第1話

文字数 3,407文字

 
 私は地下鉄への道を歩いていた。頭痛は少しばかりよくなったが、飲み続けた頭痛薬のせいか、胃のあたりがむかむかからきりきりにかわりつつある。久しぶりに高めのパンプスを履いてみたが気は引き締まらぬまま、昔痛めた膝が痛みだす。

 曲がり角をわざと勢いよく曲がってみた。そして思う。私自身もターニングポイントだと。人としても。女としても。

 メジロとの別れも近そうだ。メジロは今夜来る。




 メジロとは三年になる。

 三年前は最高のパートナーを得たと思った。目指すところは夫婦ではなく、最高のパートナー。

 メジロは今でも悪くない。以前のように涙腺が緩むほどではないにしても、好きに変わりはない。今、結婚を申し込まれたら、以前のように

 自分にはもっとやりたいことがある

 ライフスタイルの違いが…

 求めるものが違うわ…
 
 と言って断ったりしない。

 油断をすれば、イエス! イエス! イエス!と答えてしまうかもしれない自分がいる。

 けれどメジロは安らぎを求め始めていた。メジロが後ろずさりをしている、と感じ始めてかなりになる。私は、メジロに安らぎを与える以上に自分自身が安らぐことを求めていた。そんな私といることは、メジロにとって決して安らがないことなのだ。

 かつてメジロはハードボイルドファンだった。

 一日の熱気をマントのように纏い、(メジロはヒーローものも好きだった) 疲れた体を影のように引きずり、女のところへ。女はルースにガウンをひっかけ聞く。

 何か飲む?
 
 あるいは顎で冷蔵庫を示すだけかもしれない。

 けれど今、メジロはすっかりホームドラマファンだ。




 胸がざわつく。いや不安からの圧迫か。

 圧迫で脈が速いのだ。

 ついにメジロは別れを口にするのか。

 一見、心が離れたように見せ、女が焦ったところで求婚する。女は柄にもなく大喜び…そういう策力である可能性は少しもないのか。

 それは、メジロの能力をこえた芝居だ。

 メジロにはそんな能力はないわけだから、言おうとすることは想像できた。




 結婚することにした。

 すわると同時にメジロは言った。

 Who's the lucky lady? 映画でよく聞くセリフを言おうかと思ったがやめておいた。

 普通の子で、少し前、友達の友達で知り合って、なんとなく親しくなった。

 ポロシャツにジーンズ。額ににじんだ汗。メジロはいつもと違って見えた。

 私とはする気にならなかった? 結婚…

 そんなセリフも浮かんできたが、口元に笑みを浮かべ、私はゆっくり脚を組みなおした。




 メジロはハードボイルドをかなぐり捨て、ほとんど好々爺状態だった。

 いざ言われてみると、大して後悔も残念さもないのが不思議だった。淋しさ? 多分それはある。敗北感?

 何かに負けた。そんな気もする。百メートル走ゴール直前で転んで負けた。そんな悔しさではなく、長距離走の途中、ジュースを飲んでてびりになった、そんな負け。疲労感はあったが悔しさはなかった。

 これ…。

 メジロが封筒を差し出した。

 ?

 借りてた金さ。

 貸してたっけ?

 ほらスーツの。
 
 ああ…。

 ある日、ウインドウにメジロのお気に入りブランドのスーツが半額になっているのを見つけ、着てみたら? と勧めた。滅多にないメジロのサイズがちょうどあり、財布を忘れたメジロに代わってカードで払った。もう一年以上も前のこと。払いながら、プレゼントにしようか、と言ったような気がする。メジロが返すよ、と言ってなんとなくうなづいた気もする。

 どうしたの、今頃。

 スーツも一着くらい持っていった方がいいらしいから。

 持ってく?

 旅行に…。

 ああ…。 ハネムーンに着るスーツが元の彼女からのプレゼントではまずいってわけだ。

 ま、そういうことならもらっておきましょう。私は受け取った。笑みさえ浮かべていた。

 転んでもただでは起きぬ。溺れる者は藁でもつかむ。なぜか全く意味はちがうのに、この二つのことわざが浮かんできた。なぜだろう。

 どうせ別れるなら、メジロを何かに使えないか、と思った。やりたかったことにメジロを使えないか、と。

 一つだけお願いがあるんだけど。私はエニグマな微笑みを浮かべてみた。

 のど自慢、一緒に出てほしいの。

 えっ…。
 
 メジロの首がきゅっと後ろにひけ、顎が下がった。少し体重が増えてきたメジロの顎が二重になった。

 あたし、前からのど自慢出たかったんだよね。でも、鐘三つ鳴る歌唱力ないし、おどけて笑いをとることもできないし、前から思ってたんだよね、デュエットなら、すがすがしく歌えば、下手でもなんとか盛り上がるかなって。こんど予選があるのよ。一緒に出て。

 最初柔らかく話し始めたが、最後の「出て」のところはかなりな命令口調になっていた。

 ぼ…ぼく…。

 メジロはいつもの「俺」でなく「ぼく」と言った。

 なんなの! と強めに私は言った。

 歌、すごい下手なんだ。まったくの音痴なんだ。

 いいじゃない。

 私は凄くいいと思った。どちらも普通っていうのが一番予選通過が難しい。あたしが普通でメジロが超下手、これはいい。案外本戦まで出れるかもしれない。職場の知り合いや、男の友人に声をかけたが全て断られた。デュエットの相手は男でなければ駄目だ。歌うのはアラジンのホールニューワールドと決めているのだから。

 音楽かけるから一緒に歌ってみて。

 私はカラオケ用の曲をかけた。思えば知りあって以来、メジロの歌を聞いたことがなかった。初メジロ歌だ。

 さあ。

 メジロに歌詞を見せるが駄目だ。金魚、というかメダカのように口を小さくパクパクするだけだ。

 じゃ、まずあたしが歌ってみてあげるから。


I can show you the world
Shining, shimmering, splendid
Tell me, princess, now when did
You last let your heart decide?

I can open your eyes
Take you wonder by wonder
Over, sideways and under
On a magic carpet ride


 なかなかうまいじゃない、歌いながら自分で思った。

さあ、メジロ歌って。
 
 メジロはしばらく歌詞を見つめていた。メジロは英語は問題ない。帰国なのだから。

 メジロはもごもごと少しだけ歌った。

 続けて!

 メジロはもうワンフレーズ歌った。

 へ…た…

 信じられないほどすっきりと下手だった。

 メジロ、下手な方がいいから、予選一緒に出てよね。

 私はかなり意地悪な気持ちになっていた。

 メジロはほとんど涙ぐみそうな目で私を見つめ、頭を振った。弟が二、三才の時、緊張で涙を浮かべた顔に似ていた。

 駄目か…。

 メジロをいじめるのはやめよう。

 メジロへの未練が私の中からすぽっと消えていた。アラジンの魔法の絨毯のごとく、飛び去っていた。

 いくら私が出たくたってやっぱり無理かな。予選への参加募集って見たとき、出てみたいなって思ったんだけど。私はちょっと優しい口調になっていた。

 予選っていつ?

 私は、スケジュール帳を見ながら日にちを言った。

 もし受かって本戦は?

 6月28日。

 あ、じゃあ、無理だ。予選に出たとしても。

 ふーん、どっちにしても都合悪かったんだ。

 うん、旅行中。

 ああ…。

 あのスーツ持ってのね。私は嫌みっぽくもなく、エニグマでもなく微笑んだ。何だかひどく自然に微笑んでいた。

 お幸せにね。メジロはいい夫になるよ、きっと。



 
 メジロが出ていったあと、メジロが置いていった封筒を見た。3万円入っていた。

 メジロ、これじゃ、足りないよ。安売りでもこれより高かったよ。そうは思ったが、もう、どっちでもよかった。

 I can show you the world......

 私はなんだか妙にすっきりした気分でホールニューワールドを歌いだした。明日になれば、少し落ち込むかもしれないと思いながら。






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