第1話

文字数 2,713文字

 曇天が頭上を覆う今日、妹の葬儀が行われた。
 両親は弔問客との挨拶を交わしているようで忙しそうにしている。やつれた母が少し可哀そうだと思う。
 私は今にも雨の降りそうな空を見上げてからゆっくり瞼を下ろす。
「あなたのお葬式なんだからね」
 深呼吸をすると湿ったアスファルトと線香の匂いと、少しだけ潮の匂いもふわりと鼻腔に流れた。やはり雨が降りそうだと思った。

 妹は池で溺れて死んだ。まだ八歳で三つしか離れていない。そんな妹は私によく懐いていて、どこへ行くのにも私の服の袖を引っ張って離れなかった。逆に私は妹にあまり興味を持っていなかった。というよりも何かに気を惹かれること自体が無かったように思える。あの出来事が起きるまでは。

 まだ物心ついたばかりの頃の妹が私のクッキーを食べてしまったことがある。当時の私にはそれが悔しくて堪らなかった。私は思わず妹の頭を殴り、彼女の口からいくつかに割れたクッキーの欠片がフローリングの床に散らばってしまった。
 彼女はしばらくの間何が起きたのか分からないという顔でこちらを見ていたが、だんだんと頭に受けた痛みに気付いたかのように泣き喚き始めた。
 その時見た妹の涙はキラキラと輝いていた。宝石みたいだと思いながら拾い上げたクッキーの欠片を妹の口の中に押し込んだ。泣き止まない彼女の瞳からは大粒の涙がこれでもかというほど零れ落ちている。
私はそっと彼女の頬に口を当てると涙をするりと舐めとった。ふわりと甘い潮の匂いがした。
 それから私は妹と一緒にいることが増えたと思う。
 妹は小学校に上がる頃には大人しい私とは対照的にやんちゃな子となっていた。悪戯をしたりはしゃいで煩くしたりして母に怒られる。泣き叫びながら私の元へやってきては抱き着いてより一層激しく泣くのだ。さらさらとした髪の毛を撫でながら心にもない慰めの言葉を与える。頬を伝う涙と私の部屋着に滲む痕を見るたびに笑みがこぼれるのを、妹に気付かれないようにする。これが私たちの生活の一部だった。
いつの日か私は妹の綺麗な涙に興奮を覚えるようになっていた気がする。

 妹が死んだ日、一緒に家の近くの公園で遊んでいた。妹がどうしても花を見たいと言っていたから。季節は春を過ぎて梅雨を迎えようとしている途中だった。じめじめと張り付く空気が心地よかった。
 公園でしばらくの間さまざまな花を探していた私たちだったが、すぐに飽きて大きな池がある所まで来ていた。妹は正座の様な姿で池の畔に座ると手だけを水に浸らせてケラケラと笑っていた。妹の起こす波紋のせいで元々近くに寄っていたアメンボやよくわからない淡水魚は遠くで身を潜めてしまっていた。
 その時に池に落ちたのだ。頭からスローモーションで池に落ちていく。最初はバタバタと手足を動かして必死にこちらに向かって助けを求めているようだった。少しの間ぼうっとそれを見ていた私はふと我に返り大人を探して駆けていた。
 助けを呼びに行って戻ってきたときには既に動かなくなって、体の半分は池の水に浸かり背中だけが僅かに浮かんで見えた。
 引き上げられた彼女が息を吹き返すことはなく、ずぶ濡れになった彼女の姿は涙に包まれた人形の様だった。
 もうあの可愛らしい顔や潤んだ瞳を見ることが出来ないのかと思うと自然と頬に涙が流れた。連絡を受けた両親も駆けつけたが全くもって信じられないという表情をしていた。そして冷たくなった妹の姿を見ると、震えるような声は悲鳴に変わった。
 両親は泣いていた。それは当然だろう。目を真っ赤に腫らした母親が私を抱きしめたので、そっとキスするふりをして涙を啜った。当時の私には塩辛すぎた。

 気が付くと式場の弔問客は増えていた。両親は相変わらず忙しそうにしている。
 雲は先ほどより増して薄黒くなっている。ちょっとでも突いたらそこから洪水のように雨が流れ込んでくるのではないかとも思ったが、少し考えてから意味が分からなくて独りで笑った。
 妹はこんな私をどう思っているのだろう。
 泣いている時はいつもそばにいた姉。何を考えているのか分からない姉。自分にあまり興味のない姉。それとも私の事を許さないと一言でも言いたいだろうか。
 私は妹が嫌いだったわけではない。決して邪魔だと思ったこともない。妹自体にはあまり興味をそそられなかっただけだ。
 ただあの子の涙が好きだった。キラキラ輝いて私を虜にするあの雫が。妹の涙を見るたびに心臓は鼓動を早め、脳は痺れ、お腹の下の辺りが握られたような気持ちになるのだった。

 あの時、池の畔で楽しそうに水面を叩いている妹の背中をさすった。気にせずに水で遊んでいる妹。そういえば最近泣いているところを見ていないな、そう思った。
 さすっていた手でそのまま妹の腰を押し込む。バランスが取れなくなって吸い込まれるように池に落ちていった。
 もとより泳ぐことが苦手な妹だったが、突然眼前に迫った水面に驚いて水を沢山飲みこんでいた。そのせいでバタバタと無駄な動きが多かったように思えた。
 肝心の涙は池の水と同化していてただ妹の顔が濡れているだけだった。涙を流しているかさえ判別できなかった。妹の涙は何かしら特別なものだと思っていたのもあり、どこにでもあるような水分に紛れてしまうようなものかとがっかりした。
 目的こそ果たせなかったが妹は助けなければいけない。溺れて焦っている人に安易に近づいてはいけないという話をテレビで見たことがあったので、大人を探して公園を駆けた。
 今思えば池の水で涙が見えなくなることは当たり前だし、そんなことでこれから先見ることが出来たであろう妹の涙を無くしてしまうのは愚かなことだった。

 妹は私を許してくれるだろうか。妹が死んだのは私による完全な理不尽であり、私が許されていいはずがなかった。私だったら許さないだろう。
 私は私を許せるだろうか。悔やんでも泣き喚いてもそれは自分のための慰めにしかならない。そしてそれは私自身を成長させることもない。既に私の双眸からはキラキラと輝く涙が出てこないことはよく分かっている。妹を突き落としたあの日からさらさらとした泥を垂れ流している気分だった。周りのだれもが妹の死を悲しんでいる。
 でも妹は私のすぐそばにいる。誰も気づいていない。ずっと私と一緒にいる彼女の事を。私に恨み言を伝えたいのにそれが叶わぬ哀れな妹。目には見えないが漠然とその存在を感じている。
「あなたのお葬式なんだからね」
 私は同じことを言ってもう一度深呼吸をする。
 ふわりと甘い潮の匂いがした。
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