健康な習慣

文字数 1,987文字

 ガスコンロに火を点す。青い炎の裏側から気体の臭いがやってくる。それを深く吸いこむ。臭いはたちどころに消え、火を止める。……上記の行動を二八回、自分の年齢ぶん、繰り返したところで呼び鈴が鳴る。玄関にいた人から一辺およそ三〇センチの段ボール箱を受けとる。でも中身は見ずに洗面所の棚にしまっておく。夕食代わりのリンゴをかじって在宅勤務に戻る。九時まで集中して働いた後、しきっぱなしの布団にもぐる。
 ***
 合唱祭には珍しく母が来ていた。雨の土曜日だった。僕たち五年一組は「ビリーヴ」を歌って金賞を獲った。もっともどのクラスもまんべんなく金賞がもらえたのだが、僕はうれしかった。母も上手ねと褒めてくれた。母はビル清掃のパートをしている。そのせいか、いつも学校のトイレみたいな臭いがした。その日の母はバニラの香水をつけていたようだが、ちょっと気を抜くとやはりサンポールの臭いがした。
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 朝のルーティンをこなしながら昨日見た夢を反芻する。コーヒーは錆びた鉄の味で、ゆうべのリンゴで歯茎を傷つけたのを思い出す。せっかく誕生日の朝なのだ。なにかいつもと違う、気晴らしのようなことがしたい。でも僕は結局いつもどおりのことをやる。たとえばトイレで小用を足しながら、同時に綿棒で耳を掃除する。こうするととても気持ちがいい。天使のように白かった綿棒の先に黄色い湿った耳垢が付着している。僕はそれに鼻先を近付け、よく検分してからくずかごに捨てた。今日は僕の誕生日で、この町は燃えるゴミの日だ。部屋中のそれをひと袋にまとめる。アパート前のゴミ収集所で僕は青い玉と再会する。

 玉はサッカーボールよりやや小さく、バレーボールより少し軽い。ビニールの表皮に乾燥した泥や虫の身体の一部がへばりついている。そこに書かれていたはずの文字はかすんで判読不能だ。でも間違いない。僕はそれをセーターと腹の間に挟み、僕の一部として迎え入れる。おかえり。腹は不自然に丸く膨らむ。こういう姿かたちの生き物を昔、知っていたなと考える。すぐ隣に僕の部屋の窓がある。でもそれは僕に一切関係がないもののようにも見える。川向こうの中学で誰かがトランペットの音階練習をしている。
 僕は歩いてバス停まで行き、市内循環バスに乗った。僕と同様に腹を膨らませている客が何人かいた。ふたつ隣にいた女性は座ったまま慈しむように腹の丸みをなでていた。僕も真似をして自分の玉をなでる。そして思い出す。鮭の稚魚に似ているのだ。小学生のころ近所の川に放流したあの魚たちも、栄養が詰まった重そうな丸を抱えていた。僕は玉をなで続ける。そのうち女性はバスを降り、バスは満席になり、僕の正面には老人が立っていた。彼の身体はどのような丸みも有さない。皮膚の大半を複雑な皺が侵略している。「自分より弱い立場にある人は例外なくいたわらなければなりません」。幼い頃からの母の教え。あの、席、譲りましょうか。僕はそう言いかけて、やっぱり声が。「次は~、税務署前、税務署前。」老人は降りてしまった。  
 母の期待に応えることはいつだって難しかった。でも僕は、僕自身が抱えている幸福の種を結実させることに集中しなければならない。母は幸せになる秘訣をたくさん知っていたけれど、結局のところ幸福になんてなれなかった。「まもなく~、蔦霊園、蔦霊園です。」僕はバスを降りた。

 霊園には小さな白亜のレストランが併設されていて、誕生日にはここで昼食を摂るのが僕の毎年の習慣である。おかしな習慣だと人は言うが、僕にとってすべての行動は習慣である、とも言えるから、一つくらいおかしなものがあっても不思議はない。歯茎の傷を庇いながらデミグラスハンバーグを食べた。ライスもサラダも完食した。食後に血の味がする紅茶を飲んでいると馴染みの店員が挨拶に来た。
「今年もお供えして来たんですね」平らになった腹を見て彼女が言う。
「母の言いつけですから。凛子さん少し痩せましたか?」僕はおきまりの台詞で返す。
「分かります? 実はダイエットを始めたんです。一ヶ月くらい前から」
 彼女はこの時季になると決まってダイエットを始める。そして春を待たずに断念してしまう。いつもその繰り返しだった。彼女は僕の前で得意げにくるくると回転してみせる。今のところは順調なようだ。
「正しいダイエットは健康的な習慣です。長続きするといいですね」

 家に帰ると僕はセーターの土埃を払って、手を洗い、うがいをする。まだ少し血の味が混じる。洗面所から段ボール箱をひっぱり出して慎重に開封する。羽毛の緩衝材をかき分けた先にあるのは、真新しい青のゴムボール。僕はその表面にマジックペンでひとつだけ願いごとを書く。いつか喜びに変わるはずだった、もう慣れてしまった(にお)い。僕はアパートの裏の川めがけて助走をつける。右脚が青い玉を思いきり蹴とばす。
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