第1話
文字数 1,998文字
Kさんが面接室へ入ってきた瞬間、僕は父親のコネで入社し部長になったことを恥ずかしく感じた。あのとき、僕は24歳、彼は還暦に近かったと思う。
緊張した面持ちのKさんが哀れに見えた。同時に自分の恵まれた境遇に罪悪感を抱かずにはいられなかった。
この歳で新しい職に就く、彼の前途が険しいことは想像に難くなかった。当時はある種の罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。僕はKさんの上司になることに決めた。
父の経営する会社のうちのひとつ、B警備株式会社の正社員の数は必要最低限に抑えられていた。だから、人事部長の僕も週末のイベントには現場へ赴かなければならないことも多々あった。スタッフの殆どが派遣社員かアルバイト。責任者として彼らに的確な指示を出さなければならない。入社3年目の僕でも苦労する務めにKさんが手こずらない訳がなかった。
偉そうな表現だが、彼は頑張っていたと思う。幼少期から他人をこき使うことに慣れていた僕とは違って。
弱音ひとつ吐かずがむしゃらに駆け回る、要領は悪いが何事にも一生懸命な彼が好きだった。上司として接さなければならない機会もあったが、大抵の場合彼は実の父親より本物らしい父親に映った。
しかしKさんは、最後まで僕を上司としてしか認めていなかったように思う。
競馬場がKさんとの最後の現場になった。8月の猛暑の中だ。当然のように冷房の効いた控え室で待機する僕に無線が入った。
「Kさんが倒れたみたいです」
気づけば走り出していた。上司としての責任感? それとも他の理由だったのだろうか? 降り注ぐ鋭い日差し、陽炎の立つ通路、来場者の顔を流れる汗。人混みをかき分けてKさんの元へ行くと、彼は朦朧とする意識の中言った。「すみません、ご迷惑をおかけして」
蝉の声さえ溶けるような炎天下、Kさんの勤務態度が体に良い訳がない。滑らかに艶めく程度に汗ばんだ僕の皮膚と比較して、彼の皺だらけの顔はまるで血だまりのようだった。
結局、熱中症の為に入院を余儀なくされた彼が戻ってくることはなかった。
「あのときは死ぬかと思ったよ」とKさんは言った。「もう4年も経つんだね」
彼が退職した翌年の春には本格的なコロナ禍に突入した。主に大規模なイベントの警備を受け持つ会社の業績は悪化、父は躊躇なく会社を畳んだ。僕は今、保険会社の一営業員に落ち着いている。
Kさんから突然届いたメールには驚かされたが、バーで久々の対面を果たした瞬間、驚きはいとも容易く更新された。
「あれからどうしてたんです?」
「人生いろいろあるもんだ」薄暗い店内でも明瞭に輝く真っ白な歯を剥き出しにして彼は答えた。「詳しくは言えないけど、ちょっとした収入があってね」
皺ひとつない上質なシャツ、程よく焼けた肌、指や手首に光るアクセサリー。彼の懐に入った金銭が「ちょっとした」ものでないことは明らかだった。
あの面接からは考えられない程の饒舌の後、Kさんは一転、声を潜めてスマホをこちらへ向けてきた。画面には2歳くらいの女の子が映し出されていた。
「アイっていうんだ。俺の娘」
「娘さん、生まれたんですね」
「いや」とKさんが首を横に振る。「AIだよ。すごいだろ? あるルートでしかインストールできないアプリなんだけどさ、俺のDNAを元にしたデータに、好きなスペックをカスタムしてインターネット内で子育てができる。もちろん、上手く育てるには課金しなきゃいけないけど」
AI? アプリ? 課金? Kさんの口からこんな言葉が飛び出す日が来るなど想像もしていなかった。
「どうしてこんな?」
動揺が伝わってしまったらしい、Kさんは僕の肩を叩いた。「若いんだから時代の変化には敏感じゃなくちゃ」ライトグリーンのカクテルを飲み干して彼は続けた。「この歳になるまでずっと冴えない人生だった。結婚どころか彼女ができたこともない。でも、もうこの歳だから何かを残したかった」
呂律の怪しい舌でアイというAIの自慢を披露してから彼は言った。
「もし俺が死んだら、アイの面倒見てくれないか? 遺産は全部譲る。どうだい?」
提案をなぜ断ったのかは分からない。分かったのはただ、僕の知っているKさんはもう存在しないということだけだった。
「残念だなぁ」とKさんは言った。「ところでさ、アイの教育方針で迷ってるんだ。アイにこの先AIだって教えてやった方がいいのか」
好きにすればいい。見違える程綺麗になったKさんの、しかしどことなく寂しげな横顔をこれ以上見ていたくなかった。
沈黙の後に発せられた彼の台詞が血管を通って全身にひんやりと広がっていくのを感じた。
「よく考えてくれよ。俺も君も実のところ誰かが運営してるアプリの中のキャラかもしれないんだから」
夜のバーの空調が妙に耳障りだった。一刻も早く、この例年にない暑さの夏、真昼の炎天下に身を晒したいと願わずにはいられなかった。
緊張した面持ちのKさんが哀れに見えた。同時に自分の恵まれた境遇に罪悪感を抱かずにはいられなかった。
この歳で新しい職に就く、彼の前途が険しいことは想像に難くなかった。当時はある種の罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。僕はKさんの上司になることに決めた。
父の経営する会社のうちのひとつ、B警備株式会社の正社員の数は必要最低限に抑えられていた。だから、人事部長の僕も週末のイベントには現場へ赴かなければならないことも多々あった。スタッフの殆どが派遣社員かアルバイト。責任者として彼らに的確な指示を出さなければならない。入社3年目の僕でも苦労する務めにKさんが手こずらない訳がなかった。
偉そうな表現だが、彼は頑張っていたと思う。幼少期から他人をこき使うことに慣れていた僕とは違って。
弱音ひとつ吐かずがむしゃらに駆け回る、要領は悪いが何事にも一生懸命な彼が好きだった。上司として接さなければならない機会もあったが、大抵の場合彼は実の父親より本物らしい父親に映った。
しかしKさんは、最後まで僕を上司としてしか認めていなかったように思う。
競馬場がKさんとの最後の現場になった。8月の猛暑の中だ。当然のように冷房の効いた控え室で待機する僕に無線が入った。
「Kさんが倒れたみたいです」
気づけば走り出していた。上司としての責任感? それとも他の理由だったのだろうか? 降り注ぐ鋭い日差し、陽炎の立つ通路、来場者の顔を流れる汗。人混みをかき分けてKさんの元へ行くと、彼は朦朧とする意識の中言った。「すみません、ご迷惑をおかけして」
蝉の声さえ溶けるような炎天下、Kさんの勤務態度が体に良い訳がない。滑らかに艶めく程度に汗ばんだ僕の皮膚と比較して、彼の皺だらけの顔はまるで血だまりのようだった。
結局、熱中症の為に入院を余儀なくされた彼が戻ってくることはなかった。
「あのときは死ぬかと思ったよ」とKさんは言った。「もう4年も経つんだね」
彼が退職した翌年の春には本格的なコロナ禍に突入した。主に大規模なイベントの警備を受け持つ会社の業績は悪化、父は躊躇なく会社を畳んだ。僕は今、保険会社の一営業員に落ち着いている。
Kさんから突然届いたメールには驚かされたが、バーで久々の対面を果たした瞬間、驚きはいとも容易く更新された。
「あれからどうしてたんです?」
「人生いろいろあるもんだ」薄暗い店内でも明瞭に輝く真っ白な歯を剥き出しにして彼は答えた。「詳しくは言えないけど、ちょっとした収入があってね」
皺ひとつない上質なシャツ、程よく焼けた肌、指や手首に光るアクセサリー。彼の懐に入った金銭が「ちょっとした」ものでないことは明らかだった。
あの面接からは考えられない程の饒舌の後、Kさんは一転、声を潜めてスマホをこちらへ向けてきた。画面には2歳くらいの女の子が映し出されていた。
「アイっていうんだ。俺の娘」
「娘さん、生まれたんですね」
「いや」とKさんが首を横に振る。「AIだよ。すごいだろ? あるルートでしかインストールできないアプリなんだけどさ、俺のDNAを元にしたデータに、好きなスペックをカスタムしてインターネット内で子育てができる。もちろん、上手く育てるには課金しなきゃいけないけど」
AI? アプリ? 課金? Kさんの口からこんな言葉が飛び出す日が来るなど想像もしていなかった。
「どうしてこんな?」
動揺が伝わってしまったらしい、Kさんは僕の肩を叩いた。「若いんだから時代の変化には敏感じゃなくちゃ」ライトグリーンのカクテルを飲み干して彼は続けた。「この歳になるまでずっと冴えない人生だった。結婚どころか彼女ができたこともない。でも、もうこの歳だから何かを残したかった」
呂律の怪しい舌でアイというAIの自慢を披露してから彼は言った。
「もし俺が死んだら、アイの面倒見てくれないか? 遺産は全部譲る。どうだい?」
提案をなぜ断ったのかは分からない。分かったのはただ、僕の知っているKさんはもう存在しないということだけだった。
「残念だなぁ」とKさんは言った。「ところでさ、アイの教育方針で迷ってるんだ。アイにこの先AIだって教えてやった方がいいのか」
好きにすればいい。見違える程綺麗になったKさんの、しかしどことなく寂しげな横顔をこれ以上見ていたくなかった。
沈黙の後に発せられた彼の台詞が血管を通って全身にひんやりと広がっていくのを感じた。
「よく考えてくれよ。俺も君も実のところ誰かが運営してるアプリの中のキャラかもしれないんだから」
夜のバーの空調が妙に耳障りだった。一刻も早く、この例年にない暑さの夏、真昼の炎天下に身を晒したいと願わずにはいられなかった。