第1話

文字数 4,269文字

 季節は梅雨――
 最近、とても悲しいことがあったはずなのに、涙が出ない。まるで、あの日に全てを流してしまったかのよう。そんな私の代わりに、空は今日も泣いてくれていた。とても悲しそうな泣き声だと、どこか他人事のように捉えながら、わたしはぼんやりとテレビを見る。テレビからは、芸能人の誰某が結婚したと、平和な情報が流れてくる。その人は私も大好きな芸能人だったのに、心は動かない。涙だけでなく、心も渇れ果てているのかもしれない。けれど、今の私にはそんな自分の状態でさえ、どうでもよかった。
 彼と別れた――
 その事実が、私の胸に重くのしかかる。取ろうとしても取れない重みに、彼の存在の大きさを思い知った。瞼を閉じれば、今でも彼の笑顔が浮かんでくる。もう忘れなければいけないのに、心が許してくれない。それほどまでに、私は彼のことを愛してしまっていた。
 彼との出会いは、寒くなり始めた季節――
「初めまして。安藤優夜(あんどうゆうや)です。今日はよろしくお願いします」
水嶋忍(みずしましのぶ)です。こちらこそ、よろしくお願いします」
 彼は、会社の取引先の営業を担当している。その日は、打ち合わせも兼ねて食事をすることになっていた。彼はとても気さくな人で、打ち合わせはトントン拍子に進んでいた。話していてとても楽しかった。仕事の話だけでなく、プライベートなことまで話していく内にすっかり意気投合した私達は、二軒目の店へと移動し、朝まで語り明かした。
「水嶋さんは何がご趣味ですか?」
「私はパンが好きで、休日は色々なパン屋を回ってるんです」
「奇遇ですね!俺もパン好きなんですよ!」
 趣味の事、出身地のこと、恋愛のこと……色々な話をした。不思議と私達は話が合った。同じものが好きで、出身地は隣町。人とは不思議なもので、共通点があるというだけで、彼への好感度は上がっていった。そしてそれは、彼も同じだった。
 それから、幾つかの月日が流れた――
「忍さん、今夜一緒に食事でもどう?」
「いいよ。あっ、じゃあこのレストラン行かない?焼きたてパンがあるらしいよ?」
「いいね!行こう!」
 仕事とは関係なく、何度か彼と食事に行った。彼と一緒に過ごす時間はとても温かく、安心できる一時だった。時には仕事の愚痴を話したり、今日食べた物の話をしたり。そんな他愛もない会話を楽しんだ。
 そして、冬の終わりが見え始めた頃――
「忍、好きだ。俺と付き合ってくれる?」
「……はい」
 彼から思いを告げられ、私はそれを受け入れた。私と彼は恋人と呼ばれる関係になった。それまで以上に、私達は色々な所に出掛けた。初めてのデートは某ネズミの国。年甲斐もなくはしゃいだ。それから、温泉に旅行にも出掛けた。初めてのお泊まりデートに必要以上に気合いを入れて臨んだ記憶がある。
「忍……課長が酷いんだ……」
「うん。聞くよ?何を言われたの?」
 付き合ってから、彼は意外と泣き虫だと知った。会社で何かあればすぐ私に泣きついてきて、そんな彼に母性を擽られた私は彼の話聞き、慰めてあげていた。
 どれもとても楽しく、幸せな記憶達――
 この頃の私は、とても満ち足りていた。
 そして、短い春が終わりを告げた頃――
「今8週目ですね。おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます!」
 仕事中に気分が悪くなった私は、掛かり付け医に紹介された産婦人科を訪れた。診察の結果、わたしのお腹には、彼との間に出来た新しい命が宿っていた。
 嬉しさと同時に、彼がどう思うか、そんな不安に襲われていた。私達はまだ付き合って半年にも満たない。そんな状況で子どもが出来るのは、やはり時期尚早な気もする。自分と新しい命を、彼は受け入れてくれるのだろうか。優しい彼だ。きっと喜んでくれる。そう信じたいけれど、どこかで信じきれない自分がいた。
 そんなことを考えながら帰り道を歩いていた時、ふと、病院に日傘を忘れたことに気付いた。まだそんなに離れた距離ではない。私は踵を返し、傘を取りに戻った。
 そして、見てしまった――
「もうすぐだね、愛華。早く赤ちゃんに会いたいな」
「ふふっ……優夜、赤ちゃん産まれたらちゃんとお世話してね?」
「もちろん。良いパパになるよ」
 お腹の大きな可愛い女の子と一緒に、病院に入っていく彼。その左手薬指には、普段はない銀色の指輪が付けられている。とても幸せそうな夫婦の姿に、私の心は粉々に砕かれた。
 不倫相手にされていたなんて、全く気付かなかった。けれど、今思い返せば不審な点は沢山あった。付き合ってから、私の家には来てくれるのに、まだ一度も彼の家に招かれたことはない。デートをしている間も、何度もスマホで誰かにLINEをしていた。時にはホテルに入ってから、誰かに「帰りは遅くなる」と電話をしていることもあった。すっかり舞い上がっていた私は、まだ彼は実家で暮らしていて、電話の相手は御両親だろうと思い込んでいた。けれど、おそらくは電話の相手は奥さんだったのだろう。結局、彼にとって私はただの遊び相手に過ぎなかったのだ。
 現実を受け止めることが出来ず、私はすぐにその場から走り去った。どこをどう走ったのかは覚えていない。ただその場から逃げだしたくて、まっすぐ走り続けた。
 家に辿り着き、扉を閉めると私は玄関にしゃがみこむ。そして、声を押し殺して泣いた。
 現実に納得できない思い――
 彼への恨み言――
 そして、赤ちゃんへの申し訳なさ――
 その全てを涙に込めて流す。泣いて、泣いて、涙が枯れ尽くすまで泣き続けた。
 気付けば青かった空がオレンジ色に変わっていた。その頃には、不思議と私の気持ちも鎮まり、覚悟が決まっていた。部屋の中に入り、涙でぐちゃぐちゃになった顔をタオルで拭うと、私はスマホに手を伸ばす。そしてすぐ、彼にLINEを送った。
『他に好きな人が出来たから、別れてください』
 その嘘は、一時でも幸せな夢を見せて彼に対する感謝と、私なりの精一杯の優しさだった。子どもが出来たと知れば、彼は責任を感じ悩み苦しむだろう。もしかしたら、奥さんにも全てを話してしまうかもしれない。けれど私が真実を隠し通せば、彼と奥さんの幸せを壊さずに済む。あんな幸せそうな二人の仲を私は壊したくなかったのだ。
 当然、納得がいかない彼はすぐに連絡をしてきた。彼の問いに対して、私は嘘を貫き通した。これが、最初で最後の彼との喧嘩。そして、この喧嘩に勝ったのは私だった。頑として意見を変えない私に、彼が折れたのだ。どちらともなく別れの言葉を告げ、通話終了ボタンを押す。
「疲れた……」
 私はベッドに倒れ込む。これでいいのだ。これが一番傷を浅くする方法。もう、彼が泣いても私は気付いてあげられない。側にはいてあげられない。けれど、彼には奥さんともうすぐ産まれる子どもがいる。これが最善の方法なのだ。そう言い聞かせながら、私はお腹に手を当て、ゆっくりと擦る。そこに確かにいる温かさを感じながら、私は再び涙を流した。
 それから、まだ一ヶ月。心に刻まれた傷は鈍い痛みを発しているけれど、そんな事情などお構い無しに、日々の生活は続いている。生きていく為に、休むことは出来ない。毎日が目まぐるしく回っていくおかげで、仕事の間は彼のことを忘れることが出来た。けれど、休みになるとまた、思い出してしまう。思考があの日で止まってしまう。これでは駄目だと分かってはいるが、傷が完治するまでにはまだ時間がかかりそうだった。
 そして、五年後ーー
「お母さん! 見て見て! すっごく長い滑り台があるよ!」
私と繋がれた手の先には、幼い娘の姿。その目の先には、ローラー付きの大きな滑り台。キラキラと目を輝かせて、他の子ども達が滑っていく様を眺めていた。
希望(のぞみ)、滑ってくる?」
「うん! お母さんも一緒に滑ろう!」
「いいよ。じゃあ滑りに行こうか?」
 私は笑顔で娘の誘いに答えた。そして、二人で滑り台の方向へと歩いていった。
 あれから月日は流れ、お腹の中にいた子は四つになった。出産後は仕事に育児に忙しかった。それでも、この笑顔を見れば全てが吹き飛んだ。私にとって娘は希望そのもので、とても大切な存在になった。いつしか傷は癒え、幸せな日々が戻ってきた。
 階段を登り、頂上に辿り着く。滑り口に娘が座った後、その後ろに私も腰かける。
「せーの」
 掛け声を合図に、私達は滑り台を滑り降りた。急勾配に曲がりくねったコース。長い長いその道を、キャッキャッと声を出しながら楽しむ。やがてゴールに辿り着き、私は再び娘と手を繋いだ。「楽しかったね」と話していると、ふと後ろから声をかけられる。
「どこ行ってんだよ。探したぞ」
 振り返れば、そこにはジュースを持った男性の姿。彼を見て、娘の表情は明るくなる。気付けば私の手を離し、彼に飛びついていた。
「お父さん!」
 娘が父と呼ぶ彼は、私の夫だった。彼は血の繋がらない娘を愛おしそうに見つめ、頭を撫でる。
 あの後、私は一人で娘を産んだ。誰にも父親の名前を明かさず、実家の両親の助けを借りながら娘を育ててきた。そんな時に、親に勧められて参加した同窓会で、久しぶりにあった部活仲間の一人が夫だった。同窓会をきっかけに連絡を取り合うようになり、付き合うようになった。一年ほどでプロポーズされたが、一度は断った。前の彼のこともあったが、何より、娘が大事だったから。娘にとってこの選択が良いことなのか、その時はまだ自信がなかった。それでも夫は私の側を離れず、支えてくれた。娘とも本当の親子のように接してくれた。その姿を見て、この人なら大丈夫と思うようになった。そして私は二度目のプロポーズを受け入れ、夫と家族になった。
 彼と別れた時は、世界から全ての色が消え去ってしまったかのようだった。けれど、娘と夫のおかげで私の世界は前よりも色鮮やかになった。きっと娘と夫に出会う為に、私と彼は出会い、短い季節を共にしたのだ。いつしか私はそんな風に思うようになっていった。
「忍! 置いてくぞ!」
 いつの間にか娘を抱きかかえた夫が、私の名を呼ぶ。仲の良い父娘(おやこ)の姿に思わず目元を緩めた。
 あぁ、今は幸せだ――
「待ってよ! 今行くから!」
 そして私は、夫と娘の許へと駆けて行った。
 三人で紡ぐ、幸せな未来へと向かって……

~Fin~
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