第1話

文字数 2,300文字

2023年10月30日 月曜日 ベトナム ハノイ
05:45 ノイバイ国際空港国内線ターミナルT1

ハノイ旧市街からグラブバイクで空港に何とかたどり着いたが、目指す国際線ターミナルではなくなんと国内線の第一ターミナルだった。
空港ビル内に入ってから気がつき既に時刻は05:45、搭乗手続き始まっておりまた混雑も予想されることから思わず冷や汗が一気に噴き出した。
空港インフォメーションに駆け込み、国際線ターミナルT2までの行き方を教わる。
幸いにもシャトルバスがあり急いで乗り場に行くが誰もおらず、ただ待つしか術がなくいたずらに時間だけが過ぎていき心中穏やかではない。

今か今かと20分間隔のシャトルバスを待ち焦がれていると、親子らしき二人連れが人気のない乗り場にやってきた。
二人が話す会話を聞いて東欧それもロシア語と推測する。
息子の方がシャトルの乗り場あることを私に確認すると、このロシアのご婦人を国際線が発着するターミナルT2まで連れて行ってほしいと唐突に頼まれた。

てっきり親子とばっかり思っていたから、彼からのあまりにも思いがけない依頼に大変面食らった。
彼は国内線でホーチミンに行くところ、空港内さまよっているこの杖をついたご婦人に会い、彼女が行きたい国際線ターミナルT2行のシャトル乗り場まで連れて来たとのことだ。

改めて青年を見ると、彼も私同様に出発時間が迫り余裕がなさそう。
私もついでに行くからそこまでなら問題ないと了承、その10分後にきたシャトルバスに杖をつきながら歩く老女が乗るのを手伝いながら一緒に乗り込んだ。

老婆は無料のシャトルバスさえも料金を払おうとし、どうにか身振り手振りで必要ないことも理解してもらったが、たった一人でここまでよく来たもんだと改めて驚いた。
バスは一旦外の車線に入り朝早くから渋滞していた料金ゲートの列に並んだ。
横から巧みに割り込もうとする車両でなおさら混雑を助長させ、そのうち車列が動かなくなった。
ただでさえ自分の搭乗手続きさえ終えていなかったから、さらに冷や汗が噴出した。
そこでも老女は固い席に腰を下ろし、何を思うのか微動だにせずただ一点を見つめていた。

06:15 ノイバイ国際空港国際線ターミナルT2

ようやく料金所を抜け今度こそ国際線のターミナルビルに入り、まずは老女の搭乗手続きカウンターに向かおうと、どこ行きかと出発時刻と行先を表示するフライトボードを見ながら尋ねると、腰のバックから高額ドル紙幣を何枚も出そうとした。
最初まったく理由が理解できなったが、どうやらチケットをまだ購入しておらずこの空港で買うつもりらしかった。

早朝にも関わらず私の搭乗予定のヴェトジェットエアーのカウンターには、既に大勢の乗客が案の定並んでいるのが見えた。
しかしこの身寄りのない老女をそのまま一人にするわけにもいかず、途方に暮れてしまった。

どうしたもんかと周囲を伺っていると、ビル中央付近にインフォメーションカウンターがあり祈る気持ちで受付の職員に窮状を訴えた。
幸いにインフォメーションカウンターの女性職員は、英語も話せまた機転よくグーグル翻訳などを駆使して、老女との意思の疎通を図った。
やはりチケットは持ってなく、この空港で買うつもりでここまで来たことがその時分かった。
私の搭乗手続きが既に開始され搭乗開始まで一時間を切っていることを伝え、あと女性職員が老女をチケット売り場まで案内するとのことを聞いてその場を離れた。

どうにかヴェトジェットエアーの長い列の最後尾にたどり着き安堵すると、様々な疑問が次々と湧き出しきた。
老女はチケットを事前に購入せずにどうやってここまでたどり着いたのか、もし飛行機に乗れなかったらどうするのか、乗れなかったら空港で一夜を過ごすのか、一体そこまでしてどこに行きたかったのか?

たぶんロシアを出国する時も同様に、空港でチケット買いながらここベトナムまで来たのかもしれないが、一体全体ロシア語だけでどうやってここまで来られたのかも不思議でならない。

高齢かつ体に不自由さがあっても、長距離移動に慣れてなくても見知らぬ人に助けてもらいながら、やはり強い意志と人を信じて疑わない純粋な気持ちさえあればどうにか行けるものなのか、老女の行動力に思わず脱帽してしまう。

最後尾付近に並び搭乗時間が迫っている私に、今度はヴェトジェットエアーの職員が便宜を図ってくれて優先的に手続きを終えられた。
搭乗券を携えすぐさま先ほどのインフォメーションカウンターへ向かったら老女と職員はおらず、たぶん彼女の目指す場所のチケット売り場まで連れて行ってくれたのだろう。


ほんの一瞬の出来事だが、今改めて思い返しても自分には何ができるのか、どうすれば良かったのか分からない。
でも、何とかなるのは世の常、今はあの老女が無事にチケットを購入でき一息ついていることを願うのみ。
老女の唯一目的地へ行きたいという熱い願いが、ロシア人青年から一介の日本人旅行者へ、それからベトナム人職員へとまさに人から人へと受け継がれ老女を希望の地へときっと導いてくれるはずだ。

疑念や虚構が蔓延する今の世の中、唯一信じて疑わない純粋な心に出会い、我々ただひたすら狼狽えるしか、自分自身心のよりどころを失ったことを率直に認めることができないのか、老女が私に問いかけた清らかさはとても大き過ぎて受け止めきれず、帰国して振り返った今でも未だ答えが見当らない。

そして今ごろ老女は無事目的地に到着、この道中の出来事を家族が目を丸くして驚くのを他所に一部始終を物静かに語っているに違いない。
お気に入りのソファーで温かい紅茶を飲みながら。
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