結婚はついに許される。婚姻を結ぶことで、その女と基本的に性行為を重ねていくことになる。しかしそのことで、不満に思う男たちは少なかった。たとえいたとしても、再び神殿娼婦を訪ねることで、そのズレは矯正される。神殿娼婦に通い続ける男も稀にはいたが、その男も次第に、回数を重ねることで、自分のパートナーとの性生活へと、いつのまにか戻っている。
 マヤの考え方として、どの女が、どの男が、いいとか悪いとかいうよりは、女性性、男性性を、一つの大きな世界観としてとらえていて、街全体、文明全体の、共有物として考えていた。その大きな世界観に繋がるための入り口として、こうして無数の男女が存在しているわけだ。だからパートナーを取り換えたって、基本的な性の世界観がゆがんでいれば、満足など、いつになっても得られるはずがない。けれど、その大きな一つの性の交流が、肉体的にも精神的にも理解できれば、体感できれば、それは一人の相手で十分に、大きな世界と交流して一つになれるのだった。
 だから、相手が元神殿娼婦であろうが、十代の処女であろうが、それは根本的には、同じことだった。気になるのはそこではなかった。
 若年の神官は、やはり、今日も夕暮れのピラミッドを眺めていた。文明全体を包み込んだ大きな世界観、しっかりと地に根を張り続けた、精神的支柱。天へと突きぬけ、心を宇宙へと解放させる、文明の中心的構造、そして機能。それを担っていた、二つの儀式。片方の欠損。すべては時間が解決することだった。
 祭りの時は、すぐそこにまで、迫ってきていた。


 祭りの前日、神官をはじめ、貴族の多くが暴漢に襲われた。それは民衆であったのか、それとも別の土地からやってきた人間だったのかはわからない。
 黒衣を纏った匿名の人間たちが、槍や刃物、金属や石の塊を使って、神官、貴族の身体を攻撃した。聖像は次々と破壊され、逃げ惑う人たちで、街は大混乱に陥った。若年の神官は路地に逃げ込み、そしてあらゆる広場に放たれた火を見ながら、さらに細い路地、細い路地へと、気配を消して移動した。
 神官の何人かは、きっとこんな事態になることを予測していたのだ。あの老齢の神官がそうだった。彼らはずっと前に都から姿を消した。彼らは今も生き延びているのだろうか。しかし周りはジャングルだ。密林を抜け出ることのできる体力と食糧を、確保できたのだろうか。移動はいまだに続いているのか。
 若年の神官は、その細い路地に悪臭まみれの人間が転がっているのを見た。浮浪者だった。いつからここに転がっているのか。都の運命とはまるで異なる時間が、そこには流れていた。もぞもぞと、その人間は動いた。悪臭に耐え切れず、若年の神官は先を急いだ。遠ざかるにつれて悪臭は薄らいでいった。しかしまた別の悪臭が鼻をついた。またもや浮浪者が転がっていた。どうやらここは、彼らのねぐらのようだった。
 しかし、若年の神官は、今はここにしか身を潜めていることができなかった。耐えるしかない。今、広場に出てしまえば、正体のわからない黒衣の人間たちに、確実に捕らえられてしまう。しかし、こいつまでが何故こんな所で待機していなければならないのか。空には月が浮かんでいた。星も無数に浮かんでいた。ふと空の彼方から、この都の崩壊を見ている存在がいるのだろうかと思った。俺がこんな状況になっていることも、正確に把握し、見下ろしている存在がいるのだろうか。ピラミッドに降り注ぐ天からの眼差しを、想像してしまった。
 若年の神官は、哀しみのあまりに涙が溢れてきた。夜が明けたときの都を想像してみたが、うまくはいかない。朝日が昇る様子も思い描けない。もう二度と世界は、光を取り戻すことはないんじゃないか。少なくとも昨日までの世界に、自分は戻ることができない・・・。もうずいぶんと前から、警告されていたことじゃないか。
 夏至の儀式が不首尾に終わり、もう一方の片輪である祭りの崩壊も目に見えていた。これで、神殿娼婦との結婚もなくなった。自分が家庭を持つチャンスも失われた。神殿娼婦との結婚がもたらす、さまざまな影響に思い悩む自分など、遥か昔の、前世のような気がしてくる。
 この数日のあいだで、世界は四半世紀経過してしまったようだった。老齢の神官や、テオティワカンから来たという男との会話も、今となっては、ただの幻影にすぎなくなった。ずっと自分がこんな世界に生きているように思えてくる。いや、ずっと、自分はこんな世界に、本当は生き続けていたのかもしれない。華やかに彩った都市国家の一員として、その繁栄の恩恵を受け、未来を担う神官として、その役割を全うするんだという気概に満ちた、あの人物はただの思い違いであって、夢の中の出来事にすぎなかった。自分は初めから、この今見える世界にいた。広場の方へと近づいた。大火事が、自分の影を映し出してしまうことを恐れた。黒衣の敵に、居場所を報告してしまうことに怯えた。
 だが、神官は、この眼で世界を確かめなくてはいけないと思った。たとえ殺されてしまうにしろ、一秒でも長く、詳細に都の終りを見てとらなくてはならなかった。最後の一人に自分はなるんだ。そう強く思った。それが役目だった。
 悲鳴や怒号は、家屋が焼かれる音と共に、大きくなっていく。ものが散乱し、破壊される音が聞こえてくる。人と人が争う音。いったい何のために。何故こんなことをする必要があるのだろう。誰の指示で。誰の意志で。何の目的があって。大義があって。文明を興し、文明を進化させ、さらには繁栄を謳歌し、崩壊する。破壊する。逃げ惑う。攻撃する。殺し合う。誰が何のために。終わりが来る。光は消える。闇が支配する。それが何なのだ?
 穏やかに都をたたみ、放棄し、そして、故郷に帰るはずではなかったのか。
 この地での生活を終え、故郷へと帰る。今よりももっと広い土地に建てた、大きな建造物のある都市に。最後の祭りを終え、これまでの生活に思いを馳せ、自分たちが生きてこられたことへの感謝を想い、あたらしい時代へと移り住んでいくはずではなかったのか。
 暦に刻み込まれた儀式が、途切れた意味とは、そういうことだったのではないのか。黒衣の殺し屋が都に乗り込み、火を放ち、人間を片っ端から破壊していくということを、意味していたわけではないだろ?
 神殿娼婦との新しい同居生活は、一体どこにいってしまうのか。少し楽しみにもしていた。無数の男を通過させたその女体は、いったいどんな進化を遂げているのか。その体と自分は、折り合いをつけていくことができるのか。彼女はどんな人なのか。自分にとってどんな存在になっていくのか。どんな子供が生まれてくるのか。その子供たちは、マヤの世界を引き継ぎ、そして発展させていく。当初の目的があり、初志があり、約束があり、最終的に達成したい目標がある。愛があり、憎しみがある。彼らもまた結婚していく。子孫を残していく。いったい何のために?それで、どこに行き着きたいのだろう?何を目指して。けれども、そんなことに思い煩う必要は、もうなくなった。
 そのときだった。
 この自分の肩に手が置かれるのを感じた。いよいよだと思った。虚無の世界へと葬り去る死神が、とうとうこの身に迫ったのだ。振り向かないでもわかる。その、生気のない温かみを失った、まるで墓場から蘇りつつある死者の匂い。振り返る必要はなかった。このまま静かに眼を閉じればいい。この都の、このピラミッドの、最期の瞬間だけを眼に焼き付けていればそれでいい。命をさらっていく黒衣の存在に、意識を奪われる必要はどこにもない。あのピラミッドだけを見つめるのだ。
 痛みは、時間を超えた透明な世界が、引き取ることになる。


 暗い洞窟の中に作られた部屋に、その男は入った。王だった。
 外の世界はすでに、侵入者が暴れ始めている。祭りの刻の訪れの方が、先を越すような現実にはならなかった。しかし王は、何としても、最期の祭りだけは成功させたかった。自分がこのマヤ王国における最期の王となる。屈辱的な事実だったが、これも仕方のないことだった。その運命を、生まれながらにして背負っていたのだ。暦のことは知っている。自分の前の王は、八年前に死んだ。その次に王になるのは自分だった。そのときは、八年後にやってくる最期の祭りのことには、気が回らなかった。その頃は、対外的な戦闘が激しい時期だったので、八年も生き延びるとは思わなかった。前の王も戦闘で死亡した。その前の王も同じだった。三年生きれば、幸運だと思っていた。
 ところが四年が過ぎ、その頃から戦闘は減っていった。周りの国が、次々と内部崩壊による政変で弱体化していき、それに天災が重なり、自滅していった。マヤは敵が次々といなくなっていく中で、戦闘能力を次第に低下させていった。
 王は、六年目が過ぎる頃、暦に刻まれた儀式の消失のことに思い当った。神官を呼び、その消失の意味を教えてくれと迫った。神官はいろんな理由をつけて、本質を巧みに誤魔化していたが、その年にとにかく、二つの儀式が終わりを告げることは間違いなかった。それは、我々神官が司る夏の行事から始まる。その頃にはすでに、真実を知った神官の中から、国を放棄する者まで出てきていた。自らの意志で出ていく。荒廃は進み、繁栄の拠点は移動する。じょじょに堕落していく世界の中で、王。あなたは、国の最後を見届ける役割を担っているのです。
 七年目になると、王は自らの在任期間を、数えるようになった。いよいよ、現実実を帯びてきた。確かに、神官の数は目に見えて減っていった。夏の儀式は執り行われなかった。王は残虐な生贄の儀式には参加せず、終えたときに、戻ってくることになっていた。しかし、七年目の夏は生贄は供されることなく、直前に解放してしまったという。代わりに少年が現れ、一人ピラミッドへと登り、火を放ち、自らも焼かれてしまった。少年の死体は出てこなかった。それ以来、ピラミッドは、黒い煤の塊と化してしまっていた。朱色に輝いた姿を、二度と晒すことはなかった。修復はなされず、それから突如、セノーテと呼ばれる地下水から湧きあがる泉の水位が、急激に落ち、二か月後には、完全に干からびてしまった。灌漑設備は機能不全に陥り、そのあとの雨季でも、乾燥の状態が続いたために、作物は枯れ、餓死者が増大した。太陽が照る時間が減った。雲の多い日が続いていく。それでいて、気温は少しも下がらず、疫病も蔓延していった。とても祭りどころではなかった。
 洞窟の中に閉じこもっていた無能な王の耳には、破壊者たちの残虐な叫び声が、聞こえていた。しかし、太鼓の音も聞こえてくる。祭りの準備は、着々と進んでいた。そして王が、ピラミッドの頂上に登場する時間が迫っていた。侵入者たちは、王の所在を探すことに、今は精一杯なのだろう。一般市民を殺害していくのは、そのあとでいい。まずは、王の周辺にいた貴族、神官をなぶり殺し、そのあとで防備の甘くなった王に向かって攻撃を集中させていく。
 まだ王の部屋が破られることはなかった。しかし時間の問題だった。迷路の中を繰り返し走り続ける侵入者も、いずれは、この抜け道に気づく。そして多勢を結集させ、この最後の砦を破壊することに成功するだろう。
 けれども今回は王の勝ちだった。ここからは誰にも姿を見られることなく、ピラミッドの頂上へと直行することができる。太鼓の音は激しさを増していく。男の掛け声が重なっていく。上半身は裸で、下半身には藁葺きが腰に巻かれているだけだった。頭には青や黄色の羽根がつけられていて、長髪を垂直に立てているかのような風貌になっている。
 壁に彫られた絵文字を、王はずっと眺めていた。迎えの男がやってくるのを、目を閉じて待った。


「次の時代のための、一時的な解散だ」
 老齢の神官の一人は言った。
「次への準備だ。違う土台の制作に、すでに、入らなくては。一時的に見捨てる。全員がなぶり殺されてはいけない。宗教は崩壊した。天との接続を担う神官は、誰一人、いなくなるだろう。共同体全体と、天とを繋げる象徴的な建造物は、姿を消す。ずっと長いあいだ、人間はあたらなる宗教を創造するだろう。天との関係を取り戻し、人間を超えた力と一体化することはなくなる。代わりに、人間自身が編み出した、さまざまな技術が、生まれ出ることになるだろう。物質として、体現されることになるだろう。それは一種の、宗教になる。それは、人間の偉大なる進化の一環だ。それこそが、祝福されるべきことで、祭りのような役目を果たしていく。日々の生活の中に組み込まれた祭典だ。おおいに祝おうじゃないか、僕たちは」
「皮肉なコメントだな」もう一人の神官は、ぼやけた表情を浮かべた。「一時的な解散だって?違う土台の制作だって?」
「そうさ。共同体が天と繋げる役目を果たすときは、終わったんだ」
「それで?」
「繋がりを必要としない世界が、ずっと続いていく」
「そのあとに、やってくる文明の話なのか?」
「それは、わからない」
「わからない?」
「我々の遥か彼方の子孫が、その現実を目にすることになる。そのときまで、我々は絶対に途切れさせてはいけない。そしてそれは、また別の形で、文明の中で復活させなければならない」
「復活?」
「一時的に停止するだけだといっただろう。もちろん、一時的というのは、我々の感覚による、時間の長さのことではない」
「いつ、来るんだ?」
「遥か先の、子孫の時代だ。残しておくべきものだけは、残しておかなくては。遺伝子は継承していく。教えは伝承する。どこかに避難させておき、保管しておかなければ。世界がどんな被害を蒙ることになろうとも、遥か地面深く堅牢な囲いと共に、消滅を免れるための場所を、創造しておかなければならない。小さな小さな共同体として。世界はこれから恐ろしく、細分化されていくことになるから。共同体とは、その細かく切り刻まれた、あまりに小さい部品たちの集合体ということになる。一人の人間の中であっても、その分断は激しくなっていく。自力で統合していくのは、至難の技を擁することになる。しかし、助けてくれる共同体の存在はない。そんな集団があったとしたら、それは偽物だ。救済という名を借りた、魂の乗っ取りだろう。それ以上、細分化されたくないのであれば、ほら、丸ごと預けてごらんと。天との繋がりを謳う団体も無数に現れる。しかし、彼らが天との関係を取り戻すことは、絶対にない。繋がっているかのように、巧妙に見せかけること。それが精一杯だ。そしてその虚為を維持していくために、その後もさまざまな嘘を上塗りしていくことになる。それが、通常の世界の在り方になる。人間は進化していく」
「それの、どこか、進化?」
「進化の過程では、いろいろなことが起こる。相対的に見て進化だと言っている。部分だけで判断するのであれば、君の言うことはもっともだ」
「それで、我々は、これから何を?」
「最終的な目標はね」
「はい」
「すべての人間が、教祖になるということだ」
「教祖・・・教祖って?」
「神官になるということだ。上級の。つまりは、マヤにおいては、一人か二人しかいないと言われていた、暦の意味を正確に読み取れる人間のことだ。そのレベルまで、すべての人間を引き上げるのが、最後的に辿りつくところだ。あんな儀式だの、ごたいそうなピラミッドなどを必要としない、自分一人だけで、天との回路を自由に開け閉めのできる、そういうことだ。我々のような職など、本来はなくていい。そうだろ?王だって、いらない。すべての人間が、王になればいいんだから。その資格は十分にある。僕はそう信じている。そのための第一歩を我々が築く。マヤの神髄を、我々の出来る範囲で残しておく。我々のあとの人間たちが、それを元にさらなる発展を繰り返していく。我々のやることで、一番重要なことというのは、発展のための最低限の知識と、あとはこの最初の想いだ。最終的にどうなっていたいのか。その最終形を示すことだ。その技術的な肉付けは、これから続いていく子孫たちが担ってくれれば、それが本望だ」
 もう一人の神官は、黙って聞いていた。
「反論は?」
「反論?あるわけがないね」
「それはよくないな。あまりに高すぎることを要求しているとか、そういう発言が欲しい」
「高すぎるとは思わない。人間の当たり前の能力だ」
「そう思うか?」
「ああ、思うね。そしてm我々の生の中で、それを実現したいなどと言うのであれば、反論はするが」
「最初が肝心なんだ」
「わかるよ」
「そういえば、若い神官がいたよな」
「ああ、居た」
「どうして、置き去りにした?」
「どうして置き去りに、だって?そんなこと、当たり前じゃないか。人は生まれ変わる」
「はっ?」
「は、じゃない。人は生まれ変わると、言ったんだ。僕だって、君だって、それは同じことだろう。だからあの若い男を置き去りにして、そして、侵入者たちに殴り殺されたって、そんなことは一向にかまわないんだ」
「何て、ひどい考え方なんだ」
「誰かが、その最期の風景を、見届けなくてはいけない。だからあの男に、情報を提供して、それで意識を先鋭にさせておいた。そうでなければ、殺されるときに眼を見開いていることなどできないだろ?僕らはいち早く逃げ出さなくてはならなかった。誰かが残り、最後の光景を脳に焼き付けておかなくてはならない。若い男であればあるほどいいじゃないか。感受性に錆びつきが少ない。我々よりも、よっぽど、確信に満ちた記憶を残す。生まれ変わったときに、その記憶がいつか・・・目覚める」
「ほんとうに、生まれ変わりなどを信じているのか?」
「どうだろう。正直、俺にもよくわからない。ただ、あの状況の中では、そんなことしか思いつかなかった」
「そして見捨てた・・・」
「言葉には気をつけろ」
「でも・・・」
「まだ、確実に殺されると決まったわけじゃない。街が焼かれて消失するところを、物陰から見ている。侵入者たちが都を破壊していく様子を目撃する。そして奴には気がつかず、破壊者たちは、都を後にするかもしれない。彼だけが生き残ることは、あるかもしれない。そうだろ?可能性としては十分にある。あえて、見殺しにしたわけじゃない。あとは我々の問題ではない」


「あなたとの結婚生活・・・、悪くなかった」
 北川裕美は、Lムワに向かって言った。
「感謝してるの。あなたとの静かな生活を望んでいたから。でもこれが限界。あなたもきっと、そうでしょう。あなたも、一人になるときが来た。私という女から離れ、また別の女と一緒になるべきね。私たちはずっと長いあいだ、夫婦でいるべき間柄ではなかった。お互いに必要だったときは、もうだいぶん前に、終わってしまった。私もあなたも気がついている。本来の私たちに戻りましょう。それは夫婦という形ではないことも、あなたはわかっている。私のほうが家を出ていくから、だから安心して。あなたはここに居ていいの」
 北川裕美の荷物はすでに、運び出されていた。この日、北川裕美は別れを言うためだけに、Lムワ邸に帰ってきた。
「二人が共有していたものは、とりあえず、私が引き取った。その代わりに、家はあなたのものよ。住み続けるのが嫌なら、売ってしまってもいい。でもしばらくは必要でしょう。あなたは根っからの制作する人だから。ここでこれから制作するのもわかっている。もし引き払うとしても、その後でしょう。私がいなくなれば、あなたの仕事は捗り始める。私と結婚する前の生活を、あなたはこれで、取り戻すことができる。私が奪ってしまったあなたの仕事への情熱を、これから復活させることができる」
 Lムワ邸には物がほとんどなくなっていた。空っぽに近い状態だった。ベッドとクローゼット、テーブルと椅子、最低限の家具と、Lムワの衣類、数十冊が置いてある本棚くらいしかなくなっていた。ホテルよりも物は少なかった。プールがあったが、水はいつのまにか、抜かれている。底の掃除も済まされていた。もう二度と水が入ることはないような、そんな様子だった。完全に干上がってしまっていた。
「そういえば、水の出が悪くなった」
 Lムワは、北川裕美に向かっていった。
「もう、ここで、パーティーを開くこともないしな」
 Lムワは淋しそうな眼差しを、プールサイドに向けていた。
「人が、たくさん集まったこともあったね」
「まだ結婚して、間もない頃ね。あのときは、私も女優を引退したばかりで、まだ周りは騒がしかった。注目もされ続けていた。あなたも数冊の本を出していて、それも話題になっていた」
「俺の本が、話題になどなったなどない!売れてもいない。すでに絶版だ。君の知名度で、ほんの少しだけ見向きをされた。ただの、それだけだ。君の影響力だ。俺という存在も、そうだ。君と付き合っていたから、浮かばれた。陽の目が当たった。すべては、君の余熱のようなものが引き起こした。そして、あのときの喧噪からは、どんどんと遠ざかっている。そんな八年間だった。ゆっくりとゆっくりと、下降線を辿っていき、そして君に対して声をかけてくる連中でさえ、今となっては、いなくなってしまった。ただ、広いだけの家になってしまった。人の熱が、あまりにもなくて、寒々しい家になってしまった。君の言うように、ここが限界だ」
「最近では、あのシカンという人しか、この場所に足を踏み入れた人はいないし」
「そうだな」
「あの人、今は何をしているの?」
「多忙のようだよ。あのとき、俺と少しだけ仕事をしたときから、急カーブを描いたかのように上昇した。オファーが次から次へと、舞い込んできている。まあ、その前から、彼はそこそこ仕事が入っていたようだし、実力もあった。ただ、ここのところの活躍は、実に目覚ましい。俺は信じていたよ。あの男がこうなることを。ある程度、想像していた」
「ずいぶんと、当たるのね」
「どうかな」
「私たちの、今後は?私の今後は?」
「君が家を出るということは」
 Lムワは水のないプールを覗き込んだ。
「答えは決まっているさ。女優復帰だよ。ただ、八年前とはその形態は全然異なる。君はこの八年間で、大きく変わってしまった。八年前と考えていることがまるで違う。たとえ、同じことをやろうとしても、実体はまるで違うものになる。他の人間からみたら」
「まあ、とにかく、元気で。もう会うことも、ほとんどないでしょうけど。それでも、あなたのことは、今でも大事に思ってるから。友達として力になれるときがあると思う。お互いに。あなたは、私と出会う前のあなたを取り戻して。どういう意味か、わかるでしょ?私があなたに何を望んでいるのか。その望んだものが、この八年間、ちっとも浮かんでこなかったという失望感は、ほんの少しだけどあるのよ。こんなこと、最期になって言うことではないかもしれないけど。私、あなたの人柄もそうだけど、ものすごく期待していたのよ。あなたの、その、著作にね。続きが読みたかった。絶版になってしまった、あの数冊の本の続きを。それを一番近くで、早く手にいれることができると思った。その過程を、垣間見れると思った。ほんとうよ。でもそれが、プライオリティの先端では、もちろんなかった。あなたの側にいること。あなたと人生を歩んでいくこと。生活を共にすること。それがもちろん、一番大事なことだった。でもそれでは飽き足らなかった。だんだんと、プライオリティは逆転していった。もしかしたら、始まりのときから、そうだったのかもしれない。ただ、あのときの私ったら、ひどく生きていくことに摩耗していたから・・・。そういった守られた安らぎのようなものを、強烈に求めていた。それが災いしたのかも。本当はもっと堅牢な家にしたかった。半端なく、硬くしてね。高い壁で囲んで、それで訪問者のすべてを敵とみなして、近づいてきたら撃退する。打ち殺す。そのくらい閉鎖的な場所に、したかった。ほんとうよ。要塞のようなね・・・。あなたと結婚した理由の一つだった。いろんな意味で、結婚相手としてのあなたは、完璧だった。私が望む条件のすべてを、兼ねそえていた。その、たった一つを除いて」


 北川裕美が出ていってから、二週間が過ぎた。
 彼女は思い違いをしていた。Lムワは結婚してからも、彼女の知らないところで文筆を続けていた。自分がこの家を出ていき、婚姻を解消すれば、夫の文筆が復活するだろうと彼女は思っていた。何て愚かな発想なのだろうと、Lムワは思った。彼女には、火山のマグマのような強烈な才能がありながら、物事を的確にとらえ、本質を暴くために複合的な知性を発揮するということがまるでなかった。この女と一緒になったことで、ネオマヤンは深化していった。ネオマヤンが前に進んでいくためには、そのための熱の発火がどうしても必要だった。そんなとき北川裕美と出会った。彼女はその配役にうってつけの女だった。そして彼女の熱量をすべて吸い取り、13VAクトゥンの推進力へと変えた。彼女は、自分のマグマの一部を削り取られていたことを、まるで知らなかった。おそろしい女だった。不感症なのだろうし、あるいはそれくらいでは簡単に枯渇しない、無尽蔵のエネルギーが埋蔵されているのかもしれない。
 どっちにしろ、今が離れどきだった。しかし自分にはわかっていた。この切り離すという作業が、自分にとっては最も険しく、困難な作業になるということを。そしてそれには、他の人間の力が絶対的に必要だった。自分以外の、男の存在が必要だった。これまでも、そうだった。文筆のために必要とした、マグマを確保し、そのマグマと同化するということは、一人で十分に可能だった。誰かに手伝ってもらう方が、足手まといだった。しかし、切り離す作業に対しては、そうではなかった。非力な自分がいた。
 そして、このマグマは、当初、自分が必要としていた熱源からは逸脱していく。
 新たなる生命を宿し、女と一体化し、男を激しく殴打してくるのだった。
 男という性そのものを、完膚なきまだに叩きのめすように、仕向けてくる。そうなると女は、もう手のつけようがなくなる。物の怪にとりつかれたように荒れ狂う。素の彼女では、完全になくなる。すべてが特異で、危険な世界へと繋がっていく。別の女に、応援を頼むことはできない。もし頼めば、その女も物の怪の餌食となってしまう。応援部隊として補強され、新たに生まれ出た熱源の戦力と化してしまう。そのことが、本能的に理解できた。男でなければ。それも、普通の男では駄目なのだ。ある種の女に宿る、熱源の存在を、本能的に悟っている男でなければ。そうはいないだろう。
 シカンにしてみても、初めから、その役割を期待したわけではなかった。この家に招き、北川裕美と二人きりになる状況を作った。シカンの反応は思っていた以上のものだった。北川裕美を吸引していく力が、彼にはあった。北川裕美の餌食になるような、貧弱な男ではなかった。シカンでいこうと決めた。何度か二人きりにする機会を設けた。それで十分だった。あとは二人があらたなるストーリーを繋いでいってくれる。行き先はわからないが、とにかくその影響は確実にあるはずで、そうすれば北川裕美はこの自分からは離れていく。剥がれ落ちていく。お互いが自立した存在として、あらたなる人生が開けていく。そしてLムワには、別の思惑もあった。その変貌した北川裕美の姿が、つまりは新しく彼女の中で生まれ出た、副産物としての怪物が、いったいどこに、その居場所を求めて抜け出ていくのか。そこに猛烈な興味を抱いたのだ。
 これは、一つの実験でもあった。
 彼女の行く末を遠くから見守る役目があった。
 この元夫婦が八年後。そう、八年後にいったいどんな姿で再会するのか。Lムワは、次の八年のサイクルが始まったことを自覚していた。北川裕美と過ごした八年の、そのそっくりと同じ場所を、これから上塗りしていくのであった。それぞれが、違った環境の中、違うパートナーとの生活の中で。その八年は、前の八年と少しもズレることなく、重なり合っていくのだ。
 そのとき、二階から大きな物音が聞こえた。何かが崩れるような音だった。するとプールの水が、ほんの少しだけ溜まっていることに気がついた。濁っていて、やや緑色をした汚水だった。玄関から、広間へと続く、大理石の廊下に飾ってあった石像が倒れた。床に散乱していた。だがそれが何の彫刻であったのか。Lムワは思い出すことができなかった。家を購入したときには、すでに存在していた。特に不動産屋に訊ねることもしなかった。やたらと石像があった。何かの儀式をとり行ったときの、役人のような律義さで、整然と並んでいた。石像は次々と自ら亀裂を起こし、そしてその胴体を、支えきれなくなったかのように自壊していった。その壊れる前の姿をほんの数秒前には完全に見ていたはずなのに、匿名の石の残骸がいったいどんな姿だったのか、まったく思い出すことができなかった。二階に行き、北川裕美の部屋を覗いたが、そこには当然、誰もいなかった。何もなかった。
 寝室を覗くと、ツインのベッドが、まるでダブルベッドのようにくっ付けられていて、今も仲睦まじく並んでいた。しかし、その真ん中を貫く繋ぎ目の筋は、レーザー光線で巨石を切断したかのような、無慈悲で芸術的な美の刻印を、Lムワ邸に深く残していた。
 火を放つタイミングをLムワは狙っていた。無に返すときが近づいている。積み上げたものは、自ら壊さなくてはならない。それがこの邸宅を買った大きな意味だった。侵入者を許し、破壊者へと変貌する、その誰かを招きいれてはいけなかった。あのときのように、建物が無残な姿へと変貌していく様子を、狭くて暗い湿度の異常に高かったあのような場所で、込み上げてくる悔しさと共に、無力に眺めているだけではいけなかった。
 二度とそんなことがあってはならない。
 あの時が、どの時なのかはわからなかったが、少年だったときに、いつか自らが火を放つことを知っていた。この心臓は誰にも掴ませてはならぬ。少年だったときに、どこかで、その声に出会っていた。Lムワは、今、その子供の母親となっているかのようだった。その少年の存在を感じとっていた。そしてついに、火を放つときが来たのだと悟る。
 彼に許可を出している自分がいた。














































  第三部 第八編 『SG』、そして、『AD・BC』の世界




















 井崎は絶版になっている過去の著作をすべて集め、さらには、USBの中にあった、Lムワが死ぬ直前まで書いていた原稿をすべて開いた。
 ここからどう改訂し、組み直していくか。この原材料をどう調理していくのか。Lムワは生前、この自分にすべてを任せるような、発言を残していた。
 どの作品もシャープさに欠け、混沌としていて、何度も同じモチーフが繰り返し現れた。しかし、その繰り返しは、一つの作品の中で起こるとはかぎらず、別の作品に飛んでいたり、さらにはまるまる別の作品に飛んでみたり、そこには法則がまったくないように見えた。
 登場人物も安定感に欠け、やはり作品の枠を跨ぎこして、いきなり現れてみたり、消えてみたりしていた。作品として別れているのは、とりあえず、ここの混沌にはこんな名前をつけてやろうといった感じで、構造的にはまったくの行き当たりばったりで、欠陥住宅そのものだった。
 こんな家は、現実に建つことはない。
 やはり俺が、根本的に整理し直して、別の建物をたてないといけなかった。
 しかも、Lムワの処女作は、三つ存在していた。バージョンの異なる三つが存在していたのだ。どれも絶版になっているので、今となっては、どうでもいいことだったが、当時はトラブルにならなかったのだろうか。ABCということにすると、そのAが一番長くて、400ページを超えている。Bが270枚、Cが120枚だった。Cは明らかにAのダイジェスト版であった。しかし、Bの存在の意味がわからない。Aをただ短く切ったものではなかったし、かといって、Aとは話の流れが全然異なっている。前後は入れ替わり、同じ場面が重複はするものの、現れる場所がまったく異なるために、別の話なのではないかとも思ってしまう。
 すでに、最初の場面からして、全然違う。
 しかしA版の冒頭は、B版の後半に現れ、B版の冒頭は、A版の中盤に現れる。ラストの場面も、全然違う。違うのだが、共に別の版にも、そのシーンはある。最初にA版があって、何らかの縮小を強いられたか、そうする必要が出てきたために、Lムワは削る作業に入ったと考えられる。しかし、ただ削るだけの作業では、作品の本質が損なわれてしまう。そこで彼は短くすると同時に、シーンの順番を頻繁に移動させて、ランダムに配置した。その結果が、B版として残ることになった。そういうことなのだろうか。
 井崎は、最初の作業からつまずいてしまった。悩まされてしまった。
 A版もB版も共に残すべきなのだろうか。この混沌としたシーンの連続に、ある種、新聞の見出しのようなものを頻繁につけていくことで、物語全体が見やすいレイアウトとなる。あとから振り返ってみたときに、再読したい場所をピンポイントに探し当てることが容易になる。
 ではその作業から、実行することにしようと、井崎は決心する。とりあえずは、その見出しの言葉に関しては、何度も推敲を重ねていけばいい。今は何でもいいから、見出しが入る場所を、しっかりと特定するだけでいい。そこに適当な言葉を、仮に嵌め込んでおけばいい。とりあえずは、A版もB版も残しておくことにする。
 井崎は、その作業に何週間ものめり込んだ。家で作業し、カフェで作業をし、さらには有人の家のディナーに招待されたときも、そのさなかに酒の席を抜け、リビングを借りて作業を継続したこともあった。
 一度、Gを目撃したような気がした。
 暖かい日差しのあった日に、カフェのテラス席で、作業を続けていたときだった。コピーをとった紙の束をテーブルの上に乗せ、ぱらぱらと見出しだけを、全体の骨格に見立てて、この物語がきちんと建築されうるものなのかを、確認していたときだった。
 ふと、外の通りに目を移した時に見たオープンカーに、Gが乗っていたような気がした。彼は助手席に座っていた。運転席には、信じられないくらいの美女が。それは長谷川セレーネのようにも見えた。もし本当にあの二人だとしたら、いったい何をしているんだ?プライベートで会っているのか?そもそもあの二人は、まだ仕事では顔を合わせてはいないはずだった。
 処女作の『ジェラシカ』は、三つのバージョンをキープし、必要とあらば、一つに統一する。そして、ジェラシカを含めた四作品を主軸として、その中の三つの長編を空母とし、戦闘態勢を整えていく。
 三つ目の長編は、もっともスケールが大きなもので、Lムワが死ぬ瞬間まで書き続けていたものだった。未完成ではあったが、これも重要な骨組みの一役を担っていた。四シリーズ三長編、あとは断片を寄せ集めたようなもので、一つにまとめてしまえばいい。整理しきれなかったおもちゃを、無造作に入れた、《箱》のようなものだ。それでいこう。あとは見出しの言葉を練っていくことに時間をかける。文章に手を入れるほどの文才は、自分にはなかった。それに、Lムワの文章というのは、その筆致に関しては、彼特有の強さがあり、意外にも読みやすく、うまさも兼ね備えていた。そこに関しては、何も手をいれる必要はなかった。
 井崎は編集者にでもなかったかのように、原稿を何度も何度も見直した。
 グラウンドキャニオンから、赤い岩たちの渓谷を眺めているような気持になっていた。雲間から姿を現した太陽が、その岩壁をさらに、濃いオレンジ色に染めていく様子を、彼は心穏やかに見守った。


 井崎は、Lムワ著作の再構築を行っていたカフェテラスに、Gを呼び出した。
 Gは素直に応じた。Gが来るまで、その日もLムワの著作を眺め続けていた。
 どういうふうに彼らは立ち上がりたいのか。飛び立っていきたいのか。すでにLムワの手から離れた自由の鳥たちは、ざわめき始めているように見えた。そのざわめきを汚さないように最新の注意を払いながら、自らの意志や気配を消すことに専念した。
 忘我の境地に達することもあり、時間の感覚を失い、周りの風景もどこか、別次元の空間のように感じられた。
 そのときも、Gに肩を叩かれるまで気がつかなかった。
「お、Gか。この前、電話したんだが、どこに行っていた?お前が出なかったのは、初めてのことだ。しかも、留守電を入れておいたのに、返事がぜんぜん来ない。ずっと圏外が続いていた。俺の把握できる範囲を超えて、いったい何をしていた?」
 Gはディバックの研究所の事については口を噤んだ。
 ディバックという男の話も、極力避けたかった。
 他の誰にも話したくはなかった。この身体をどういうふうにいじられているのか。自分でさえ、把握できていない。研磨していると、МQRは言っていた。確かにそういった雰囲気は感じた。擦り減っているようには、思えなかった。偏頭痛は消え、視野狭窄も消え、激しい躁鬱も安定してきているように感じた。井崎に話せば、面倒なことになりそうだった。
 ふと、振り返ると、そこには万理が立っていた。
「あれ、万理さん。万理さんも僕らと一緒に?」
 井崎は驚いた様子で顔を上げた。
 その様子に、Gは、万理が突然この場に現れたことを察した。
「何の用だ?」
 井崎は、万理の顔を見ることなく、パソコンに向かって低い声を発した。
「忙しそうね」
 万理の声にも抑揚はなかった。険悪な空気を感じたGの心は、ざわめき始めた。何らかの修羅場に居合わせたのではないかと思った。
「お久しぶりですね、万理さん。僕が出演しかけた映画、あれが不首尾に終わってからは、ずいぶんと忙しそうですね」
 しかし万理には、Gの言葉はまったく届いていないようだった。
 万理は井崎を見続けていた。
「俺は、Gと二人で話がしたいんだ」
「何の話ですかね、井崎さん」Gは言った。
「君の不可解な行動を、説明してもらいたくてね」
「私、あなたのことが、好きになったみたい」
 万理は、今にも叫びそうな雰囲気を押し殺すことに、必死になっているようだった。
「あなたの弱さ。私にだけ見せてくれた、その繊細な心。あなたの優しさを、私は感じた。誰にも見せないで・・・、そう思えば思うほど、あなたのことが忘れられなくなってしまった。あなたの側に居たい。あなたの力になりたいって、そう強く願う自分がいる。あなたをこの胸で包み込みたい。そう思う」
「俺には女がいる」
 やっと、井崎が万理の言葉に反応した。「なあ、そうだよな、G」
 Gは何度か頷いた。
「あの女は、俺を裏切った。しかし、俺は裏切らなかった。まだあいつとの仲は続いている。外野の君に、あれこれ言われる筋合いはない。これは、俺自身の問題だ。静香の問題でもない。俺だけの問題だ」
「わからないわね」と万理は言った。
「あいつには、責任はないんだ。あいつがあのような行動に走ったのかを知ったのは、この俺だ。俺が認識したんだから、俺の問題だ。あいつに問い正すようなことは何もないし、非難する必要もない。誰が正しくて、誰が間違っているのか、そういう問題でもない。しかし、現実に俺たち二人のあいだには、問題が起こった。それは間違いない」
「新作は書いているんですか?」
 Gはこの険悪な空気に割って入った。当然、万理からの返答はなかった。
「新作は書いているさ」と井崎が答えた。「まだ描き足りないんだろ?いい加減にもうやめたらどうだ?」
「どういう意味よ」
「意味なんかないね。早くやめたらどうだと、忠告しただけだ」
 空気はさらに、不安定さを増していった。
「S・Gよ」万理は今度も叫ぶように言った。「夏に公開するわ。そして、次の作品の脚本も、すでに書き始めている」
「それがラストだ!」と井崎は言った。「君はその作品をもって、映画監督としての人生を終える。そこまでだ!」
「勝手に決めないでくれるかしら」
「俺のことが好きなんだろ?愛し始めているんだろ?」
 井崎の言葉が冷たく響き渡る。
「それとこれとは、関係ない」
「これが、見事にあるんだよ」
「映画をとることもやめ、ドラマに出ることもやめて、それであなたと一緒に生活する。そんなことには、ならないわ」
「誰が、そんなことを言った?」
「北川裕美とは、違う」
「誰が、北川裕美のことを言った?」
「あなたの言いなりになんて、ならない」
「好きにしたらいいさ」井崎はGの方をちらりと見た。「さてと、そろそろ、Gくんと、二人だけにしてくれないかな」
 万理はGを睨むように強い目で見た。
 まさか、井崎と万理が、そんなことになっているとはGは知らなかった。
「次の作品のタイトルは何か、教えてやろうか。ADBCだ」
 完全に空気は冷え切り、時間は止まったままだった。
 ここでも、Gが、この停滞する空間を切り裂く役目を、果たさなくてはならなかった。
「その、S・Gっていう作品は、どんな話なんですか」
 万理は我にかえったかのような表情で、井崎から目を離した。
「何かの略か?」
 井崎は、アイスコーヒーのグラスに突き刺さったストローを、ぐるぐると掻き混ぜた。
「Gって、お前のことじゃないのか。ククク」
 井崎は嘲け笑った。
「Sって、誰なんだろうな。そうだな、君の交友関係からすると、シカンじゃないのか?シカンのS。それとお前。ダブル主人公か。傑作だな。何ならG、お前が、出てやれば?そのほうが万理も助かるだろ」
 いったい、いつまで、喧嘩の予兆のような空気が続いていくのだろうと、Gは思った。
「僕は帰りますよ」
 Gは、自分が切り上げるタイミングだと、悟った。
「待って。去るのは私だから。あなたは、ここに居て」
「いや、去るのは、君たち二人だ!」
 そう言って、井崎は、パソコンの電源を再びオンにした。
「これから、仕事の続きをする。気が変わった。一人にさせてくれ。乱れたこの風紀を、俺は安定させたい。帰ってくれ!」
 Gと万理は、その言葉に従った。


「悪かったわね」
 店を出た万理は、終始俯いていた。
「私の欲望が、むき出しになったところを、見せちゃって。それに、あなたたち二人の時間を、引き裂いてしまった」
「いつでも、彼とは、話ができますから」Gは言った。
「それは、どうかしら」万理は、辛辣な表情で答えた。
 二人は何となしに、通りを歩いていた。時おり、車が猛スピードで横をすり抜けて行った。
「けれど、万理さんこそ、僕がいて迷惑だったでしょ」
 言おうか言うまいか迷ったあげくに、Gは口に出してしまう。
「まさか、あなたと井崎さんが、そういう関係になっているとは、思いませんでした」
「違うのよ」と万理は言った。「彼には、恋人がいるのよ。私とは、何の関係ももっていない。私が、一方的に、彼に好意を抱いているだけなんだけど。あの人は、はっきりと、私を拒んだ。私は振られたの。それなのに、また、こうやって未練がましく、のこのこと現れて。うざったい女。井崎さん、あなたに何か話したいことがあったんじゃない?」
「どうでしょうか」
 Gはしらばっくれた。「たいした用ではないと思いますよ。ほら、井崎さん、何やら忙しそうだったじゃないですか。パソコンなんて開いちゃって。初めて見ましたよ、あんな姿。何をしていたんですかね」
 Gは逆に、ほっとしていた。
 万理のおかげで、井崎に、この数日のあいだの出来事を話すきっかけを失ったのだった。
「少し、話しませんか?」
 二人は、バーに入った。ビールを注文して乾杯した。
「実は、僕、井崎さんの女のことを、少し知っているんです」
「そうなの?」
「ええ。相談に乗ってあげたこともあるんです」
「驚きだわ」
「彼女、悩んでいましてね。井崎さんとは、今、遠距離なんですよ。前は、すぐ近くに、住んでいたみたいですけど。そのときに、僕は何度か会って。二人きりで。彼女の方から誘ってきたんです。話し相手になっただけですけど。井崎さんのことを、いろいろと訊いてきました。僕は彼と知り合ったばかりで、ほとんど何も知らないのに。あの人たちの付き合いは、それこそ、十年近くになると思いますよ。大学のときからって言ってましたから。でも井崎さんのことは、ほとんど何も知らないと、彼女は言ってました。全然、心を通わせることができないって。もちろん優しいし、いろんな話もするし、肉体関係もあるんだけど、でも肝心なことが、私にはまったく伝わってこない。僕にそう打ち明けたんです。そんなことを言われても、困りますよね。どう答えたらいいんです?人は誰でも、多かれ少なかれ、そういうものだって、説き伏せれば言いんですか?それとも、こうした方がいいんじゃないかって、助言を?どっちもできませんよ、僕は。ねえ、万理さん。女の人って、そういう質問を、他の男にするときの気持ちって、一体、どういうものなんですか?どんな意図があるものなんですか?」
 万理のグラスは、すでに空っぽだった。二杯目を、彼女は頼んでいた。
「彼女の気持ちはわかるわよ、そりゃあね。その彼と、最も親しくしていそうな、別の男性に、接触していく気持ちもわかる。だってそうでしょ。井崎という人間の本質は、あなたに対して、表現されているんだから。女に対してではないのよ。あなたに対してだけなのよ。あなたにだけ、井崎さんの中の一番重要な側面を見せている。心を許している。井崎さんのことを想う女性は、みな、あなたに嫉妬する。わかる?わからないわよね。あなたは世の中の女性を、全員、敵に回しているのよ。おおげさに言ってしまえば。私も例外じゃない。あなたたちが、これから交わそうとしていた重要な会話を、阻止できて、大満足なのよ。それが本心よ。私はあなたたちの邪魔を繰り返す。これからもずっと。あなたが自らの意志で、井崎と訣別するまでは。女は執念深いわ。井崎の女?それが何よ。もし二人で会うことがあったら、それこそ、とっても仲良しになれると思うわ。彼を二人で奪い合うことにはなるだろうけど、それとは別に、とっても仲良しになれる。わかりあえる。同じ男を好きになるんですもの。でもあなたは違う。わかりあえることなんて何もない。あなたは私に対して、ずっと無関心でしょうし、私はあなたに対して、憎しみの気持ちしか沸いてこない」
 あのときもそうだったと、万理は言った。彼女の目つきが変わった。
「あのときもそうだった。シカンと、私、そして、あなたの三人で食事をしたとき」
「覚えてますよ」
「あなたは、初対面のあの人に、おかしな事をしゃべっていた」
「それは覚えてないな」
「あなたは、私の知らないシカンを何か掴んでいる。嫉妬したわ。あのときの感情がきっかけで、その、何というか、脚本は生まれた・・・」
「そうなんですか?シカンさんのことも好きだったんですか?いったいどれだけの人を、好きになっているんですか」
「井崎さんだけよ。今はね。これからもずっと。井崎さんが振り向いてくれないかぎりは、ずっと彼を想い続ける」
「振り向いたら?」
「可能性は、ゼロよ。さっきも見たでしょ」
「じらしてるだけなのかも」
「違うわよ。あの人の彼女はね、別の男に抱かれてるのよ。井崎さんを、平気で裏切り続けているの。それでも彼は、彼女のことを心から愛している。井崎さんの心は、初めから彼女の所にある。私の入る余地があって?そのどうしようもない、女のことだけしか、彼は抱こうとしないの」
「そんな・・・常盤さんに、別の男がいるなんて」
「常盤っていうんだ」
「全然、彼女は、そうは見えない」
「でも、本当なのよ。井崎さんから聞いたんだから。彼ね、その事実を知ったとき、すごくショックを受けたのよ。私に電話が来たのね。彼、ホテルの一室で、小さく丸まって、泣いていたのよ。ほんとに縮んでしまっていた・・・。抱いて、包み込んであげたの。一晩中。赤ちゃんみたいだった。そんな彼に、情が移ってしまったのね。それまではずっと気になってはいたものの、愛情が芽生えたことはなかったから。それよりも、あの人のことをずっと恐れていたの。私の弱みを、ずっと握り続けているような気がして。それがあの夜を境に、彼に対する気持ちが一変してしまった。あの人を守ってあげたいと思うようになった。けれど、私がそう思えば思うほど、彼は私に対して、冷たく当たるようになった。その常盤って女は、本当に井崎さんのことを想っているの?一度、この眼で確かめてみたい」
「もう、僕は、半年以上も会っていません」
「大阪にいるらしいわ。仕事の都合で。遠距離なんだって。きっと、大阪に行ってからね。彼女の行動が怪しくなり始めたのは。遠距離になる前に、何か決定的なことがあったのね」
「何だろう」
 やはり、この自分が、井崎と常盤の前に現れたことが、原因の一つなのだろうか。Gは思った。
「何人もの男と、関係してるんですか?」
 Gには、好奇心も生まれてきていた。
「それは、よくわからない。その、浮気がわかった瞬間っていうのは、常盤って女が、別の男といるときに、自ら電話をしてきたらしいの。そして、通話状態にしたままで、その男との性行為を始めたんですって。どうかしてるでしょ。受話器を通じて、その様子を井崎に見せつけたのよ。頭がいかれてる」
「でも、もし、いかれてるとして、そうさせたのは井崎さんでしょ。少なくとも、その引き金を引いたのは」
「まあね」
「そんな男の、どこが好きなんですか。僕に言わせれば」
 そこでGは、言葉を詰まらせてしまった。そんな男など、はやく意識の中から捨てきって、遠く離れてしまえばいいでしょうと言いたかった。しかしそれは、この自分についても言えることだった。井崎と知り合い、井崎の側にいて、ときには井崎からの指示を待っている。井崎という男に、何かしら関わりたいと思う気持ちが、そうさせていた。
 それにしても、その常盤という女が、まるで井崎に愛され、破壊され、冷たく突き放され、彼に遠隔で操られるかのごとく、別の男に走ってしまう。
 本当に彼女が、こころから望んで、別の男の体を求めたのだろうか。
 井崎という人間には、どこか二人の関係になることを拒絶する要素が、含まれていた。二人きりになることを恐れているのか、何なのか。何か都合が悪くなることがあるのか。とにかくそこに、三人目の人間を入れようとする。あからさまに誰かを引っ張ってくるというよりは、むしろ、暗に、そのような状況にならざるを得ない仕掛けを打ってくる。
 恋愛関係においては、この自分が、その三人目になることはなかった。初めはそういった三人目にも、この自分を適応させようとしたのかもしれないが、常盤とのあいだには、恋愛感情が発火することはなかった。俺が抱いていれば、彼女が別の男に走ることは、なかったのだろうか。
「でも、その話の感じでは、男はまだまだ増えていきそうよ。完全にネジが外れてしまっている。恐ろしいことよ。彼女は、今までずっと、正常であることをがんばってキープしてきたのよ。底知れぬ忍耐力をもって、彼と長いあいだ、付き合ってきた。彼に人格を完全に乗っ取られないように。ただ、そのことだけに、必死になってきた。でも、彼を愛している。自立したまま、彼を愛し続けている。自分にはそれができると、彼女は言い聞かせていたのよ。それがこの半年、数か月で、きっと許容量を超えてしまったのね。たまっていた不穏でカオス状態のガスが、大爆発してしまった。今まで耐えてき分が、一気に大気に放出されてしまった。彼女の内部で、倍増してしまっていたのよ。皮肉なものよ。人格を奪われないようにって、そう長いあいだ、思っていたこと自体が、すでに乗っ取られているってことだもの。そのとき、彼に対して、全面的に預けて、甘えてしまっていたら、結果は違っていたのかもしれないわね。私ならそうする。あの人にすべてを投げうってしまう。私ならできる」
 さっきまでの三人でいた状況が、Gには蘇ってきていた。
 井崎は確かこう言っていた。君の映画は、次がラストだと。君は僕のことを愛し始めているのだから。
 どういう意味で井崎は言ったのか。井崎という男が何を考え、誰とどんな未来を築いていきたいのか。そんな男のことを信用し、協力をしていきたいと思うこの自分も、彼女たちと同様、間違った結末を、もたらすことになるんじゃないか・・・。
「けれど、その常盤さんの話は、信用ができない」
 Gはそう言い切った。
「それは、井崎の作り話かもしれない。あなたを呼び出すための、口実だったのかもしれない。万理さんを、情事に巻き込みたかった。むしろ、井崎は、あなたのことが好きになっているのかもしれませんよ」
 Gは慌てて、今の言葉を取り消そうとした。
「そう思う?それなら、なおさら結構なことじゃない」
 Gは沈黙するしかなかった。
「常盤って女とは、事実上、とっくに終わってるのかもしれないしね。遠距離になったその時点で、心も疎遠になっているのかも。直接、私のことを誘うのは恥ずかしいから、だからそんな作り話で・・・。きっと、そうよね。そう考えるのが、正しいわよね。ありがとう。助かった。これで心は決まった」
 Gはさらに肩を落として、項垂れるしかなかった。
 これでまた、一人の女性の人格を、おかしな方向に導く手助けをしてしまったのかもしれなかった。МQRが、ディバックの手となり、足となって動いていることが、この自分と井崎にも当てはまるような気がして、ぞっとしてきた。


 自宅の電話が鳴ったとき、Gはその音が最初玄関のベルのように聞こえたため、慌てて入り口へと走っていってしまった。しかし、ドアの向こう側には誰もいなかった。引き返そうとしたとき、電話機が点滅を繰り返していた。反射的に受話器をとった。が、音信は不通だった。するとまた、同じ音が鳴り響いたので、Gは受話器をとる。
 取る瞬間、井崎からに違いないと思った。
「ひさしぶりだね」その声はまさに、井崎そのものだと思った。「一年ぶりだろうか」
 一年ぶり?Gは心の中で反芻した。
「一年経てば、状況はだいぶん変わる。君もそうだろうか。君が属する世界も、そうだろうか。見回してほしい。よく観察して、分析してほしい。井崎という男ではなくて悪かった。君はその男からの連絡を心待ちにしていたんだろう?私のことを覚えているだろうか。一度だけ会った。地下の研究室兼、エネルギーの貯蔵庫で。思い出しただろう。あのときは、助手の男もいた。君はプールの中に眠ったままの、ある男の姿も目撃したはずだ。どうだ?またあの部屋に、いってはみたくないか?もちろん場所は変わった。不定期に変えていく。居所を特定されたくはない。しかし、この都市の地下であることは、間違いない。君のいる所からのアクセスは、常によい所にある。何も君に合わせてるわけじゃない。むしろ、君のほうが合わせているのさ。わかるだろ?君はどこにも行けない。辛いだろう。この一年、とても辛かったはずだ。いろんな人から声をかけられ、話をしていく中でも、君だけがまるで、時間が止まったかのように、大いなる変化を感じられない生活をしていた。やりきれないだろう。君が出会った人間は、何かしら進展している。中には羽の無かった者までもが、飛び立つ様子を、見せつけらえたんじゃないだろうか?どうだ?図星だろう。
 私はある程度、君に関する人間関係を把握している。そういう意味において、井崎じゃなくて悪かったと言った。井崎と君は特別な関係だからね。それは百も承知だ。しかし、だ。その関係も、だいたい一年前に始まった。私と会う少し前の話だ。君は今、井崎という男を頼りにしている。依存しているわけではないが、それでも、主導権は井崎にある。けれど、この私の力も見くびってもらっては困る。井崎と同様、君は、この私とも今後、深く付き合っていくことになるのだから。
 一年もあれば、地下の王国も、だいぶん拡張できる。交通網のように張り巡らせることができる。それに連動して、我々の拠点も、短時間で素早く移動できるようになった。地下の王国はまもなく完成する。その王は、あのプールの中に沈んでいる男だ。私はその代理人だ。彼の意志を汲み取り、手となり足となり、実践していく。МQRは指だ。指の役割。君は違う。むしろ王だ。君は、我々の地下の王国の象徴だ。象徴としての存在になってもらう。なってもらうというよりは、すでになっている。初めからなっているのさ。むしろ、君の方が先だ。君という存在があって、すべてが始まっているのだから。それを誤解しないでほしい。我々の都合で、君を選び、そして利用しようとしているわけではないということを。君が居て、君が生きて、存在する時点で、地下はあらゆるうねりを開始し、その気流、振動が、こうして我々を反応させ、呼び起こし、引き寄せていった。すべては君から始まっていることだ。
 君が存在したとき。いつだろう。君が生まれたときには、すでに我々に、召集はかかった。しかしそれからは、時間がある程度必要だった。君が自身を自覚したとき、それが合図だった。それは、君が井崎と知り合ったことで、大きく動き出した。けれど正確に言うと、井崎と会う少し前のことだ。井崎と君が出会ったことも、井崎が君を利用したかったからではない。井崎は、君に連絡をする必要性を、宿命的に担っていたのだ。
 つまりは、君から井崎に、何らかの合図を送ったのだ。いったいいつ?
 君が、建築現場で働いた時だよ。君が作業員としてかかわった、瓦解したあのビルの建築さ。そのときからだ。そして、ビルが崩壊し、時震が起こった瞬間、井崎は君にアクセスした。我々は、そのアクセスを合図に、この地球上に集合するための、移動を開始した。すべてはそういう流れだ。
 君にとって、この一年は、どうだった?何度も聞いてすまないね。やりきれなさだけが支配していることだろう。わかるよ。私の力でね、ぜひ、君をこの地球上におけるビジネスの重要な局面に押し上げていきたい。けれどそれは、君もわかっているとおり、井崎の問題だ。井崎のビジョンが仕事として成立し、そして大きく前進することが条件だ。そしてその井崎のビジョンというものは、井崎一人だけの問題ではない。彼に関わる人間たちの問題でもある。
 君も、その何人かに会っている。今ね、この世の中では、井崎のような男がけっこうな数、出現している。彼らはみな、この新しい時代が始まるときに、その象徴となる合図を、世界にアピールするため、いろいろとコーディネートする役目を担っている」
 Gは時間の感覚を失いながら、受話器をずっと耳に当て続けていた。この一年のことを考えると、確かにやるせなかった。
「地下の王国と、地上の王国は、見事に呼応している。地上の王は君だ。井崎はその王の傍らを固める。ただし、井崎と私は、直接関わることはない。それは不可能だ。君という人間を通して、間接的に交わることになる。ただね、この二つの勢力は、わかりやすい存在であって、君に近づいてくる塊は、これだけではないはずだ。君という人間は、あらゆる勢力の象徴としての存在となる。その勢力たちを、細かく分析したって仕方がない。それぞれに意味があり、それぞれに存在理由がある。しかし、君には、その彩り豊かな異なる理由たちが結集する。その結果、君という人間の存在は、実に多義的なものになる。集まってくる全部に、近いものを引き受け、背負うことになるのだから。矛盾に引き裂かれるんじゃないかと、不安になるだろうか。いや、そんな不安すら、君は感じることはない。そんな暇などないから。君が、何故、こんなにもやるせない気持ちを味わっていると思う?これには、そういう理由があるのさ。来たるべき時代における、そのための準備の過程がある。新しい時代が到来したとき、そう、君の時代だ!誰が何と言おうと、君の時代なんだ!そのとき、多義的な意味を負荷されても、考えたり悩んだり、立ち止まったりしないためにね、今は散々、君にそれを与えている。考えたり悩んだり、立ち止まったりする時間を。そう、たっぷりと与えているのさ。その反動を、来たるべき時代は、強力な推進力として激動していく。そういえば、君には借金があったよね」
 突然、現実に引き戻された。Gに風景が戻ってきた。
「三千万円」
 受話器の向こう側の男は言った。
「預金です」とGは答えた。
「勘違いだな」
「振り込まれたんですよ」
「それも、勘違いだ。あとで確認してみたらいい」
「さっき、確認しました。いくらか、引き出したので」
「それは、君の一方の側から見た、一方的な世界だ」
「はい?」
「私の側から見たときは、それは正反対の結果になっている。片面からだけで、物事を判断するべきではないね。そのために、私は君と接触をしている。それで、その三千万の借金。いつかは返済してもらうことになる。そのことはまた、後でゆっくりと話そう。まだその時期ではない。まだまだ先の話かもしれない。あっというまの、話かもしれない。時間のことはさておき、時間の感じ方のことは、今は無視して、とりあえずは、着実に一歩ずつ、工程を踏んでいきたいと思う。
 ついては、これから私の地下の研究所兼、貯蔵庫に来てほしい。心配するな。井崎は最終工程に入っている。そろった材料たちを、どう見せていくのか。どういった演出を施し、人々の眼にとまらせ、心を掴んでいくのか。そういう段階に、すでに入っている。言ってみれば、ミサイルの配備が、着々と水面下で進められている。そういうことだ。もう水面上に少し顔を出してしまっているものもあるだろう。それをセックスアピールだと言う人もいる。私は呼ばないが。とにかく、我々も君に対して、これから手を加えていくときなのだということは、伝えておく」


 深夜、Gは、何かに導かれるように街に出た。名乗らなかったが、受話器の向こう側の人間は、ディバックという名の男であろう。本当にあれから、一年が経過していた。
 ビルの瓦解は、あの時期に、極端に集中していた。少なくとも、この一年のあいだ、ニュースソースとして出くわしたことはなかった。瓦解したビルは速やかに処理され、その原因や過程においても、深く探究がなされることは表向きはなかった。声高に報道が拡散されることもなかった。いつのまにか、表舞台からは姿を消していた。
 井崎もそのことを話題にすることはなかった。最初の電話による、出会いのときだけで、次に会ったときには、もうすでに、彼は時震について口を閉ざしていた。
「それが、現実さ」
 応接室に通された、Gの目の前に現れた、ディバックの第一声だった。
「街の様子は、よく観察してきたかね」
 男は白い上下のスーツを着ていた。濃いサングラスをしていて、鼻の下には髭を生やしていた。こんな風貌だっただろうか。
 Gは前とは異なる印象を受けた。少し雰囲気が穏やかになっている。
「あまりよくは見ませんでした。すいません」
「謝ることはない。そんなにたいした発見はない。今、世界はとても落ち着いている。安定期に入っているともいえる。しかしそれは、あくまで見せかけだ。嵐の前の何とかっていう、アレだ。ところで君は、とても健康そうだね。結構なことだよ。健康とは、生命力のことで、それはつまりは、霊力を兼ねそえているということでもあるからな。私が欲しい、最大で唯一のものだ。脳を含めた、構造的身体そのもののクオリィティが、初めから高い方がいいに決まっている。私が用意した記憶を注入するときに、拒絶反応を示されても困る。まあ、多少のショックは仕方がない。傷が残ってしまっても、仕方がない。しかしいずれは、時間が治癒してくれることになるだろう。時間というのは、治癒の象徴だ。脳を含めた身体が弱っていると、それこそ治癒なんて現象は働かない。つまりは、そこには時間というものがなくなる。無だ。時間を失った世界だ。それは傷が癒えない世界でもある。
 君が見てきた街だが、一年という時間を経て、あの亀裂は回復したということだ。
 しかし、ほんのデモンストレーションだったということを、忘れてはいけない。
 ほとんどの人間は、そのことに気づきもしない。これは、ほんの予行練習だっただけなのに。時空が致命的に決裂し、天と地が不安定に渦巻き、まるで、この空間そのものが生き物であるかのように、のた打ち回る。確か、そういう絵を描いた画家が、いたね。何といったかな。女性だった。しかし私は、絵にはまったく興味がない。忘れたよ。それに連動して、時間の感覚が、複数存在することになる。時間そのものだって、それぞれが、人格を持つことになる。一人の人間が知覚する時間の世界は、多義的なものとなる。一人の人間の中に、複数の人格が住まうようになる。
 電話で話しただろ。君は多義的な存在になるって。君だけのことではない。いずれは、人類全体においても、その現象はおこる。しかし、先駆けは君だ。いってみれば、君そのものが、デモンストレーションだ。さあ、隣の部屋に移ろう。第一工程である記憶の注入だ」
 Gは言われたとおりに、ディバックに続いて部屋を出ていく。細長くて長い廊下だった。
 真っ白な壁に囲まれたその四角いトンネルの左右は、透明なガラス張りになっていて、そこを覗くと、吹き抜けになっていた下の階が見えた。
 食品工場か、あるいは薬の研究所か、病院のようにも見えたが、そういった臭いはまったくなかった。人が死んでいくときに放つ臭気のようなものはなく、逆に生命が発露する躍動感の方もなかった。人は誰もいない。白い筒が、うねった機械のようなものが並べられているだけだ。稼働しているのかどうかもわからない。
 Gとディバックが入った部屋には、МRIのようなものがあった。そこに寝てくれと、ディバックは指を指した。Gを乗せた白い板は、そのままコンピュータの心臓部へと、運ばれていった。すると、突然頭の方が傾き、下っていった。速度はたいしたことはなかった。やはり、トンネルのような狭い空間を進んでいき、そのあいだも天井はずっと、白色だった。あの工場のような所に連れていかれるのだと、Gは思った。ディバックの声が聞こえた。
「さあ、今から、君に記憶を注入する。君とは別の人間の記憶だ。その記憶は、君の身体と融合していく。過敏な反応が生まれる。相容れない亀裂の感覚。痛み。苦しみ。それが、しばらくは続いていく。だが、次第に馴染んでいくことだろう。それが人間だ。君は人間として生まれかわる。注入される瞬間、電気ショックのような症状が出る。君の知覚はおそらく、時空の爆発を体験する。それでは、私はこれで、退場だ。またしばらく、会うことはない。けれど、次回は、一年後、ではないよ。もっともっと、短い時を刻んでいくようになる。それでは」
 照明は落とされ、Gの身体は、動かなくなった。手足にしびれのようなものを感じた次の瞬間、全身の筋肉が盛り上がってくるのがわかった。破裂してしまいそうなくらいに、ぱんぱんに、膨れ上がった。血管は圧迫され、脳には酸素が辿りつくことなく、息苦しくなり、痙攣を繰り返した。


 だんだんと、Gは意識が薄れていった。体が悪寒に襲われ始めた。するとGは、あることを思いだした。あの研究施設から出てくる前の、МRIに入った後のことだった。寝かされたままのGだったが、そのまま手術室へと運ばれていった。いつ麻酔が打たれ、何をされたのかは思いだせなかったが、浮かんできた状況は、麻酔が半分だけ切れたような状態だった。
 まだ、朦朧とする意識の中で、手術道具をステンレスの皿の中に置く音だけが、繰り返し聞こえてきた。そして、医師と思われる男が言葉を発する。執刀医はディバックだったのだろうか。彼の声だった。
「集会で、君の姿をよく見たんだけど」ディバックの声だった。
「今ね、ある人間の、手術を行ったところだ」
「私に、何の用事でしょう」
 女の声が、手術器具を整理するような音の合間から、聞こえてくる。
「今、Gという男を、相手にしていて」
「Gですか?」
「そうだ、Gくんだ。君も知ってるだろう」
「G君を相手に、いったい、何をしているんですか!あなたは何者なんですか?井崎さんの知り合いなの?」
「井崎?ああ、井崎ね。彼のことは、もちろん知っている。けれど、残念ながら、お友達ではない。遊んだこともなければ、話したこともない。顔見知りでもない。でも、存在は知っている。直接的な繋がりはまったくない」
「どうして、Gくんを?」
「個人的な知り合いだよ。それ以上でも、以下でもない。よく集会で君の姿を見たよ。あれは、私が主催しているものでね。君の姿が目に留まり、ずっと気になっていた。君はちょっとした有名人だから。どうしてあんな場所に、出入りをしている?あの集会の趣旨はわかっているだろうか。黒い鳥をシンボルとする団体を、これから立ち上げようとしている。君も、そこに参加したいのだろうか」
「わかりません」
「わからなくはないだろう。どういうつもりで、来ているのか。それを聞きたい」
「私にも、理由はわかりません。ただ、体が、自然にあの場所へと向かってしまった。私の意志ではないような気がします。でも確信はあります。間違ったことは何もしていない」
「しかし、君は、一般人ではないんだ。女優であり、映画監督でもある」
 女優?映画監督?
 Gは、朦朧とした意識の中で、一人の女性を思い浮かべる。彼女しかいなかった。
「うろうろと、中途半端に出入りされては、困る」
「はい」
「そのうちに、君は必ず、芸能記者に写真を撮られる。あるいは、一般人の中の誰かが、君の行動に気づくようになる。そうなれば問題になる。君の評判だけじゃない。私にも迷惑がかかる」
「井崎さんにも?」
「井崎?どうして、井崎のことがそんなに気になる?私は井崎とは、直接の関わり合いはない。井崎に迷惑がかかるかどうかを、私に訊くのは筋違いだ」
「Gくんには、一体、何をしてるの?あなたと、井崎さんが関わる人間は、なぜか重複している。何故なの?」
「答える必要はない。ただ、私が、何者であるのかは、むしろ、あの集会にすべての秘密が隠されている。あの集会の行き着く先には、何があるのか。捌け口は何なのか。そこに、主催者である私の意志が、存在している。君は女性なんだよな?」
「当たり前じゃない」
「当たり前?ふふふ、そうだな。おまんこがついているんだろうからな。けっこう、けっこう。それで、十分だよ。特に確認はしないよ。それだけで、集会への参加資格は、十分にある。あの場には、女性しかいない。たとえ男性のような風貌をした人間がいたとしても、それは、構造上の問題にすぎない。あの場には女性しかいない。どのような意味においても。そして、この私も女性である。実のところ。嘘じゃない。私は女性性の塊だ。権化だ。そして、シンボルとなっている巨大な黒い羽をもった漆黒の鳥。これももちろん、女性だ。鳥は作り物じゃない。生命体そのものだ。女性性の躍動。それが、エネルギーの根源だ」
「私は、井崎がもってきたビデオを見て、初めて、自分があんな集会に参加していることを知りました。自覚しました。それまで私は、気がつかなかった。井崎がどういうわけか、私の行動を撮った映像を所有していた。それから、だいぶん時間が経って、その事実を忘れていたときに、あなたから連絡を受けた。確かに何回かは、集会に出向いている自分を意識することができた。でも、何回とか、そういう問題ではないんでしょ?」
「もちろん」
「数えられないくらいに」
「あなたは、すべてを見ている。私は何をしているの?」
「次の映画は、どうなんだ?順調なのか?」
「映画は、順調よ」
「それは、よかった。今はそのことに、専念したらいい。ただし、いずれは、その映画からも、君は足を洗うことになるだろう。今は、次のステージに移る前の、準備のプロセスを踏んでいるところだ。わかるだろ?もうすぐ、すべてのスイッチが切り替わる時が来る。そのとき、世界は一斉にシステムを変え、リーダーを変え、目標を変える。気づいている人間は、すでに気づいている。ただし、そのタイミングというのは一斉だ。だから今は、少しもどかしい想いをしている。けれど、それは、自らの力を高める、大事な時間にもなっている。君の場合は、そう、映画をとることだ。そのスイッチが切り替わる時というものを、君は何年も前から、本能的に察知している。だから、女優から監督へと転向した。それ自体が、劇的な変化ではないんだ。準備の段階が加速した、ということだ。だから今は脚本を書くこと、撮影をすることに専念していれば、それでいい。けれども、意識の片隅に、私の存在を刻みつけるタイミングだと、思ったから、こうして君を呼び出したまでだ。集会が行き着く先のことを、こうして、予告しに来た。そっと、耳打ちをするために呼んだ」
 万理の声はそれから、Gの耳に届くことはなかった。彼女は退席してしまっていた。
 ディバックの片付けが、まだ続いているようだった。
 そのとき、新たな声の主が現れる。
「入りなさい」というディバックの声が、Gの耳の奥で聞こえた。


「入りなさい。今、先客は退席した。次は、君の番だ」
「失礼します」
「この前と、呼び出される場所が変わりましたけど。何かあったんですか。いろいろな施設をお持ちで」
「余計な話をしている暇はない」
「誰か来てたんですか?」
「君のよく知ってる女だ。しかし、君と会わせるわけにはいかない。まだ人と人を隔てる壁は厚い」
「あなたが意図的に設定してるだけしょ」
「意図的・・・、まあな。私の判断だろうな」
「あなたはすべてを支配してるんですかね」
「一部は」
「それで、今日は何のご用で?」
「いずれ君たち女たちは、みんな顔を合わせることになるよ。一同に介するときが必ず。愛人たちの大集合だ。その中心にいる男は、いったい誰なのか、私は知らないがね。なあ、君は、コンサートを開くとか、そういうことは考えているの?」
「さあ」
「私次第、ということか。まあ、結果的にそうなったにしても、君の意志というものが見たい。どう思っている?君は楽曲を提供してきた。まとまった楽曲を一気につくるということは、つまりはその背景が、世界観が、非常にしっかりと存在しているということだ。その世界観を青写真にして、君は、その構造物である、曲を制作した。ところがね、私が考えるコンサートというのは、世界観と楽曲だけでは不十分なんだよ。そこには、ストーリーがなければならない。コンセプトがなければならない。視覚効果があり、時に、映像作品としての力強さも備えていなければならない。つまりは、君一人だけでは役不足ということだ。それでだ。一つ提案がある。とりあえず、楽曲の一部を、君名義のアルバムで出すその前に、我々の小さなイベントというか、集会で、使わせてはもらえないだろうか」
「いいですよ」
「即答だな」
「いいに決まってるじゃない。こうやって、音源として成立できたのは、あなたたちのおかげなんだから。好きにしなさい」
「そうか。では、そうさせてもらうよ」
「ほんとに、話はそれだけ?さっき来ていた客。あれって万理でしょ。私に会わせたくないという女は。そういう気がした。あなた、万理とも関わりがあるの?」
「万理かどうかはさておき、まあ、いろいろと。Gという男もいるよ」
「G?知らないわ。どうでもいい。男なんて」
「そう言うと思った」
 Gはまだ、完全に目が醒めていなかった。身体の自由は、完全に奪われていた。
「私は、自分で美を生み出すことができない」ディバックの声が、響き渡った。
「美を再現することができない。手となり足となる人間の存在が必要だ。君もその一人だ。さっきコンサートの話をしただろう。コンサートというのは、私にとっては、この現代における総合芸術なのだよ。そうなってもらわなければ困る。たとえばね、この一つの大都市というのは、重要な実験場ということになる。テクノロジーは圧倒的に進化し、そこには、資本主義のシステムが寄り添うように存在している。二人の相性は極めていい。そこに音楽にしろ、絵画にしろ、映画にしろ、それはすべて、ファッションということになるのだが、衣装をまとうことになる。わかるかな。ファッションは、それ自体、独立した存在ではない。バックグラウンドを持っている。その背景というのが、テクノロジーであり、システム化された現代の生活そのものなのだよ。必然的に内包された哲学は、ファッションに象徴される。すべては連動している。
 美しさとは何か。私は常に問いかけているよ。答えはいまだに見つかってはいない。しかし、美しいか美しくないかは、瞬間にわかる。そして美しくないもの、それは即刻、破壊せよと命令をする、自分自身がいる。私は、その両極端の世界を常にいったりきたりしている。永遠に美に仕え、奉仕するそんな人間に、憧れていたよ。けれども、それと同じくらいに、それ以上に、美はこの世に出現させることはできない。ならば破壊せよ!存在するものすべてを、破壊せよ、という衝動を、私は抑えることができない。形あるものは滅びる。それはそうだ。けれど、自然に崩壊するのを待っていては、この自分の生涯は、温く、緩く、そして時間を大いに、無駄にすることでしか、過ごすことはできない。短期間ですべてを破壊すること。それが私が望むすべてだ。他には何もいらない」
「それでも、心残りがあるんですね」
 ディバックは答えなかった。
「私は、その、あなたの分裂した精神状態から放たれる光線を、受ける対象となってしまったようね。今さら逃げられないのはわかってる。私とあなたはすでに、同じ空間で一体化してしまっている」
「ただし」とディバックは言った。
「その化学技術と、それをサポートする資本主義が、さらに加速していくにつれて、もう一方の世界もまた、次第に威力を強めていく。現実に今、そういった混乱した空間が現れ始めている。時震もその一つの現象だ。太古の文明が、宗教を基盤としていたのは知ってるだろ?宗教都市といっても構わないだろう。そのとき、生贄をささげるといった血なまぐさい行為が、多数行われていたことはわかっている。何故、共同体は、そんな残虐行為を必要としたのか。問題は、何故、起きてしまったのかを、論ずることではない。何故、必要としたのかの方が、重要だ。そして、人間性の残虐な面が強調された場所、空間、時間には、数学、天文学が、もっとも発達した事実があり、美しすぎる痕跡が残されている。
 つまりは、我々の文明はだ。これから、ますます、太古の宗教都市を無意識に呼び出していくことになる。それは、我々の意志がそうさせている。個人的な興味だとか、そういったレベルの話ではない。人類全体がまさに必要としている。そして太古の記憶は、当然、遥か彼方に存在する郷愁なんかでは決してなく、現実に血となり、肉となり、この我々自身と同化していく。我々は、そのような二つのまったく両極端な世界が、寸分も狂いなく重なりあった世界で生きていくことになる。片鱗はすでにある。欠片はこれからますます、散りばめられることになる。それは予告状のようなものだ。招待状といっても、いいかもしれない。言い方などいくらでもある。その重なり合い、引き裂かれる世界の中において、私は三つ目の世界をそこに重ねたい。それこそが、この私が世に生を受けた、もっとも正当な理由に違いないから。その三つの時空が重なりあったとき、世界には美が表現されることになる。私は、その手助けがしたい。それが、本心だ。
 だが同時に私は、そんな世界が絶対に訪れないことも知っている。
 二つの確信的な想いが同居している。君たちが力を結集した、そのときに何かが起こせるのではないか。まあ、その三つ目の世界はともかく、文明の二つの重なりが、時空を制するときというのは、近づいている。さっき話したとおりだ」
「なぜ、万理と会わせてくれなかったの」
「君たちは君が思っているよりも、近い場所にいる。君たちはもともと、同じ運命を背負っているともいえる。だから、あまり早い段階から、行動を共にしないほうがいい」
 女は去っていき、ディバックも去っていく。
 Gは、台に寝かされたままだった。
 そのときだった。黄緑色の太くて長い丸まったホースのようなものが、窓のすぐ傍で、蠢いているのが見えた。Gはそのとき、身動きのできる自分を感じた。その蜷局を巻いた蛇は、窓に近づいていた。Gは反射的に、部屋にあった椅子を持ち上げた。椅子の足の角で、おもいきり蛇に向かって突き刺した。蛇の内部から液体が飛び散った。白くねっとりとした液体は、Gの身体にもかかった。Gはさらに力を込めて、蛇を叩き壊した。自分の腕よりも一回り大きな蛇だった。こんな生き物が、今まで、意識が朦朧としている中で蠢いていたとは・・・。想像するだけで、気持ちが悪かった。
 まさか、他にもいるのか?
 Gは、部屋の中をチェックした。しかし、台と椅子以外に、物は何もなく、不気味な生き物が、物陰に潜むだけのスペースはなかった。窓の下には、黄緑色の蛇が身動きをとることなく、曲線を描いて丸まっていた。頭部が見え、ふとその両目が、Gを見ているように感じられた。しかし、その眼は、まったく動きを失っている。Gは再び、眠気に襲われてしまった。
 次に気づいたとき、蛇は、彼の体の上に移動していた。
 その生き物は、まだ生きていたのだ。破れた皮膚から、液体を垂れ流しながら、Gの体の上を這っていた。Gは呼吸が止まりそうになった。だが体は思うように動かない。蛇の頭部が、すぐ目の前まで迫ってきている。舌が飛び出してきた。Gを威嚇しているのか、好意を示しているのかわからない。
 Gはほとんど動かない身体に力を振り絞り、何とか手を動かすことに成功する。そして、蛇の首を掴んで、締め殺そうとする。その攻防が繰り返された。蛇がその後、どうなったのかはわからない。どんな決着をつけたのかも、わからない。ディバックや、舞や、万理の声も、二度と聞こえてこなかった。
 そのとき、Gはふと、地下の貯水槽の中に沈められた、Fという男のことを、思い出した。建築家として、あの瓦解したビルを設計した、悪名高い男だった。その男に向かって、自分をFにしてほしい。王にしてほしいと、叫んでいた自分を思い出した。


 万里は、新しいCМの出演オファーを受けた。S・Gの撮影の日程は、まだ決まってはいない。そんな時期だったので、万理は引き受けることが可能だった。
 しかし出演者の覧には、沙羅舞の名前があった。沙羅舞は引き受けたのかどうかを、確かめると、彼女は承諾していた。それを聞いて、万理も了承した。ついに、お互い、顔をつきあわせて語り合うときが来た。あの最初の共演からは、だいぶん時間が経っていた。二度ほど共演したきり、彼女とはずっと疎遠になってしまっていた。沙羅舞は事務所を万理と同じVAに移した。音楽活動を開始しようとしていた。CМの内容は、舞と出演した作品の続編だった。
「ずいぶんと、お久しぶりね」
 打ち合わせの会議に出席した万理を、舞はすでに待ち受けていた。
「元気だった?」
 万理は目を合わせないようにしながら、そっけなく第一声を交わした。
 舞からの答えは返ってこなかった。万理は、舞の様子を横目でちらりと見た。舞はずっと万理のことを見つめていた。万理は腹を据え、舞の方を向いた。
「ずいぶんと、お疲れのようね、万理。でも、仕事でやつれているわけではなさそう。原因は、他にありそう」
「まあね」
 万理は感情をあらわにしないように、机にバッグを置き、中からペットボトルを取り出した。
「あなたは私に、何も訊いてこないのね。なぜ私のことを避けているの?友達だったじゃないの。事務所を移ったときに、どうして連絡をくれなかったの?興味ないの?私はずっと連絡がしたかったのよ。でも万理は以前とは全然状況が違っていたから、それで遠慮してた。それくらい察していたわよね?多忙な監督さんに、ほとんど仕事のない私が無遠慮に接触できると思う?きっと私のことなんてどうでもよかったのね。同じ事務所になったことも、あなたは全然気になど止めてなかった。私はずっとあなたの側にいたかった。でもあなたはそれを許さなかった。あなたは私のような存在が煩わしいの。女性同士で固まるのが大嫌いなのよね、あなたは。男ばかりがいる世界が似合っている。それは、私も認めるわ。仕事でもそうだし、プライベートでも、ずっとモテている。でもふと、さっき、あなたが部屋に入ってくる様子を見て、思わず、私はガッツポーズがとりたくなった。あなたは恋愛で疲れきっている。あのあなたがよ。滑稽だった。あなたは仕事ではない、別の異性の関係で悩み始めている。男と適当に遊んでいた頃の、あなたとは、あきらかに違っていた」
「今回の、CМの監督は、シカンじゃないのね」
「えっ?シカン?シカンさんのことで、あなたは悩んでいるの?」
「そっか。今回は違うのね。シカンさん、他にもたくさん、仕事をしているから」
「ちょっと、何よ。ごちゃごちゃと」
「あなた、仕事は?これが、久しぶりなんでしょ?」
「ずいぶんと、失礼なことを言うのね」
「お金に困っているんじゃないの?」
「ちょっと、私の質問に答えなさいよ」
「なんだったっけ?男のこと?ああ、シカンさんね。シカンさんとは、前からセックスをする仲よ。別に、好きって感情があるわけじゃない。でも、たまに会えば、体は重ねる。あの人、とっても優しいの。私のことを好きみたいだし。だから、ちょっと淋しいときには、彼の家に行く。あの人、恋人はいないみたいだし。いつ行っても、誰も他には女がいないから。部屋にも女性の痕跡はないの。匂いも残っていないし。ベッドもそう。女性がまったく生活の一部になっていないとは思わないけど、家にまでは持ち込んでいない。ということは、彼も私と同じで、さほど、異性と深い関係を築いてはいない。しかも、お互いに、映像のことで話すことはたくさんあるし。相談したいことはたくさんある。次の仕事で生かすこともできる。同じ映像の仕事でも、彼とはまったく対極なジャンルだから、刺激がある。もしかすると、彼と一緒に生活したら、おもしろいかもしれないって、ちょっと思った。お互いにプレイベートを保ちたいなら、近所に住むのもいいし。同じマンションの違う階に住むのもいい。同じ生活圏内で、日々を過ごすというのは、いいかもしれないって。そういう想いも確かに芽生えた」
「何かを隠しているわね、万理」舞は言った。「シカンさんを持ち出して、何かを、誰かを、巧妙に隠そうとしたわね。私を誤魔化すことはできないわよ、万理。あなたと初めて、オーディションで会ったときから、私はあなたの心がわかるの。はじめから、通じ合ってるの。知ってるでしょ?あなただって、同じ感覚を抱いているんでしょ?だから、私には会いたくなかった。何もかも、読まれてしまうのが怖くて。でも私は、あなたともっと、深い話がしたい。あなたが避けなければ、すぐにでも、そんな関係になれる。私たちはお互いを通じて、もっと自分のことを、よく知るべきだわ。本来の自分に戻るために。私たちは、偽りの自分を生き続けている。本当は誰なのか。そのことを、ずっと、避けながら生き続けている。
 見つめなくてはいけない時よ。私も、そう。あなたに避けられ、そして私自身も、あなたとはまったく違う世界で、生きようとも思った。それで音楽を始めた。それはいいの。私の本来の姿が、音を創造することなんだから。でも、そうなっていけばいくほど、あなたの側にいたいと、思う気持ちも、強くなっていった。だからこうし、て事務所を変えた。いつかまた、あなたと二人で、仕事ができることを目指して、あなたの親しい友達として、交流できる日を目指していた。私は一人の時間を多く持つように心がけた。私が本来の私として生き始めれば、必ずまた、あなたに再会できると思った。そしてそのとき、あなたも、あなた本来の姿へと、帰っていくことができる。そう思った。私に話してみなさい。いったい何があったのか。誰との関係で悩んでいるのか」


   BC

 昼間は、サンバカーニバルが開かれていた広場には、すでに、人の姿はなくなっている。
 夜の街は静まり返っていた。広場へと続く大通りの先っぽには、巨大な門が築かれている。かつての国のリーダーが勝利を収めた際に、戦争の凱旋のパレードが、ここからスタートしていたのだろう。今は、その門をくぐり抜けるのは、行き交う車ばかりである。この夜は、車の通行が禁止されているのか。人の姿だけではなく、車の姿もまったく途絶えている。サンバカーニバルのために、車両止めにしていた昼間の状態のままに、放置されてしまっているかのようだ。
 09035624074は、その門をくぐった。
 大通りに車両がないだけでなく、通りに面した店は、すべてシャッターを閉じてしまっている。それも、ただ窓を閉めただけのような店舗はない。まるで、シェルターか何かを思わせる分厚い鉄のような扉が、内部を過剰に保護するかのごとく、覆っている。
 その不自然な様子に、09035624074は、気味が悪くなった。
 何気なく空を眺めていた。街灯もすべて消えていた。電力はまったく通っていない街のように見える。月だけの光は、意外に明るく感じた。照明を、ここぞとばかりに煌びやかにさせた世界とは違い、本当に明るかった。月が出ている夜で助かった。ふと空を見上げてると、はためいている複数の鳥がいる。しかし、しばらくして、それが鳥ではなく、地上から掲げられた旗であることに気づく。地面から生えてきた筍のようなその様子に、目を疑った。足元は見にくかったが、棒は何かに支えられていた。石と石がぶつかりあうような、砕けるような、ごろごろと転がるような、様々な音が地鳴りのようにわずかに聞こえてきていた。風が出てきた。旗は激しく、その主張をし始めている。いつのまにか、空は旗だらけになっていた。大通りの遥か先まで、旗の羅列は続いていた。それまで、息をひそめていた無数の柱が、何かの合図で、一気に、所定の位置に捧げられたかのようだった。
 09035624074は、掲げられた旗に導かれるように、大通りを進んだ。
 後ろを振り返ると、自分が通った場所には、すでに掲げられていた旗の姿はなかった。空に浮いてなどいなかった。旗は移動し、大通りを全面に使って、09035625074の後に続いて、移動してきていた。まるで、09035625074が引き連れている、軍団のようでさえあった。旗が風になびいている音だけが、大きくなっていく。
 その中には、瓦礫を掻き分けるような音も、混じっている。ほんのわずかだったが、女の呻き声のようなものが、聞こえてくる。広場はもうすぐだった。

 Gは、CМのイメージキャラクターに起用された。
 これが事実上、初めての仕事だった。ラスト12デイズに出たあと、井崎の予想通り、彼にやってくる仕事の存在はなかった。本当に誰にも相手にされなかった。
 そのあいだ、ずっと、Gは万理のことを考えていた。万理が、井崎を好きだという事実。
彼女は、井崎に、自分の身をすべて捧げようと決意していた。だが同時に、万理がディバ
ックとも、接触していたということにも思いあたった。麻酔が半分だけ、溶けていたとき
で、意識は完全に戻ってなかったが、確かにディバックは、万理と面会をしていた。その
あとで、舞という女とも面会をしていた。万理は、この俺とまったく同じ状況だった。万
理が言っていた常盤静香の浮気の話も、衝撃的だった。万理が井崎を好きになる気持ちも
理解できなかった。
 だんだんとGは、女という生き物がわからなくなっていった。彼女たちに対する恐怖心
でいっぱいになっていった。魅力を感じれば感じるほど、近くにいてほしくないという衝
動が起こった。嫌悪感に満ち溢れてきた。
 Gには元々、どこか女性に対する憧れがあった。女になりたいという希望さえあったことを思い出した。そうした想いを、どこかで抹殺してきていた。女そのものに、自分がなりたいという気持ちが、逆に女という生き物に対する拒絶感をも、掻き立てていた。
 抹殺してやりたいと、心の奥底で、思い続けていたのだった。


 広場に到着をした。すでに、無数の旗がやってきている。
 09035625074の側は、女性の大群で埋め尽くされていた。
 広場の真正面には、小高い舞台が用意されている。
 これは何かの集会のようだと、09035634074は思った。もうすでに、後ろを振り返ることができないほどに、旗を掲げた人々で、埋め尽くされていた。身動きがとれない。息苦しい。体の熱によって、広場全体が、妙に一体感のようなものを演出している。女の体臭が押し寄せてきて、性的な刺激を受け始めている。
 090は、性器には触れていないにもかかわらず、射精してしまいそうな気分になった。はやく処理してしまいたいと思った。だが身動きは取れない。性器に触れることも、できそうにない。自分の下半身を、前後にいる女たちに、押し付けたいとも思った。けれども、そういう動きでさえ、自由にはとれない。生殺しのような状態で、090は、苦しみに耐えるしかなかった。別のことを考えるように努めた。そのときだ。舞台の檀上に、一人の女が立っていた。そして、集まった群衆に旗を示し、空へと高々と掲げさせた。
 藍色に染められた旗の中央には、銀色に彩られた円が描かれ、その円を直撃して、さらには横切るように、黄色い光が亀裂のように入っている。この丸い物体に、何かの衝撃を与えるかのように。衝撃を与えたことを告げるかのように。檀上の背景には、さらなる巨大な旗が掲げられたために、090にも、はっきりと細部まで、確認することができた。
 集まった群衆の叫びは、次第に大きくなっていった。
 うめき声のような出だしからは、一変している。090だけが、声をまったく発していないかのようであった。自分の存在だけが浮いてしまっていた。そのせいで、檀上にいる女からは、一目で、自分の存在がわかってしまい、指をさされ、何かの指示を与えられるのではないかという、恐怖が募ってきた。
 自分は目立ちすぎている。090はそう思った。決定的に、異なる資質を持ち合わせてしまっている。男の姿は、他にいないのだ。
「エジプトの女の諸君!」
 マイクを通したとは、とても思えないような透き通った声が、聞こえてくる。
「エジプトの女の諸君。今宵はよくぞ、集まってくれた。もうずいぶんと前に、告知していた今日という日の集会だったが、よくぞ忘れずに、来てくれた。私はうれしい」
 女の声は、群衆の声には、まったく掻き消されることはなかった。
 音質の成り立ちが、彼女だけまるで異なっているようだった。
「エジプトの民の諸君!」
 エジプトという言葉を、女は冒頭で、やたらに連呼した。
「私が、ユダヤの女だったということは、ご存知だろうか。そう、私は、エジプト人の血は、少しも混じってはいない。しかし、私は、エジプトの女たちが大好きだ。私はユダヤ人でありながら、当時、支配していたエジプト王国の王と、不倫関係にあった。しかし、奴隷として使われていた多くのユダヤ人が、そのとき、政変を企んで影で動き始めていた。その筆頭が私の夫だった。そして夫は、私が王と不倫していることを知っていた。初めは、夫が仕向けたようなものだった。夫は、私を通じて、エジプト側の情報を集めようとしていた。王を本気で愛するようになったとき、私は、この夫の企みを利用したのです。逆手にとった。夫のいいなりになり、王をたぶらかしているという役目を、演じ続けた。そういうふうに、演じていることを、もちろん、王も知っていた。私はスパイを演じることで、王と深く愛しあっていた。
 しかし、愛し合う時間は、それほど長くは続かなかった。政変の時代が近づいていた。ユダヤが結集して、エジプトに謀反する時間が、近づいていました。今まで散々、動物のように苦役させ、暴力をふるってきたその報いを、今度は、エジプト側が受ける番になった。私はこのままずっと、王と愛し合うことだけが、人生の望みだった。夫とは別れ、王の妃になる。別に、妃になる必要は、まったくなかったのだけれど。王の愛人、という立場でずっとよかった。実際、王は結婚してなかった。私と出会った時点では。そして、私と付き合っている以上、結婚は、現実的に不可能なことになった。ユダヤの女を正式に王家へと編入できるはずもなかった。しかし、愛が断ち切られる瞬間が近づいていた。王はそのユダヤの謀反を、完全に封じられると思っていた。だが、私は、エジプトの神官クラスの人間が、それも、相当の数の神官が、すでに、ユダヤ側の幹部とも、接触をしていることを知っていた。彼らは、エジプトの政府が倒されることも、考慮にいれ、もし、そうした事態になったときには、首尾よく、寝返る算段をつけていた。私は王に忠告しました。王も気にはなったようです。しかし、転覆されるところまでの、裏切りは、ないものだと思っていた。
 そして、政変は開始されます。戦闘が続きました。首都は廃墟に近くなりました。宮殿にも、ユダヤの手がかかってくるのは、時間の問題になりました。私は王と、最後の愛を交わしました。どんな結末になろうとも、もう二度と、あの蜜月は、取り戻すことはできない。私は自分の立場を、はっきりさせなければならない状況になる。私はユダヤ人だった。ユダヤの民であった。しかしこうして、エジプトの王を愛してしまっている。私は、宮殿に、ユダヤの戦闘部隊が迫ったとき、それまでずっと、最後はユダヤ側につき、王を見捨てるつもりであった、それなのに、最期の最期で、私は逆の行動をとってしまった。
 王を逃がすため、結果的に、自らを盾にしてしまったのです。王を、秘密の通路から逃がし、その時間かせぎのために、自らが部屋に入ってきたユダヤの兵と、話を続けた。けれど、私が王を逃がしたことは、ばれてしまった。私はユダヤの民族を売り飛ばした女として、そしてエジプト側にとっては、我が王を寝取っていた、奴隷側の女というレッテルが張られた形で、政権を奪取したユダヤの群衆の前で、処刑されることになった。
 あなたたち、エジプトの女たちよ。粛清を免れ、国外へと逃れ、そして地下へと潜った、その、小数のエジプトの民たちよ。本当に、よくぞここまで、子孫を絶やさず、数を極端に減らすことなしに、こうして集まってくれた。
 今や、エジプト人であることを公言することはなく、さまざまな民族と、巧みに血を融合させて、そして世界中に散らばっている、あなたたち。私は、ユダヤの人間でありながら、あなたたちエジプトの女たちを、誇りに思うのだ」
 観衆は沸いた。早くも、次の言葉を、彼らは待ち望んでいた。
「あなたたちが、私に何を期待しているのか。痛いほどにわかる!そして、その気持ちと、私の気持ちとが、一致していることを疑う人間は、あなたたちの中には、誰一人いない!もちろん、私にもそういった気持ちがないわけではない。つまりは、私を裏切りものとして処刑しようとした、ユダヤの人間たちを恨む気持ち。それは、消すことができない。私は、処刑される直前に、黒い鳥によって助けられたのです。柱にくくりつけられ、そして、火を放たれた私。その炎のなかに、突っ込んでくる巨大な鳥がいたのです。鳥は、柱ごと咥えて、持ち去っていった。群衆からは、その様子はまったく見えなかったことでしょう。すでに、煙にまかれていたのだから。今や、この集団のシンボルとなっている、この鳥です。
 ユダヤの民を、すべて抹殺せよと、狂気に取りつかれた一人の男が、20世紀初頭に、この世界には現れた。彼は巧みな演説で、聴衆の心を惹きつけ、選挙によって合法的に首相にまで登りつめた。俗性の政治、という舞台を彼は選び、そして国民から信任された。彼の本当の野望に気づくものは少なかった。彼こそ、そう、私だったのです。いや、正確に言うと、彼の役割というものが、私である可能性も、あったということです。
 彼は、ある怨念の強い霊に、身体を完全に乗っ取られていた。あの男の姿は、本来のあの男の姿ではなかったのです。黒い鳥が、彼の体の中に入ってしまっていた。彼はその鳥の意志で、すべて動いていた。鳥は人間の精神世界を支配し、操れる能力をもっていた。人間世界で、力を行使するためには、人間の肉体を使わざるをえない。そこで、一人の男に目をつけた。彼は幼い頃に、ユダヤの人間に、ひどく暴力を振るわれた経験があった。さらには、ユダヤの家庭はみな、裕福であり、商売は成功し、彼の家族などは、そのユダヤの元で仕事を与えられ、低賃金で重労働をさせられていた。若くして成功する家系と、永遠にこき使われるだけの家系の、対角線は、鮮明に描かれており、彼はその構図をずっと、壊したいと願っていた。
 黒い鳥にとっては、絶好の標的だった。男は、芸術家を志したが、挫折した。成功できない原因はすべて、ユダヤが支配する、この世界のせいだと思った。ますます、鳥は彼の身体を、自分の居場所とすることに、確信を持った。すでに、いつ入ってもいいような状態だったが、まだ適切なタイミングではなかった。もっと絶好な機会がやってくる。鳥は、時代が変化していくその時を狙った。
 国は、民族の血に関係なく、経済成長は止まってしまい、対外戦争では敗北を喫し、政局は、混乱を極めていくこととなった。社会は完全に行き詰っていった。そのタイミングで、鳥は男の体へと同化した。男は政治家として、あっという間に頭角を現し、芸術の世界ではつかめなかった、大衆に注目をされるという地位を、いとも簡単に獲得してしまう。そして鳥は、さらに羽ばたきを、きかす。首相にまで登りつめた、その瞬間、ユダヤへの牙を躊躇なく剥き出しにした。合法的に登りつめたそのあとは、非合法を乱用する。当初の予定通りだった。
 鳥を有した男は、ユダヤを抹殺するために、行動を起こし始めた。それは国益とは、まるで関係のない、ほとんど無目的な行動だった。しかし、さまざなこじつけで、ユダヤの排斥を繰り返し訴えた。殺戮を拡大し続けた。だが当然、全滅させることなど、できはしなかった。鳥は、あきらめの念を抱き始めた。終わりのない殺戮を、繰り返すことに、疲れたのだ。
 鳥はここで、彼の体からは抜け出す。抜け殻と化した男は、その後、ユダヤへの排斥を繰り返すが、次第に、肝心の政治のほうに綻びが生じていった。対外戦争は、敗戦を連発させ、経済は大暴落。適切な対処法は打ち出せず、国民からの信頼は急速に失っていった。そして、連合軍に攻め込まれ、ついには敗戦を喫する。男は爆撃により、木端微塵になった。国は崩壊し、勝者に乗っ取られた。一方、鳥は、ユダヤへの復讐に、さらなる執念を燃やしていった。自らの身体とするための、次の獲物を、探し始めていた。しかし、鳥はその後も、何回か身体を乗り換えたものの、最後にはついに、私のもとへと戻ってきた。私は何世紀ものあいだ、ずっと植物状態だったのだ。意識はかすかにあったが、体の機能はまったく回復はしなかった。それでいて、生命は少しも途絶えることなく、細胞が劣化することなく、冷凍保存されたような状態を保ち続けた。
 鳥は、次なる身体を、この私へと定める。私は鳥を受け入れた。鳥と同化したときの性的な一体感を、今も私は覚えている。鳥は完全に私と重なり合った。別の人間の記憶が、自分に注入されたようにも感じた。身体は、別に、どこも鳥のような箇所はなかった。別段、変化するということはなかった。人間のままだった。
 エジプトの女たちよ!今こそ、立ち上がるのだ。ユダヤの民を抹殺しろ!
 あなたたちは、私に、そういう言葉を投げかけて、鼓舞してもらいたいのだろう。しかし私は、その期待には応えることはできない。私がユダヤの出身だからではない。そんなことは、今や、どうでもいいのだ。同胞のユダヤが、私を処刑しようとしたのは間違いない。けれども、彼らが間違っていたわけではなかった。あの時代、あの恨みの連鎖の中では、そういった状況にならざるをえなかった。あなたたちはまた、ユダヤを抹消しようとするだろう。しかし、あなたたちのように、生き残る分子も、少なからずや出てくる。彼らはまた、数世紀のときを経て、出生を隠し、身分を隠し、異端の分子として、密かに思惑を伝承していき、子孫を確実に増やし続けていく。完全に力を取り戻し、そして復讐する機会を伺うことだろう。何世代も、何世紀にもわたって、地道に力をつけていく。早すぎてはいけない。十分に力を溜めきったときに、歴史の流れにおける最高のタイミングで、最高の手段で、その一点に向かって、狂気を爆発させる。けれども、たとえ、その一点で爆発できたとしても、ユダヤの民を全滅させることは決してできない。その繰り返しは、止まらない。連鎖は止まらないのだ。
 今日、あなたたちがここに集まり、私が檀上に立っている理由は、別の提案を、しにきたからなのだ。いいか。私たちは、ユダヤ出身であろうが、エジプト出身であろうが、同じ女なのだ。それを忘れてはいないだろうか。
 私が生きた、あの時代のエジプトと、ユダヤの対立構造。あのときもそうだった。エジプト側の男達の中に、早々と、ユダヤへと寝返った人間が、神官を中心に、一般階級の中にも多数いたのだ。彼らは時代が変わるその匂いを巧みにかぎわけ、そして、権力を持つ側に、一刻もはやく乗りかえられるように、自分と同じ血統の人間を、売りとばしたのだ!恨みを募らせる対象というのは、私たちにとっては、そんな男達なのではないか!
 彼らは、エジプトだろうが、ユダヤだろうが、権力のある方へとつきたがる。その犠牲となっているのは誰か。常に、わたしたち、女ではないだろうか。その時代や状況によって、エジプトかユダヤのどちらが、その負の遺産を、膨大に相続しているのかが、いつも異なるだけで・・・。いつだって、最大の被害者は、私たち、女なのではないか。復讐の構図は、いつも間違っているのではないだろうか。私があなたたちを攻撃する。あなたたちが、私たちに牙をむく。それは違うのではないか。私たちは共に、血のルーツを超え、結束するべきではないだろうか。それを、今日、私は、声を大にして言いたいのです!わたしたちは仲間であるということを!そして、ユダヤの女たちも、あなたたちの最大の理解者であり、支え合うパートナーであるということを!」
 聴衆の盛り上がりは、最高潮に達した。

「あの男が思い描いた、第三帝国の構想というのは、それこそ、エジプト王国の再構築だったのだ。いろいろと、別の複数の理由をあの男は掲げていたし、歴史もそのことを追認している。が、しかし、実際は、過去に滅ぼされたエジプト人の怨念を結集させた、新しいエジプト王国の華々しい復活だったのだ」
 聴衆の盛り上がりは、終わりを知らなかった。
 檀上の女の声は、上ずることなく、さらに透明度を増していった。
「そして、新しい王国は、さらなる人間の屍の上に、構築される。それは終わりのない連鎖を助長する、強力な仕掛けとなって、向こう百年、千年に渡って、憎しみは倍増していくのだ。そして、私たち女は、その王国の恩恵をほとんど受けることなく、憎しみに凝り固まった子孫たちを、次々と生み落としていく。ただ、戦闘能力とするためだけの、分子たちを、この世へと出現させていく。私は終わらせたい!そういった男達の都合に、ただ翻弄されるだけの運命など、私はいらない!みんなもそうだろう?立ち上がろうじゃないか。この夜に。私たち女の絆を、刻みこもうじゃないか!今はまだ、力不足かもしれない。しかし、この夜のことは、忘れないだろう。いつか再び、結集し、世界の構造そのものを、転覆させるために立ち上がる。今日のことを忘れないでほしい。私という存在を、忘れないでほしい。何世紀にもわたって、私は植物状態だった。今こうして目覚めた。私には、鳥がついている。鳥と一体化している。鳥は、覚醒した人間の意識に、強い影響を及ぼすことはできない。人間の想いを優先し、それに従うようになっていく。操られることはなくなる。人間と鳥は、それぞれの想いを描くことはなく、次第に、共有した新しいイメージを描くことになる。鳥は消え、私たちの憎悪の念も消えていく」
 090は、自分の他に男の姿を探した。しかし、見当たらない。自分がどんな風貌をしていて、彼女たちにどのように見えているのか、気になって仕方がなかった。しかし、群衆の女性たちは、090を気にする様子は少しもない。他の人に目を向けている女は、誰もいなかった。檀上の女の声、言葉、話し方に、完全に陶酔していた。
 090は、この広場をはやく抜け出したかった。しかし、身動きはとれない。今、ここで、自分の存在がバレてしまったとき、一体どんな騒動が起こるのだろう。袋叩きではすまないだろう。殺されるまで、叩き続けられるのだろうか。それとも、違う場所へと移動させられ、処刑のような形で、みなの前で貶められるのだろうか。辱められるのだろうか。そこには、彼女たちが抱えもったままの、男に対する復讐心が結集し、そのすべての受け皿となるのであろうか・・・。
 090は、この集会に紛れ込んでしまった意味を考えた。もしこのまま、自分の正体が知られることなく、この夜から抜け出せたとしても、それでも、この日の出来事は、色濃く記憶に焼き付いているに違いない。それは何を意味するのか。今後、どのような影響が、生活にあらわれてくるのか。
 気づけば、旗はいっせいに、降ろされていた。檀上の女も消えていた。


 井崎は、Lムワの処女作の再構成をしながら、常盤静香のことを考えていた。
 どっちにしても、彼女とこのまま自然消滅させてはいけないような気がした。ケジメをつけなければならなかった。万理からの想いも、ひしひしと感じていた。けれどそれは、常盤静香とは何の関係もなかった。常盤静香と別れたから、万理と付き合うといったこともないだろうし、常盤静香とこのまま付き合いを続けるからといって、万理を執拗以上に遠ざけるという気持ちもなかった。万理と恋人関係になりたいという気持ちがあるのかないのか、これも、よくわからなかった。すべては混沌としていて、自分の気持ちが今どこにあるのか。明確に把握することができなかった。
 井崎は、その気持ちを紛らわすために、仕事に集中するしかなかった。
 逆にそんな不鮮明で不安定な気持ちだからこそ、仕事に集中できるといった特性もあった。とにかく、万理とは、付かず離れずの状態を続けることで、自分の彼女に対する気持ちを確認するべきだろう。常盤静香とは、精神的な決着をつけなくてはならない気がした。こうして、生活拠点が離れているからこそ、あいまなままに、付き合い続けていてはいけないのだ。お互いにとって、よくない気がした。それでいて、井崎は、また別の女性像のようなものを、思い描くことがあった。全然、彼女たちとは違った性格や価値観を持った女性を、探し始めているようにも感じた。
 井崎にとって、仕事と恋愛は、いつだって連動していた。世の中と、断絶感をかんじるからこそ、新しい創造物を生みだして、その断絶感を必死で埋めようとする。超えようとする。
 その、世の中と、断絶感をかんじる、最もピークのとき、彼自身の恋愛の情況もまた、同じく崩壊の危機に瀕することになった。
 しかし、喧嘩が絶えなくなるとか、倦怠感をかんじてくるとか。眼に見えて関係が悪化していくようなことは、ほとんどなかった。逆に、余計に仲睦まじくなることの方が多かった。この精神構造は奇妙だった。二人でいるときの楽しさも、以前より倍増しているのだ。
 一体どうなっているんだと、笑いをもらすこともあった。
 だが精神的な乖離と危機は、着実に進行しているのであり、その溝がさらに開いていくことに、彼自身は次第に心苦しくなっていった。そのときに、彼は仕事に集中するのだった。しかし、今までの彼は、そこで女性と話し合うことを全くしなかった。彼はこの乖離した心のままに、仲睦まじい二人の絆が存在するその場所に向って、突然の鉈を振り落とすのだった。女の方は、驚きのあまりに絶句した。最も起こりそうにないタイミングで、一番最悪な状況を聞かされるのだから。
 井崎は、二度と、あのような別れ方をしてはいけないと、心に決めていた。
 常盤静香と、腹を割って話さなくてはいけなかった。どんなに時間がかかっても、お互いが納得できる形で、次に進まないといけなかった。こんなふうに、自分の傍から物理的に遠ざけて、関与しないふりを続けては、駄目だ。
 常盤静香の私生活が、乱れはじめたのも、この自分のせいだった。
 彼女からの、SOSなのだ。


 旗の存在はなくなった。空が一気に、その正体をあらわしたかのようだった。
 090の視界は、劇的に拡がった。群衆の女たちは、皆、地面に旗を置いている。
 さっきまで、女がいたであろう檀上は、いつのまにか撤去されている。
 空一面に、両翼を広げた鳥の存在があった。しかし、よく見ると、それは、実物というよりは地上から映し出した、映写機による姿のように見えた。実際には、こんな鳥なぞいないのだと、その姿は、謳っているようにも思えた。
 ADBCというロゴが、鳥に重なるようにして現れる。そのあとしばらく経つと、アルファベットと、鳥の姿は、消えていった。静寂が続いた。
 次に、空に映し出されたのは、日本語による文字だった。それは短い文章にもなっていた。何かのプロモーションの映像のようだった。もしくは、新しく世の中にリリースされる楽曲の歌詞を、表示しているようだでもあった。けれども、音は流れ出てこない。まったくの無音状態だった。聴衆の女たちも静まり返っている。


ADBCにまたがる、黒い鳥たちよ
我らに生なる空間を与えたまえ。

以前と以後を知った、その眼球たちよ。
今すぐに、我々のこの世界に、亀裂を加えたまえ。

盲目なる神経に
破綻のない不完全な夢を
その中心に、据えさせたもう。

我らの肉体を司る黒い鳥は、地下へと深く潜りこんだ
飛翔するその影に向かって
浄化を願う、醜い、その折れた心の翼たち。

鳥は、新しい肉体を見つけ
真っ二つに割れた、世界の繋ぎ目に。
力強い修復。
求め彷徨う。
闇の楽園に向かって。

立ち上がれ、我らの女たちよ。
男になり、そして
女と呼ばれる新人類を生み落とすのだ。

錯乱したままに放置された
その性なるゴルゴダの丘の上で。


ADBC。

以前と以後を知った、その世界たち。

無数に走った時間の亀裂から

浮かび上がってくる、その聖なる帝国の姿。
眼に焼き付けろ。

そのとき、鳥は、一つの巨大な光となり、
枝分れした世界を、すべて、包み込むことになるだろう。



 井崎は、常盤静香の携帯電話の留守電に、メッセージを残した。今から大阪に行くから会ってほしい。時間ができたらでいいので。君の都合がつかなければ、ホテルに何拍もしてるので、全然後日でも構わないから。井崎は荷物をまとめ、東京駅へと向かった。
 常盤静香と会うまで、その空いた時間に、Lムワの作品をさらに読み込んでおこうと思った。新幹線の中では、Lムワのことは完全に忘れた。ただ心を無にして、景色をぼんやりと眺めていた。常盤静香とこれから、何を話すのか。そもそも何のために、こうして彼女の元に向かっているのか。井崎は本当のところよくわかってなかった。
 Lムワの著書を集め終え、一通り、全体を確認し終えたことが、何か影響しているのだろうか。ふと、常盤静香のことが気になり、このまま放置しておいてはいけないような想いに駆られた。
 新大阪駅に着き、井崎は予約していたホテルにチェックインする。常盤静香には着いたことを伝えるメールを送る。ホテルで会うのは、今回はやめたほうがいいと思うので、明日以降に、外で会いたいと伝える。季節は暖かくなったし、もし天気でもよければ、テラス席のあるカフェで、ランチでもどうだろう。この頃の井崎は、そういった店を好んだ。
 メールは一時間後に、返ってくる。翌日の二時に、常盤静香から指定されたカフェで待ち合わせをすることになった。井崎は、夜十時のニュースをテレビで見てから、シャワーを浴び、すぐにベッドに入って寝た。目が醒めたのは、朝五時だった。夢にうなされた結果、反射的に飛び起きた。布団の中に、黄緑色の大蛇が侵入してきていた。夢の中の自分も寝ていたが、目が醒めたときに、その蛇の存在があった。夢の中の井崎は金縛りにあっていたため、蛇の頭が自分の顔の近くに、迫ってきている様子も、ただ見ているだけだった。蛇の重みは体に感じた。蛇と目が合う。蛇はそのまま、井崎の顔の横に近づき、そのあと逆方向を向き、井崎の足元の方へと逸れていった。それから井崎は目が醒めた。汗はかいてなかったが、嫌な液体を、たくさん放出したかのような気分がした。
 洗面所で顔を洗い、そのまま起きることにした。カーテンを開けると、日はすでに昇りかけていた。鏡に映っている自分の顔を見ているうちに、その背後にまた、黄緑色をした大きな蛇の頭が出現してくるような気がして、慌てて後ろを振り返った。実に生々しい夢だった。
 まるで、この自分の体に、乗っかり、愛撫を繰り返す女のような動きをしていた。常盤静香?ふと、常盤静香と、その蛇のイメージが重なった。今回の訪問では、彼女と肉体関係にはならないと決めていた。しかし、その蛇のイメージは、肉体関係の解禁を迫ってきているようにも感じられた。常盤からはすでに、心が離れかけているのに、肉体は彼女を欲している。すでに終わってしまっているかもしれない関係を、終わらせるために、自分は今大阪にいるのだということを、初めて自覚する。それなのに、その終わった世界と、また関係を結ぼうとしている自分がいる。
 井崎は、正午になるまで、Lムワの著書のデータには、少しも触れはしなかった。これまでの常盤との関係を考え、今の、自分の気持ちを考え、今後の関係性をも考えた。そして、そのすべての考えを捨てるために、心を鎮めた。


 昼下がりに、植物が多く置かれたイタリアンパスタのカフェで、井崎は、常盤静香と食事をしていた。
 まるで当たり前の日常のように感じられる。すでに食後のコーヒーを飲んでいた。時間はあっというまに過ぎていった。いったい、どこから、話を切り出せばいいのか。
「この前の電話のことだけど」
 井崎はいきなり、その話題を口にしていた。
「この前の電話?電話なんて、いつしたかしら?だいぶん前で、全然覚えてないわ。私がこっちに来る直前の話だっけ?」
「違うよ。つい、最近の電話。二、三週間前くらいの」
「私から?」
「そう。恍けてる?」
「ここのところ、メールだってしてないわよ」
「メールはしてない確かに。電話だよ。君が他の男といるときにかけてきた、あれ」
「他の男?」
 常盤静香は、まったく身に覚えはないといった顔を、平然と浮かべた。
「あの電話のことが、ずっと気になっていた」
「あの、電話って?」
「だから、何度も言わすなよ」
「何のことだか、全然わからないわ」
「ほんとに?」
「ええ」
「かけて来たじゃないか。君が、他の男に抱かれているところを、まるで見せつけるかのように。受話器を切らずに、その一部始終の音を、電波を通じて・・・俺に」
「ちょっと、何なのよ、それ」
「何って」
「そんなこと、誰だって、するわけがないでしょ。ましてや、私が?寝ぼけてたんじゃないの?それとも、そういう変な女とも、あなたは、関係してるの?信じられない。私に男がいる?すごい当てつけじゃないの。あなたに女が、いるんでしょ?それを私に男がいることにして。しかも、電話でそのときの行為を?私じゃなくても、普通、そんなことをする女なんていないわよ。信じられない。え、もしかして、それを言うために、ここに来たの?いや、まさかね。本当の要件を言いなさいよ。今のは、冗談ってことで、処理してといてあげるから。あなた、疲れているんじゃないの?今、何やってるの?」
「Lムワの著書の再構成だよ」
「それよ、きっと!そのために、あなたはちょっと、意識が混戦してしまってるのよ。そうなんだ。大変ね。ああ、なるほど。わかった。それで、私のところに来たのね。癒されたかったのね。なんだ。それなら、納得よ。はっきりと、そう言えばいいのに。じゃあ、こんなカフェで、悠長に、食事をすることもなかったじゃないの。昨日の夜、あなたが泊まっているホテルに行けばよかった」
「違うんだ」
 井崎は、小さな声で否定した。
「またぁ。水くさいじゃないの。今さら何をそんな照れちゃってるのよ。あなた、昔から自分の気持ちを、はっきりと言うのが苦手なのよね。暗に仄めかすだけで、決断を相手に委ねるんだから。かわいい子」
「だから、違うんだ」
 井崎は、何度も繰り返した。
「そうじゃない。本当に、君からの電話はあったんだ」
「まだ、言ってる」
 常盤静香には、真面目に受け止める気がないようだった。
「君は、別の男に抱かれていた。大きな声を出して、快感を俺に伝えてきた。どうして、恍けるんだ?誤魔化そうとしたって、無駄なんだぞ。なんだなんだ。あれはすでになかったことになってるのか?もう、すでに。君の中では。勢いでやってみたはいいが、そのあとで後悔したのか?なかったことにして、俺の妄想だったということで、決着をつけたいのか?すぐに俺の性欲を満たすことで、完全に封印してしまおうとしてるのか?もう、そんな誤魔化しは、嫌なんだ。今日、完全に、決着をつけようとは思っていない。けれど、俺は、君との関係において、もっと核心に迫っていきたい。いつも、そうやって、お互いのどちらかが巧妙に避けるように仕向けてきた。そのせいで、こうして、ずっと付き合いは続いている。そういうふうにも言える。俺らは、もっと、深く話し合わなければいけないんだ。たとえ、その対話が、長い期間にわたって続くものだとしても。もう、この状態をずっと続けていくわけにはいかない。決着をつけなければならない。終わってしまった世界を、完全に終わらせるためにね、俺らは、別の段階へと進まないといけない。そうだろ?今となっては、その君からの電話が、妄想だろうが、何だろうが構わない。そんな事実など、なかったとしても、全然構わない。問題はそこではないんだ」
「じゃあ、どこなの」
 常盤静香の表情からは、さっきまでのお茶らけた様子が、完全に消えていた。
「そんなことを言うなら、私だってあなたに対して、ずっと思っていたことがある。あなた、大学を卒業してから何をしていたの?会社に就職して、普通に働いていたつもりでいるみたいだけど、私もそう受け止め続けていたけれど。でも、それは、嘘だということを知っていた。あなたも、私がそう思っていることを、知っていた。それでいて、あえて、私たちはそのことに触れないようにしてきた。あなたは、サークルのOBから指名されたの。そうでしょ。私は指名されなかった。私たちの同級生の中では、他には誰も指名されなかった。あなただけ。あなたが、就職の内定を極秘に蹴っていたことは気づいていた。あなたはサークルのOBたちが小数で結成する集団に、一人で入っていった。そうよね?口外は許されない。それは元サークルの会員だった人に対しても。恋人に対しても。それでも私は、あなたがもしかしたら、その後で話すきっかけを与えてくれるかもしれないという、そんな期待を持っていた。ずっと持ち続けていた。でも願いは叶えられなかった。もう、いいでしょ。話しなさい。何もかも。隠し事はなしに」
 井崎は、あっけにとられていた。
「君こそ、正気なのか?サークルのOBが何だって?引き抜き?小人数の集団?何のことだ?」
「今さら恍けて、楽しいかしら。そこでの仕事はもう終わったんでしょ。あなたは解放された。ある種の義務をあなたは背負っていた。使命といってもいいかも。だから私は何も問いつめることはしなかった。見て見ぬふりをした。でも時々心配になった。もうずっとそのサークルの延長戦上の仕事から、抜け出せなくなっているんじゃないかって。そうなってしまえば、私たちの未来もなくなる。でもあなたは、そこでの義務を果たし終えた。今度は別の、今度は、自分のためだけの仕事を、立ち上げるために、今いろいろと準備をしている・・・」
 井崎は、ため息をついた。首を何度も傾げ、常盤静香の唇を見つめた。
「君の勘違いは、ずいぶんと、甚だしいレベルにまでいっている」
 吐き捨てるように、井崎は言った。
「あなたに言われたくはないわね。受話器を放置したまま、別の男と性行為をしていたですって?私を変態にしたいのね。それよりも言いなさい!卒業後に何をしていたのか。あの大学時代のサークルの延長線上ってことだけど、実際、その活動の中身は、何だったのか。私たちのサークルって、言ってみれば、ただの旅行クラブのようなものだったじゃない。世界遺産をはじめ、あとはまだ、一般的になっていない、ちょっとした辺境の地だったり。太古の匂いが、まだ消えていない場所に、好んで行ったりもしていた」
「単なる、旅行クラブ?まあ、そういう側面も、確かにあった。でも実体は、そうじゃなかっただろ?遺跡と会話をするというのが、主な目的だったはずだ。その遺跡自身が抱えもってしまった、忌まわしい記憶の数々を、浄化するために、俺らもその遺跡と、一体化するといった瞑想にも似た・・・、半分は、怪しい宗教団体のような、もしくは頭のおかしな・・・」
「とにかく、話が、全然噛み合わない」
 常盤静香は、ほんの少しだけ声を荒げた。
「これが、実体だよ」
 井崎は一人落ち着き払った表情を浮かべた。
「別れるのも決定的だな。これほどズレた認識を持った二人が、ずっと恋人同士として生きてきたんだ。いかに無意味なことだったか。共有している世界なんて、これっぽっちもない」
 常盤静香は無言のまま、しばらく俯き続けた。心を鎮めているようだった。
 そして、思いつめた様子で言葉を繋いだ。
「本当に、卒業後は、サークルのOBの団体には行かなかったのね」
「確かに、そういう団体の噂はあった。むしろ、その団体こそが、母体であって、そこで活動をする人材を発掘するために、大学にサークルとしての居場所を、提供していた。そういうふうに考えていた人間も、少なからずいた。君はそう思っていた。俺もそう思っていた。他の同級生も、みな、だいたいはそう思っていた。しかし、俺は選ばれなかったよ。だからその団体の存在は、まったくの不明のままだ。あるといってもいいし、ないといってもいい」
「でも、内定した企業に、ちゃんと行ったの?」
「ああ、行った。二年ほどね。そのあとでやめた。別の会社に転職した」
「そうだったの」
「ああ」
「その代わりといっては何だけど、私の話も信じてよね。浮気なんてしていないし、あなたに電話だって、してはいない。しばらく距離を置きたいと、あなたが言ってきたから、私の方から連絡することは絶対にないのよ。そういうところは、律儀なのよ、私。あなたの邪魔をしてはいけないって、いつもそう思ってるから」
「それで、君は、今後どうしたいんだ?仕事は順調なのか?」
「どうしたいのかなんてわからない。でも、仕事はずっと、続けていくつもり」
「また話は、平行線を辿っていきそうだ」井崎は大きく息を吐いた。
「このまま、それぞれが違ったことをやり続けていくだけで、まったく交わりようがないんだ、俺らの人生というのは。ほんと嫌になってくるな」
「あなたが煮えきらなくなっているのは、ずっと前からわかってる」
 井崎の頭は、ほんの少しだけ痛み始めていた。この女のペースになり始めていた。彼女はいつだって、話の内容を攪乱させ、わかりあえない共有できない状態というのが、ごくごく、通常の在り方なのだという結論を、まき散らしてくる。
 そしてこれ以上、二人の亀裂には触れようとせず、巧みに表層的な世界へと引き戻す。
 肉体関係を結び、より深い世界への認識からは、この身を離す。
「それが、俺にはもう、耐えられない。今は君を抱けない。俺はずっと、こういう局面を、今まで生きて来た中で、ずっと繰り返していた。もう過ちは繰り返せない!いつだって、そうやって女に誑かされ続けてきた。自分のことも、相手のことも傷つけ続けてきた。誰も幸せになんかなれない。その場かぎりの、性的な満足しか残らない。それも、そのあと、夜が深くなったときに、圧倒的な虚無の空気へと、時間は流れていく」
「わかりあえないってことを、追及していって、それでどうするのよ」
 常盤静香は、ここで話を切り上げることを、許さなかった。
「もう、いいだろ」
「駄目よ」
「俺は、もう疲れた」
「せっかく、遠いところ、時間もお金もかけてきたのに」
 常盤静香は、井崎に身をすり寄せた。
「同じ過ちは、繰り返さない」
 井崎は、機械がしゃべるように、ただその言葉を、盲目に繰り返した。
「過ちなんかではないわ!」
「もう、すでに、終わった世界なんだよ!終わっているんだ!もうこれは過去の世界だ。過去の感情で形成された世界だ。そこに俺は、今も引き戻されている。何故か。この肉体があるからだよ。この身体が、君の身体の記憶を有しているからだよ。忘れられない。この細胞が、君の細胞を求めているからだよ!でも、それは、俺の今の気持ちではない。過去のものだ。それも、過去の気持ちではない。過去の記憶が、今の俺の足をつかみ、引きずり戻そうとしている。そして、その記憶は、何も、君と俺だけのものではない。俺が過去に繰り返してきた過ちとも、強固に繋がっている。過去の積み重ねが、さらに、この俺に、繰り返しを強いてくる。いつか、断ち切らなくてはいけない。俺は、本当に、その過去の記憶だけに縛られるようになる。君だってそうだ。もはや、そうやって、俺を誘惑してくるのさえ、君自身の、今の気持ちではない!過去の身体的な記憶にすぎないんだ!目を覚ませ、静香!俺たちは、よく話あわなくちゃいけない。体を重ねている場合ではない」
 井崎は仰け反るように、常盤静香からは大きく体を離した。
 常盤静香はこれ以上、井崎に近づいていくのはやめた。
 きらりと睨むような力強い眼で、彼を一瞥した。
 常盤静香は、紙幣を数枚テーブルに置いて、無言で去っていった。


 常盤は、井崎と別れると、すぐにGに電話した。Gはすぐに出た。今から三時間後に、東京駅で会わないかと、常盤はGを誘った。
「新幹線で東京まで行くの。だから、できたら迎えに来てほしい」
 GはCМの撮影のために、横浜まで電車で向かう直前だった。
 二人は、三時間後、東京駅の、八重洲口の本屋の前にあるカフェバーで、待ち合わをする。Gは一時間前に入り、CМの台本を読んでいた。
 万理が現れた。
「しばらく見てなかったけど、ずいぶんと元気そうですね」
 Gは、本から目を上げて常盤静香を見た。
「どうかしら」
「顔色も良さそうだし」
「何よ、これは。テキスト?」
「ああ、これは、今度の仕事の台本なんですよ。CМに出演するんです」
「そうなんだ。いよいよなんだ」
「そうなんですよ。いよいよ、なんですよ」
「そう。ちょうど、これからなんだ?邪魔して悪かったわね」
「もう段取りは、頭の中に入っているし、あとは、心の問題です。誰かと話しがしたかったところだから、ちょうどよかった。静香さんは、仕事で、東京に?あ、そうか。井崎さんに会いに来たんですね」
 常盤静香の眼の色が変わり、睨むように、窓の外に見えた、ピカソの『ゲルニカ』のレプリカが埋め込まれた壁を見つめた。
「あの絵、好きよ」
 Gも、窓の外に、目を移した。
「私、ピカソの描いた絵を、けっこう見てきたんだけど、すいぶんとひどい絵が多いのよね。ピカソって名前そのものの知名度と、彼の画家としての技術の高さとは裏腹に、傑作といえる作品は驚くほど少ない。そうは思わない?彼の回顧展のようなものに行っても、何百点もある作品の中で、一つもいいものがなかったりする。一つか二つあれば上等。そのくらいに、この人の作品はたいしたものがない。でもわずかにあるその傑作は、本当にとんでもないものなのよ。このゲルニカもその一つ。私が思うに、この偉大なる芸術家は、たぶんみんなが思っているほど、器用な作家ではない。彼自身が、自分のレベルをよく知っていたし、自分が求めるものと、できあがってくる作品の落差に、一番落ち込んでいる画家なんだと思う。でも、その落ち込みが、彼の最大の生きるエネルギーにもなっている。そして何十年に、一。、とんでもなく、その才能と心と体が、一体化するときが来る。まるで、その一作を描くために、それまでにさまざまなことを体験したり、失敗を繰り返してきたかのように。駄作、凡作を連発してきたかのように。ゲルニカはすごい!戦争という暴力に対するアンチテーゼを描いたように言われているけど、私にはそんなふうには見えない。ファシズムに対する抵抗を示したということらしいけど、まあ、そういう側面は多少はあるにしても、彼の最も根源的な領域では、ファシズムに対してのアンチテーゼではなくて、むしろ共感といってもいいかもしれない。時世に吹き荒れた暴力に対して、彼は、その要素を自分の内側に見た。そしてそれを、外の出来事として、他人事として、排除することをしなかった。内なる要素の顕現として、彼はこの世界を見つめた。自分の中の暴力性を認めた。同化することさえ、厭わなかった。そして『ゲルニカ』を描ききった。自分の中にある忌まわしい記憶を、そこに目に見える形で、出現させることで、自分自身を通過させた」
 万理は、ウエイターを呼び、赤ワインを注文した。

 Gは撮影に遅れてしまうからと、退席することを彼女に伝え、店を出ていった。
 列車に乗ったあとも、Gは常盤の話が、ずっと頭に引っ掛かり続けた。
 しかし、ほぼ初めてのモデルの仕事を数時間後に控え、Gの心は昂ぶってきていた。
 そこに、常盤静香という女性が、土足で侵入してきたわけで、すでに頭の中は混乱しかけていた。
 CМの中では、Gは090という名前が付けられていた。ブラッドストーンというジュエリーブランドの宣伝広告だった。090は、人通りのほとんどない、深夜の大通り(シャンゼリゼ通りをイメージしている)そこを一人で歩いている。そして、広場へと到着する。そのときだった。Gは、女性だらけの真夜中の集会に紛れ込んでしまう。そういう設定だった。
 他に、細かい設定や状況が書いてあったが、セットを見てみないことには、何とも言えないなとGは思った。しかし、この檀上に立った女は何者なのか。この集会が、あの忌々しい歴史の一端を思い起こしてしまうのは、自分だけではないだろう。全国放送の広告としては、検閲にひっかかることなく、ちゃんと成立するのだろうか。
 Gは、このときもまた、不安を蘇らせていった。
 撮影したのはいいが、結局、消去を余儀なくされてしまうのではないか。世の中に出るということが、実現しなくなるのではないか。
 この自分という存在が関わった、特に単独で仕事をしたときに、Gにはどうしても、不特定多数の人々に対して、開かれるという仕事が、実現しないのではないかといった、呪われた何かを、感じ取ってしまうのだった。
 井崎に言われた。長谷川セレーネと君は、正反対だな。彼女は放っておいても、仕事の方がやってくる。そのすべてをこなすには、体がいくつあっても足りない。それに比べて、君は・・・。
 君は、こっちから売り込んでいったとしても、滅多に反応してくれる人間なんていない。
 ラスト12デイズは、長谷川セレーネとの共演だった。問題は、この自分が単独で、世の中に出ていくときだった。



 090は、一人夜の広場に立っていた。地面には、巨大な鳥の影が映っている。空を見上げたが、浮かんでいる生き物はいない。女たちの歓喜の声は、どこからも聞こえない。090は、ずっと広場を支配している鳥の巨大な影を見つめている。すると声が聞こえてきた。
「今年の夏至の儀式は、開かれない」
 男の低い声だった。
「八月に夏至は訪れない。やてくるのは、冬至だ。八月に、夏至はやってこない。やってくるのは冬至だ」
 薄暗い声は、そう囁き続ける。
「私は、君に、冬至の提案をしている。すでに、神官は、すべて街から姿を消した。みな、出ていってしまったよ。世界を支配しているのは、この私だ。よく見てみたまえ。影が君にも見えているだろう。その影に、実体を与えている者は、誰か。そう王だ。王はどこにいってしまったのか。私の体を借りて、この世界から出ていったよ。
 最期の祭りを開催し、そして、自らは、その真っ最中に、ピラミッドの天辺から空へと飛び立っていった。その後、ピラミッドには、黒い大量の雨が降り注ぎ、人々のあいだにあった二つ目の柱は、消滅する。世界はそのようにして、段階的に終わる。残るのは巨大な影だ。
 夏至の儀式は執り行われず、そして、祭りも閉幕をする。実体としての世界は、そこで終わりを告げる。しかし、時間は消滅しない。時間が崩れ落ちるまでには、あと少しの猶予がある」
 はい、カットです。
 Gは我に返った。
 撮影の終了を告げるスタッフの声が聞こえてきた。茫漠とした暗闇の広場は消えた。
 照明がつけられ、周りにはたくさんの人間がいる。旗の存在もある。エキストラの女性たちの姿もあった。
 夢を見ているようだった。大通りは確かに存在していた。
 Gは脱衣場を出て、撮影スタジオへと戻る。大通りの存在を確かめたかった。しかし、小さな広場のようなセットが組まれているだけで、Gが記憶していた場所とは、ほど遠かった。
 Gは、脱衣室へと戻った。そして、温めのシャワーを、延々と浴び続けた。用意されていた下着とデニム、Тシャツに着替えると、すぐに再び撮影スタジオへと戻った。すでに出演者は退席していて、照明機材や美術セットを片付けているスタッフが、慌ただしく作業をしているだけだった。解体して、元の何もない空間へと戻そうとしている。
 Gには、マネージャーがいなかったので、このまま作業スタッフに挨拶をして、この場を後にする以外に、やるべきことは残ってなかった。




























  第三部 第九編 ディバックの蠢き




















 МQRとディバックは、研究所に併設された住居の居間で、くつろいでいた。
「それで、Gの様子はどうだ?」
「特に、見た目には、何の変化も現れてはいないようです。しかし、内部の骨格は、だいぶ強化しておきました。あなたの指示通りに」
「すぐにへこたれては、困る逸材だからな。たとえ刺しても刺しても、なかなか致命傷を負わない、そんな人間であるべきだな。奴が死ぬときというのが、最も技巧に富み、派手に脚色された大きな節目の行事であることは、間違いないのだから。僕は、あれだ。占い師でも預言者でも何でもないから。彼の運命がどうだとかこうだとか、そういうことは何も言わない。だからいつまで彼が生きるとか、どのように人生を切り開いていくとか。駄目になってしまうのか。そういうことは正直わからない。けれども、彼がどんな最期を彩るのかだけは、何故か、わかるね。その死を全うさせてやるのが、我々の務めの一つでもある。つまりは、つまらない死によって、彼の生涯を終わらせてしまうことを避ける必要があるということだ。そういう状況に、我々はいち早く、敏感に対応しなければならない」
「Gのボディガードみたいですね」
「遠隔的な、ね」
「ええ」
「もちろん、我々が何もしなくても、彼は途中でつまらない死を迎えることはない。結論は、いつだって、一緒なんだよ、МQR。いつ、どんな場所で、どんなふうに死ぬのかなど、おぼろげながらも、大枠は明瞭に決められているんだ。我々の役割なんて、卑小なものさ。それでも、彼には手を差し伸べてやらなきゃいかん」
「あなたは、Gを味方にしようとしているんですか?利用しようとしてるんですか。関係性がわからないんですよ。あなたとGとの。そしてそこには、どんな意図が介在しているのか」
「なあ、МQR。君は、俺の指示にただ従っていればいいんだ。何度も言うように、我々は、彼をどんなふうにも、意図的に仕向けることはできないんだ。我々が意図的に行動するべきことは、他にある。万理も、舞も、当然、重要な戦力として考えている。エリア151の跡地は、すでに購入できた。拠点も準備できた。エネルギー産業に一石を投じてやることのできる重大な施設は、すでにこの手の中にある。そうだろ?そして、舞の音楽に、我々の意図は封入することができた。万理に対しても、その彼女の心に、我々の存在を刻みつけることには成功した。今後、その種が育っていくのを、ゆっくりと見守っていこうじゃないか。
 すでに、成功への種はあらゆる所に撒かれた。Gへの改造強化計画も着々と進んでいる。あとは時間次第だ。そういえば時間といえば、あいつ。セトという男。万理や舞が所属する芸能事務所の社長。あの男は、最近、時間の概念に凝っちゃっていてさ、VAとは全然違う仕事を立ち上げようとしているぞ。我々は、あいつもとり込むことができそうだ。あいつに言わせると、今この世界においては、時間がズレているそうなんだ。そのズレに対して、彼は何らかの方法で、本来のあるべき形に修正する方法を、探っているらしい。時間の流れに大きな亀裂が入っているそうだよ。なるほどな。それが、一般的な人間の感じ方かもしれんな。我々には、その感覚がまったく理解できないが。僕の認識では、この世界を知覚する能力が拡大して、複数の世界が同時に立ち上がってきて、その重なりの中で人は生きていくことになる。DNAには、決定的な変化が現れる。一方、時間のことというのは、その遺伝子の変異に伴って現れる、誰にでも感じることのできる、違和感のことなのかもしれない。どう変化をしたのかはわからなくても、違和感くらいは感じとれる。そういった話なのかもしれない。
 我々が何故、セトを利用することができるのか。それは、彼が時間のズレを元に戻そうと考えているからだ。しかしそこを逆手にとるんだ。さらなるズレを助長させるということはできそうだ。そうだろ?人間が手を加えずに放っておいたのなら、そのズレはずっと同じ目盛のままにズレている。ところが、人間の手によって、さらにズラすとなると、この世界ではいったい、何が引き起こされるのかな。楽しみだ。我々は、人間の肉体を持っていないからこそ、いや、失礼、君はまだ持っていたか。とにかく持っていないからこそ、こうして自由にすいすいと動き回れる。圧倒的なフットワークと情報処理能力、そして耳元まで近づき、そっと囁くことができる。君もそういう自由を、これからどんどんと獲得してくのさ。いずれ、僕の後継者になることは間違いない」
「ありがとうございます」
「舞とは二度と、結ばれることはなくなるが」
「構いません。覚悟はとっくにできてます」
「だろうな」
「自分は、もう二度と、ノーマルな人間として生きていくことはできないでしょう。ノーマルな人生がもたらす、ノーマルな悦びや哀しみ、苦しみ、辛さ、そういうものとは、一線をおくことになると、ずっと昔から感じてきました。この自分という人間は、ずっと早い段階で、本能的に重要なことを感知しているようです。時間をかけ、誰かと話しをしたり、体験を重ねていったりすることで、その最初に感じたことを、理性が理解していくようになるんです。思考があとから、追いついてくるようになるんです。なので後悔は、絶対に致しません」
「そういう人間を、僕も選んだつもりだ」
 ディバックは、ソファーから立ち上がった。


 ディバックは初めてセトに接触した。МQRを経由することなく、直接VAの事務所を訪れた。突然の訪問だったので、門前払いを食わされるのかと思いきや、待合室に通され、待っているあいだも、飲み物を提供された。白いシーツのひかれた骨組みも白いソファー。白いテーブル。壁の色も白だ。セトと思しき男と、ツーショットで映った所属タレントとの写真が額に入れられ、壁に飾られている。高価なものは何ひとつ置かれていない。白色は剥げたり色あせたりしていて、新品からはほど遠かった。けれども、掃除はちゃんと行われているようだ。清潔の部類に属していた。置かれていた雑誌を手に取ろうと思った。
 しかしそのとき、人の気配がする。お待たせして申し訳ありませんと、一人の中年の男が現れる。
「いまですね、取材の電話がかかってきてしまいまして、その五分ほど、お待ちしてもらって、よろしいですかね」
 ディバックはセトの柔らかい雰囲気に逆に圧倒されてしまった。
 人柄が滲み出ていて、わずかながら、身体が発光しているように見えた。
「ええ、もちろんです。すいません。いきなり押しかけてしまって、大変申し訳ないです」
 セトは笑みを浮かべて会釈をした。そして奥の部屋へと戻っていった。ディバックはソファーに腰を落ち着けた。やはり雑誌を読む気にはなれず、額に入ったタレントの数々を眺めていた。
 ふと気がついたことがあった。セトの風貌がだいぶん違う。この写真に収まっている男と、たったいま目の前に現れた男は全然違った。風貌だけかと思ったが、顔のつくりから輪郭から、まったく異なっている。どっちが本当のセトなのか。奥の部屋に引っ込んでしまった男は、自分がセトであるとは一言もいわなかった。それに、この額の中の男だって、セトであるとは限らなかった。
 ふと、ディバックは、両方の男ともセトではないのではないかと思ってしまった。
 受付に戻り、女性に訊ねるべきか。けれど、ディバックは立ち上がって移動することはなかった。どうせ数分後には、事実ははっきりする。写真の男は三十代に見え、さっきの男は五十代に見えた。やっぱり、両方ともセトなのかもしれない。後でもっとよく見てみれば、共通点がくっきりと浮かび上がってくるに違いなかった。
 いや、そんなわけはない!この写真の男の横にいるタレントたち。彼女たちは、二十年も前の人間なんかではなかった。現在の年齢そのものだった。つい最近、撮影されたものに違いなかった。ということは、男は別人だ。誰なのだろう。
 五分はあっという間に過ぎてしまう。しかし、奥の部屋から現れる男の姿はない。あまりに遅すぎた。けれど、アポなしで来た手前、腹を立てる理由は露ほどもない。黙って待機している以外に方法はない。三十分が過ぎる。いい加減にしてほしい。受付に行く。電話はまだ終わらないのだろうか。ディバックは訊ねた。女性は様子を見てくると言い、奥の部屋へと移動する。ディバックはソファーに座り直す。そして五分。女性さえもが帰ってはこなかった。ディバックは自ら廊下を伝い、奥の部屋の扉の前まで歩いていく。ノックをする。返事はない。ドアノブを捻る。鍵はかかっていない。押してみる。ドアは何の抵抗もなく動き出す。ディバックは強烈な光を浴びる。中の様子は、しばらくはわからなかった。白みがかった黄色い光の世界に、ディバックの全身は包みこまれた。
「お待たせしました」
 光の先から、男の声が聞こえる。
「要件は、何でしょう」
 ディバックはいまだに、眼を開けることができなかった。
「ご用件は」
「単刀直入に申し上げます」
「望むところです」
「あなたは芸能事務所の社長だ。ところが、それとは別の仕事を、これから立ち上げようとしている」
「よくご存知で」
「その事業とは、もしかすると、時間に関することではないですか」
「それも、よくご存知で」
「それなら話は早い。実は、我々も、同じような事を考えているのですよ。この、時空がズレてしまったままの世界。そこに、我々は生きていますね。あなたは、そのズレる前の世界に戻すべきだと、そう考えていますよね。僕も同じことを思っています」
「そうですか」
「僕らは、話し合いを重ねるべきだと思うんです。きっと状況を進展させることができます」
「どうぞ、進展させてくだざい」
「そのズレを直す技術を、我々はもう、あと少しのところで、開発できそうなんです」
「開発ですか」
「ええ。しかし、開発できたとしても、それを現実の世界に適応し、応用しようとしたときに、そういったルートを、我々はまったく持っていないことに気づいたんです。困りました。弱りました」
「なるほど」
「話を進めてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。僕らは、あなたをお待ちしていたんです。僕はだいぶん、行き詰っていて、あなたのような人間を心待ちにしていたんです」
「光栄です」
「ベストタイミングで、あなたが現れた。躊躇する気持ちはまったくありません。すべてはあらかじめ決められた成り行きで、状況は動いているのだから。違和感はまったくない。むしろ、流れに乗るべきだと」
「流れですか?」
「もうとっくに整備されていて、我々はその上に、すでに乗っている」
 ディバックはいまだに、眼がよく見えてなかった。太陽を直接見ているかのようだった。声の聞こえる方向が、まさにその太陽そのものであり、人間の輪郭さえ確認することができなかった。
 額に入った写真の男と、さっき応接室に現れた男、そのどちらの男なのかも、判別することができなかった。
「ちょっと、部屋の明るさが・・・」
「どうしました?」
「明るすぎて、目がくらんでいます」
「ほんとですか?それは大変だ!ねえ、ちょっと」
 セトは、受付の女性を呼んでいるようだった。
「明るすぎるんだってさ。もうちょっと、照明を落として。そうそう。そのくらいだ。どうです?そういえば、お名前も、伺ってなかった」
 光は一向に調節されてなかった。ディバックは思った。もう光については何も言うべきではないなと。調節など、まったくできないのだ。セト本人もそれを知っていて、それでも、わざと調節できるようなフリをしている。手のひらの上で、自分がうまく転がされているような気がしてくる。セトを利用しようと思い、ここへとやってきた自分だったが、どこからか、その関係性は歪み始めていた。セトにコントロールされているとは思わなかったが、もしこのまま、今の状態が進んでいけば、そんなことにもなりうる。
「では、今日のところは、これで失礼します。名前はディバックと申します」
「ディバック様ですね」
「ええ。ディバックと呼んでいただければ」
 彼はそう言うと、すぐに応接室を出ようとした。この光量には身体が耐えられそうになかった。目だけではなく、咽頭から食堂から内臓から皮膚から、すべてが悲鳴を上げ始める寸前だった。
「今後は、どういたしましょうか」
 セトと思しき男は次の面会の予定を訊いてきた。「場所はどちらがよろしいでしょうか。どこか、外にしましょうか。それとも、内密にということで、ここで?あるいは、あなたの方で、もっと隔離されたよう場所を?」
「そうだな。僕が用意しましょう」
 こんな部屋に来るのは、二度と御免だった。
「わかりました。僕の方から出向きましょう。また、事務所の方にお電話ください。今度は、僕一人であなたのテリトリーへと伺います」
 倒壊する寸前の建物から逃げるように、ディバックは、VAのビルから急いで立ち去った。


「お前を行かせればよかった」
 ディバックはМQRに対して、セトとの初対面のことを語った。
「得体の知れない奴だった。俺の予想とは、遥かに違った存在感を、もった男だった。お前に行かせればよかった」
「ちょっと、どうしたんです?いつものあなたらしくもない」
「流れが変わっている」
「流れ?何のことですか?」
 МQRは憔悴しかけているディバックに対して、今まで感じたことのない母性のようなものが目覚め始めているのがわかった。そして、母性と同時に、優越感にも似た感情までが芽生えていた。
「もう一度、あなたが行った方がいいのでは。それで、駄目なら、僕が行きますから。用件さえ、正確に伝えていただければ、僕にお任せください」
 МQRは、ディバックの意図が、この時はわかってなかった。
「写真に写っている男とは、まるで違うんだ」とディバックは言った。
「あの、もしかして、その方は、セトさんではなかったのでは?誰かがセトになりすませていたのでは?」
「なんだって!」
 ディバックはМQRを睨むように凝視した。
「セトじゃない?そんな馬鹿な。セトの事務所に行ったんだぞ。受付の女性に案内されて、それで、セトがやってきた。いや、待て。そういえば、待合室にいたときに、ちょうど、セトに仕事の電話がかかってきたらしく、俺はだいぶん待たされた。今、お前に言われて初めて、あの時の待たされかたが、不審に思えてきた。セトは奥の部屋に入ったきりで、出てこなかった。そういえば、俺の方から行ったんだ。自らドアを開けて、中に入ったんだ」
 МQRは黙って聞いていた。
「どうしたらいい?」
 ディバックは辛辣な面持ちでМQRに訊ねた。
 お好きなようにと、МQRは思ったが、決して口には出さなかった。
「とにかく、もう一度だけ、近いうちに行くべきです」
「それがな」ディバックは言った。
「次は向こうが、こっちに来るという手筈になっているんだ。俺の所に、招待するという段取りになっている。俺の方から、VAに行くとこは、もう、おそらくはない」
「研究所に招くんですか?」
「そうだよ」
「いいんじゃないでしょうか」
「こっちから、VAのビルになんて、もう二度と行けないよ。あんな光に満ちた空間には、三十分といられない」
「そんなに明るかったんですか?」
「尋常じゃない。太陽が南中にいるときの地上よりも、遥かに煌めいていたぞ。それが奴の体から発光しているようだった」
 МQRは、自分もこの眼で、そのセトという男を確認してみたくなった。
「なぜそんなに、彼は輝いていたのか。あの男から出ている何かなのか。それとも、あのビルが発していた何かなのか、土地が関係しているのか。それを見極めたいからこそ、あいつを、こっちの領域に呼んだんだ」
「領域ですか」
「領域だよ。あの地下の研究所で、会うのがちょうどいい」


 その話を聞いた夜、МQRは、一人で研究所の地下室へと向かった。
 水槽の中に眠ったままになっている、Fという男の身体を、見にいった。
 МQRは、無音の中、階段を静かに降りていった。冷え冷えとした空間に、足音は鈍重に響き渡った。紫色の照明の中に、緑色のライトが所々挟み込まれ、幻想的なライトアップが施されていた。下水道の側を改良して作られた地下室だったが、悪臭はまったくせず、近未来都市における最先端の研究所のような趣があった。
 水槽の中には、泡が半永続的に発生していて、Fの上半身は、常にその泡に覆われていた。
 МQRは機械を操作して、水槽を覆っている厚いガラスを外した。ここでも匂いは特にはしなかった。МQRは、水槽のスイッチを切った。泡は途切れた。するとFの肉体は、水の底へと沈みかけていった。МQRは、水槽の中に両腕を突っ込み、Fの沈みゆく身体を支え、さらに力を入れて、彼を持ち上げていった。Fを水槽の外へと出した。МQRよりも、一回り大きな体だったので、重労働だった。МQRはその反動で、壁に自分の身体を思いきりぶつけた。Fの身体は床に横たえていた。反応はなかった。
 МQRは、泡のなくなった水槽の中を覗いた。そこには、黒い穴がぽっかりとあいていた。緑色の照明があたっていたが、黒い穴は黒い穴だった。Fの身体の輪郭そのままに、黒い闇が残されていた。МQRは思わず覗いてしまった。その奥にはいったい、何があるのか。さらに、梯子の階段がかけられ、降りていけるようになっている気がした。
 だが、МQRは、これ以上、下に行く気にはなれなかった。自分は、この下に行くことはできない。また行く必要もない。ただ、このFという男は、さらに下っていったことのある人間だと思った。この男は、ここに身体を置いたまま、このさらに下にある世界へと、降りていった。いや、堕ちていった。誰かに突き落とされたのか。自ら、行く必要を感じたのか。それはわからない。それでも、彼は行くべき運命を担っていた。そして、ここに肉体を、置いていった。これは抜け殻なんだと、МQRは思った。
 МQRは身を捩り、後ろを振り返る。しかし、今さっきまで床に転がっていたはずのFの身体はなくなっていた。МQRは、水槽の回りを見た。しかしどこにもいない。ふとわずかではあったが、鉄の梯子の階段に足がかかる音が、聞こえてくる。反射的に、上を見上げる。しかし音は、下から聞こえてくるような気もする。上下の間隔が、МQRには一瞬失われていた。それでも彼は、音に耳を澄ます。どちらかは、わからない。しかし遠ざかっているようだ。
 まさか、Fの肉体が一人で移動していっているのではないか。誰かが、Fの体を動かしているのか?それとも、Fが、この地下のさらに、下にある世界から戻ってきて、そのタイミングで、この自分が水槽から外に出すのを手伝ったのか・・・。その瞬間に、彼は自分の体を取り戻し、そしてさらに、梯子を登っていった。
 МQRは、もう一度だけ、Fの身体が浸かっていた水槽を見下ろした。
 黒い穴はどこまでも黒かった。МQRは、鉄の階段の梯子を登っていった。
 自分の足音ばかりが響き渡る。МQRは、地上へと到達する。外の世界へと出た。しかし、Fの身体はどこにもなかった。


 井崎は、常盤静香と結婚した。その四か月前に、彼は埼玉へと引っ越した。その三か月前には、常盤静香は転勤で、再び東京に来ていた。さらに、その半年前には、Gは単独でCМのキャラクターに起用され、世の中にデビューしていた。目まぐるしい一年だった。
 井崎と常盤は結婚してから、半同棲生活を始めた。常盤は、都内にマンションを借りていたが、仕事が忙しくなると、すぐに井崎の家に来て、そのまま居つくことが増えた。そのあいだはほとんど、寝食を共にした。セックスをして、そのあと、常盤は井崎のために料理を作ったりもした。食べ終えた二人は、そのあと近くのカフェバーに飲みにいった。
 常盤はあと半年で、仕事を退職する。井崎の設立した会社で働くことになる。公私ともに、二人は新しい人生を歩み始めていた。どこに住むのか、二人はまだ決めてなかった。料理はうまく、炊事洗濯もスピーディーで、さらには、語学は堪能だった。英語は問題なく使いこなせた。夜の生活も満足だった。お互いの両親とも仲がよく、それぞれの友人との交流も円滑だった。すべては順調だった。
 それと時を同じくして、Lムワの作品も次々と、書籍化されていった。初めは文芸雑誌に切り売りされたものだけだったが、それをきっかけに連載が決まり、物語がどんどんと進行していくにつれて、その骨太な骨格に魅せられていく読者が、急増した。編集側の人間たちも、一人の特別な読者として、とり込んでいくことになり、掲載されるページは号を重ねるたびに増えていった。書籍化を待望する声が、たくさん寄せられることになった。
 Lムワの書籍は、全部で四シリーズあった。その中で、三つの長編が中心を担い、それ以外のものは、一冊にまとめられた。長編の三つは、それぞれタイプもサイズも違っていた。特に、その中の一つは、巨大な長編であり、そして未完成でもあった。このことを、井崎は誰にも告げてはいなかった。彼以外の人間はどこまでも、その巨大な物語は続いていき、そして圧倒的な頂点を迎え、なだらかに終息していく。そう思ったことだろう。井崎にしてみれば、どこかでその事実を話し、決着をつけなければならなかったが、今がそのときではないように感じた。だがこれから、どれほど時間が経過したとしても、Lムワによる巨大長編の続きが執筆されることはなく、途中で途切れたまま、このプロジェクトは終幕することだけが、決定づけられていた。しかし、それまでにはまだ期間がある。
 井崎は、そんな先の決着の時を思い煩い、今を無駄にしてはならないと思った。
 そのときは、そのときだった。それよりも、今は、この四シリーズ三長編を、しっかりと世の中へとリリースする。その仕事を、常盤静香と共に着々と進めていく。書籍は全部で六冊になる予定だった。その一冊目は、すでに刊行された。増刷を繰り返し、今は翻訳版の準備も進められている。半年ごとに敢行したとして、丸々三年はかかる。四か月ごとに、敢行したとしても、二年の猶予があった。それに、未完成という事実がわかったとして、それが井崎にとって、一体何の問題があるのだろう。井崎の問題ではなかった。当の作者はすでに死去してしまっている。インタビューを受ける著者の存在はなく、メディアに登場する著者の存在もいない。もし何らかの賞を受けたとしても、それを受け取りにいく著者の姿さえない。すべてが架空の人間が成したことのようだった。
 しかし、Lムワの著作のいくつかは、絶版になっているものの、確かに彼本人が数冊出版していた過去があった。実在したことは、簡単に証明される。ただ、その過去の著作に加えて、あらたなものが付け加えられた形での、六冊敢行ということにはなる。誰か、別の人間が、Lムワに成りすまして、続編を書き、過去のものと融合することで、あたらしい商売をしようとしたと、そう勘繰られることだってありえた。でもそんな時にこそ、この未完成の作品が、効力を発揮するのではないだろうか。現実にもう存在しない作者だからこそ、このあとの続きがリリースされることはないのだ。
 出版のため、宣伝のために、井崎と常盤は、共に行動をすることになる。広告には、Gを使う機会もあるだろう。可能なら、長谷川セレーネも使いたかった。そうやって、二年、三年の月日は、あっという間に過ぎていく。結婚生活は多忙なものになる。新しく知り合った人たちは、夫妻の共通の友人となっていく。
 井崎にとって、常盤は、大事な性のパートナーであり、有能な仕事のパートナーであり、マネージャーであり、心安らぐ料理人であり、井崎のことを最も近いところで撮影し続ける、フォトグラファーでもあった。二人は一心同体で駆け抜けていく。
 井崎は、眠りから覚めた。夢を見ていた。


 セトは、ディバックの呼び出しに応じ、地下の研究室のある場所へとやってきた。
 中古のレコード店のような入り口には、МQRが立っている。セトを案内するため、先に梯子を降りていった。その急な階段を降りることに、セトは最初、驚きを隠せなかった。
「セトさんで、よろしいですよね」
 МQRは、目の前の男がディバックの言っていたような光々しさを少しも持っていなかったことに、違和感を覚えていた。ディバックを驚愕させたというエネルギーが、少しも感じられなかった。「セトです」と男はそれだけを言った。
 階段を降りきった二人は、昨夜までは水槽のあった場所へと歩いていく。そこには、椅子が二つ置かれている。ライトアップされた夜のプールサイドのような場所で、ディバックは、セトの来訪を待っていた。
「お待ちしておりました」
 ディバックは立ちあがり、セトに向かって握手を求めた。
 この前のあの輝きは、いったい何だったのか。少しも発光しているとは思えない眼の前の男を、見下ろし続けた。よく見れば、あの待合室に飾ってあった、額の中にはめ込まれた、写真の男そのものだった。まだ、三十半ばくらいで青年のような男だった。
「こんな場所で、申し訳ありません」
 ディバックは、セトを椅子に座るよう促した。
「ここは?」
 セトは、きょろきょろと安定感を欠いた眼を、空間全体に漂わせた。
「研究所でして」
「ああ、なるほど。この前、言っていた、その、あれだ」
「あれです。時間に関する。ズレてしまった時空を、元に戻すための」
「いったい、どうやって戻すんですか?」
「それよりも、ご覧ください」
 ディバックは、椅子から少し離れたところにある窪みを指差した。
「そこには、昨夜まで、人が横たわっていたんです。ここは水槽だったんですね。水がたっぷりと入れられていて、そこには、緑の照明が当てられていた。ところが今は、その人間はいません」
 セトは、困ったような表情を浮かべた。
 しかし、相槌を打つことなく、虚ろな焦点の定まらない目を、何とか固定させようとしていた。
「ご覧ください。その人がいたという窪みを。暗いでしょう。真っ黒です。そうです。これは穴です。ここから地下深くに、闇の世界が広がっているんです。わかりますか?ここは、地底の世界への入り口になっているんです。昨夜まで、ここに人を横たえさせることで、塞いでいた。そうです。塞いでいたんです。それがこうして、蓋は取り除かれ、我々は、その横に佇んでいる。ほら、覗いてください。見えませんか?わずかですが、火の存在が見えましょう。暗くて、よく見えませんが、煙がもくもくと出てきています。言われてみれば、ここも少しだけ、煙臭いでしょう。このまま蓋が開いたままだと、明日には酸欠になってしまいます。いったいどうして、こんな話をあなたにするのか、わかりますか?私の研究所というのは、この入り口の上に、ちょうど建てられているんです。いいですか。ここから人を投げ込むと、一体、どのようなことが起こるか。ふふふ。いや、まさか、あなたを放り投げようとは思ってませんよ。けれど、あなたの態度によっては・・・、わかりませんね。用心することです。罪を犯したものは、地獄への切符を手にしますから。その切符を手にしてしまった人間は、そうです、ここから、暗い闇の世界に堕ちてもらうことになる。ちょうどここに、肉体を置いて。地底へと降りていってもらう。そのあいだ、入り口は、完全に封鎖される。他の人間を放り投げることはできなくなる。地底を彷徨っている彼の邪魔をしては、いけないということです。どうです?この上に建てられた研究所の存在は。まずは、この土地の説明を、しなければいけないと思いました。なぜだかわかりますよね、セトさん。そうです。あなたの事務所が入っている、あのビル。やはり、何らかの仕掛けが施されている。
 そうでしょ?あなたは今、ここでその秘密を開陳しないといけない。なあ、МQR。来なさい。セトさん、要求がのめないというのなら、このМQRと一緒に、あなたをこの闇の中に突き落とします。冗談は言っていません。僕はあなたのことをまだよく知らない。共に仕事をしていくのなら、共有できる情報の基盤を、創造するべきです。今、この場所で」
 やはり、この前見たときとは、だいぶん様子が違う。
「あなたこそ、ずいぶんと違う」
「なんだって」
 予想外の反論に、ディバックは平常心を掻き乱された。
「お互い、同じみたいですよ」とセトは言った。
「ここは、あなたのフィールドです。しかし僕は、そんなあなたに、この身を託したい。確かに、そういう気持ちはある」
「それは構わないが」とディバックは横柄に答えた。
「それでも、あなたの事務所の入ったビルについて、それを、解明しないかぎりは、話を先に進めるわけにはいかない」
「秘密ですか。そんなものはないですよ」
「あのとき会った、セトという人間は、いったい誰だったのか。君ではなかった。明らかに違う人物だった。どんな仕掛けがあったんだ?はっきりと答えたらどうだ?それでも、あのとき会った人物は、あなたのような気もする。共通点はあるような気がする。しかし、風貌がまったく違う。だからその理由を話してくれといってる。あのビルに、仕掛けがあるんじゃないかと、そう言っている。早く答えてくれ」
「その前に、ズレてしまっている時空の修正をするための方法を、教えてください」
「取引する気か?」
「そのために、我々は、会っているんでしょ」
「おい。МQR」
「なんでしょう」МQRがディバックの側へと近づいた。
「退席してくれ」
「わかりました」МQRは階段を登っていった。
「さてと」ディバックは大きく息を吐いた。「今は、別の施設へと、移しているのだが、直方棒という、ある種のエネルギーを凝縮させた物体がある。それを、時空の裂け目が出来てしまった場所に、局所的に置いていくことで、そのズレを修復させることができる。今はまだ、時空のズレは街全体では起こっていない。部分的に、それこそ、ピカソのキュービスムのように亀裂が入り、時間がズレ、もっとひどいところでは、別の次元の世界が、わずかながら流入している。場所を移動すればそのズレは治まる。今のところは。だがその亀裂が、次第に深くなっていくにつれて、範囲は劇的に拡大する。街全体まで拡がるのかどうか、それは私にも分からないが、とにかく今はまだ、個人的に体験するという範囲であるが、次第に誰もが感知するレベルにまで、拡大していくことでしょう。傷口はできるだけ早く防げ。対処法としては、実に理に適っていると思う。その直方棒はね。科学技術なんだよ、セトさん。あなた、商売を拡大したいんだろ?ならば、時空のズレの拡大を阻止することを、あなたのビジネスの一部に組み込んだらいい。これから、人々はこぞって、その対処法を求め始めるだろうから。あなたが供給の窓口になったらいい。ブツが何もない中では、商売など始められないだろ?ブツがないのに商売を始めようとすると、どうなるか。というよりは、ブツがないのに、商売を始めようとする、人間のメンタリティーとは一体何か。結局は、儲かればいいってことだ。金が稼げればいい。ただ、それだけのことだ。そのことで、人々の喜ぶ姿が見たいとか、人の役に立ちたい。そんな気持ちは少しもない。ただ、自分が儲かればいい。金が入ればいい。それだけだ。そのためなら、どんな商売でもするし、人に対して、どんなに害悪となることでも厭わず、そのビジネスに従事することができる。結局は、最終的に、人々に何を与えることができるかということだ。いい影響を与えることができるのか。それに基づいた、商品、サービスを生み出すことができなければ、その先にビジネスなど何もない。本来はね。そうだろ、セトさん。タレントがいなければ、商売にはならないだろ?タレントをそろえておかなければ。
 その、ブツというのが、この場合は直方棒だ」
「なるほど」
「それで、今度は、あなたの番だ。ビルの秘密を話してくれ」
 セトを急かすように、ディバックは言う。
「それが・・・、あなたにお話しすることは何もないんです。秘密と申されても・・・。僕は僕でして・・・、この前と、何ら変わりはありません」
「あなたはね、この前とは、まったくの別人だよ」
「そうでしょうか」
「そのまま、口を噤めば、直方棒の話も終わりだ」
「そんなことを言われましても・・・困ったな。本当に、何の仕掛けもないんですよ。この前と、何ら変わりはない。それでも、まだ、疑っているのでしたら、もう一度、VA事務所に来てみたらどうでしょう」
「俺が?」
「これから」
「今から、か?」
 ディバックは、少し間を置くかのように沈黙した。
「結局、ご自分で、判断なさった方が」
「わかった。ちょっと待て。あなたは、先に外に出ていってくれ。入り口の所で待っていていてくれ。МQRが、そこにいると思うから、彼をこの地下へと呼んでくれ」
 セトはディバックの言葉に従った。少し経ってから、МQRが一人で降りてきた。
「なあ、МQR」
「なんでしょう」
「ここにいた、Fという男」
「はい」
「いったい、どこに行ったんだ?」
「さあ」
「なぜ、今日になって、いなくなっている?」
「わかりません」
 МQRは恍けた。自分が昨夜ここに来て彼を抱き起したことは言わなかった。
 どうしてそのような行動をとったのか。自分に対しても説明することができなかった。
「俺は、再び、VAの事務所を訪れるんだとよ。どう思う?いったいどうなっている?流れが変わってしまった。俺はあれだな。VAの事務所に、セトを訪ねるべきではなかったんだ。あれから、流れが切り替わってしまった。しかしいったんそうなってしまえば、流れは止められない。もう引き返すことはできない。Fはいなくなってしまった。どうもこれから、セトの事務所まで行くことになりそうだ。今度はあいつと二人きりで。でも乗ってしまった船だ。止められない。それでも、直方棒のほうは、ちゃんとプールには沈ませているんだろ?」
「もちろんです」
「それならいい。セトの人間性に、いくら俺が揺さぶられようが、問題のブツは俺が握っている。そうだろ?最終的には、あいつは、あのブツを使って商売をする。それは確実だ。そうなれば、こっちの思惑は、ほとんど達成される。そのほかの要素は、ただの飾りみたいなものだ。分が悪くなろうが、何だろうが、構わない。だから俺は、あいつに直方棒を流す道さえ、確立できれば、あとはどうなっても構わない」
「覚悟したんですね」
「覚悟?」
「VAの事務所の入ったビルは、苦手なんでしょ?なのにあえて、相手の懐に入っていこうとしている。以前のあなたには、なかった行動です。それほど、腹をくくっているということでしょ?」
「人間が動かない限り、我々は何もできない存在だ。その動く可能性の高い人間が、目の前にいたとしたら、それはチャンスだ。そうだろ?思惑は一致していなくとも、行動が一致しているということが、最大の利点なんだ!我々にとっては。だから何としても、このチャンスを逃したくはない。セトは、うってつけの人間だ」
「私は何をしたら?」
「ここで待っていれば、それでいい。俺が一人でケリをつける」
「わかりました」
 ディバックは地上に向かって、鉄の梯子の階段を登っていった。


 セトの事務所は、相変わらず質素な、幾分くたびれた白亜のビルであった。
 受付の女性も相変わらず冴えない。美人でもないし、不細工でもない。
「今日は、伺っております」と女性は言った。それでも結局、待合室に座らされることになる。これまた、くたびれたソファーに、テーブル、剥げかけた壁。しかしよく見れば、壁は剥げかけてなどいない。寸前で崩壊を免れている。清潔だった。手入れもされている。この前と何ら変わりはない。この変わらなさが、ディバックにはこの上なく不気味だった。
 だってそうだろう。この先、あの扉の向こう側には、またあの強烈な光の空間が待っているのだ。セトから発している光でもあり、応接間から発している光でもあり、このビルから土地から発しているオーラでもあった。
「お待たせしてすいません」と、今度もセトがひょっこりと顔を出してくるのではないかと思った。だがセトはなかなか現れない。壁にはタレントたちが映った写真が、ないことに気づいた。取り外してしまったのだろうか。所属タレントのすべてが飾られてあったのだが、今は一枚として残されてはいない。これは何を意味するのか。ディバックはますます気味悪く思った。やはりこの前とは違う。今日は向こうも準備をしてきている。俺を迎える体制は万全なのだ。そういうこっちこそ、あの光に対する心構えは、できている。この前とは状況がまったく違う。お互いのフィールドに一度足を踏み入れている。だがこの次はなさそうだった。今日これが、セトと会う最後の機会だと感じていた。もう二度と、地下のフィールドに場所を移しての交渉事を進めることはない。すべては今日で、決着がつく。ディバックはそう思った。
 今日も、自分から動かないと駄目なのだろう。ディバックは意を決し、奥の扉へと向かった。ドアノブは当然のごとく、簡単に回ってしまう。セトはすでに待っているのだ。ドアを開けた。一瞬で、この前との様相の違いを感じた。この網膜には何の強烈な刺激も感じなかった。光の濃度は、この廊下側とほぼ同じだ。しかし騙されはいけない。油断をさせようという魂胆なのだ。光の調節を、自由自在にできるのは向こうの方だった。
 だが、いくら経っても、光は全く強くはならない。網膜にとっては拍子抜けだった。
 そして「お待ちしておりました」という温和で優しい声が、少しも聞こえてはこない。
「セトさん、いるんですか?」
 部屋の中は、電球がついていない。そのことに、ディバックはやっと気づいた。
 すでに陽は暮れてしまっている。窓から光はまったく射してはこない。
「セトさん、どうして、電気を消しているんですか?何も見えません。付けてくださいよ。ディバックです。約束通りに来ましたよ」
 そのとき、ディバックは思いだした。地下から外に出たところで待っていてほしいと、МQRはセトに伝言していた。それなのに、地上には誰もいなかった。そのときは、ディバックは何も思わなかった。セトの事務所の入ったビルに、まっすぐに向かっていってしまった。本当に、何の違和感もなかった。すでにセト側の異変は、あのとき始まっていた。
 暗闇はずっと続いた。
「ちょっと、セトさん!悪戯はやめてくださいよ。はやいところ、話を続けましょう。今日で。決着が付けたいんです」
 だが、言葉は返ってはこない。ディバックは手を伸ばし、扉があるであろう場所をまさぐった。だが何も触れはしない。おかしいなと思ったが、それほど気にはならなかった。
 もう一歩だけ、足を踏み出して、それでドアの在り処を探る。だが、手に触れるものは何もない。この自分が弄ばれているような気がしてくる。人間相手に、こんなおちょくられ方をされたのは、初めてのことだった。
 だんだんと、ディバックは焦ってきていた。まさか、ドアが消えてしまったわけではあるまい。ここに来て交渉を始めるはずだった、その過去の「つもり」を、頼りにしたかったが、それもドアの不在によって冷たい汗となって、頬を垂れてくるだけだった。
 ドアの存在に意識のすべてを集中させていく。前回来たときの部屋の配置を思いだそうとする。だが、あのときは眩しすぎて、輪郭が鮮明に描けなかった。不鮮明なのは、今も前回も同じだった。光と闇が交代しただけであり、実体としては何もなかった。
 ふと、この自分の身体そのものが、発光していることにディバックは気づいた。
 うっすらと、腕の輪郭が辿れるくらいに、ほんのりと光っていた。それは腕だけではなかった。下半身も同じように、足の先までそうなっていた。気づけば、ディバックは、全身が黄色の光と化していた。切り絵のように、自分だけが、この空間にそぐわない、別の世界に通じる穴のようになってしまっていた。しかし、その穴の奥は、光の海だった。
 どれほど、この発行体と化してしまった自分の姿が、続いたことであろう。目の前にはセトがいた。応接室には光が戻っていた。それもあの強烈すぎる最初の光景ではなかった。自分の体はすでに、光ってなどいない。ドアの存在もある。手を伸ばして、触れられることのできる距離にはなかったが、確かに存在している。セトはソファーから立ち上がった。そして、手を差し伸べながら、ディバックに近づいてきた。
「直法棒の話から、始めましょう」とセトは言った。
「その前に、お話があると言ったでしょう」
「なんでしたか」
 セトの姿は、地下室で会った人間そのままだった。
 初対面の神々しさは、どこにもない。
「そうだ。待合室のところに飾ってあった額縁。タレントと映っていた、あなたの写真。どうして外してしまったのですか?」
「外しました。これからのうちは、芸能の業務だけではなくなります。ですので、来客に見える方も、芸能関係以外の人が増えてくることでしょう。ですので、当然、写真は外します。タレントの写真を貼ったままに、あなたと直方棒の話ができますか?」
「僕は、別にかまいませんが」
「私が気になるんです。頭を切り替えたい。今の私は、VAの事務所の人間ではない。少なくとも、あなたと接しているときは」
「写真のことは、もういいです」
「本題に入りますか」
「もちろん」
「直方棒は、すでに、必要なだけの数が、すべてそろっています」
「ちょっと、待ってください」
 セトはいきなり、話の調子を折った。
「なぜ、必要なだけ揃っていると、そう言い切れるんですか?」
「それは、時空の亀裂の箇所を、すでに確認できているからです。それに、亀裂が進行してしまうには、まだ時間がある。直方棒は、その現在の亀裂の二割増しで、すでに、製造過程を終了しています。そういうことです」
「まあいい。百歩譲って、あなたがたが、すべての亀裂を把握しているとしましょう。それで、我々は、どんな業務を遂行すればいいんですか?代行業という形を、とるわけですよね」
「もちろん」
 そう言われたセトは頭を抱えた。またしても、この代行という仕事を自分は担うことになる。結局、代行の業務が増えていくだけで、自ら生み出すという行為には、至ることができない。それでも、この時空のズレに対する不安は、日に日に増していった。その恐怖を埋めるためには、芸能の業務だけでは、明らかに役不足であった。だから、別の仕事をしようと心に決めたのだ。それなのに・・・。
 そして、今回も、自分で全容を把握することができなかった。さらには、その対処法を編み出すこともできず、またしても、他人の力を借りることになった。それなら、やめてしまえばいいと、心の中のもう一人の声は言う。けれども、たとえ代行であったにしろ、これからさらに巨大に育っていくであろう、恐怖のがん細胞に対しては、ここで手を打つ以外にタイミングはない。それに今、こうして偶然なる出会いまである。
「人材はあなたが集めてください。彼らのことは、作業員と呼びます。あなたが責任をもって選んでください。あなたの主な仕事は、それだけですから。あとは我々が、指示を出します。直接作業員に対して。作業員は、直法棒がプールされた場所に集められます。そして、一つ一つ丁寧に取り出して、運搬する業務を担います。我々が、時空のズレ、つまりは、亀裂を感知した場所へと、速やかに運びます。作業員は、その亀裂のある場所の、ちょうど真下の地上のところに、つまりは、地面の上に直方棒を置きます。そして必要とあらば、穴を掘り、地中に埋め込みます」
「埋め込む?どうしてですか?」
「そりゃあ、場所によっては、邪魔になってしまうでしょうから。けっこうな大きさなんです。重さだって相当なものだ。その場所で、現実的に生活している人にとっては、不法に捨てられた粗大ごみよりも、性質が悪いはずだ。しかも夜になれば、紫色に発行するん。気味悪がられます。間違いなく、警察に通報されます」
「じゃあ、埋めない場合なんてほとんどないじゃないか」
「おっしゃる通りです」ディバックは軽薄に笑った。
「それで、どのくらい、その地中に置くのですか?」
「どのくらいって?」
「時間ですよ」
「ははは。傑作だな。時空の亀裂の修復の話をしているのに、またもや、時間がどれだけかかるのかとか、そういう話を?本末転倒じゃないですか?はははは」
 セトは、ディバックを睨んだ。
「そんな、怖い眼をしないでくださいよ。おお、怖い、怖い。殺されそうだ」
「茶化すなよ」
「なんで、また、急に怒り出したんですか」
「だから、茶化すなと言ってるんだ」
「セトさんって、そういう人だったんですか」
「いいから、余計なことは言わずに、さっさと話しを進めろ」
「命令するんですか?それは、筋が違うでしょ」
「いいから」
「わかりました、わかりましたよ。進めますよ。時間のことは、忘れましょう。直方棒は、再び土の中から、取り出す必要はないんですから。もう二度と取り出す必要はない。なぜなら、仕事を終えた直方棒は、この世には存在しなくなるからです」
「溶けるとか?」
「溶けるねぇ。何か。違うよなぁ」
「消えてなくなる」
「そう。どれだけ、土を掘り返したって、そんな物体は何も出てきやしません」
「どういうことですか?土に還元されたんですか?」
「それは、僕にもわかりません。とにかく、埋めたその物体が消えるということは、時空の亀裂が修復されたということですから。消えずにあったとしたら、それはただの、廃棄物ですよ。何も残らないってことはベストじゃないですか。それ以上、追及する必要は、ない」
「まあ、いいや。氷のように、解けたってことでいいよ。発生していた不必要な熱を、氷が吸収して。それで、危害を加えていた熱の存在が消える。同時に自分も、その存在を消す。両方がお互いの存在を相殺する」
「その、たとえいいですね。お互いが存在を相殺するっていう」
 今度は、セトが茶化されたと感じないように、ディバックは細心の注意を払った。
「ふふふふ。この僕たちのようだ」
 ディバックは不敵に笑った。


 ディバックとセトが、二人で何を話しているのか、気になってしかたがなかったが、自分がその場に加わることのできない不満を抱えながらも、МQRは再び、地下の世界へと降りていくしかなかった。
 Fが横たわっていた水槽を見下ろした。
 暗闇からは、僅かに炎の存在が見える。何かが放りこまれるのを待っているかのように、魔の口は開き続けている。こんな気味の悪い穴は、早く塞いでしまいたかった。今はМQRが一人ここに住んでいた。科学者としての輝かしい未来を描き、そして舞という恋人もいたキャンパスライフからは、一変していた。
 МQRは、舞と今話が無性にしたくなっていた。
 彼女の連絡先は知らなかった。VAに電話をしてみた。セトが出た。ディバックはすでに帰ったという。いきなり、舞の連絡先を教えてくれとは言えなかった。仕方なくそのまま電話を切る。
 セトとディバックが共に行動をすることになったとしたら、この自分は必要がなくなるのではないか。今までディバックの手となり足となり、動いてきた自分の存在価値がなくなるのではないか。そんな不安から舞を求めてしまっていた。もう一度、舞とあの頃に戻りたい。人生をやり直したかった。ディバックは自分だけでなく、舞の身体を乗っ取っていた。しかし、ディバックの影響力というのは、近くで執拗に接触していなければ、だんだんと弱まっていくことを、МQRは経験から知っていた。ディバックと頻繁に会って彼とずっと話をしていたり、作業を共にしていたりすると、МQRはディバックとほとんど思考も身体も一体化している。だがこうしてセトのように、別の人間が割って入ってきたり、ずっと長いあいだ、離れ離れの生活をしていると、彼の存在はあまりにも小さく消えてなくなりそうになる。


 作業員は大雨のなか、VA事務所の玄関前に集まっていた。募集をかけ、機械的に面接を繰り返したあとで採用した、二十人の男たちであった。ディバックから指示された通りの人数を集めた。次の招集には、また違う人数になるだろうと、ディバックは言った。セトは言われたとおりに、人を集めてくるだけだった。
 その二十人の男を乗せ、セトは中型のバスを運転した。
 ディバックから指定された倉庫に向かい、カーナビを頼りに移動していた。そのあいだも雨はやまなかった。大雨暴風洪水警報が各地で発令されていた。幸い、VAビルの付近には警報が出てなかった。法定速度よりもさらにスピードを落として、セトは慎重に慎重を重ねて、二十人の男たちを運ぶ。朝のニュースでは、雨の降っていない地域では、車が暴走するという事故が多発していた。ほとんど同時間帯で起こったことであり、それはテロか何かと最初は疑われた。しかし、それは今のところ、はっきりとはしていない。運転手同士の繋がりは見えてこなかった。民家や人の群れに、ブレーキを踏むことなく突進していったのだ。いずれも、運転手は即死で、事情を訊くことはできなかった。
 ニュースは、その車の事故か、大雨の情報のいずれかだった。
 こんなにも偏ったニュースソースが現れる日も珍しかった。こんな日にどうしてわざわざ、外出しなければならないのだろう。セトは家の中から一歩も出たくはなかった。良からぬことが起きる予感に満ち溢れいていた。何事もなく終わるわけがない。しかし、ディバックの命令は絶対だった。ふと、セトは直方棒を設置することと、この雨や、多くの車が暴走した事故とが、何らかの関係性があるのではないかと思った。しかし、それ以上、考えることはやめた。それほどに、強烈な雨に襲われていたのだ。フロントガラスには、大きな雨粒がもの凄い音を立ててぶつかってきていた。視界はほとんど塞がれている。センターラインの存在もまったく見えない。対向車のライトを頼りに進んで行くしかない。カーナビはそれでも、正常に機能している。あと三十分以上も、道を走らせないといけなかった。セトの神経の消耗具合は華々しかった。運転中において、もはやこの状態なのだから、到着したときの疲弊はさぞ物凄いことになるのだろう。だがセトは、作業に加わることはない。作業員がその設置をしていく。セトが現場監督となって、指示をする必要はなかった。ディバックに内容を訊ねた。ディバックは簡潔に答えた。
「作業員は、その直方棒を持って、バスへと戻ってくる。僕が貸す、そのバスだが、後ろ半分には座席がない。そこは荷台になっている。運送業者のトラックのように。それ用に改造した。作業員は、倉庫から直方棒を取り出し、荷台に乗せる。君はまた、車を走らせていく。指定した場所まで、カーナビが誘導してくれることだろう。そこで作業員を降ろす。彼らは、直法棒を持って降りていく。そして置く場所を、君が指示する必要はまったくない。僕が指示することもない。すでに直方棒そのものに、行き先の情報は埋め込まれている。その塊を、作業員は、二人一組で運んでいく。直方棒と直方棒との距離は、それほど離れてはいない。同じ地域だ。それはそうだろう。大きな一つの傷口を修復するんだ。その大元と、周りに広がってしまった小さな傷をも、同時に修復していく。そして、作業が終わった人間から、バスへと戻ってくる。全員が揃ったところで、君は再び、倉庫へと車を走らせる。また別の修復場所へと向かう。それが繰り返される。作業員には、君が日当を支払う。それで、その日は終わりだ。また別の日に、同じように、作業員の募集をかける。そして、同じような一日の流れを繰り返す。すべての作業が終わったときに、僕の方から、君にお金が払われる。それまでは、君が作業員の給料を先払いしてもらう」
 言われたとおりに、作業員をおろし、直方棒が積み込まれていく様子を眺めていた。
 厚い風呂敷に、厳重に梱包された冷蔵庫のような物体が、次々と作業員によって積み込まれていった。セトは再び、車を走らせる。しかし、雨足はさらに強くなっていた。ラジオを付けた。洪水警報はすでに発令されている。このような事態が起こったときのことを、ディバックに訊いてなかった。こんなにもひどい、季節外れの雨風に晒されるとは、思ってもみなかった。しかし逆に、道路には人の姿はほとんどなかった。なので、速度さえ出さなければ、たとえ人に当たってしまったとしても、軽傷ですむはずだ。往来する車の数も激減している。だが事故を起こしてしまえば、直方棒の存在もばれてしまう。説明を求められてしまう。やっかいな事態になる。そのへんのことも、セトはディバックには、何も訊いてなかった。
 初回から、えらいことになってしまったと、セトは疲労の色を隠すことができなかった。
 ふと、今度は、ディバックとМQRがいた地下室のことを思いだしてしまう。あの水槽の下にあった人型の穴のことを。真っ暗な穴の底には、別の世界が広がっていた。地底に潜んだ魔界のような漆黒の暗闇だった。それが今朝のニュースと重なった。次々と暴走していく車は、あの黒い穴の中に自ら突き進んでいく意志の塊のように思えてきた。
 自らその穴へと堕ちていく車たち。巻き沿いをくった人間が、不幸であった。俺は絶対にそんな穴になど向かってはいけない。好奇心からでも覗いてはいけなかった。あの穴は、完全に塞いでおくべきだった。
 セトはいろんな飛来してくる複数のイメージを拒絶しないことで、逆に、この大雨による視界に対しての恐怖心を取り除いていた。疲弊していく神経に、気合を入れていた。今日が世間では大型連休であることを思いだしていた。各地でイベントがたくさん開かれる予定だった。昨夜のニュースでは、そう報じていた。しかし、夜が明けた翌日には、予想外の大雨に襲われ、無慈悲な事故が連なることになってしまった。小さな子供たちが、イベントに参加している様子を映した過去のニュースソースを、セトは思い出した。
 しかし楽しかったと、感想を述べた子供たちの顔の多くは、少しも楽しそうには見えなかった。


 直法棒がどのように作られたのかを、ディバックは詳しく説明しようとはしなかった。
 しかしそのことだけはセトが妙に食い下がったために、ディバックは重い口をほんの少しだけ開くことになった。
「放射能だよ」彼は一言だけ言った。
 まるで、その言葉で引き下がってくれと言わんばかりに。
 だがディバックは、その後に補足を加え始めた。
「ただし害はまったくないからな。そこだけは、けっして履き違えるな。確かに単体で見てしまえば非常に危ない。それは間違いない。今度のように、時空の裂け目に置くからこそ、放射能の負の部分が、巻き散らかされることはないんだ。これが何ともない時空に置いてみろ。それこそ、原子力爆弾と一緒だ」
「ちょっと待ってくださいよ」セトは言った。
「まさか、そんな危険な物資だとは、知りませんでした。何の知識もない僕が、運んでしまって、大丈夫なんですか?」
「なんだ?運ぶのは、君ではないよ。作業員だよ。君は車の運転だけ。作業員の運搬だけだ」
「同じことですよ」
「違うね。君は、直に、触れることはしない。大きな違いだ。直方棒自体は、すでに、放射性物質が出ているわけではないんだから。凝縮して、外界からは、最も遠い部分に封じ込まれている。つまりは、本来、直方棒はあれほどの体積は、必要ないわけだ。人間が運ぶという前提がなければ。しかし現実には、人間の手が必要だ。なので、外側を厚く覆う必要がある。結果、あのような風貌になった。何だって、同じことだ。外側からは、一番遠い部分に、物質というのは、その本質を宿らせることができる。つまりは、直接触れたとしても、大丈夫なような設計がされている。しかも、君は、触れる機会がまったくない。安全この上ない」
「作業員の安全が、確保されていない」とセトは反論した。
「安全は、確保されているさ」
「あなたがそう言ってるだけです。現実的に、被害が出たときに、あなたがその保障をしてくれるんですか?それとも、保険会社に加入するとでも?」
「ははは。君はいつも、冗談を言うね。それもあまりおもしろくない・・・。まあ、いい。俺が保障してやる。その前に安全だということも、保証してやる」
「それは、わかりました。それで、もう一つだけ。時空の裂け目に置いた直方棒が、その裂け目に、効果的に働くとしますよね。もちろん、僕は、何一つ、その原理はわかりませんが。あなたのお持ちの、その理論においては」
「君の訊きたいことは、全部わかっているよ。結局、その放射能は、この地上にまき散らされるのかどうか。それだけだろ?最後に残っている最大にして、痛烈な不安は。大丈夫。毒はけっして残らない。毒に対して毒をぶつけるんだ。毒によって汚された穴に、別の毒を補填して塗りこんでいく。プラスマイナスはゼロだ。綺麗になくなる。どちらも自然の循環の中の構成物として戻っていく」
 作業員が次々と、厚い風呂敷に包まれた直方棒を、二人一組で運んでいく様子を、セトはバックミラーで眺めていた。最後の二人が出ていくときには、自ら後ろを振り返った。彼らは一言もしゃべらず、黙々と作業をこなしていた。こうして、バスに一人取り残されることに不安を覚えたセトは、最後の二人に対して、思わず声をかけそうになってしまった。
 けれど、セトは自粛した。余計なちょっかいを出して、直方棒を落とされたりしたら、たまったものではない。セトは、この自分の内部に宿る心配や不安を、溜めておくことができなかった。たったの一晩も、持っていることができなかった。はやく意識の中から外に吐き出してしまいたかった。内部で浄化させるのではなく、捨ててしまいたかった。誰かに手渡してしまうか。そのへんに、置き去りにしてしまうか。その性向は、いつも繰り返された。
 しかし、その捨ててしまったものも、この自然の中には残り続ける。地上には存在し続ける。雨はさらに強くなっていた。あまりに強くなっていたために、セトにとってはもう、どうでもよくなっていた。限度が超えてしまえば、今度はたいして気にもならなくなる。それはほとんど雨ですらなかった。視界はまったく開けず、雨粒を見ることさえ、不可能になる。風の向きは支離滅裂になり、複合的な混乱を重層的に積んでいっている。
 そんな外の様子を見ているうちに、セトには世界が真っ白に見えてきた。
 一面が霧で覆われた世界のように見えてきた。そして、その中で発光する紫の物体、直方棒・・・。置いた場所がよく見えた。その紫の光は、次第に縦へと伸びてゆき、稲妻のような亀裂を現した。これが、時空の裂け目かと、セトは凝視した。幾本にもわたって地上から伸びた稲妻が、存在していた。稲妻同士はそれほど離れることなく、ときおり交差をしながら、白い霧の中で浮き上がっていた。
 雨はいつのまにか上がっていた。
 フロントガラスから見える外の景色には、豪雨の様子はまったく見られなかった。晴れ間こそ出てなかったが、空には灰色の雲があり、目の前の道路には、行き交う車の存在があった。フロントガラスには、作業員の姿がある。振り返ると、全席が埋まっている。セトは慌ててエンジンをかけた。カーナビで倉庫の住所を入力した。しかし反応はない。そうか。今日の作業は終了したのだ。VAのビルへと戻ろう。住所の入力を変更した。すると、カーナビは、正常に作動し始めた。
 作業員とは一言も話すことなく、セトは車を走らせた。
 事務所の前につくと、セトはディバックに言われたとおりに、彼ら一人一人に日当を手渡した。そしてその場は解散となった。


「おい、例の文書は見つかったか」
 男の声が、静まり返った廃墟の街に響き渡る。
 瓦礫を掻き分ける音が、再び聞こえてくる。
「ありません、どこにも」
「そんなはずはない。彼らは、この街のどこかに埋め込んだんだ。いつか世界が光を取り戻すその時に、道標となる地図のようなものを。必ずどこかに残していったはずだ」
 リーダーの男の声は鳴り響いた。しかし返答は、どこからも返ってはこない。
 瓦礫を移動する作業をしている人間は、黙々と作業を繰り返した。
「わかった。とりあえずは、捜索は打ち切る。死体や汚物の撤去に、主軸を移そう」
 リーダーは指示を出した。
「文書の発掘は、一時中断をする」
 作業をする男たちは、リーダーの元に集まってきた。
「いいか。この先に、セノーテと呼ばれる湖がある。今は暗くて、水位がどのくらいあるのかは見えないだろう。相当低くなっていることは考えられる。したがって、大きな穴のように見える。気をつけてほしい。万一にでも足をすべらせて、落ちてしまってはいけない。水位が低くなっているから、その深さは計りしれない。二度と浮かび上がってくることはできないから。しかし、死体や汚物を処理するには、絶好の場所でもある。腐敗したものすべてを、その穴に向かって放り投げてしまっていい。セノーテは一つではない。そして、セノーテは地下で繋がっている。この街の住人は、生活に必要な水、つまりは、地下水をここからくみ上げていた。しかし、水はいつしか枯れて、干上がってしまった。今の水位は、驚くほど低いはずだ。街が崩れ去り、多くの生命が途絶えてしまっている現在、我々は、そのセノーテを廃棄場として使うことにする。その地下の世界に通じる入り口から、この地上の汚物をすべて、投げ捨ててしまっていい。すべての作業が終わったときに、その複数の穴は、歴史的な役目を終え、そして蓋で封じられ、二度とこの世との繋がりを取り戻すことはない。我々の手で清算するべきだ。もしかすると、その過程で、神官たちが最後に隠したであろう文書が見つかるかもしれない。とにかく、手分けをして、この地上の死体を清算しよう」
 リーダーの男の指示に従い、作業する男たちは、ジープのような専用車に乗って、一斉に散らばっていった。彼らは、荷台に死体や汚物を速やかに乗せ、かつては生活に直結していたであろう、泉のあった場所へと、移動させていいった。そして、次々と放り投げていった。
 初めは、足の踏み場もないくらいに散らばっていた瓦礫を、荷台に乗せ、同じように泉の中へと放り投げていった。だんだんと、軍用車は、平らな道を走らせることができるようになっていく。車の動きは、さらに活発になっていった。
 男たちは、軍隊の一部であった。隊長であるリーダーの指示は絶対であり、彼らは遠隔攻撃した戦闘地に、壊滅させたその後で、乗り込んでいった。
 今や、近距離での戦闘が、行われることはなかった。戦争はすべて、コンピューターで制御された機械同士のクラウド戦が主軸となり、そこに敗れた側が、現実的な血を、一方的に流すということになった。
 一つの街は、こうして遠隔攻撃によって、壊滅に追い込まれた。
 軍人はそのあとで、悠然と戦地へと乗り込んでいく。そして、戦後の処理活動に当たる。死体と汚物を処理し、戦利品と秘密の文書の存在を見つけ、持ち帰る。あらたに街を再構築させ、あらたな住民を送りこむことは、稀であった。今のところ、そのような行動はなされてはいない。
 何も、土地が欲しい側とそれを守る側という対立の中で、戦争が起こるわけではない。
 死体と汚物の処理をせずに文書が見つかれば、この上なく好都合だった。
 現実的にはやはり、戦後の処理から始めることになる。隊長はため息をついた。
 これなら、文書の存在よりも街を浄化し、綺麗に整備することこそが、自分たちの最大の目的のような気がしてくる。
 作業は徹夜で行われ、四日間の通しで行われた。途中で切り上げることはしなかった。
 そうしたいと願う軍人の姿もなかった。中途半端に切り上げてしまえば、彼らは再びこの場所に戻る気持ちが失われてしまう。二度と戻りたくはない。肉体と精神に異常な負荷を一時的にかけてしまっても、それでも、一度の行為で、それを終わらせたかった。作業を切り上げ、何回にも渡ってしまうような細分化させた仕事を、断続的にすることこそが、地獄であった。一気に集中させ、凝縮させて、エネルギーのすべてを投入することで、それは劇的な速さで、終了させることができる。
 軍人たちは、一時的に深いダメージを受けることになるが、その後の回復は、半端のない勢いで加速していく。
 ある者は、作業前よりも精力が増していることもあった。当然、作業後に、体調がすぐれなくなる軍人もいた。医者による診察を受け、リハビリプログラムを組むことになる軍人もいた。しかし、全体の中での割合としては、それほど多くはなく、致命傷になることもなかった。ゆっくりと時間をかけて、回復していくのだった。
「それでは、引き上げることにしよう。君たちはゆっくりと休んでくれたまえ。あとは、僕が一人で請け負うから。文書の存在を、時間をかけて探す。ご苦労様。それでは、次の戦場でまた会おう。解散」
 隊長の号令によって、軍人は解散した。彼らはジープ乗って街を出ていった。
 いまだ、血生臭い匂いと、焼け焦げた臭いの混ざり合った空気ではあった。
 だがそれも、徐々に薄らいでいった。一週間が過ぎると、だいぶん過ごしやすくなった。
 もちろん、嗅覚が慣れてきていることもある。けれども二週間が過ぎるころには、地面からは、草までが生え始めていた。植物がじょじょに生命力を擡げ始めていた。
 あとは、この自分の仕事だと、隊長の男は呟く。
 すでに、軍人を率いる隊長ではなく、ただの男になっていた。
 遺跡を散策し、重要な機密を暴き出す考古学者のようになっていた。


 廃墟となった街には、当然のごとく、探し求めている文書は残ってなかった。紙切れであるのなら、とっくに燃えて灰になってしまっている。
 それでも地下深くに、その文書はまとめて置かれているのではないかと、隊長は思った。
 けれど、地下に下がっていくということは、危険極まりなかった。セノーテの存在があった。あやまって、穴の方に身を投げてしまえば、二度と地上には浮かんでくることはない。ふと、隊長は思った。もし、この世界にいた神官たちが機密の文書を隠すとしたら、その地獄の穴の、すぐ近くではないだろうか。自分ならそうする。でもそこに隠すとしたら、いずれ、戦闘の時が過ぎ去り、戻ってきて取り出そうとしたときに、この身が危険にさらされるということになる。
 男は文書を探すのをあきらめた。
 それ以外の方法で、機密を隠す方法をとったと、そう仮定するしかなかった。
 石や岩を彫って、情報を刻み込んだということはないだろうか。しかし、石も瓦礫と化していた。すでに、セノーテの中に葬ってしまっている。
 その機密事項を奪い取るために、こうして一斉に戦闘をしかけ、勝利を収めたのだ。軍人は退場し、最後にはこの自分が残る。この街のどこかに、刻みこんだはずなのだ。暦に従って、街の形態が変わっていくシステムを内臓した、新しい都市づくり。その研究に関する成果だった。まだ一度も、試してないことはわかっている。
 もし、この国がそれを実行に移してしまえば、無敵の要塞を誇る、唯一の超大国が確立されるのは確実だった。そうなれば、おそらく、この国は地上の神として、他のすべての国を実行支配することに成功する。幸い、今の状態では、軍事的に非力な国家である。
 我が国王は壊滅を指示した。軍部がその任務を担った。
 我が国王としては、そのあるとされた、機密文書を手に入れることは、二の次であった。
 脅威な国家が誕生するのを防げれば、それでとりあえずはよかった。だが、軍部のリー
ダーである男にとっては、この文書を手に入れることこそが、何よりも大事なことだった。
 そこに書かれた未来の地図が手に入れば、それを元に、国を作りかえることができる。
 当然、その国の王となるのは自分だ。
 しかし、文書だけでなく、情報はどこにも刻まれてはいなかった。
 灰になっているわけがない。神官たちは、都が燃やされる危険性を常に意識していたはずだ。他国からだけでなく、自国の内部からも、奸計を図ろうとしている勢力が、無数にあることを知っている。もし、都そのものが炎上したとしても、確実に残す方法を実践していたはずだ。
 歩き疲れた男の背後に、そのとき、大きな影が迫っていた。男は初めて、一人きりで廃墟と化したこの街にいることに、恐怖を覚えた。
 今や、死体や汚物はすべて片付けていたが、それでもほんの少し前までは、焦げた死の臭いが充満していた。その巨大な影が、急にそのことを思いださせた。臭いまでもが再び漂ってきたように感じた。
 男は、セノーテの存在に注意しながら、影から逃れようと早歩きをしていった。
 しかし、影は、男を確実に覆うようについてきた。そして、その影は、言葉を発したのである。
「お探しものは、何ですか」
 巨大な影以外に、人の姿はない。
「お探しものは」
 男は辺りを見回した。
「お探し物は」
「ええぃ。探し物だと?文書だよ!機密情報の書かれた。知っているのなら、さっさと出したらどうだ?」
 姿の見えない人の声に向かって、男は大声を張り上げた。
 そうでもしないと、不安で落ち潰されてしまいそうだった。
 軍人の何人かでも、残しておくべきだった。今はなき、瓦礫の下からうめき声をあげながら、人間が生きかえってきているかのようだった。
「あなたのお探し物は、こちらです」
 影はしゃべり続けた。
 すると、ふと、その影は急に紫色に光った。
 手で握れるくらいの大きさの紫色の塊が、いくつも光始めていた。
「あなたのお探し物です。これです。どうぞ受けとってください。さあ、一か所に集めて。焦げた街から、唯一とれる鉱物です。あなたが持っていけるものは、ただこれだけです。これが戦利品なのです。遠慮なく受け取って。さあ。そうです。勇気を持って。手で触れてみて。一か所に、集めてみましょう。街中のいたるところで、この鉱物は、光を出します。そのすべてを、拾って集めるのです」
 男はその影の言うことが信じられなかった。何かの罠だとしか思えなかった。
 老齢の神官が、攻撃される前に立ち去るときに、いずれ入場してくる敵に対して張った、罠だとしか思えなかった。
 男は身動き一つとらなかった。影も動かなかった。男は影を無視し、紫色に発光する鉱物を見つめた。もしかしたら、影がしゃべりかけたのではないのかもしれない。鉱物の方が、直接メッセージを送ってきたのかもしれない。男はじっと、発行体に耳を傾けた。ブーンという震動音が聞こえた。この鉱物はかなり激しく、揺れているのかもしれない。触れるなんてとんでもなかった。あっというまに、この肉は切り刻まれてしまう。
 やはり罠なんだ。最後の抵抗なんだと、男は思った。ということは。ということは・・・、この鉱物が機密の文書に繋がる、重要な入り口に違いなかった。罠のあるところに、答えはあった。しばらく男は、身動きをとらなかった。意識を廃墟の街に、完全に集中させていった。街は、この俺に何かをさせたがっている。きっとそうだ。そう思った。街自体が意志を持っていて、そしてその協力者を、今必要としている。もし受け入れれば、それと交換に、あなたが探しているものの一端を、提示してあげてもいい。
 本当に?と男は心の中で呟いた。これは交換条件なのだろうか。
 しかし、お互いにとって、何ら不都合は生じない。男は心をさらに鎮めていった。
 すると、自分が機密文書を見つけることで、新しい国の王となろうとしていることが、ひどく馬鹿げたことであることに思い当った。新しい都市国家の創造はしたかった。それは正直な気持ちだった。けれども、自分が王になることはなかった。王など存在しなくていいのだ。その新しい都市国家の機能そのものが、王と同義になる。とんだ思い違いをしていた。暦に連動して、姿かたちを変える都市形態、機能そのものが神であり、王なのだ。それは、構造にすべてが組み込まれていて、内在しているものだ。そこに住む、人間であるならば、身も心もすでに王と同義だ。住民のすべてが。
 男は、素手で発光する鉱物を集め始めた。
 躊躇していても仕方がなかった。男はその後も、軍人としての活動を、生涯に渡って続けた。リーダーとして、すでに戦闘の終わった戦地へと乗り込み、死体と汚物にまみれた街の片付けをした後で、一人廃墟に残った。自分よりも、大きな影が現れ、紫の発光体が複数あらわれる。
 男は一人で、その鉱物を拾った。そして、一か所に集めていった。いつだって彼は、その後で、街の外に持ち出すことはなかった。
 すでに、一か所に集めたその鉱物は、重みが半端ではないくらいに増加していた。
 見た目には拡大している様子はなかったから、質量だけが増えていたのだろう。
 とても両腕で抱え持つことのできるものではなかった。
 男は自分が何のために集めているのかわからなかったが、それでも、その仕事との交換条件が提示されることを信じて、集め続けた。
 だが男は、その後、両手に異常を感じるようになった。爛れ始めていることに、気がついた。何かに触れただけで、痛みを感じるようになった。ものを持ち上げることができなくなった。日常生活にも支障が出始めた。隊長としての任務は、何の不都合もなかったために、廃墟の街には一人佇み続けた。不思議と、紫に発光する鉱物を拾い上げたときには、痛みは何も感じず、爛れていたはずの手の平も、何故かそのときは、治癒していた。男の肉体は、手から腕へと爛れ始め、首回りへと広がっていった。火傷の跡のように。さらには、胸から腹へと広がり、ついには下半身を侵食していくことになった。顔や頭には、移っていかなかった。
 男は、一年後、頭部だけが無傷なままに、首から下は、完全に焼けただれてしまっていた。そして死亡が確認された。


「確かに、シカンとは別に、私には好きな男がいるわよ」と万理は告白した。
「シカンに対する気持ちとは、まるで違う。彼とは、友達の延長線のような関係よ。気が合うの。それに、とてもリラックスできるの。でも、その別の男に対しては、まったく違った感情を抱く。井崎という男。あなたは知らないだろうけど。けれど、その男には、連れ合いがいる。まだ、結婚はしていないようだけど、いずれ時間の問題だと思う。でも、私にとっては、そんなこととは関係ないの。どうでもいいことなの。私が抱いている井崎への想いは、変わることはない」
「それって、本当に好きなのかしら。私には、シカンさんとの方が、お似合いだと思うけど」
 万理の深刻になっていく表情を和らげるために、舞はわざと軽い口調で言った。
「普通に考えれば」万理は舞の調子を遮った。「このまま、井崎とその彼女が結婚したら、私はどんな存在になるのかしら。あの二人を引き裂こうと、さらに近づいていくのかしら。井崎に?それとも、その奥さんに?そうよ。奥さんと仲良くなればいいじゃない」
「やめなよ、万理」と舞は言った。
「それなら、それでいいわ。早く結婚してもらいたい」
「もう、よしなって。あなたは変よ」
「舞に、何がわかるっていうのよ」
「あなたが、正常か、そうではないかくらいは、分かるわ。あなたにはそういう所があるでしょ。極端に走る傾向がある。確かにあなたのそういう部分が、映画を製作するという分野においては、いい方向に作用した。けれど、実生活にそれを持ち込んでは駄目。私は友達として忠告する。あなたは井崎さんって人のことを、好きになっているわけではない。何かの勘違いよ。そういうふうに、仕向けられているのよ、きっと。その井崎って男に。井崎って男は、万理を弄ぼうとしているのよ。都合のいい女にしようとしているのよ。じゃなかったら、彼女とはさっさと別れて、万理一人と付き合はずじゃない」
 万理は、はっと目が醒めたかのように、温和な顔になった。
「そうよ!」と万理は言った。「何を言ってるの?舞ちゃん!井崎さんと私が付き合ってるって、誰が言ったのよ?井崎さんが私を弄んでる?井崎さんはね、私からの誘惑をきっぱりと撥ねつけたの。私はフラれたの!私の一方的な想いなの!報われることのない片思いなの」
 舞は、万理の興奮していく様子を、見てられなかった。
「そうじゃないわ」と舞は言った。「それが、井崎の魂胆なのよ。あなたをより、自分に引き寄せるための策略なの。あなたの想いは巧妙に操られている。しっかりしなさい、万理!あなたが好きなのは、シカンさんなのよ!そして、シカンさんもきっと、あなたのことが好き。前から、私はそう思っていた。嫉妬していたの。私はシカンさんのことを諦めたの。あなたに譲ったの」
「譲った?いい迷惑ね。私が本当に心を奪われているのは、井崎なんだから」
「それよ。万理。あなたはただ、心を奪われているだけなのよ」
 それにしても、どうしてその井崎という男が万理にまとわりついてくるのだろう。
 どんな意図をもって、何故万理のことが必要なのだろう。舞はここでふと、自分の音楽のことを思いかえしていた。何故自分は突然音楽の道に進んでしまったのか。音楽の才能があると自覚したことはなかったし、特別な訓練を受けてきたわけでもない。女優やタレントとして行き詰まりを感じ、女子大生であった自分に対しても、浮ついた気持ちであり続けた。どっちつかずのままに、進路に関して喘いでいた、そんな時期だった。同じスタート地点にいた万理が、大きく羽ばたいていくのを見守った。とりあえず私は、大学に戻ることにした。そこでしばらく、腰を落ち着けることにした。そのときだった。そのときから、何かが変わってしまったのだ。音楽家への道へと、急変してしまったのだ。大学は放棄することになる。女優やタレントとしての道も、放棄することになる。音楽家として作曲活動に専念し、そのあとで、その音源を持ってVAの事務所を訪ねた。社長に直談判し、所属することになった。音源のレコーディングにも入った。いろいろな工程を経て、作業を繰り返し、今、万理と再会して、男の話でぶつかりあっている。
 まるで、自分の心が今やっと、取り戻せたかのようだった。人のことを言える、立場でなかった。私自身が今まで自分の心をどこかにやってしまっていたのだ。付き合っている男がいた。大学の同級の男子だった。そのとき私はシカンに恋をしていたから、その男のことはほとんどなおざりになっていた。しかし、付き合いは途切れてはいなかった。シカン監督との恋は、成就する可能性はなかったから、そのまま彼氏との付き合いは続けた。その男は今はいない。いつどこでどのように別れたのか。あの男には唯一、芸能界と大学の両方が行き詰ってしまったことを打ち明けていた。それで彼はどんな反応をしたのか。何を言ってくれたのか。
 あの男は、私の中の何かをいじったのではないか。体はいつもいじられていた。肉体的にはすべて晒していた。彼に好きなように触らせていた。そのとき彼は、何かもっと深い場所にまで手を突っ込み、私の中の何かの配線を、変えようとしていたのではないか。そんなことを今まで考えたことなどなかった。しかし、万理と話していて、万理に軽い説教のようなことを繰り返しているうちに、それはまるで、自分に対して言っているかのように聞こえてきた。あなたは弄ばれているだけなの。そっくりとそのまま、言葉は自分に返ってきた。
「ねえ、聞いてるの?」
 舞は、万理が話しかけていることに、ずっと気がつかなかった。
「あなたの言ってることは、一理あると思ったの」
 万理は急に、健気な表情を浮かべていた。
「あなたに言われて・・・、私には反省するところがあるようね」
 舞は面食らってしまった。
「いや、そんな、そういうつもりで言ったんじゃ・・・」
「ありがとう」
「えっ?」
「あなたが居てくれて助かった。私ってそういう所があるのよね。思い込んだら見境なしに突っ込んでいってしまう。よくないわ。もっと一歩ひいて冷静に見極めて、そういうことをしないと・・・」
「そんなことはないわ!」舞は全力で否定していた。
「どうしたのよ、今度は」
「そんなことはない。あなたが見境がないとは、少しも思わない。あなたの本能は、いつだって正しい。物事の本質を、ずいぶんと早い段階で、誰よりも適格に掴んでいる。あなたの意識が思っているよりも、深く。そして正確に。ただ、あなたを含めて、周りの誰もがその本質には気づいていない。しばらく経ってみてから、あなたが初めに主張したことや、行動したことが、とても重要であったことを理解してくる。結果的に物事が変化してくるから。あなたの言ったことや、起こしたことに、この現実の方が、姿形を変えてくるから。誰の眼にも、明確になってくるのだから。ごめんね。そういうことが、全然わからなくて。私って全然駄目ね。あなたは間違ってはない。その井崎って男に対する気持ちも、おそらくは真実よ。あなたが感じたことは、私にはまるでわからないけど、それでも、私は、あなたの感性を信用する。井崎って人は、きっと万理にとっては、この上なく大事な人で、あなたのこれからの人生に、絶大な意味を持ってくる。影響力を及ぼしてくる。そう思う」
 今度は、舞が熱を帯びてきてしまった。
 その高揚感は、しばらく消えることはなかった。万理の表情は緩んだ。
 しかしそのあとで、一気に深刻さを増していった。目の力が半端ないくらいに強くなっていた。その眼はすでに、目の前の舞のことなど見てなかった。
 舞を突き抜けた世界の深淵を見ていた。
「私、思うの」不敵に笑いながら万理は言った。「もうすぐ、転機が来るって」
「転機?転機って?誰の?あなたの?私の?」
「わからない。私だけかもしれないし、そうじゃないかもしれないし。それでも来る。私の性向はそこで変わる。いや、私の性向が変わるからこそ、世界が変わるのかもしれないけど。どっちが先で後なのかはわからない。世界が変わってきているから、私は変わり始めているのかもしれない。とにかく、自分の意志と、あらかじめ決められているかもしれない事柄が、一致し始めている。重なり始めている。そういうこと。私にはわかる。私の中の人格が変わり始めている」
「それはいいことなの?」
「どうでしょう。いいことだとか、悪いことだとか、そんなのは関係ないんじゃないの?ただ、それは変わるものなの。何かが私の元にやってきて、それまで私に宿っていた何かを追い出して、それで、その空白にピタリと嵌る。申し合わせたように。一瞬で認識は変わり、世界は大きく変わる」
「万理、何の話をしているのか、まるでわからないわ」
「そうでしょうね。あなたに理解してもらいたくて、話しているわけじゃないんだから。でも続けさせて。たぶん、あなたが相手だから、こうやって饒舌になるんだと思う。他の誰が来ても、私の心は閉じたまま。私は感じているの。何かがやってきて、私の中のそれまでの何かを、体の外へと放り出す。前にも同じようなことがあった。おそらく、その入れ替えが起こったあとで、私は突然CМのモデルに抜擢されたんだと思う。その流れはさらに加速していって、映画の監督までやるようになった。それは全部、私の中では同じ時代に起きた出来事なの。そして時代は変わる。私は別人になる。本当のことを言うとね、私、あなたとCМで共演するようになってからは、その前の出来事が、よく思いだせないの。おぼろげには、浮かんでくる。でもそれ以上は、無理。細かな記憶なんて、完全に消滅している。鮮明に蘇らせようとしても、駄目。頭がいたくなってくる。パチッと、神経の一部が切れたような音がする。あのCМに起用される少し前からは、やっぱり何かが近づいてきていると感じていた。今ほどでは、なかったにしろ。また繰り返される」
「ねえ、万理」今度は舞の顔つきが、真剣になった。
「私、あのCМのあとで、全然、仕事が入ってこなかったじゃない?CМは大評判になったのに、私という個人には、まったスポットライトが当たらなかった。それまでも、スーパーのチラシだったり、地方のPR誌だったりには、起用された。小さな仕事はたくさん来ていたのに、それがピタリと止まってしまった。そのとき私は、あなたとは連絡が取りたくなかった。あなたと私の情況は、まったくかけ離れていった。会って何の話ができると思う?芸能界は私には向かない場所だと、感じてきた。それまではきっと、十代特有の発達途上の、過渡期にあるエネルギーみたいなものに対して、多少の需要があったのかもしれない。でも二十代になり、私は少女時代の匿名的な力を、使うことはできなくなった。そのきっかけが、あのCМだったんだと思う。私とあなたは、同じ舞台に立っていながら、まったく異なる儀式をしていたの。そう、あれは、儀式だった。それぞれにとっての。私は大学に戻った。でも、その大学さえもが、今までのように無邪気には迎えてくれなかった。私の中の何かが、決定的に変わってしまった。そう言われてみれば、万理。私も同じなのよ。それまでの私のことを、よく思い出すことができない。そして思いだせないといえば、その行き詰った時期から、どんな道のりを辿って、今のVA所属までこぎつけたのか。それがほとんど思いだせない・・・。誰かが深く関わったのは確かなんだけど。だいたい推測することはできるんだけど・・・。肝心なことがすっぽりと抜け落ちてる。あなたの話とは、ちょっと違うかもしれないけど。あなたは変わる瞬間を、克明に記憶していると思うから」
「そんな記憶なんて、忘れてしまったほうがマシよ」と万理は言った。「何の役にも立たない」
「あなたは、それでいい」と舞は言った。「私は違う。あなたには意志の力がある。ここだけは譲れないという、芯のようなものが。だから、あなたの人生には、骨格が伴っている。でも私は違う。その芯がごっそりと抜け落ちている。その部分には、私でない別の何かが私に入り込んでいる。わかる?わからないわよね。あなたにはわからないわよ!」
 万理は黙って聞いていた。
「あなたは、井崎さんに操られているんじゃないかって、さっきそう言ったでしょ?あれは、つまりは、あなたへの当てつけなの。あなたは決して、誰かにその肉体を乗っ取られることはない。乗っ取られているのは、この私なのよ。全部、私自身の話なのよ。そのとき付き合っていた男とは、あなたも会ったことがあるわよね。あの男が、まずは、私の体の開閉機能を見つけた。そこに自由に出入りすることに成功した。そういう回路を構築した。あの男は、化学に心を奪われていた。何か特別な研究をしていたみたい。その理論を何かで実践したがっていた。でもまさか、そうよね。人間が相手ではないわよね。ところが、今になってみると、あの男がそもそもの始まりだったような気がする。彼は私の体を使って、研究の成果を試した。未来に行き詰っていたときに、私はあの男の元を、頻繁に訪れ、ものすごい頻度で体を預けていた。ほとんど預けっぱなしだった。彼はそれをいいことに、私の肉体を弄んだ。そして、何かを埋め込んだ。細胞の中に。あるいは、遺伝子に関連したことかもしれない。それを考えると、今も恐ろしくなる。そのいじった本人は、すでに私の側にはいない。どこかに行ってしまった。あの男は、勝手に大学をやめて、姿を消してしまった。私もすでに、大学にいる意味を見いだせなくなっていた。何故か音楽家をめざし、作曲活動へと没頭していった。さらに不思議なことに、VAへの所属が決まったそのあとで、レコーディングのためにスタジオを紹介された。そこがまた、よくわからない研究施設のような場所だったんだけど・・・。スーパーコンピューターのようなものがあったり、МRIのようなものがあったりした。VAの社長さんは、私の作ったデモテープを、あらかじめそこに送っていて、私が行ったときには、すでにマスタリングが終わっていて、マスターテープができあがっていた。私は完成された音源を聞いた。信じられないくらいに、素敵な音楽だった。まだどういう形で発表するのかは決まってないけど、とにかく、音楽家として再スタートすることが決まった。
 でもよ、万理。あなたとは、決定的に違う。
 あなたは自分で作るものは、すべて把握してるでしょ?できあがった作品は、絶対に自分が創造したものだと、そう言い切れる自信があるでしょ?私は違うの。本当に、自分の中から出てきたものなのかどうか。もしそれが信用できなかったとしたら、この私自身に対して、いったい何を信じたらいいのかがわからなくなる。不信の芽が生えてきてしまう。そして、時間の経過と共に、その芽は大きく育っていってしまう。大きくなればなるほどに、私は私自身に対しての信用性を、失っていく。世界は信用に足るものではなくなっていく。あなたのように、映画の撮影を重ねていくにつれて、自覚と自信が増していくような状況には絶対にならない。ねえ、万理。私はね、このまま、どこにも辿りつかない方が、いいんじゃないかと思うの。第一どこにも行けないと思う。この私自身としては。どこかに行けたして、何かを達成できたとして、素晴らしい生活が約束されたとしても、それは、私以外の別の生命体が、この私の身体を利用して成し遂げたことなのよ、きっと。その成果を自信を持って携え、表舞台に立てると思うかしら?」
「もう、終わりの映画は、すでに決まってるのよ」
 万理は、自分の寿命がすでに近いことを悟っているかのような口調で話始めた。
「その映画を撮り終えた時点で、私は私の映画監督としてのキャリアを終える。舞ちゃんと共演した映画から続いた一つの生は、そこで終了する。始まりは突然だったけど、終わりの刻は、はっきりと自覚している。穏やかな気持ちで、その時が迎えられたらいい。そう思ってる。舞ちゃん。あなたは私のいなくなった世界で、きっと活躍する。VAをよろしくね。私が引き継いできた何かを、今度はあなたが引き継いでいくと思うから」
「いなくなるって、そんな・・・。引退するの?」
「引退じゃないわ。私という存在がなくなるのよ」
「どういう意味よ・・・」
「消えてなくなるのよ。でも映画は残る。そうあってほしい。せめて私が存在していたという証は欲しい。私ではなくなってしまっても。思っていたよりも短い人生だったから」
「やめてよ、万理。悲観的になってるの?」
「そんなふうに見える?」
 万理の顔は、この上なく穏やかに見えた。
「誰にも変えられないことはあるのよ。私は生き続ける。でもそれは、あなたと同じ世界ではないと思う。こんなにも短い付き合いだと知っていたら、もっと一緒に遊んでおくべきだった。わたし、女の友達っていないのよ」
「映画を撮るのをやめて、女優であることもやめて、それで何になるのよ」
「だいたいのところはね、わかってるのよ」と万理は答えた。「だいたいのところは」
 舞は何度も、その意味を咀嚼しようとしたが、まったく理解が及ばなかった。


 舞は、世界が二重に見えることがあった。その話を万理相手にすることはなかった。音楽家として再出発をすることに決めたとき、自分の内側で起こっていたことは、今も闇に包まれてたままだったが、それよりもずっと前、舞は付き合っていた男性を変えたときと、大学に進学したときのことは鮮明だった。二つの世界は同居し、二重になっていたのだ。
 本当にあのときは、どうしたらよかったのだろう。あの18の年に、舞は、早々と専門学校への進学を学校推薦で決めていた。声楽を学ぶための学校だった。夏が過ぎ、受験勉強に必死になっている同級生を横目に、舞は専門学校に進学することに、何の迷いも抱いてなかった。しかし秋が過ぎた頃、舞は突然、大学に進学したいと思うようになった。たまたま大学の文化祭なるものに参加したのがきっかけだった。舞は専門学校に進学することで、自分の未来に対する可能性がほんの少しだけ狭く、小さくなっていくことを自覚した。それはどうしてもやりたいことではなかったし、持てるエネルギーのすべてを投入するほどの、覚悟もなかった。それならここは、一時的に保留し、よりタイプの異なる人間が全国から多く集まってくるであろう場所を、素直に選びたいと思った。舞は密かに、受験勉強を始めた。親も教師も、誰もそのことを知らなかった。同級生だけが、舞の突然の変化に気がついた。しかし、皆、自分のことで精一杯な時期であり、面と向かって舞と話しをする友人の存在はなかった。
 舞は本当に、一般受験での合格を目指して勉強を始めた。両親にはバイトをしていると嘘をつき、夜遅くまで時間の許す限り、図書館やカフェで勉強をしまくった。強迫観念に支配されたかのごとく、舞は一心不乱で集中していった。そして舞は、大学に合格した。難関の私立大学の教育学部だった。舞は合格を誰にも打ち明けられずにいた。合格が確定したその瞬間、舞は大変な事態を引き起こすかもしれないことを悟った。すでに、専門学校への内定は決まっている。もし大学進学に気持ちが傾いていたのなら、前もって、その事実を周りに話すべきであった。その上で、受験勉強に集中すればよかった。内定を取り消してもらってから、そうするべきだった。だが舞は、それよりも勉強をすることに走り、そして、無我夢中でやり通した。
 今考えてみれば、そうしたからこそ、あそこまで極限状態の中で想いを統一することができて、突破することができたのだ。誰にも邪魔をさせなかったからこそ、自分一人で決めた孤独の中を闘い抜いたからこその、結果だった。あのときはそうするしかなかった。だがその代償は、その後でやってきた。どう切り出したらいいのか。誰にまずは話すべきなのか。舞は迷いに迷い、そして心は完全に引き裂かれていく中、なんと卒業式の後で、大学進学を担任に打ち明けたのだ。こんなことは前代未聞だった。
 結局、舞は、大学に進学することになる。親もそれで納得する。高校と専門学校の双方が、泥を塗られた形でそれを受けざるをえなかった。

 大学に入ってからすぐに、テニスサークルで知り合った同級生と付き合った。彼は浪人をしていたから歳は一つ上だった。科学者の卵と付き合う、二人前の男だった。そのA君とは、一年と少しだけ付き合った。体の関係になった初めての男子だった。なので舞は、もちろん興奮し、そういった関係にのめり込んでいった。好奇心でいろんなことをやってみたかった。快楽を探究し始めた。けれど、だんだんとそれ以外で、心が高揚することがなくなっていった。次第に心は離れ始めていった。それでも一人でマスターベーションするのは嫌だった。
 そんなときだった。
 Bという男と知り合った。彼は交換留学生で、カナダの大学に行っていた。そのBが夏休みを利用して、こっちの大学に帰ってきていた。そのBと舞は恋愛関係になってしまった。Bの友人と舞は知り合いだったことがきっかけだった。その夏は、Bを含む友達たち十人以上でつるむことが多く、Bと舞は急接近した。誰にも気づかれることなく、二人はすぐに熱愛関係になった。舞にはAがいるにもかかわらず。しかしBの日本での滞在は、その夏は一か月だけで、彼はすぐにカナダへと帰ってしまうのだった。まだ向こうでの学期が残っていて、彼が留学を終えるのは、それから一年以上も先のことだった。二人で過ごすことのできる夏は、あと二週間しかなかった。Bが舞に愛を告白したときには、すでにその二週間のカウントダウンに入っていた。舞は焦った。この夏は、Aとの冷えきりかけた関係も取戻しつつあり、旅行まで二人で行っていた。Aと舞は密かに盛り上がり始めていた。Bと顔を合わせるようになって、心を惹かれていくあいだも、舞はAとのデートを繰り返していた。セックスを繰り返していた。残り二週間の間で、なんとしてもBと結ばれたいと舞は強く思った。言葉で愛を交わし合ったとしても、すぐにBとは遠距離になってしまう。舞は心身ともに、Bと繋がっておきたかった。舞はBの滞在しているホテルへと向かう日、Aを呼び出した。そして唐突に別れを告げた。

 Aは激情した。一週間前までは、あれほど二人の恋が再燃していたのだ。セックスするための時間と場所が、確保できなかったときには、車の中で舞はブラジャーを外し、胸を揉ませてくれた。Aはそのときのことを振り返った。ズボンを下ろし、トランクスを下ろして性器を舐めてくれた。Aは舞の口の中に発射した。次に行く旅行の計画まで立てていた。それが急に、舞からの別れを通達された。それも、他に好きな男が出来たからだと言われた。
「そんなの、納得がいかないぞ!」とAは言った。「それじゃあ、車の中のアレは何だったんだ。俺のことが好きだったから、したんじゃないのか。あんなに仲がよかったじゃないか。最近はまた、楽しくなってきたじゃないか。あれも全部ウソだったのか。許さないぞ。すべては、演技だったのか」
「違うのよ」と舞は言った。
「あなたのことは好きだった。ほんとうよ。今でもよ。でも・・・」
「でも、何だよ」
「あなたのことは好き。でも、もっと好きな人ができたの」
「誰なんだ?突然に現れたのか?その男は。違うだろ。ずっと前からの知り合いだろ?俺と二股をかけてやがった。二人じゃ足りないのかもしれないな。お前は多淫なのか?お前の言うことは何も信じられない」
「そうよ。突然、彼は現れたのよ。カナダから帰ってきたばっかりなのよ。そして、すぐに、またカナダへと戻っていってしまう」
「作り話はよせ」
「ほんとうなのよ。交換留学生なの。一か月だけ、夏休みで帰ってきているの。留学先に、また戻っていくの」
「まじで?」
「ええ」
「それで?続きを、聞いてやる」
「友達の知り合いだったみたいで、みんなで、一緒に海に行った。それが、初めての出会いだった。一か月前だった。それで、一目惚れしたの」
「向こうは、どうなんだ?」
「向こうも、同じみたい」
「気持ちの確認は、しあったのか?」
「確認はした」
「まさか、もう、体を許したんじゃないだろうな」
「それはない。そんなこと、するわけがない」
「体は俺のものだったんだ」
「そうよ」
「そうよじゃないだろ。お前、わかってんだろうな。どういうことなんだ?その男のことを想って、俺に抱かれていたのか?あ、そういうことか。俺の体をそいつの身体に見立てて。だから、あんなにエロかったのか。これまでのお前とは、明らかに違っていた。車の中でココを咥えるような女じゃなかった。頑なに拒否していたじゃないか。それが積極的に自分から始めた。おかしいなと思ったんだ。あの旅行の計画は一体なんなんだよ。それもあれか。その男と行くようなつもりで、疑似体験の相手として、俺を利用していたのか。そうなんだろ。そうか。よくわかったよ。この最近の盛り上がりかた。俺との愛で燃えあがったわけじゃなかった。その男とお前が熱く炎上していただけだ。俺は身代わりだ。人形だったんだ。何故、そのときに、好きな人ができたと言わなかった?俺との関係をきっぱりと切るべきだったんじゃないのか?お前は、その男と付き合う保障が、なかったものだから、それで俺を繋ぎとめていた。その上で、その男に俺を見立てて、体を弄んだ。たいした女だ」
 舞は、何も答えられなかった。否定も、肯定も、できなかった。
「それで、今になって、何故、そのようなことを言いだす?」
 舞は、その質問にも答えられなかった。Aは、考えこむような仕草を繰り返した。頭の中が、混乱しているようだった。これから、Bの泊まっているホテルに向かうとは、到底言えなかった。言ってしまえば、何をされるのかわからなかった。自分を殺しにかかってくるかもしれない。
「答えろよ。もうここで、言わなければ、限界だったのか。それなりに。お前も、二人の男の間で苦しんだということか。けれど、とてもそんなふうには見えなかった。喜々として、俺と体を合わせていた。本当に俺に対しては、何の気持ちもなかったのか?お前は俺のことを好きだと言った。罪悪感はなかったのか?」
 どのみち、Aに抱かれるべきではなかったのだ。けれども、あのときは確かに、Aに対する想いを持ち合わせていた。初めての男性だったし、一年以上ものあいだ、ほとんど毎日のように会って過ごしてきた。彼と離れ離れになるとは、思ってもみなかった。すでに、自分の身体の一部のようにもなっていた。無理やりに、引き裂く理由など、どこにもなかった。かといって、そう、Aの言うように、Bのことが頭の中になかったと言ったら、嘘だ。結果的には、Bのことを想いながら、Aに抱かれたと言われても、否定することはできなかった。
「ごめんなさい」舞は謝るしかなかった。言い訳は何もなかった。思い浮かんでさえ、こなかった。
「こうなった以上は、俺は、退散するしかないな。けれど、この憤りは、どうしてくれるんだ、舞。お前を許す気持ちには、まったくなれない。そのBという男と、お前が、今後絶対にうまくいくようなことがないよう、そう祈ってやる。破局を願ってやる。そもそも最初から、うまくいきやしないさ。ええ?そうだろ?前の男と、こんな終わりかたをしてるんだ。新しいスタートが切れるはずもない。お前から、一方的に言い渡されただけで、俺の中では、何一つ終わってはいない。これからだってずっと、切れずに続いていくだけさ。俺とお前は、ずっと一緒なんだから」
 舞はそう言い続けるAを、気味悪く思った。けれど、そうさせたのは自分だった。悪いのはすべて自分だった。この場で、気持ちのすべてを、吐ききってもらいたかった。
 だが、そう願うのも、自分のエゴだった。舞はすでに、Bとの恋愛に全身を傾けていた。  
 いくら、Aに対する謝罪の気持ちを感じていても、それは来たるべきBとの世界に、あっけなく浸食されていた。
 舞は早く、Bの待つホテルへと向かいたかった。
 いつまでも、Aの戯言に付き合っている暇はなかった。そんな気持ちを、Aに見透かされていたとしても、全然構わなかった。すでに、舞の中では、目の前の男の存在は、希薄になっていた。付き合った当初から、本当に愛してなどいなかったのだ。成り行きで付き合っただけであり、心の爆発的な欲望はなかった。すぐに、体の関係になってしまったため、自分の気持ちが正確に掴めなかったのだ。こうして、Bという男が現れ、比較対象としての実在の人間がいることで、舞はAに対する気持ちが、急速に低下していくのを、自覚した。そして、こうやって、Aと議論をしているうちに、本当に眼の前の男が、嫌になっていった。気持ち悪くさえ感じた。
 舞が、激怒するという体制が、徐々に整っていった。そうなのだ。最後は、舞の逆切れによって、二人の関係は終わったのだった。

 舞はBの滞在するホテルへと向かった。Bと一階のレストランで、食事をした。話しは盛り上がり、三時間ものあいだ、お互いの趣味や将来の夢について語り合った。放っておけば、そのまま夜が明けてしまうくらいに、二人は目を見て語り続けた。二人は十時を回ったところで部屋に上がった。そして、そのままの勢いを保ったまま、二人は一つになった。朝になっても、舞は最高の気分だった。Bの腕の中に包まっていた。Bとはその後、二週間のあいだ、時間の許す限り、一緒にいることになる。タイムリミットがあることで、二人の盛り上がりは、さらにヒートアップしていった。その凝縮力は凄まじかった。舞はずっと昇天したまま、ついに別れの時を迎えた。メールやスカイプでの交流を、ずっと続けていくことを誓いあい、成田空港で、最後のキスをした。Bは旅立っていった。
 Bは一年後に確かに帰国をした。しかしそのあと、日本で就職活動を始めたものの、どうも文化的に馴染めなかったらしく、すぐにカナダへと戻ってしまった。その就職活動期間中は舞とも会っていた。三か月足らずの間だったが、舞はBの予定にすべてを合わせていた。この一年の間の不在を埋めるために。舞は、この一年間、誰とも恋に落ちることなく、ずっと一人で淋しい日々を過ごしていた。だが、Bの今度の滞在中は、二人の関係はずっと不穏なままだった。Bは心身ともに疲れ果てていた。二人で会っても、盛り上がらない食事をすることが多かった。Bは、日本での就職をあきらめ、それまで過ごしてきたカナダでの勉学と生活環境の基盤を、生かしていきたいと舞に告げた。ここで急に、道を変えることは、俺にはできそうにないとBは言った。俺はアメリカで生きていきたい。君とは一緒になれない。俺もこの一年、舞のことばかりを考えて過ごしてきた。少しでも早く、そして長く、舞と過ごしたいから、こうして日本での道を選ぼうとしたけど、やっぱり無理みたいだ。Bの言葉は、ほとんど、別れてくれと言っているようなものだった。そして舞は、Bを見送りに行くことさえしなかった。二人は破局した。長い一年だった。空白の一年だった。
 そのとき、やっと、Aの存在が蘇ってきた。
 本当にそれまでは、Aのことが、頭を過ることもなかったのだ。完全に忘れていたのだ。Bに夢中になっていた。しかし、こうしてBは去り、Aが現れてくる。舞はこのときやっと、この一年あまりの出来事を、冷静にふりかえることができた。本当にあんな別れ方をするべきだったのか。少なくともあのとき、あんなにも突然として切り出すべきではなかった。Bに抱かれに行く前にわざわざ、Aに別れを告げなくてもよかった。Aの気持ちなど、これっぽっちも考えてなかった。完全に、自分に対する弁護にすぎなかった。Aには別れを告げたのだから、あとは、私の自由なのよと、そう自分自身に言い聞かせるためだけの行為だった。自分が罪悪感を抱かないためだけの、行動。Aを傷つけ、恨みを残し、自分はBと楽しんだ。しかしBとはうまくいかなかった。Aのことを思いだす。あのときAには何も告げずに、Bに抱かれていばよかったのだ。Bに対してAの存在は告げずに。いや、Bには、告げたほうがよかったのか。とにかく、Bとはあの時点で、急速に関係を進展させる必要はあった。それは間違いない。だからといって、自分を、二股のような状況には、追い込みたくなかった。そのために、Aをばっさりと、無慈悲に、切り捨ててしまった。自分がかわいかっただけだった。自分だけがいい子でいたかった。Bが帰国してから、Aとはじょじょに、離れていけばよかったのだ。それから、一年もの時間があったのだから。ゆっくりと、Aと話し合い、自然で円満に離れていけば、それでよかったのだ。
 あのときの、急激な状況の変化と喧噪を、舞は思いかえしていた。
 あらかじめ、Bに、Aという男の存在がいることを、言うのかどうか。それは今もち
ょっと考えがつかなかった。Bに言えば、私との恋愛関係に決してなろうとはしなかった
かもしれない。身を引いてしまったかもしれない。けれど、それはそれでよかった
のかもしれない。どっちにしろ、Aとは、あのように終わらせるべきではなかった。もっ
と余裕を持って、時間をかけて、自然に進めばよかった。今はそう思う。あのときは仕方
がなかった。あまりに突然、状況が、変わってしまったのだ。焦らせる要素ばかりが、襲
ってきていた。軽いパニック状態に、置かれていた。
 ただ舞には、何が、本当の問題であるのか。今はわかっていた。そもそもの話、私には
一つのやるべきこと、やりたいこと、やり続けることが、なかったからなのだ。
 生活の芯になるものがないから、外的な条件にばかりに振り回され、左右されてしまう。
私が誰を好きなのか。それがはっきりとしていれば、問題は外側の情況で、あれこれあた
ふたすることはなくなる。私は自分以外の他人に依存する癖があった。AからBに乗り換
え、そしてCへと移っていった。いつのまにか私は、ディバックに乗っ取られていた。そ
して芯を欠いたままに、音楽家となってしまっていた。
 万理は今どんな状況なのだろう。
 旧世界と新世界が、どうだとか言っていた。彼女も旧世界をばっさりと冷酷に切り捨てようとしているのか。行かなきゃと舞は思った。万理のところに言って、伝えなきゃと。それまでの世界を急激に切り捨て、新しい世界の誘惑に全面的に飛び込む。それはやめなさいと。同時に存在させておけばいいの。時間の流れと共に、ゆっくりと収束させていけばいいの。落ち着くべきところに落ち着かせればいいの。周りや自分自身に、ひどい傷つけ方をしないですむから。二股でいいのだと、舞は言い切った。
 自分の意志と、あらかじめ決められていた運命との一致など、そう簡単には起こらない。ズレているのなら、そのズレをおもいっきり、一瞬で解消させることはない。そのズレたままの状態で、共存させておけばいい。その歪みは次第に、矯正する方向へと働いていく。その働きに、自分が合わせていけばいい。たとえ誰かから、二股だと揶揄されることがあったとしても、居心地の悪さを自分が感じたとしても、余計なことを考える必要はなかった。抱え持っていればいいのだ。受け止めておくのが嫌で、投げ捨ててしまってはいけない。万理にはそう伝えたかった。
 しかし思いとどまる自分もいた。万理と私は、違う人間だった。彼女には意志の力があった。彼女には芯があった。だから、私にそんなことを言われるまでもなく、本能的に彼女は、複数の情況を、ただ無条件に受け入れ、感情に左右されることなく、事を冷静に見ているのかもしれなかった。最後の審判は、延長されるべきなのだ。早くに決着をつけようとする、この弱い気持ちとは、訣別しなければいけない。舞は思った。何故、必要以上に、追い込まれてしまうのか。はやまった間違いを、瞬間的に起こしてしまうのか。万理と会ったことで、舞は今、深く思い知らされていた。


 その後、何度となく、直方棒の設置作業を、セトはおこなった。その度に、作業員の募集をかけ、集まってきた人間をおおざっぱに精査して、マイクロバスに乗せて、直法棒が保管されている倉庫を訪れ、そこから直方棒を設置する場所へと、作業員共々運んでいった。
 その度に、天気は荒れた。竜巻に遭遇することもあった。セトは巧みにその渦に巻き込まれないように逸れて進んだ。竜巻が目の前を通過する様子を、遠くから眺めてもいた。竜巻が通過すると、大粒の雨がいつものごとく落ちてきた。
 セトはすでに、この豪雨と、暴風が直方棒を運ぶ作業とが、無関係であるとは考えてなかった。まるで、自分たちが行う作業を、邪魔する勢力から、守るために防護している「守護霊」のようでさえあるとさえ、感じていた。セトが動くことで、発令が出される。作業を無事に終えるまで、守り続ける。それは守るというよりは、隠しているようでもあった。
 セトは、悪天候の中で運転をすることに、次第に慣れていった。作業員は特に困らなかった。特別な能力を身に着けていなくとも、彼らは、直方棒に埋め込まれている「意志」に沿って、自らの身体を動かしているだけだった。
 日数を合計したら、おそらく、数十日になっているであろう。セトは特別、苦痛を感じることはなかった。時空のズレが、これで少しでも解消するのだと思えば、容易いことだった。しかし、自分の感覚としては、いまだにそのズレは治ってなかった。
 一度、ディバックに連絡をとったことがあった。
 研究所の電話に彼が出ることはなかった。МQRを通して、セトに伝言を頼んだ。
 一度だけ、ディバックから直接、電話が返って来た。
「順調に進んでいるようだね、セトくん」
「事故を起こすこともなく、とりあえずは」
「それは、結構なことだよ。交通事故を起こされるのが、最もまずい」
「でも、まるで、事故が起こることを防ぐために、あのような天候が発生しているような気がするのは、気のせいでしょうか。あれは、僕らの作業を困難にするため、といういうよりは、誰にも邪魔されることなく、円滑に作業が進められるために、起こっているみたいです」
「それにしても、君は、正しく動いているよ」
 そう言われて、悪い気はしなかった。
「終わりはあるのでしょうか」
 セトは、今における懸念材料の一つを、ディバックへと解き放った。
「終わり?それは、どういう意味だろうか。始まりがあれば、終わりもある。君に始まりはあったんだろう?それならば、終わりは確実に来るだろ。そのくらいは、君にも、耐えてもらいたいね。終わりが来るのだろうかという不安くらい、僕に投げつけてもらいたくはないね。ただし、終わりは来るということだけは、はっきりと言っておこう。それで、満足かな?」
「それだけ知れば、あとは何もないですよ」
「よろしい。それでは、残りを宜しく頼むね。直方棒は、あらかじめ必要な量の、二割増しでしか製造はしていない。設置しているのだから、在庫の数は、確実に減り続けている」
「あなたには、その量が、見えているんですよね」
「ああ、もちろんだ。教えるわけにはいかないが」
 その真意を、セトは理解することができなかった。
 しかし、それは訊きかえさない方がいいと思った。
 それを訊いてしまっては、この関係は終わりなのだ。それなら、自分でやれと言われそうだった。ディバックに一任している以上、それよりも深い質問をしてはいけなかった。

 セトは、自分の知覚を信じるしかなかった。そのためには、この悪天候は好都合だった。その荒れ果てる外側の世界とは裏腹に、セトはかつてないほどの落ち着きを体感し始めていた。こんなにも心が穏やかになったことはなかった。いったい何と向き合っているのだろうと思うほどに、静寂に満ちている。この設置作業を通じてしか、セトはこのような状況が訪れないのではないかと思った。貴重な時間だった。
 このまま、作業は半永久的に終わってほしくはない。
 ディバックの言いなりで、全然構わなかった。そのとき、セトは時空のズレなどは、もはやどうでもよくなっていることに気づいていた。むしろ、ズレが解消し、この運搬作業が終了してしまうことに、落胆し始めていたのだった。いや、今日の設置作業でさえ、終わってほしくはなかった。
 そのときだった。セトは急に、今日が最後の任務であるような気がしたのだ。知覚は鋭敏になっている。間違いない。確信がもてた。これが最後だ。現場には、あと何分で到着してしまうのか。カーナビの指示が、目的地に着いたことを知らせてくるのは、一体、いつなのか。
 セトの心は乱れ始めていた。しかし、それでもなお、この日のセトの知覚は、静寂の域を少しも越えはしなかった。そして今日が最後であることを確信するのだった。ディバックとの電話も、あれが最後であったような気がする。
 彼との関係も、今日を境に切れてしまうような気がする。設置した直方棒が、すべての時空のズレに、見事にはめ込まれた時に一体、何が起こるのだろうか。世界は、無償で元に戻るのだろうか。そのとき俺は、何を体感するのだろうか。その瞬間が訪れることに、セトは思いを馳せていた。
 カーナビは、目的地に着いたことを知らせてきた。

 作業員は、いつものようにセトを置き去りにし、積み込まれた直方棒を素手でつかんで、持ち上げ、外へと運んでいった。嵐はおさまり、辺りは真っ白な霧に囲まれている。これまでと同じだ。セトは目を閉じた。暗闇の中では、何かがざわめき始めていた。その暗闇には、うっすらと街が広がっている様子が浮かんできた。月明かりに照らされた、廃墟のような街だった。崩れ落ちた建造物の中には、その骨格となっていた柱だけが、破壊されずに、無数に土の中から伸びている。その柱には、隙間なく、傷がつけられていた。傷は建物が崩れ落ちるときについたものなのか。セトは、その柱の細部を見るために、意識の中で近づいていこうとした。
 植物の姿や、生き物のような形が見えた。傷跡だけではなく、崩れる前に刻み込まれていた暗合があった。ただの装飾かもしれない。その柱をずっと見ているうちに、セトはその柱が支えていた建築物が、まるで絵を描くように再現されていった。それは、夜空に広がっていった。寺院のような輪郭が浮かび上がった。あの街には、かつて荘厳な建築物が立ち並んでいたのだ。植物が生命力を携え、動物たちが、暖かい光の中で戯れている。噴水の姿があった。水がこの上なく綺麗だった。光を反射させ、さまざまな色を映し出している。まったく素晴らし光景だった。河は見えなかったが、それでも水が流れている音が聞こえてくる。鳥の鳴き声も、わずかながら聞こえてくる。人々の姿は見えないが、話声のようなものも聞こえてくる。すべてが調和していて、優しい空気に包まれている。そんな世界が、街には広がっていた。
 だが、セトの意識の中では、すでに儚く消え始めていた。
 あの柱や、地面に刻みこまれた植物や、生き物の姿は、誰かが書き込んだものではなく、街が終わってしまうそのときに、かつての幻影として照射されたものではないかと感じた。
 照射?
 セトは、目を開いた。

 白い霧の世界が、広がっている。セトは車の外に出た。作業員の姿はない。音は何も聞こえてはこない。直方棒の設置は、すべて終わったのだろうか。作業員はいつまで経っても、帰ってはこない。霧が晴れる様子もない。セトは自分が、今、どこにいるのかわからなくなっていた。
 ここは、世界の果てなのだろうか。それとも、それまでも存在していた、街なのだろうか。セトは以前に、何かの書物で読んだ『KNA王国』のことを思いだしていた。人間が悪に染まり、堕落に歯止めがかからなくなっていったとき、いや、そもそもの始まりは、大きな善を忘れ、小さな善へと流れていくようになったとき。
 とにかく、王は、KNAの純粋さを守るために、守衛を配置させ、さらには回りながら燃え盛る炎を設置して、邪な心を持つものを排斥しようとした。入ってこれないようにした。何の本であったかは忘れた。しかし、セトは、その話をよく覚えていた。
 この目の前の白い世界が、KNA王国を守る守護天使を、浮かび上がらせてくるような気がしてきた。燃え盛る炎が現れ、その炎は数世紀の時を経て、鎮火する。人間は再びKNA王国への入場を許される。
 そして、炎は本当に現れた。白い世界のあちこちが紫色に光始めていた。いよいよ来た、とセトは思った。燃え盛る炎は、作業員が今まで設置し続けた直方棒だったのだ。
 その炎は、一切に燃え始めた。世界全体は、再び黒い雲で覆われてしまった。
 暗闇が訪れ、燃え盛る紫の直法棒の存在が、明確になる。ブーンという震動音が大きくなっていった。直方棒はさらに太くなり、地中にどっしりと腰を落ち着けている。そして、天へと向かって長く伸びていく。

 それは、闇の中における壮麗な光景だった。世界中が今漆黒の闇に包まれ、紫色に染まり始めている。ものすごい景色を見せつけられていると、セトは我を忘れ、時間を忘れていた。これが、時空の裂け目なのだろうか。裂け目に埋め込まれた紫の光が、世界を再生させているところなのだろうか。セトには、何が起こったのかわからなかった。世界は無音で白い闇へと反転していた。ものすごい光が、目の中に、脳の中に、神経の中に、飛び込んできた。世界そのものが、弾け飛んでしまったかのように。
 その勢いにセトは圧倒された。体が何回も後ろに回転してしまったように感じた。
 そのあいだ、音は少しも、聞こえてはこなかった。無音の爆発だった。最後に記憶していたのは、紫色を次第に濃くしていった直法棒が、その自らのエネルギーに耐えきれなくなったのか、闇をすべて吸収してしまったのかは、わからなかったが、とにかく、その瞬間に、一気に爆発したということだった。まさに解き放たれたのは、放射能だった。世紀を超え、千年以上もの間に溜まり続けた、エネルギーの塊の放出だった。セトは、全身で浴びていた。世界そのものが、光と闇の割合を一気に、反転させたかのようだった。
 セトは、自分の意識が、鮮明なのか、それとも、失ってしまったのか。その区別がまったくつかないでいた。死んでしまったのか、生き続けているのかも、まったくわからなかった。ただ、宇宙の中に、浮かんでいるような気がした。白い世界にいるのか、黒い世界にいるのかも、わからなくなっていた。それが結末だった。これが、ディバックが望んでいたものなのか、そうではないものなのか。セトにはわからなかった。




















 汝がKNA王国を前にするとき
 入り口に立った守護天使たちは
 しだいに濃くなっていく光の中
 冬至の儀を汝にかけたまわる。

 書き留められた教義は
 新たなる生命が宿った種へと埋め込まれ
 KNAの内部でその身体は蘇る。

 汝は言葉をかけたもう。
 そのとき種子は発芽を促し
 汝を生んだ真理が
 冥界でいざ目覚めなん


           13VAトゥン











ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み