第1話

文字数 1,085文字

 固い装甲で覆われた魚をくわえたオウムガイが、力泳するアノマロカリスに追いかけられる。そんな光景が日常的な古生代の海に別れを告げようとしている存在がいた。人ではない。小さな軟体動物である。
 その生物は食物連鎖の下の方にいた。藻やプランクトンを食べ、自分より大きな魚や軟体動物や節足動物の餌となっているのだ。楽しい暮らしとは言い難い。死と隣り合わせ、そんな地獄の海から脱出し、安楽な世界つまり淡水域を目指す旅に出たのである。
 海水と淡水が入り混じる汽水域の浅瀬で体を慣らし、河口から川の上流へ向かう。上流へ向かうほど川の流れはきつくなるが、これも階層を上げるための試練と思って耐える。
 その努力は報われる。水深が浅くなったのだ。大型の捕食者は川底に体がつかえてしまうので、もう上がって来られない。中型から小型の捕食者はいるけれども、こちらの体のサイズが大きくなれば、そう簡単には手出しできなくなる。
 川の流れが嫌なら湖や沼で生活すれば良い。淡水の世界は海と違って、楽園だった……のは、短期間だった。
 同じようなことを考える生物が海を逃れ川や湖沼へ大勢やってきて、食べ物が不足するようになったのだ。
 このままでは飢え死にする。とはいえ今更、海へは戻れない。世の中は甘くない、と嘆きながら多くの軟体動物が息絶えた。
 生き残った軟体動物の目の上に緑が映った。地上の植物の緑である。植物は動物に先行して陸へ進出していたのだ。
 あれを食べればいいんじゃね? そう考えた軟体動物が川や沼から這い上がろうとした。しかし鰓呼吸なので、陸上へは上がれない。呼吸ができなくて死んでしまうのだ。
 肺呼吸が可能になるまでに、どれだけの時間と労力が費やされたのか、見当も付かない。
 だが遂に肺を手に入れた軟体動物は上陸に成功した。そして似たような経緯で上陸した昆虫類や両生類と共に、地上で繁栄していくことになる。
 それらの生き物は、遂に甘い生活を手に入れたのだ。
 もっとも、陸地も完璧な極楽ではなかった。地上に適応した軟体動物のカタツムリは殻を作るためにカルシウムを必要とするが、カルシウムが海水に融けている海の中と違い、陸上では確保に苦労している。殻を捨てる生き方を選択したナメクジはカルシウムの摂取であくせくする必要はない。しかし塩をかけられると天国行きという宿命に憑りつかれた。塩辛い海中で普通に生きていた頃には、考えもしなかった悲劇と言っていい。
 夢見た甘い生活が、ほんの少しの塩辛さで溶けてしまうと知っていても、ナメクジの先祖は陸上を目指したのだろうか? そんなことを考えつつ、筆を措く。
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