完話

文字数 2,820文字

 私はひとりでファミレスで食事を取ることを何とも思わない。私の友人の中ではファストフードならいいけれど、どうしてもひとりでレストランで食べれない、というのがいるが、私は平気だ。今もファミレスで昼食を取っている。そのうちに拓也が来て、今日はふたりで区役所へ婚姻届を出しに行く予定だ。私は今妊娠4ヶ月である。妊娠がわかった時、中絶という選択もあった。でも、それはしたくなかった。中絶はいけないとか、そんな強い信念があったわけではなく、ただ何となくしたくなかった。自分の体の中に自分とは別の生命体がいると思うと、嬉しいとか楽しいとかではなく、エキサイティングな気持ちがした。この生命体を自分の中で育ててこの世に出してあげたいと思った。これが親心なのかどうかわからない。生まれたら、もし未婚でもどうにか育てられるのではというぼんやりした自信のようなものは感じていた。つまり、子供ができたからといって、別に結婚しなきゃとは思っていなかった。しかし、妊娠したと母に伝えた時、式は挙げなくてもいいから結婚だけはしてくれ、生まれてくる子のことを考えなさいと母が泣いて頼むので、拓也と相談して、式は挙げないけれど婚姻届だけは出そうということに決めた。

 頼んだ海老グラタンが来て、火傷をしないように用心しながら食べていたら、後ろの席のふたりの女性の声が聞こえてきて気になり始めた。私の方が先にいたのか、向こうが先にいたのか覚えてないが、最初は声は小さかったと思う。それが次第に大きくなり始め、鼻をすする音、涙声が聞こえ始めた。

 「何で、あんな女がいいのよっ、うっ、うっ、うっ。」「もう5年、こっそり付き合ってるんだよ、私が知らないと思って、また付き合ってるのよ。」「もう、別れたい、ううううう。」もうひとりの方は返す言葉がないのか、涙声の女性がひとりで話している。しかしそのうち、もうひとりが、「ここで泣くのは何だから、うちへ行こう。アンナは今日は部活で遅くなるって言ってたし、うちで思いっきり泣きな」と言いだした。また押し殺そうとする泣き声が聞こえる。嗚咽になり始めている。立ち上がる音が聞こえ、私の横を通り過ぎる時ちらりと目をやると、ふたりとも多分40代ぐらいの小綺麗にしている女性と見えた。アンナという娘はきっと中学生ぐらいだろう、15歳ぐらいかな。聞き耳を立てていたつもりはないが、あんな風に後ろで話されては気にならない方がおかしい。

「食後のコーヒーをお持ちしましょうか?」

 そう言って、いつの間にか食べ終わってしまっていた海老グラタンの皿を、ウェイトレスは持っていってしまった。口の中には海老グラタンの味がするから、食べたんだなという実感はあるが、食べたような気がしなかった。まあ、火傷はしなかったようだ。すぐに持ってきてくれたコーヒーを啜りながら、考えてしまった。お腹の子が15歳になった時、拓也は浮気をしているだろうか? もしかしたら私が拓也の目を盗んで浮気しているかもしれない? すぐに次の客が後ろの席に座った。今度は高校生らしき子たちだ。誰々が〇〇先輩と付き合ってるとスクープのように話題にしている。どうして人は恋愛の話ばかりするんだろう。多分、おじさんふたりだったら恋愛の話はしてないかもしれないな。

 そんなどうでもいいことを考えながらコーヒーを飲んでいたら、拓也の姿が見えた。

 「お待たせ。」「何か食べる?」「いいや、もう食べたし、また会社に戻らないといけないから、行こう。」「じゃあ、お勘定済ませてくる。」

 10月とはいえまだ暑さは残っていて半袖だが、あの外に出れないくらいの暑さが終わってよかった。外を歩いていて気持ちがいいと感じられる。いつもこうして歩くふたりなのに、婚姻届を出すとなるとお互い緊張を感じているのだろうか、言葉が出ない。そんなせいで、私はつい、こんなことを口にしてしまった。「ねえ、拓也、この子が15歳くらいになった頃浮気してると思う?」「えっ⁈ 誰が? オレ?」「私がしてると思う?」「浮気しないといけないの?」何て馬鹿なことを言ってしまったんだろう。拓也だって、どう答えていいかわからないよね。「結婚したい? もう少し待ってもいいかもよ。」そして、間を置いて責任感の強い拓也はこう足した。「結婚しなくても、オレはちゃんと認知するから。」私はさっきファミレスで聞こえた40代の女性の会話の内容を話した。「15年先なんて、どうなってるかわからないよ。子供が4人ぐらいいるかもしれないよ。意外と海外に住んでるかもしれないし、どちらかの親が死んで残った片親と住んでるかもしれない。彩の方が収入がよくて、オレが主夫になってたりして。どんな可能性もあるよ。」

 チリン、チリン。自転車のベルが後ろから聞こえ、振り向くと、怒ったような顔をした汚れたTシャツ姿のおじさんが、「おい、どけ」と怒鳴るように自転車に乗って私たちを追い越した。通り過ぎた時、酒臭かった。「15年後、オレ、あんな風になってるかもしれないよ。」「やめてよ。なってない。」「可能性はある。どっちの方向にも可能性はあるんだよ。オレたちはどの可能性に賭けるか選択してるんじゃない? 彩は中絶はしないって選択した。結婚式は挙げないって選択した。オレと結婚するのかはまだはっきりしてないみたいだけれど。今日は何食べたの?」「海老グラタン。」「今日はファミレスで海老グラタンを食べるって選択した。」そうか、大きいこと小さいこと、悩んで、または知らず知らずのうちに選択してるって言いたいのね。可能性はどっちの方向にもある、か。可能性が360度散らばってるってことか。「ねえ、ロード・オブ・ザ・リングでさあ、、、。」でたでた、拓也のお得意のロード・オブ・ザ・リング。「フロドがさあ、ガンダルフに、自分が生きてる時代にこんなことが起こらなきゃよかったのに、とか何とか言うんだよ。そしたら、ガンダルフが、自分もそう思う。でも、自分達ができることは、何が起こるかを決めるんじゃなくて、起こった時にそれをどうするか決めることだ、とか何とか言うんだよ。(1) いいよね?」細かいことをよく覚えてる。でも、「いいね。そうだよね。」

 私たちはまた無言になって歩いていた。気がつけば、区役所のまえ、この信号が青に変わって渡れば入り口だ。「どうする?」「拓也と私とこの子に賭ける。」信号が青になって、私たちは手を繋いで区役所までマーチした。「結婚式挙げる?」「やだよ。お腹がどんどん大きくなるんだよ。」「白いムームーでも着ればいいじゃん。小さな結婚式だよ。」ムームー? そんなの着るわけないじゃんと思ったけれど、拓也の優しさを汲んで、「じゃあ、ちょっと考えようか、可能性を」と大人の返事をした。

(1)The Fellow ship of the Ring by J.R.R. Tolkien
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み