ある日
文字数 1,991文字
秋。のんびりと河川敷を歩く。晴れ晴れとした朝だ。幅の広い、澄み切った川を横目に見ながら、使いまわされたビニール袋をゆらゆらと揺らして、足の向く方向へと進む。袋の中には胡麻あんまんと、暖かいお茶が入っている。冷めないうちに、少しでも早く食べてしまいたい。
静穏な草原が、すべての土壌を覆い隠すように一面に広がっている。凹凸のないところに、一つだけ、ベンチがあるのを見つける。川から随分と離れていて、草原の隅っこに置かれている。ひっそりと、自然を、私たちを見守るように佇んでいる。精彩を放っている。私はそこに向かう。
ベンチを見て、少し不思議に思った。妙に生活感があり小綺麗であった。誰かが毎日来て、埃をはらっているような情緒があった。近づいて腰をかける。空気では伝わらないような、金属的な冷たさを帯びていた。材木でできていた。ビニール袋を隣において、ご飯を取り出す。ガサガサと音を立てる。袋の中はこたつの中のように暖かかった。
お茶を軽く振って、両手で持ち、開けて一口飲む。ほのかに冷えた私の心身を、じんわりと溶かしてくれる。やはり、このお茶はホットで飲むのがうまい。なんとなく他のお茶よりも香りが立っているような、立っていないような、そんな気がする。キャップを固く閉めて袋に入れなおす。お茶の香りは、鼻腔をずっと行ったり来たりしている。
苦みは甘みと調和する。次は甘味だ。胡麻あんまんの底にくっつく薄紙を取り除いて、ぱくりと食べる。胡麻の風味が甘みをより甘美なものにしている。皮は思ったよりも薄く、これみよがしに中身が詰まっていた。餡が私をねっとりと包み込んでくれる。鮮烈に幸福を感じさせてくれる。満たされていく。
風景や自然の音が鮮明にあらわれてくるのを感じる。
常緑樹と落葉樹が混在している。秋になって漸く気付くことができる。穏やかな色彩が広がっている。
川のせせらぎや鳥のさえずりが風景を淡く装飾している。
一人でなければ感ずることのできない喜びを、じっくりと味わう。一人でなければ経験することのできない情感を、しみじみと理解する。私は、秋に溶け込んでいく。ゆっくりと沈み込んでいく。
「にゃあ」
「ぅにゃー」
すりすりとこすりあてるような音が聞こえる。
「にゃ。」
——ネコ?
ネコだ。ネコが、私の足に体をすり寄せている。
「かわい」
白色と、橙色に似た茶色と、黒色の毛がふさふさと立っている。「あ。ミケ猫って、三毛猫なのか。」
それにしても人懐っこいネコだ。飼われていたのだろうか。それともどこかで、誰かに優しくしてもらっていたのだろうか。私の両足の間に挟まりながら小さく鳴いている。本当にかわいい。見惚れてしまう。足がしびれるくらいに時間を忘れて、じっと眺め続けていた。
「こんにちは。」
不意に、右斜め後ろから声を掛けられる。肩が跳ね上がったまま返事をする。
「こ、こんにちは。」
振り返ると女性が立っていた。目が合うと、彼女は笑ってくれた。彼女の目線は次第に下に移り、今はネコと、じっと目を合わせている。会話しているようだった。この人からどことなく、どこかで見たことがあるような懐かしさを感じる。艶のあるショートヘアーに、整った目鼻立ち、ほんのりとえらが張っていて活気のある顔つきをしている。
思い出した。決して友達ではないけれど仲が良かった人。通っていた高校の担任の先生だ。多分。
「もしかして、柏木先生ですか?」
先生は少し驚いたような表情をしてから、眉間に皺を寄せて、何かを探すように私を見続ける。
「君は。」
「まさき、くん。正樹くんだ。」
先生は覚えてくれていた。
「そうです。お久しぶりです。」
柏木先生と私はどういうわけか仲が良かった。高校生だった頃なんて三、四年も昔のことだ。仲が良かったという記憶以外、どこかに消えてしまっていた。
先生は言う。
「久しぶり。元気にしてた?高校の時、なんでかな、よく話してたよね。それだけは覚えてる。しかしまあ偶然だね、こんなところで会うなんて。私はね、予定のない日はこのベンチでご飯を食べるのが習慣なんだ。ここは秘密の場所みたいで落ち着くから。きっと君も、その雰囲気を感じ取ったんだね。」
先生は、雪のように白い布でくるまれた弁当箱を右手に持っていた。手づくり感があふれている。私の隣に腰を下ろして、布をほどき、弁当を開ける。色彩豊かなお弁当だ。黙々と食べている。真摯に向き合っている。
先生はおもむろに枝豆を箸で持ち上げて、私に食べさせた。皮ごと食べた。塩味が効いていておいしいです。そう言うと、先生は静かに笑った。
二人なのに、一人のように、秋に溶け込んでいる。
知らず知らずのうちに、ネコは先生の足元で毛づくろいをしていた。
一口、お茶を飲む。すっかり冷めていたが、香りは死んでいなかった。むしろ生き生きとしていた。
静穏な草原が、すべての土壌を覆い隠すように一面に広がっている。凹凸のないところに、一つだけ、ベンチがあるのを見つける。川から随分と離れていて、草原の隅っこに置かれている。ひっそりと、自然を、私たちを見守るように佇んでいる。精彩を放っている。私はそこに向かう。
ベンチを見て、少し不思議に思った。妙に生活感があり小綺麗であった。誰かが毎日来て、埃をはらっているような情緒があった。近づいて腰をかける。空気では伝わらないような、金属的な冷たさを帯びていた。材木でできていた。ビニール袋を隣において、ご飯を取り出す。ガサガサと音を立てる。袋の中はこたつの中のように暖かかった。
お茶を軽く振って、両手で持ち、開けて一口飲む。ほのかに冷えた私の心身を、じんわりと溶かしてくれる。やはり、このお茶はホットで飲むのがうまい。なんとなく他のお茶よりも香りが立っているような、立っていないような、そんな気がする。キャップを固く閉めて袋に入れなおす。お茶の香りは、鼻腔をずっと行ったり来たりしている。
苦みは甘みと調和する。次は甘味だ。胡麻あんまんの底にくっつく薄紙を取り除いて、ぱくりと食べる。胡麻の風味が甘みをより甘美なものにしている。皮は思ったよりも薄く、これみよがしに中身が詰まっていた。餡が私をねっとりと包み込んでくれる。鮮烈に幸福を感じさせてくれる。満たされていく。
風景や自然の音が鮮明にあらわれてくるのを感じる。
常緑樹と落葉樹が混在している。秋になって漸く気付くことができる。穏やかな色彩が広がっている。
川のせせらぎや鳥のさえずりが風景を淡く装飾している。
一人でなければ感ずることのできない喜びを、じっくりと味わう。一人でなければ経験することのできない情感を、しみじみと理解する。私は、秋に溶け込んでいく。ゆっくりと沈み込んでいく。
「にゃあ」
「ぅにゃー」
すりすりとこすりあてるような音が聞こえる。
「にゃ。」
——ネコ?
ネコだ。ネコが、私の足に体をすり寄せている。
「かわい」
白色と、橙色に似た茶色と、黒色の毛がふさふさと立っている。「あ。ミケ猫って、三毛猫なのか。」
それにしても人懐っこいネコだ。飼われていたのだろうか。それともどこかで、誰かに優しくしてもらっていたのだろうか。私の両足の間に挟まりながら小さく鳴いている。本当にかわいい。見惚れてしまう。足がしびれるくらいに時間を忘れて、じっと眺め続けていた。
「こんにちは。」
不意に、右斜め後ろから声を掛けられる。肩が跳ね上がったまま返事をする。
「こ、こんにちは。」
振り返ると女性が立っていた。目が合うと、彼女は笑ってくれた。彼女の目線は次第に下に移り、今はネコと、じっと目を合わせている。会話しているようだった。この人からどことなく、どこかで見たことがあるような懐かしさを感じる。艶のあるショートヘアーに、整った目鼻立ち、ほんのりとえらが張っていて活気のある顔つきをしている。
思い出した。決して友達ではないけれど仲が良かった人。通っていた高校の担任の先生だ。多分。
「もしかして、柏木先生ですか?」
先生は少し驚いたような表情をしてから、眉間に皺を寄せて、何かを探すように私を見続ける。
「君は。」
「まさき、くん。正樹くんだ。」
先生は覚えてくれていた。
「そうです。お久しぶりです。」
柏木先生と私はどういうわけか仲が良かった。高校生だった頃なんて三、四年も昔のことだ。仲が良かったという記憶以外、どこかに消えてしまっていた。
先生は言う。
「久しぶり。元気にしてた?高校の時、なんでかな、よく話してたよね。それだけは覚えてる。しかしまあ偶然だね、こんなところで会うなんて。私はね、予定のない日はこのベンチでご飯を食べるのが習慣なんだ。ここは秘密の場所みたいで落ち着くから。きっと君も、その雰囲気を感じ取ったんだね。」
先生は、雪のように白い布でくるまれた弁当箱を右手に持っていた。手づくり感があふれている。私の隣に腰を下ろして、布をほどき、弁当を開ける。色彩豊かなお弁当だ。黙々と食べている。真摯に向き合っている。
先生はおもむろに枝豆を箸で持ち上げて、私に食べさせた。皮ごと食べた。塩味が効いていておいしいです。そう言うと、先生は静かに笑った。
二人なのに、一人のように、秋に溶け込んでいる。
知らず知らずのうちに、ネコは先生の足元で毛づくろいをしていた。
一口、お茶を飲む。すっかり冷めていたが、香りは死んでいなかった。むしろ生き生きとしていた。