最終話   夫婦

文字数 3,744文字





 おそのは今、長く床に就き、起き上がれもしないようになって、二十日経っていた。母親は十日もおそのが寝込んでいたのでさすがに慌てて、「医者に診せようか」と言ったが、おそのは「ええだ。なんにもしなぐでええだ」と言った。

 おそのは、母親がよほどに頼み込んだものであれば渋々口にしたが、それも二口と続かずに、ほとんど食べるものも食べず、水や煎じ薬も「要らない」と飲まなかった。

 そんなおそのを、初めのうち母親は叱ったりもした。だが、やがておそのが痩せ細っていくのが目に見えるようになっていくと、おそのが寝入った夜中、こっそりと家を抜け出して神社に詣でるようになった。そして、「娘の病が祓われますように」と、一心に祈るのであった。


 しかし、母親の祈りも虚しく、おそのは寄る辺無い悲しみを募らせ、惣助の事を想い、泣き暮らした。

 あんな事があってはもう会うことは叶わない。しかしおそのは、自分の命を救うためにに生活を投げ出してしまった惣助を憐れみ、いつしか愛するようになった。

 考えてみれば、初めに「今は惣助さんと一緒に居たい」と思った時、すでに心惹かれていたのだろう。惣助が、おそのを想う気持ちを言葉には決して出さずに、それでも支えようと必死になってくれた心は、今となってはおそのの唯一の糧であった。

 しかし、その糧が与えてくれる力も日に日にくたびれ、欠けて、ひび割れていく。それなのに、おそのの瞼の裏では、思い出だけがなお一層美しく、尊く映った。


 おそのは今一度、惣助の家の中を思い浮かべ、あの日の火の暖かさ、惣助が自分を見て嬉しそうに笑ってくれていた顔を思い出した。


 おそのは、死にゆく自分の中に思い出を閉じ込め、魂だけになったら、惣助の元へ行けたらいいと思い、涙を流す。

 でも、最後に、一目でも。


 おそのは力の入らない腕でなんとか起き上がり、母親が眠り込んでいるのを障子の隙間から見て、草履を履く余裕も無いまま、裸足で家を抜け出した。




 下総に、雪が降っていた。おそのの足はすぐにかじかんで痛みだし、やがて何も感じなくなった。

 暗い中でおそのは二度畑に落ちて転び、その度にまた起き上がった。

 動かない足をなんとか引きずって、おそのは惣助の家まで着いた。中の灯りが戸の隙間から漏れるのが見えると、おそのは体が自然と浮き上がるように軽くなったように感じた。

 しかし雪に晒された足は上手く進まず、さくさくと裸足で雪を踏んで、一足一足、惣助を目指して進んでいく。


 その時、家の中で誰かが喋っているような声が聴こえた。

「なぁ、寒ぐねぇのけ?」

それは女の声だった。

「寒ぐねぇだ」

 久しぶりに聴いた惣助の尖った声も、それが女房に向けられたものだと思うと、おそのの胸は締め付けられた。

「おら、寒ぐで寒ぐでたまらねえだよ」

「そんならぁもっと薪ぃくべりゃええ」

 それは、夫婦同士がよくやる相談のようで、おそのが木戸に伸ばした手は途中で止まり、おそのはそのままくるりと元来た道を引き返していった。



 惣助さんには、もう女房が居た。もう自分の事など忘れてしまったのだろう。

 どうせ初めから儚い恋だったのだ。それならそれでいい。

 もう、やめてしまおう。


 おそのがそう思いながら、重く冷たい足でふらふらと川辺を歩いていた時、後ろから誰かの走る音が聴こえてきた。おそのは足音などもう気に留めていなかった。でも、それがどんどん自分へと迫ってくるので、思わず振り向くと、目の前には惣助が居た。闇の中、側にあった家の篝火の灯りが、おそのの顔を照らす。

「おそのさんけ!?こんなところであにしてるだ!」

「…惣助さん……」

 惣助は、暗い中なので初めは分からなかったようだが、篝火でよく探ってみてからハッとして、蹲っておそのの足元を確かめた。

「おめーさまぁ裸足でねぇか!雪だで!それに、おめーさまは病ん中だと聞いてるで、こんな日に出歩いちゃなんねぇだ!」

 おそのは、惣助が自分の心配をしてくれるのが嬉しくて嬉しくて、ぽたぽた涙を落とした。

「こんなとこであにしてただ!?早くうちさ帰りなせぇ、死んちまうでよ!」

 惣助がそう言いながら、自分を見つめてくれるのが嬉しかった。


 もう女房が居てもいい。自分の事を心配してくれるのが、たとえ昔好いたよしみだけでも、これで自分の望みは果たされた。心残りは無い。


「惣助さん、あんがとさん」

「へ…?」

「おら、もう帰ぇるだよ。おめさまも、おっかさまのところに帰りなせえ」

 それを聞いて惣助は首を振った。それから、おそのの両肩を掴む。

「おらにかかーは居ねえだ」

「んじゃ、さっきのぁ…」

 惣助は決まり悪そうに、一瞬ちらりと脇を見た。

「ありゃあ、酒場で会って気ぃ合っただけで、なんもねぇ。ほんとだ。なんでもねぇ」


 おそのはそこで、もう一度自分をこの世に引き止めるのが怖かった。

 もし叶う望みがあるなら、放せやしない。飢えて渇き死にをするまで、この身を捨てられやしない。でももう、自分はくたびれ果ててしまったのだ。


「おそのさん」

 俯いていたおそのの顔を覗き込み、惣助はおそのを見つめた。おそのは思い出した。

 その時の惣助の顔は、「あの惣助さん」だった。素直に心を顔に出し、懸命に自分を見つめている。

 惣助は迷っているようだった。でも、その迷いを断ち切ろうと、頭を前に振って、額をどこかに叩きつけるような素振りをした。それから顔を上げると、惣助もぽたぽた涙をこぼす。

「おらは…おめーさま以外と、めおどになる気なんか…ねぇだ…」

 惣助はそう言ってから、息をするのも苦しそうに咽び泣いていた。おそのの肩を握る惣助の手が震えている。

「やっと、言ってくれただな。…もうええだ。おら、帰ぇるだよ」

 おそのは静かに微笑み、惣助の腕を引き剥がした。

「待っちくいや、うちに…あにしに来ただ…」

 惣助が取りすがろうとしたが、おそのはすでに踵を返し、よたよた歩いていた。

「顔、見に来ただけだぁ…」

「待っちぇろ、今送るけ…」

「ええよ」




 おそのは断ったが、妙に静かなおそのの笑いがどうしても気になり、惣助はいつまでもついてきて、おそのが裸足だったと思い出してからは、おそのをおぶって歩いた。おそのは大して遠慮せず、恥ずかしがりもせず、されるがままだった。



 二人はずっと川を下って、それからおそのの家がある辻道が見えてきた。

「もう、ここでええだ」

 惣助の背中から、おそのがそう囁く。それがまるで以前とは別人のように穏やかで、惣助はますます不安になった。

「ええって…」

「ええから、帰ぇりなせ」

おそのはあくまで何気なくそうつぶやく。

「なんでそう意地ぃはるだ。どした?なんかあっただか?」

 惣助がそう言った時の顔は、不安と恐怖で泣きそうに見えた。なんとなく、惣助にはおそのが考えていることが分かっていたのかもしれない。何しろ、前にも同じ事があったのだから。

 おそのは静かにまた笑った。

「もうおら、死ぬだ」

 惣助はその時、たくさんの事を考えただろう。おそのが村人から受けた仕打ちや、今抱えている病。そして、目の前に見えるおそのの顔は頬がごっそりとこけて、もう先は長くないとどうしても分かってしまう事…。

 それから、おそのが死んだら自分はどうして生きていくのかが分からない事、今までもずっと、毎日おそのに会いたくて堪らなかった気持ちを、遊んで暮らすことでどうにかごまかしていた事…。

「だから…おめーさまの顔だけ見てぇ…死んちまうつもりで…」

「そっか…」

 惣助はだんだんと項垂れていった。そしておそのを背中から降ろすと、自分へと向かい合わせて、おそのの顔を見る。

「じゃ、おらも一緒に、そうするだ」

「えっ…」

 惣助の顔に、恐怖は無かった。むしろ、嬉しそうに笑っていた。惣助は昔のように、はにかむ時の癖で丸い鼻をこする。

「そんで、めおどになんべ」

「…惣助さん!」

 それまで抜け殻のように穏やかだったおそのの顔に、生気が戻った。それは切なくくしゃりと歪み、おそのはもう一度泣いて、次から次へと溢れてくる涙を拭った。

 惣助は、降り続く雪からおそのを守るように、そっと抱きしめる。

「泣ぐでねえ、泣ぐでねえよおそのさん。…ああ、おそのさん…おそのさん…」

 噛み締めるようにおそのの名前を呼び、その体を抱き、惣助も泣いた。それは、二人で一緒になれる喜びと、この世で結ばれぬことへの悲しみが、深く混じり合っていた。

「おそのさん…」




「あの世で、おめーさまとめおどになれるんだべか」

 惣助とおそのは、川縁に立っていた。二人の手首は縄で括られ、双方きつく結わえてあった。

 惣助はおそのの言葉に、昔を懐かしむように微笑む。

「…おら、おそのさんと一緒におらんちに居たあの夜、初めて、自分はほんとに生きでるような気がしただ」

 おそのは顔を上げて惣助を見つめた。

「そんで、今一緒に死ぬだ」

 惣助の目は、速い川の流れを見据えている。

「一緒に生きて、一緒に死ぬ。おらたちは、めおどになるんに充分でねえか」


 おそのは笑顔で自分を見つめてくれる惣助に安心して微笑んだ。

 二人はそれから手を取り合って、何もかもをごうごうと飲み込み岩をも砕くような急流へと、身を投げた。


 暗く寒い、冬の夜だった。






おわり
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