第1話

文字数 1,699文字

わたしは会社員です。支社から支社へ書類などを手で届ける用事がたまにあって、日中あまり混んでいない電車で移動することがありました。

どっちの支社も田舎に立地していて、都市のこっちの端っこからあっちの端っこへの大移動です。これが結構無駄に時間がかかり、地味に体力も消耗して、わたしの本業はなんでしたっけ?と疑問に思うこともありました。

最終目的の駅まで何十分か電車に乗るので、ある日の移動中、疲れた足を休めるチャンスとばかり、空いている座席にぼんやりとすわって、周囲を見るともなく見ていました。



すると、反対側のロングシートに座る、満杯の買い物袋を何個も抱え込む、もこもこ厚着の乗客が、さっきからわたしの顔をじっと覗き込んでいる?・・・のに気づきました。



昨今の事情で、マスクにメガネで顔が隠されてはいますが、目が楽しそうに笑っている?



おや?



思い当たる人があります。



あの人・・・かしら?



電車が次の停車駅に滑り込み、荷物を両手に抱えて厚着で眼鏡にマスクの人は、よっこらしょっと立ち上がる。



そのノッソリ感。



あの人だわ!



わたしは自分も降車駅のようなふりをして、他の降車するお客さんたちに続いて、「あの人」かもしれない人とは別の戸口から降車しました。



眠っていた好奇心や狩猟本能にスイッチが入り、「あの人」の正面に回り込み、顔をよく確認しようとしましたが、マスクとメガネでやはりはっきりしません。さりげなさを演じているうちに、人波に乗ってしまい、「あの人」よりも先に、わたしは勢いよく改札口を出てしまいました。



わたしに気づいて、なつかしくわたしの名前を呼んでくれるかと、ちょっと期待したのに。



「あの人」は目が微笑んでいたのに、わたしを見つめていたような気がしたのに、結局そのまま、わたしに何の声をかけることもなく、自分の目的地へ向かってずんずんと歩みをすすめ、遠ざかって行きました。



この徒労感。



何十年かぶりで「あの人」に会えた気がして、つい、子供みたいに張り切って、探偵ごっこみたいに、しつこい人みたいではずかしいわ・・・?



わたしは肩を落として、今、飛び出してきた改札口に向き直り、はたと気づきました。



しまった、切符の買いなおしだわ・・・。



会社の経理の人になんて説明したらいいのかしら。



回収されてしまった切符をあきらめきれず、わたしは改札口の駅員に相談しました。

「駅を間違えて、途中で降りてしまったのですが・・・。」



駅員さんはピンときた様子で手招きをしました。

何事かとわたしが顔を寄せると、小さな声で

「見たんですね。」と、ささやくのです。



えっ?わたしが見たものを知っているの?



「時々あるんです、この駅。この路線。」



えっ?わたしが見たのは、「わたしの」「あの人」なんだけど。



「お急ぎですね?特例ですから、他言は無用ですよ。どちらからどちらへご乗車でしたか?」

駅員さんはそそっと鍵を取り出して、自動改札の切符箱を開け、わたしの買った切符を探し当てて返してくれました。

「ありがとうございます。」

「はいはい、くれぐれも、他言無用ですよ。」



わたしは次に入ってきた電車に飛び乗りました。予定の時間を10分ほど遅れそうです。

電車の窓から改札口を見やると、いくら確認しても、今さっき切符を返してくれた駅員さんはもう見当たりませんでした。



おっかしいな。



すると、わたしの体はかくっと揺れて、気づけばさっきまで座っていた座席でした。



あれ、わたしはずっと居眠りをしていたの?



なんか懐かしい夢を見たような。



「つぎーはー、○○~、○○~。」車内アナウンスがわたしの乗り換え駅を放送します。



おおっと、もう乗り換えだわ。

次の乗り換えまで1分しかないから、急がないと。



わたしは次のプラットフォームは何番だっけと表示を確認しつつ、「あの人」のことも、駅員さんのことも、すっかり忘れて大急ぎで電車を飛び降りました。



何事もなかった?どこから夢でどこから現実で?きつねにつままれた?・・・よくわからないにもかかわらず、わたしは子供のような新鮮な気持ちになって、次の駅の乗り換えや、目的地での仕事の段取りに思いをはせてカツカツとプラットフォームを歩いていきました。




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