見えない糸

文字数 2,097文字

 父が母の介護を始めて三年経った。
 仕事一筋だった父が、母の世話をしつつ、家事をこなしだしたのには、正直驚いた。
 しかし、今は元気でも、もう八十を超えている。母は小柄とはいえ、体力的な負担を考えて、私はひとつの提案をした。
「施設を探そう」
 俺は仕事が遠方のために一緒には住めない。母さんだけじゃない、父さんに何かあったら大変だ。だから、息子を安心させると思って……。
 ところが、父は激怒した。
「わしが母さんを看ると言ってるんだ。余計な口を出すな!」
 年なりに頑固なところが出てきたのだろうか。しかし、はいそうですかと引き下がれる問題ではない。俺は何とか説得して、週に何度か、介護ヘルパーに来てもらうことを納得させた。

 定期的に父に、そしてヘルパーさんに連絡を取る。父は少し穏やかになったようだ。やはり、プロのサポートがあるというのは、心理的なものの軽減にもなるのだろう。
 その礼を言いつつ近況を聞く。ヘルパーさんは笑いながら答えた。
「お父様、本当に奥様を愛しておられるんですね」
 今は満足に言葉も出ない母だが、父は若い頃の惚気話をしながら、母の頭を撫でるらしい。俺はそんな父を見た事がなかった。無口で、糞が付くほど真面目で、子供ながらに何を話せばいいか分からない、そんな人だった。
 子供である自分には見せない顔を、他人であるヘルパーさんには見せるのかと、複雑な気分ではあったが、父が変わった事は嬉しくもあった。

 ──そして、母は逝った。

 通夜の晩。
 棺の前で、俺と父は向かい合い、酒を酌み交わした。何杯か無言であおり、父はようやく口を開いた。
「母さんは、再婚だったんだ」
 知らなかった。驚きと同時に、なぜ急にそんな話を始めたのか不審に思った。父はそれを察して苦笑した。
「認めたくなかったんだ。母さんが心から愛していた、その人の存在を」

 ──戦時中。母は、愛する夫を戦地へと見送った。そして、それきり再会する事はなかった。
 周囲の強い勧めで再婚したものの、母は父に、決して心を開こうとはしなかった。
 新居に、かつての夫の物はひとつもなかった。それは父への最低限の敬意だろうが、唯一、箪笥の引き出しの奥に、赤紙に包まれた写真が一枚、そっと隠されていた。
 母は時折、真っ暗な部屋で写真を眺め、声を殺して泣いていた。
 父はそれを知っていた。許せなかった。嫉妬した。
 やがて、母は俺を身籠った。その期に、父はこっそり写真を捨てた。母は何も言わなかった。

「……だけど、そんなもので、母さんの思いを断ち切れる訳はなかった。母さんの中にはずっと、あの人がいた。
 死んだ人間に勝つなど、できる筈がない。俺が唯一やれるのは、仕事をして生活を豊かにして、あの人を忘れられるくらい幸せにすること。そう思った」
 だがそれは、余計に母を孤独にする結果となった。俺も覚えがある。時折、ぼんやりと窓の外を見ていた。その視線の先にこんな物語があったのは、今日、初めて知った。
「母さんには、謝りたい事だらけだ。わしが不甲斐なかったせいで、幸せにしてやれなかった。
 認知症になってからは、よくあの人の名前を呼んでな。わしの手を握って……」
 父は言葉を詰まらせた。
「せめて最期だけは、片時も離れるものか。あの人が迎えに来たら、わしの大事な妻を連れて行くなと、追い返してやるつもりだった」
 震える手が握るグラスに、俺は酒を注いだ。
「ありがとう、教えてくれて」
 俺は財布から、一枚の紙切れを取り出した。
「その写真って、これ?」
 父は目を見開いた。
「父さん、嘘が下手だな。捨てたんじゃなくて、隠したんだろ」
 幼い頃、父の書斎を探検するのが好きだった。本の山を探っている時にたまたま見つけて、子供心に宝物のような気がして、それからずっと持っていた。
「捨てられなかった。失くしてからは、捨てたと思うようにしていた」
 父はそっと写真に、皺だらけの手を置いた。
「ありがとう……ありがとう……」
 父は写真を棺に添えた。
「これで、一緒に行けるな」
 父の背中は、晴れ晴れとしていた。

 葬儀が終わり、途端に父は体調を崩した。
 休日には病院に見舞いがてら、母の遺品の整理に実家に寄る。
 几帳面に畳まれた衣類、使い込まれた化粧道具。箪笥を覗く度に、母の人柄を思い出す。
 そして、引き出しの奥に帳面を見付けた。ボロボロの表紙を開くと、母の字が書き連ねてある。日記帳のようだ。
 紙面に目を通す。そこには、父への感謝の言葉が綴られていた。
『こんなに優しい人は他にいない。なのに、あの人を忘れられずに心が痛む』
『ありがとう、ありがとう、私は幸せです』
 俺はすぐさま病院へ走った。意識が朦朧とした父に、一字一句、全てを読み聞かせた。

 ──そして、父の棺に、それを添えた。

「お義父さん、いい顔してたわね」
 妻がハンカチで目を拭う。
「ああ、天国で母さんに会えたんだろう」
 そして、あの人と酒でも飲んでいるに違いない。幸せに微笑む、母さんの横で。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み