16歳

文字数 1,964文字

 高校一年生。体の中で綿毛が駆け巡るような、妙なくすぐったさを感じていたのは最初の三週間だけだった。
 通学で電車に乗るようになった。新しい友達ができた。学校帰りの寄り道が許されるようになって、門限が二十時になって、バイトも始めた。自分が大人に近づいたような、青春に飛び込んだような気がして、朝が来るのが愛おしくて仕方なかった。そんな眩しい時間は、半年もすれば『日常』に姿を変えて、なんの特別感もない日々になる。そうすると、大人だと張り切っていたバイトがただの拘束時間に思えて、青春がただの『バカ』に見えて、朝が来る度にうんざりした。
「ねぇ、ヒカリぃ。今日デート?」
 憂鬱な気持ちを押し殺して登校し、朝食代わりのフルーツグミを咀嚼していると、アカリが後ろから覗き込んできて言った。デートか、と訊かれて言っていなかったことを思い出す。
「先週別れたよ」
「えっ、マジ」
 マジだよ〜なんてわざと作った間抜けな声で笑う。入学して二ヶ月が経った頃、告白されて付き合った彼のことは特別好きだったわけではない。高校生といったら彼氏だよなぁという、ほんの少しの憧れで付き合って、夏休みには地方の小さなテーマパークに遊びに行って一泊した。震える彼の手が私の体に触れる度、自分の指先が冷えていく。恐怖でも緊張でもなく、痛みでも歓喜でもなく、ただ目尻を流れていくそれを拭うこともせず、彼に身を任せた。
 そして二学期が始まって間もなく、私から別れを告げた。嫌いになったわけでも、『女の子』を卒業したからでもなく、付き合うということが思っていたよりキラキラしたものではなかったから。
「えー、やばぁ。じゃあ今日ヒマ? 恋バナついでにゴハン行こーよ」
 アカリが尻尾を振るトイプードルのような目をして、甘い声ではしゃぐ。いつもなら、私もほんの少し甘えた声で「行こー」と笑っていただろう。ただ、今日はどうにもいつもの声が出ないし、無理に上げている口角が痛い。それを誤魔化すようにグミをひとつ口に入れ、丁寧に咀嚼する。
「残念、今日は別の予定がありまぁす」
「えーっ、何っ、次の男? ヒカリやばい、青春オーカしてんじゃん」
「やだな、人聞き悪い。中学のときの友達に会いにいくの」
 ざんねぇん、とアカリが頬を膨らまし、私の手からグミを二粒取ると「これで許す!」といたずらに笑って席に戻った。
 今日も、いつもの一日が始まる。

 放課後、急いでいることを装い教室を飛び出した。予定なんてなにもないが、早く帰りたいことに変わりはない。電車に乗り込み、端の席に座る。人がまだ少ない帰りの電車が、唯一私にとって呼吸ができる時間。アカリの友達の『ヒカリ』でも、バイト先の『ひぃちゃん』でも、娘の『ひかり』でもない時間。
「青春オーカしてんじゃん」
 アカリの言葉が、針山に刺さった針のように刺々しい光となって脳裏で瞬く。
 青春。漫画やドラマで見た高校生は、バイトや恋、勉強に励み、泣いて笑って全力で感情を動かしているように見えた。間違いなく人生で一番輝いている時間なのだと、思い込んだ。
 勘違いをしていた。
 青く澄んだ空と、淡くやさしい色をした桜が舞い散る春のような、きらきらした日々を思い描いていたけれど、本来、青春というのはただ若い者を指す言葉で、それ以上でもそれ以下でもない。
 アカリや、数ヶ月付き合っただけの彼は一体どれだけ全力で感情を動かしているのだろう。
 勉強をしていても、アカリと恋バナをしていても、異性と肌を重ねても、家族と他愛もない会話をしながらご飯を食べていても。必死でノートを書いている自分を、バカみたいな声を出す自分を、大雑把に身を投げ出した自分を、隠し事なんて何もないように笑う自分を……体の中から抜け出した私が見下ろして、馬鹿馬鹿しいと嘲る。
 言葉や表情に、感情が乗り切らない。そしてそれは、徐々に息苦しさへと繋がっていく。
 ねぇ、アカリ。その底抜けに明るい笑顔や溌剌とした声は、どこまでが本当?
 ねぇ、ミチル。その夕陽のように染まった頬や熱く震える指先は、どこまでが本当だった?
 ねぇ、お父さん、お母さん。あなたたちが見ている娘は、本当の私?
 窓の向こうから、目を焼き潰しそうなほど強い光が真っ直ぐに私を照らす。
「馬鹿馬鹿しい。キミは青春を生きているね」
 感傷に浸る私に現実を突きつける声。
 それさえ自問自答でしかないことを自覚しながら、他人に語りかけるように、音にならない言葉を紡ぐ。
 そうだね。まだまだ若くて未熟で、全然きらきらしていない。苦しくて逃げ出したくて、だけどどこにも行けない。自分が何者かもわからない。
 私は何も特別じゃない、十六年生きてきた、ただの人間。
 
 地元の駅名が、機械とは思えない綺麗な女性の声で車内に響く。ここからは『ひかり』の時間だ。
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