第１話

　１９２０年、陸軍参謀本部の外局である陸地測量部所属の杉本一哲は満蒙の外邦図作成のため南満州測量の先遣として派遣された。到着後すぐに必要な物が用意された隠れ家へ向かうよう一哲は指示されていた。
　“確か地元の人間も近づかない荒れた古寺だったな”
　関東軍で渡された地図を頼りに進むと町はずれに寂れた古寺があった。その内にある指示された建物に入り室内を調べると現地の服装や測量用具等が揃えてあった。
　用事を一通り片付けた一哲は外に出て歩くと、鮮やかな花が咲き誇る中庭に行き着いた。
　「誰もいないという話だったよな？」
　そこでは若い娘が花の手入れをしていた。年の頃は十七、八で、目は切れ長、鼻筋が通った美人だった。
　大変そうな作業を見ているうちに一哲の体は自然と動き出し力仕事を手伝っていた。働く一哲を見て驚いた様子の娘だったが、目が合うとニッコリ微笑んだ。手を休めた一哲が気付くと娘はいなくなっていた。

　以前から町では数か月ごとに昼間でも暗い路地裏で男の旅人の死体が見つかっていた。それは正視に耐えられる状態ではなく、猛獣に襲われたものと噂されていた。

　珍しく明るいうちに帰った日のこと、一哲は手助けをした中庭に季節の花々を植えていた娘に声をかけた。
　「花がとてもきれいですね」
　「そんなにお花がお好きならば、好きなだけお持ちくださいな」
　「いいえ、私が好きなのは花ではなく花を育てている人ですよ」
　一哲は恥ずかしそうに可愛らしい髪飾りを娘に渡した。娘は髪飾りを嬉しそうに受け取ると足早に去った。一哲が追いかけて角を曲がると、そこには姿はなかった。

　その夜、一哲が一服していると娘が虚ろな目をして訪ねてきた。
　「あなた様のお言葉が忘れられなくて…　どうか私のことを可愛がってください…」
　一哲は真面目で一途な男だった。
　「私は結婚する方と一生を添い遂げたいのです。まず、あなたのご両親にお会いして
　「誰にもこのことは分かりませんわ」
　「ええい、早く出てお行きなさい！」
　一哲は娘を部屋から追い出し扉を乱暴に閉めると外から娘が謝りながら呼びかけてきた。
　「すみません…　あなた様の声で目が覚めました…　あなた様は心から実直な方ですので本当のことをお話します。私の名は小静と言い若くして死にましたが、貧しいためうらぶれたこの寺に葬られました。主のないこの寺に住んでいた魔物に脅され操られよそ者の男をたぶらかしては生贄に…」
　小静はハッとして叫んだ。
　「今晩魔物があなた様を食べに来ます！　お逃げ下さい！」
　「魔物なんて今の世にはいませんよ」
　「私とて幽霊です…　魔物はおります」
　小静は扉を開けると部屋に戻って来た。
　「では、私にお任せ頂けませんか」

　「小静はおらんのか」
　部屋に入って来た渦のような煙が魔物の姿に変化した。
　「今まで脅され操られて言いなりになってきましたが、もう終わりにいたします」
　「そうか…　誰のおかげで今の姿になっていられると思っとるのだ」
　「今、私は自分の大切な人に出合えたのです」　
　魔物は深く息をした。
　「お前はこの男のことが好きなのか」
　いつの間にか魔物の前に一哲が横たわっていた。
　「この男を殺して幽霊にしてやる。いつまでもお前たちは一緒にいられるぞ」
　「ダメです！　その人には幸せに生きて欲しいのです！」
　「ワシはお前がおらんと食い物に困る…　すまんな、小静」
　魔物は一哲の胸から心臓を取り上げた。
　「おやめなさい！」
　魔物にしがみついた小静はありがたい念仏を唱え始めた。もがき苦しんだ魔物が心臓を手放したすきに小静は心臓を一哲に戻した。
　“あなた様にもご利益がありますように”
　念仏を唱えながら小静は一哲に口づけし、一哲の唇をも動かすことで気を失った一哲にも念仏を唱えさせた。
　「お前も土の中の姿に戻るのだぞ小静！」
　魔物は断末魔をあげ、姿はまた煙に戻り霧消してしまった。

　気が付いた一哲は抱きついた小静を自分から引き離し赤い顔をして背を向けた。小静は後ろを向く一哲に話しかけた。
　「妖魔を成仏させるありがたい念仏を知っていましたが、自分がしろほね姿に戻るのに耐えられず魔物の言いなりになっていました…　でも、あなた様に出合い自分より大切な方を得たことで自分のことはどうでもよくなったのです」

　一哲が振り返って小静を見ると、見る見るうちに小静の体は透きとおっていく。
　「どうやら仏様は私のことを憐れんでくれたようですね」
　「小静のご両親にお許しを頂きに行きたかったのに…」
　「ほらほら、あなた様が楽しく生きてくれないと私も楽しく成仏できませんわ」
　そう言うと小静の姿は粉雪のようにキラキラ光りながら舞い落ち、その後には一哲の手渡した髪飾りが残っていた。