第1話(完結)

文字数 4,446文字

 ある夏の日。
 一人の初老の男がベッドに横たわっていた。

 その顔はどす黒く、一面に斑点のようなしみが散らばり、少し口をあいたままで、髪は薄く、かつての立派な体格を思わせる骨ばった体に、黄ばんだ皮膚が貼りついていた。

 ここは小さな町立病院で、男は勝男という。

 彼は今さっき上体を起こされ、前には移動式の小さな架台が寄せられ、四角いお盆にのった少量の流動食やお茶などが置かれていた。
 ベッドわきには、見舞いに来た目のくりくりした女の子とその母親が付いているが、彼の意識は霧が掛かり、目は半分開いているのに反応が乏しかった。

 彼は肝硬変が進行するとともに、脳軟化症による認知機能の障害が急速に悪化していた。ここしばらくは、今のようにぼーっとすることが多く、中でも問題なのは、ひどく食欲が減退し、自発的にはまったく食事を摂れていないことだ。

 つまりは、いよいよ最期が近づいていたのである。

 外は猛暑で蝉の声がうるさかったが、この部屋では窓のクーラーがガーっと大きな雑音を発し、そこそこ冷えた空気を送っていた。

(いちばんしなくてはいけないのは、ご飯を食べさせることね)
 つぶらな瞳で見つめていた涼子(りょうこ)はそう理解した。どうしたらこの人が食べてくれるか、さっきからずっと考えている。

(‥‥‥そうそう、この人は元軍人だから、命令すればしゃんとしてご飯も食べるはず)
 それが小さな頭で懸命に出した答えである。
 彼女は息を吸うと大きな声で呼びかけた。

「命令だ、これを食え!」

(な! なんてこと言うのこの子は!)
 うたた寝していた佳代子は顔色を変え、弾けるように立ち上がると涼子の肩をぐいっと引いた。

「やめなさい!」
 振り向いた涼子は口を尖らせた。
「だって、このまま食べなかったらおじいちゃん死んじゃうじゃない!」
「だからって、命令なんかするものじゃないでしょ!」
 佳代子は目を尖らせる。
「だって、おじいちゃ」
「やめなさいと言ったらやめなさい!」
「‥‥‥」

 しかし、女たちが口論する間に、勝男にわずかな変化が生じていた。半眼のまぶたが(かす)かにしばたいていたのである。

(‥‥‥命令? そうだった。あのとき俺たちは砂浜で突撃したんだ‥‥‥)

 二人は気づかなかったが、彼の頭脳は高速で回転を始め、三十年以上前の記憶をたどっていた‥‥‥

  ♢ ♢ ♢

 ...渡河に失敗し、大隊主力が河口の砂州を渡って敵陣に突入することになった。勝男の所属する中隊が先頭である。月明かりのもとで中隊長の命令が各小隊の伝令に伝えられた。

 男たちは目だけを光らせ、黙々と砂浜を匍匐(ほふく)し、砂州の手前で着剣した。先頭がじわじわ砂州を進んでいく。
 と、照明弾が上がった。
 中隊長が、がばと立ち上がり、軍刀を振り下ろした。それがキラリと光る。

「...突っ込めええ!」
 男たちは起き上がり、もの凄い勢いで突進した。
「うおあああああ!」

 その途端、大音響とともに凄まじい量の火箭が飛び交い、辺りを覆った。

 海岸の砂が弾け、破片が飛び交い、ある者は宙に舞い、ある者は地面に倒れた。倒れた者の上に別な者が倒れた。
 生身から流れ出たたくさんの血が、海岸の砂に沁み込んでいった。

 勝男たちは尖兵として真っ先に駆け出したが、砂州の端あたりで目の前の地面がはじけた。

 昭和十七年八月二十一日の未明、とある南海の島のできごとであった。

‥‥‥彼の頭脳はさらに回転し、場面も移っていく。

 ガ島を撤退した勝男は、ブーゲンビル島からフィリピンのルソン島の部隊に転属になり、しばらくは安穏な軍隊生活を送った。

 しかし昭和二十年一月。
 米軍がルソン島のリンガエン湾に上陸した。日本軍に堅固な防御態勢はできていなかった。

 勝男たちは敗走に敗走を重ね、最後はルソン島中部で東方のジャングル地帯に逃げ込んでいた。その一帯は人口も少なく、人跡未踏のジャングルには穀類はもちろん、食べられる果実や野草の類はほとんどなかった。
 悲惨な飢餓に陥った彼らは、現地民の集落に食糧を盗みに入り、追われては奥地に逃げるの繰り返しであった。

 勝男が行動を共にする仲間は次々に欠けていき、最後には彼が敬愛してやまない小隊長ただ一人になっていた。

 日付不詳だが、おそらく八月の後半。

 ジャングルの切れ目で、二人は小さな水流の横合いに倒れている。もう五日間、まともな食べ物を口に入れていない。自分らがどこにいるか皆目見当もつかない。
 悪いことに、小隊長は足の怪我が化膿し、一部は腐敗して骨が見えていた。高熱を発し、意識もほとんどない。

 小柄な彼を勝男は背負って逃げ、食糧さがしも一人でやっていたが、そのためにすっかり体力をなくしていた。彼自身も悪性のマラリアに冒され、もはや立ち上がるのもままならぬ状態である。二人に死が迫っていた。

 勝男は苦労して水辺に這って行き、水を汲むと、小隊長に飲ませようと這って戻った‥‥‥

  ♢ ♢ ♢

‥‥‥さっきの病室。
(そういえば、あたしの名前はおじいちゃんが付けてくれたんだっけ‥‥‥)
 涼子はそれを思い出した。彼女はこの名前が好きだ。なんでも勝男のいとこに涼子という奥さんがいて、凄く素敵な人だったと聞いている。

「女の子なら涼子がいい、涼しいって書いて涼子だ」
 勝男が強く言ったらしい。
 初孫の誕生に際し、名前の候補を求められたときのことだ。
 しかし、生まれたのは今日みたいな暑い盛りの八月一日で、両親は少し迷ったようだ。それでも、響きが良いし、夏だから逆に涼し気な名前もいいかと涼子に決めた。

 それからしばらく経ってのことだが、勝男は滅多に昔の話はしないのに、あるとき涼子の想い出をとても幸せそうな表情で話したという。それでこの名の本当の由来が分かったのだが‥‥‥

(きっと、おじいちゃんは好きだったのね、涼子さんのこと)
 彼女はそう思うたびに微笑ましく感じる。しかも、かっこ良いことに、その旦那さんはもの凄く強いゼロ戦パイロットだったそうな。

(多分、決闘したらおじいちゃんじゃ適わない。振られたんだ、ふふ)
 ちょうどいま、子供向け全集でそんな西洋の物語を読んでいた。

(‥‥‥おじいちゃんは戦争の話になると、いつも凄く嫌な顔をするけど、なんでなのかな。聞きたいけど、こんなことになっちゃったし‥‥‥でもやっぱり知りたいな)

 彼女に大東亜戦争の知識はほとんどなく、ましてや勝男の壮絶な戦歴など知る由もなかった。

 少しの間、考えに沈んでいると、母が声を掛けていた。
「涼子、‥‥‥涼子?」
「‥‥‥あ、ごめんなさい。ちょっと考え事してた。なに?」
「私、ちょっと電話架けてくるね。だけど、さっきみたいなこと言ったらだめよ‥‥‥じゃあ、もうちょっとがんばって食べさせてあげて」
「はーい」

 公衆電話は病院の小さな玄関ホールにある。バッグからがま口を取り出すと、佳代子は出て行った。さっきの「これを食え」から五分も経っていない。

 涼子が良く見ると、勝男は手をもぞもぞ動かしている。
(あれ? おじいちゃん、しゃんとするのかな?)
 少し首を捻って考えたが、今度は正攻法で行くことにした。

「おじいちゃん、ご飯だよ。食べないと病気良くならないよ!」
 勝男の腕や肩をさすってみたりもする。
「おじいちゃん!」

 勝男の手の動きは止まったが、口が開きかかったようにも見える。
(さあ、どうかな‥‥‥?)
 しかしそれ以上の変化はなかった。

「なーんだ、だめかあ。やっぱりショック療法じゃないとだめなんだよね。ママったら、なんにも分かってないんだから」
 彼女は勝手な結論に達すると、ドアから顔を出した。母は戻ってこない。
 よし‥‥‥
 今度は作戦を変えて耳元でそっと言ってみた。

「命令だ。これを食え‥‥‥」

 それを聞くと勝男の頭脳は再び回転を始め、封印していた記憶がよみがえってきた。

  ♢ ♢ ♢

 彼は、小隊長の水筒を引きずりながら戻った。たかだか十メートル這うのに結構かかる。
「小隊長殿‥‥‥水です」
 耳元で呼びかけたが応答はない。

 彼はやっとのことで起き上がり、震える手で水筒の蓋を小隊長の口にあてがった。水がこぼれたが、たぶん口に入った。

 と、小隊長が口を動かし始めた。目は開いていない。
 彼は耳を寄せた。
「なんですか? 小隊長殿」

「あ・り・が・とな」
「いえ、そんな‥‥‥」
「お・れ・は‥‥‥」
「はい」
「もう‥‥‥だ・め・だ」
 弱気は死神を呼ぶ。
「そんなことはありません‥‥‥俺が必ず食糧を‥‥‥見つけてきます‥‥‥大丈夫です」
 しかし勝男の息も荒い。もはや食糧などあるはずもない。
 言葉が途切れた。

「小隊長どの?」
 腕を揺すると、また口が動き出した。
「‥‥‥くう・ん・だ‥‥‥おれ・を」

 勝男はぎくっとした。人間の体を喰らう噂は聞いている。
「ばかな‥‥‥おやめください」
「き・け」
「はい」
「い・きて‥‥‥か・えれ‥‥‥にほ・ん・に」
「はい‥‥‥小隊長どのも一緒です」

「い・や‥‥‥おれ・は」
「はい」
「おまえ・の‥‥‥から・だ・に‥‥‥なって」
「おやめくだ」
「かえ・る。‥‥‥ならば・い・っしょ‥‥‥だ」
「それは‥‥‥」
 勝男は答えに窮した。

 しばし二人は沈黙し、せせらぎの音が続く。彼は不安になった。
「小隊長どの? どうされました?」
 しかしまたかすれ声。呼吸が不規則になり、かなり苦しそうだ。
「‥‥‥め‥‥‥」

 急に声がはっきりした。
「命令だ。俺を食え‥‥‥」

 そこで彼の呼吸は止まった。勝男はうろたえた。
「小隊長どの、小隊長どのお!」
 必死になって体を揺するが、反応はない。心の準備はできていなかった。

「なんで‥‥‥俺をおいて‥‥‥」
 彼は小隊長にすがりついて泣いた。

  ♢ ♢ ♢

‥‥‥目を開けると、ぼんやりした視界に女の子が見える。

 頭脳が回転し、その子が誰だか思い出した。世界に二人といない孫娘。
「あ、おじいちゃん、気がついたの?」

 しかし彼は聞いていなかった。小隊長に報告していたのだ。
 うれしかった。たまらなくうれしかった。
(あなたにいただいた命はこの子につなぎました‥‥‥私の役目は終わりました。いまから、おそばにまいります)

 彼は至福の表情のまま意識を失った。

 それから何日かねばったが、ついに頭脳の回転も止まった。ずいぶん遅れたが、彼は永久(とわ)の旅に出たのだ。そこには小隊長や他の懐しい人たちがいる‥‥‥

  * * *

 さて、彼はなぜ生還できたのだろうか?

 気がつくと彼は米軍の野戦病院に寝ていた。
 すでに戦争は終わっている。体が回復すると収容所に送られたが、戦犯にはならず翌年の一月に復員した。

 小隊長の死後、彼はそのまま隣に横たわっていた。一緒に死のうと思った。いつしか意識を失った。
 しかし、強靭な肉体が最後の二日間を生き延びさせた。雨も彼を助けた。そして、たまたまいつもより奥に入ったパトロール隊が、異臭によって二人を発見したのだ。
 
 



   -了-

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