第1話

文字数 4,095文字

呼吸用大気残量が危険水準に達しました。ただちに循環系統を修理するか、外部から呼吸用大気を補充してください
 熟す前の青々とした梅を誤飲したかのように、船長の表情は渋かった。「との仰せだ。さてどうする、わがポンコツ宇宙船に乗り込んだ優秀なクルー諸君よ」
「ホンマ信じられへんわ」野卑な核融合炉エンジニアは長々と嘆息を漏らした。「こんなおんぼろ、どこで売ってんねん」憎々しげに船体を蹴飛ばした。「きょうび

なんてもんがあんねんなあ」
「事実そうしたしろものは存在する。なんと言ってもげんにわしらがそれに乗ってるんだからな」あごひげをびっしり生やしたタフな船長は壁に拳を打ちつけた。「わしは断固として訴訟に持ち込んでやるぞ!」
「生きたままこの危機を脱することができればね」ニヒルな一等航宙士は浅く目を閉じている。「なにごとも諸行無常。黙って死を受け入れるのもまたよし、ですよ」
 星間貨物船〈トライアンフ〉はポンコツもポンコツ、まさにキング・オブ・ポンコツと断言するにやぶさかでないしろものだった。動力源は古式豊かな慣性方式核融合炉(微小燃料に高出力レーザーを照射、内破によって瞬間的に核融合が引き起こされる。これは船体内でプチ水爆を連続的に爆発させているのに等しい)、速度は最高でもたったの秒速五十キロメートルが関の山だ。
 当然大手宙上輸送会社とまともな勝負になんかならないわけだが、船長は公言するにははばかられる違法貨物を地球近傍のコロニーへ密輸するというニッチを埋めることにより、そこそこの利益を上げていた。
 この手の商売ではどれだけ吝嗇家になれるかが肝要である。船長は見た目とは裏腹に業突く張りの守銭奴だったので、人件費、設備、広告費、その他いろいろのあらゆる費用が節約された。
 その結果呼気から二酸化炭素を除去する生命維持装置と、船体の気密構造に欠陥のある宇宙船が彼らの商売道具となり、数千キロメートル四方にわたって人っ子一人いないアステロイドベルトのど真ん中で酸素の漏出事故が顕在化したという顛末だった。
「データを用意しました。これを見てください」一等航海士がコンソールを操作すると、モニタにしぶしぶといった調子で数値が表示された。「これが本船〈トライアンフ〉の現状です」

貯蔵酸素残量 21,600リットル
再処理装置 故障

「人間の安静時酸素消費量は1分あたりおよそ4.5リットル。ここでは多めのバッファをとって5リットルとしましょう」
「いっぽう救命信号が受理されてアステロイド・レスキュー㈱から救助隊がやってくるのはかっきり3日後だ」船長は小声でつけ加える。「物語の都合上な」
「メタ発言は感心せえへんけどね、俺は」エンジニアは端末で猛烈に計算し始め、結果を高々と掲げてみせた。「出たで。これが俺らの寿命やな」

前提 エアクリーナーは故障しているので、酸素はリサイクルできない
成人の酸素消費量 5リットル/分 ……①
①より 1日の酸素消費量 5×1,440=7,200 ……②
①および②、かつ酸素貯蔵量は21,600リットルなので 21,600/7,200=3

「なんてこった。ぴったり3日じゃないですか」一等航海士は大げさに驚いてみせた。「なんの因果か知りませんが、レスキュー隊が到着するのと同時に空気がなくなるわけですね、物語の都合上」
「せやからメタ発言するな言うてるやんけ」
「ともかく、このままでは全員確実にお陀仏になる」タフな船長は渋面を作った。「そうならないよう、われわれは総力を結集してことにあたらねばならん」
 狭苦しい居住区に死のような沈黙が下りた。もはやのんべんだらりと寝転がっていてはいけない。まことに億劫だけれども、脳みそを使う必要があるのだ。
「〈冷たい方程式〉でいくしかないんとちがう」エンジニアが沈黙を破った。
「もったいぶらずに話せ。ただし四則演算以上の数式は使うなよ」
「ごっつ簡単でおま。貯蔵量が決まってんのやったら消費量を減らしたらええねん」
 航海士が割り込む。「そりゃそうですけど、交代で息止め選手権でもやるんですか」
「手っ取り早いのは自己犠牲精神に富むある人物に、永遠に息を止めてもらうことだろうな」
「そんな人物がいるとは思えませんがね」
「さっき諸行無常がどうとか哲学的な美辞麗句をのたまったご仁がいたっけなあ」船長の眼が鋭く光った。懐から護身用の銃を取り出す。「なんだったら手伝ってやらんでもないぞ」
「勘弁してください。ちょっとかっこつけてみたかっただけなんです」
「ほなしゃあない。くじ引きであたりを引いたやつが死ぬ。それでどうや」手のひらから魔法のように三本の細長い紙切れが現出した。「実はもう用意してあんねん。末尾が赤くなってるくじが当たりや。これなら公平やろ」
「あんたの作ったくじなんて信用できるもんか」航海士は嫌がるエンジニアからくじを奪い、末尾の色を白日の下にさらした。すべて赤だった。「最初に引いた人間が確実に大当たりを出すわけですね。おおかた船長に引かせて事業と宇宙船をまるごと乗っ取るつもりだったんでしょう」
「ちゃうちゃう、ホンマにちゃうて」船長が拳の骨を鳴らしながら迫ってくるのを必死に押しとどめる。「そういうことやないて。俺がのっけに引くつもりやってん」
「それならなぜいますぐ自殺しないんだ。なんだったら手伝ってやってもいいぞ」
「そのへんにしときましょう」航海士が割って入った。「どのみちくじじゃスムーズな自殺なんて成立しませんよ。当たりを出した人間は不正があったとかわめいて逃げようとするに決まってます」
 三人は腕を組んで目を閉じた。事態を打開するためにはもはや並みの思考回路ではだめだ。なにか途方もない論理の飛躍が求められている。台風一過ののち、近所のがらくた置き場にボーイング747が一丁上がっているくらいのド派手な飛躍が。
「そもそもなんで俺たちは酸素なんかを吸わなきゃならんのだ」名案を閃いたかのようにぽん、と手のひらに拳を打ちつけた。「なにかべつの元素で代替できんのか」
「深海に湧いてる熱水鉱床には化学合成細菌ちうのがおんねんで」エンジニアの瞳も輝き出した。「そいつらは亜鉛やら硫黄やらを取り込んで解糖系代謝をやるんやと」
「確か人間の呼吸を代行してるのはミトコンドリアでしたね」航海士が身を乗り出した。「連中はたまたま酸素の蔓延する環境に適応して好気呼吸生物に進化した。で、そいつがぼくらの細胞と共生していまにいたるわけです」
「待てよ。ミトコンドリアと共生できるなら、なんで葉緑体と共生できないわけがある?」船長は手を打ち鳴らして飛び上がった。「光合成できれば酸素を自前で産生できるじゃないか!」
「そんだけやない。結局解糖系代謝ちうのはエネルギーの源ATP(アデノシン三リン酸)を作るのが目的なんやから、酸素にこだわらんでもええんとちがうか」一升瓶からラッパ飲みをするしぐさ。「発酵や発酵。グルコース→ピルビン酸→乳酸、アルコール。効率は悪いねんけど嫌気的環境でも使える優れものや」
「細菌の進化スピードはものすごく速いそうですね。もしかするとぼくらはなんらの手も打たずにただ酸素欠乏を待ってればいいのでは」
 次はどんな水際立った妙案が飛び出すかうきうきしながら、船長が促した。「してその心は」
「自然淘汰ですよ。ぼくらの内部にいるミトコンドリアはいまのところ好気呼吸ですけど、環境が嫌気的になれば発酵をメインにした菌株が進化するはずです。そいつの遺伝子が受け継がれれば酸素なんかなくたってへっちゃらな身体になれる!」
「ふうむ、ネオ・ダーウィニズムの勝利というわけだな」船長は何度もうなずいている。
「嫌気的生物への進化路線でいくとして、あとは実際に代謝効率の変化を計算してみましょう」航海士はめがねのずれを直した(新しい目玉を多能性幹細胞から分化させて交換できる時代にもかかわらず、彼はめがねを愛用しているのだ)。「以下がその結果です」

好気呼吸によるグルコース1分子あたりのATP産生量 38分子 ……①
嫌気呼吸によるグルコース1分子あたりのATP産生量 3分子 ……②
①および②から 代謝効率 3/38=0.078

「およそ8パーセントまで低下するわけですね」
「それがなにか問題なのかね」船長はすっかりリラックスし、いすにふんぞり返っている。「動作は鈍くなるかもしれんが、そのぶんほかの人間より13分の1も老化が遅くなるんだ。感謝こそすれど文句を垂れる筋合いはないぞ」
「まとめるで。俺らは次のうちどれかが起きて生き延びる。①無機物からATPを生成できるようになる、②カルビン回路が派生して二酸化炭素固定ができるようになる、③ミトコンドリアが嫌気的呼吸を始める。これでええか」
「それでええよ」上機嫌なあまり、船長はエンジニアの方言をまねてみせた。「わしは神に感謝するぞ。雇ったクルーが二人ともたぐいまれな探偵揃いだったことをな」
 三人はすっかりくつろいだ気分で床に就いた。

     *     *     *

アステロイド星間コロニー監督局 行政官長殿
現場検分報告書
 弊社業務にて遭遇した星間事故を報告いたします。詳細は下記参照。

救難信号発信元 アステロイド・ベルト N行政地区
救難信号発信船 コールサイン未登録(船体には〈トライアンフ〉の表記あり)
事故内容 クルー3名の死亡
現場状況 船体の酸素残量がゼロになっていたことから窒息による死亡と思われる。この種類の事故ではほぼ必ず〈口減らし〉が行われるのがつねであるが、現場には争ったような形跡はなく、遺体にも損壊は認められなかった。不可解な点としては、船長とおぼしき人物のかたわらに〈ボーイング747は一夜にしてならず〉というメモ書きが残されていたことである。

アステロイド・レスキュー㈱ 上級チーフ 印
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