第1話
文字数 2,000文字
おれは世界一の豆腐屋になる。そう言って、兄が大学を辞めてきた。
兄は父と壮絶な喧嘩を繰り広げ、そのすえに勘当を言い渡された。
「前から古いと思ってたけど、いまどき勘当とか。やっぱりオモロイわ、あのおっさん」
荷造りをしながら、兄はへらへらと笑っていた。二年通った医学部を勝手に辞めてきて、この調子なのだから、父も母も、本当に浮かばれない。
「なんや、お前もそういうこと言うんか。ええか、『TOFU』はヘルシーフードとして世界で注目されてるんやぞ。ヴィーガンにも愛されとる。これからの時代は豆腐や」
なぜか得意げな顔をして、兄はそう語った。かと思うと、ふいに兄は照れた表情になった。こういうとき、兄はだいたい本音を漏らす。
ぼそっと、兄はこう言った。
「……それに、おれには人を切るより、豆腐を切るほうが性にあっとる」
そういえば、兄の大学では、少し前から解剖実習が始まっているはずだ。あぁ、怖気づいたのか。私は思わず噴き出した。
「ふん、お前は平気やろうな、ああいうの。ガキのとき、虫やら蛙やら、素面 でバラして遊んでたもんな。お前は医者向きや。おれには無理やった。まじめに勉強して、親父のあと継いだれよ」
兄に、嫌みのつもりはまったくなかっただろう。だが、その言葉は、なぜかノイズのように耳の中で響いた。なんとなく手伝おうかと思っていた私は、うるさく思って、兄の部屋から退散した。
昔から、兄は勉強が嫌いだった。宿題をほっぽりだして、昼寝をしたり、本を読んだり、蜥蜴 を捕まえたり。あいつはホンマに駄目な奴やと、父はたびたび愚痴っていたけれど、兄を強く叱ることはできかねるようだった。なぜなら、定期テストはすべて満点だったからだ。模試の結果も、悪かったことは一度もない。
「あんなん授業中に教科書読んでたらできるやろ」
それが、兄のお決まりの弁だった。
一方の私は、こつこつと宿題をやり、予習復習も欠かさなかった。それで、いつも九十前後の点数。模試もまずまず。父も母も、私のことを褒めてくれたが、その裏にどういう思いがあったかはわからない。
私は兄に負けたくなくて、せめて努力の数だけは、と、勉強することをやめなかった。そのおかげか、いまのところ、受験で失敗したことはないし、来年受ける予定の志望校も、十分に射程圏内だ。
あるとき、兄は私にこう言った。
「お前は偉いな。机に向かい続けるなんて、おれにはできん。将来、お前のほうがぜったい出世するわ。そしたら、兄ちゃんのこと養ってくれや」
喧嘩売ってるのかこいつ、と殴りたくなったが、照れている兄の顔を眺めるうち、自然と拳がほどけてしまった。
だから、医学部を受ける、と兄が言い出したときには、家族全員がひっくり返りそうになった。父などは、一応あとを継ごうとしている息子に対して、あべこべに説教をしてしまうくらいに混乱していた。
「まぁ、医者も悪くないか、と思ったんや」
そんなファストフード感覚で医の道に進める人間がこの世にどれくらいいるだろうか。例の照れ顔を前に、私は呆れてものも言えなかった。
「ほないくわ」
大荷物を持った兄は、玄関先で振り向いて、私の髪をくしゃくしゃにした。私はその手を払い、二度と帰ってくるなよ、養わずに済むから、と言ってやった。
「可愛げのない妹やなぁ」
兄はくすぐったそうに笑った。
「あぁ、おれの部屋に置き土産あるから。お前は来年、あれが要 るやろ。じゃあな」
そう言い残して、兄はひとり、去っていった。
すっかりものがなくなった兄の部屋は、やけに広く感じられた。
兄の置き土産は、部屋の片隅にあった。参考書が一冊。表紙には、兄の通っていた大学名と、少し前の西暦が印字され、それから汚い手跡で、兄の名前が書かれている。
ぱらぱらと開いてみたが、どのページにも書き込みはない。努力の形跡がどこにも見られず、いちおう買ってみただけの代物。それがどうしようもなく兄らしくて、私は顔をしかめる。過去問を見るだけなら、予備校でいくらでも遡れる。誰かから参考書を譲り受けるメリットは、どこで何を悩んだのか、どう考えたのか、その格闘の痕を知れる書き込みにこそあるはずなのに。こんなの、何の役にも立たない。
私は改めて、室内を見回した。しかし、この参考書以外に、残されたものは何もない。年中敷きっぱなしの小汚い布団も、床が抜けるんじゃないかと思うくらい大量にあった本も、どこかから買ってくる正体不明の爬虫類のフィギュアも。もちろん、あの無駄に大きな図体が横たわる姿も。
部屋のどこを探しても、兄の痕跡は見つからない。まるで最初からいなかったかのように。どこかから『遠き山に日は落ちて』が流れてきて、子供たちに帰宅を促している。
私はいつの間にか、兄の参考書をぎゅっと抱きしめていた。
がらんどうの部屋の中で、ただその重みだけが、兄がいた確かさを伝えていた。
兄は父と壮絶な喧嘩を繰り広げ、そのすえに勘当を言い渡された。
「前から古いと思ってたけど、いまどき勘当とか。やっぱりオモロイわ、あのおっさん」
荷造りをしながら、兄はへらへらと笑っていた。二年通った医学部を勝手に辞めてきて、この調子なのだから、父も母も、本当に浮かばれない。
「なんや、お前もそういうこと言うんか。ええか、『TOFU』はヘルシーフードとして世界で注目されてるんやぞ。ヴィーガンにも愛されとる。これからの時代は豆腐や」
なぜか得意げな顔をして、兄はそう語った。かと思うと、ふいに兄は照れた表情になった。こういうとき、兄はだいたい本音を漏らす。
ぼそっと、兄はこう言った。
「……それに、おれには人を切るより、豆腐を切るほうが性にあっとる」
そういえば、兄の大学では、少し前から解剖実習が始まっているはずだ。あぁ、怖気づいたのか。私は思わず噴き出した。
「ふん、お前は平気やろうな、ああいうの。ガキのとき、虫やら蛙やら、
兄に、嫌みのつもりはまったくなかっただろう。だが、その言葉は、なぜかノイズのように耳の中で響いた。なんとなく手伝おうかと思っていた私は、うるさく思って、兄の部屋から退散した。
昔から、兄は勉強が嫌いだった。宿題をほっぽりだして、昼寝をしたり、本を読んだり、
「あんなん授業中に教科書読んでたらできるやろ」
それが、兄のお決まりの弁だった。
一方の私は、こつこつと宿題をやり、予習復習も欠かさなかった。それで、いつも九十前後の点数。模試もまずまず。父も母も、私のことを褒めてくれたが、その裏にどういう思いがあったかはわからない。
私は兄に負けたくなくて、せめて努力の数だけは、と、勉強することをやめなかった。そのおかげか、いまのところ、受験で失敗したことはないし、来年受ける予定の志望校も、十分に射程圏内だ。
あるとき、兄は私にこう言った。
「お前は偉いな。机に向かい続けるなんて、おれにはできん。将来、お前のほうがぜったい出世するわ。そしたら、兄ちゃんのこと養ってくれや」
喧嘩売ってるのかこいつ、と殴りたくなったが、照れている兄の顔を眺めるうち、自然と拳がほどけてしまった。
だから、医学部を受ける、と兄が言い出したときには、家族全員がひっくり返りそうになった。父などは、一応あとを継ごうとしている息子に対して、あべこべに説教をしてしまうくらいに混乱していた。
「まぁ、医者も悪くないか、と思ったんや」
そんなファストフード感覚で医の道に進める人間がこの世にどれくらいいるだろうか。例の照れ顔を前に、私は呆れてものも言えなかった。
「ほないくわ」
大荷物を持った兄は、玄関先で振り向いて、私の髪をくしゃくしゃにした。私はその手を払い、二度と帰ってくるなよ、養わずに済むから、と言ってやった。
「可愛げのない妹やなぁ」
兄はくすぐったそうに笑った。
「あぁ、おれの部屋に置き土産あるから。お前は来年、あれが
そう言い残して、兄はひとり、去っていった。
すっかりものがなくなった兄の部屋は、やけに広く感じられた。
兄の置き土産は、部屋の片隅にあった。参考書が一冊。表紙には、兄の通っていた大学名と、少し前の西暦が印字され、それから汚い手跡で、兄の名前が書かれている。
ぱらぱらと開いてみたが、どのページにも書き込みはない。努力の形跡がどこにも見られず、いちおう買ってみただけの代物。それがどうしようもなく兄らしくて、私は顔をしかめる。過去問を見るだけなら、予備校でいくらでも遡れる。誰かから参考書を譲り受けるメリットは、どこで何を悩んだのか、どう考えたのか、その格闘の痕を知れる書き込みにこそあるはずなのに。こんなの、何の役にも立たない。
私は改めて、室内を見回した。しかし、この参考書以外に、残されたものは何もない。年中敷きっぱなしの小汚い布団も、床が抜けるんじゃないかと思うくらい大量にあった本も、どこかから買ってくる正体不明の爬虫類のフィギュアも。もちろん、あの無駄に大きな図体が横たわる姿も。
部屋のどこを探しても、兄の痕跡は見つからない。まるで最初からいなかったかのように。どこかから『遠き山に日は落ちて』が流れてきて、子供たちに帰宅を促している。
私はいつの間にか、兄の参考書をぎゅっと抱きしめていた。
がらんどうの部屋の中で、ただその重みだけが、兄がいた確かさを伝えていた。