第1話

文字数 3,545文字

 この頃、世の中が明るくなってきた。
 少し前まではひどいものだった。不況が続いて失業者が増え、異常な犯罪や大きな事故がいくつも起こった。政治家や役人は悪事ばかり働き、戦乱と天変地異が世界を覆った。人々は怒り、悲しみ、沈んだ顔で、
「信じられないことばかり」
「どうしてこんな世の中に」 
 そう言いながら暮らしていた。
 ところがここへきて、暗いトンネルの出口が見えてきたようだ。
 景気が少しずつ上向いてきた。犯罪が減少に転じた。悪徳政治家や私腹を肥やすばかりの役人は退き、環境や人権の問題が広く関心を呼び、街に子どもたちの笑い声が返ってきた。
 ――やっぱり――
 誰もがほっとした。
 ――あんな時代がいつまでも続くわけはなかったんだ――
 なにしろ異常だった。親がわが子を平気で殺すなんて。明らかに悪事を働いたやつが罰せられないなんて。死ぬほどがんばっても報われないなんて。
 みな、何かおかしいと感じていた。その感覚は正しかったのだ。歴史には自己修復の機能がある。進むべき大きな流れは決まっていて、少しくらい外れたことが起こったとしても、大いなる力が修正してくれるのだ。
 つい先頃までのひどい時代は、きっと歴史の流れの中で生じた乱気流のようなものだったに違いない。ちょっと長くかかったけれど、歪みはようやく修正されたのだ。
 世の中は正常に戻ったのだ。

 その夜、僕は上機嫌で行きつけのバーにいた。大きな契約がまとまり、次の人事異動で昇進することがどうやら確実になったので、課長と主任が前祝いで一杯おごってくれたのだ。
 それまで僕は社内ではあまり目立たない存在だった。たまたま担当していた小さな取引先が大企業に買収され、新しい担当者が僕のことを気に入ってくれたのだ。まったく運がよかった。本当は課長と主任、二人の強力なサポートのおかげなのだが、彼らは僕に花を持たせてくれた。本当に尊敬できる人たちだ。
「おめでとう」
「お二人のおかげです」
 かんぱーい。――とにかく心地よく酔っ払っていたから、どうしてそんな話題になったのかわからない。覚えているのは、課長がこう言ったところからだ。
「――最近、変な夢を見るんだ」
 主任と僕のグラスが空中で止まった。
「こわい夢だ。汗びっしょりで飛び起きるんだが、内容をまったく覚えていない」
 課長は毎朝、悲鳴で目覚めるのだという。心臓は激しく打ち、喉はカラカラになっているが、夢の内容はきれいに忘れている。追いつめられたような焦燥感だけが残っている。
「奇妙な話だが」課長は座り直して言った。「その夢を見るようになってから、運が向いてきたような気がするんだ」
 実は、課長も次の人事異動で次長への昇進がまっている。課長の席には主任が座る。つまり僕たちは三人揃って昇進を目の前にしているわけだ。
「昇進の話が出たのもその頃だし、難しいといわれていた娘の受験もうまくいった。妻は趣味で描いていた絵本の出版が決まるし、父親のガンも早期発見で完治した。まったく幸運続きだよ。これが全部、あの夢のおかげのような気がするんだ」
 すると真顔で聞いていた主任が、赤ら顔でこう言った。
「課長、実はぼくもなんですわ」
 主任は関西人だ。
「ぼくも最近、おそろしい夢を見てるんです。中身はやっぱり覚えてない。で、おとつい、宝くじ当たりましてん」
「いくらですか」
「百万」
「ひゃあくまん?」
 僕は思わず大声を出した。
「でっかい声出すな。まだ誰にも言うてへん」
「だって」
「宝くじだけやないで。競馬もサッカーも、普段はやらん競艇も競輪も、やってみたらほとんど勝ちや。勝率八割は超えとる」
「ギャンブルばっかりだね」
「まあ、ぼくは課長と違うてひとりもんやし」
 実は僕も心当たりがあった。
「あの……、実は僕もなんです。こわい夢」
「なんだって。君もか」
「そうなんです。最近はもう、寝るのがこわくて」
 内容は忘れても、体が恐怖を覚えている。
「奇妙なもんやなあ。ぼくら三人揃って」
 主任がそう言うと、課長がこう言った。
「われわれだけじゃないぞ」
「え」僕と主任の声が重なった。
「そうなんですか。一体誰が」
「あるSNSの掲示版に、最近、内容はわからないがこわい夢を見ている、という書き込みが増えているんだ」
「そうなんですか」
 課長はうなずいた。
「その人たちにも幸運が舞い込んでいる。学業、仕事、金銭、健康、恋愛、結婚、中には縁切り、除霊というのもあったな。およそ考えられる幸運はほとんどあった。わたしが気になったのは、催眠術師に夢の内容を調べてもらったという人の書き込みだ」
「どんな内容だったんですか」
 課長は一拍おいて、グラスを口に運んだ。
「――聞かない方がいいかもしれないぞ」
「そこまで言うて殺生ですわ」
「そうか。まあ、いいだろう。その人は三十代の男性で、妻と娘がいる。二人は彼にとって何ものにも替えがたい宝物で、家族三人は深い愛情で結ばれている。それなのに彼は夢の中で、妻と娘を殺していたんだ。鋭い刃物で胸や首を、何度も何度も突き刺していた。毎晩だ」
「ええっ」
 僕たちは声を合わせてのけぞった。
「現実には、彼の家庭はこれ以上ないほど円満だ。彼は研究者なんだが、つい最近、画期的な論文を発表して学会で注目を浴びている。つまり仕事も私生活も順調で、彼の人生は文句のつけようのないほどうまくいっている。かつては家族の不和などで悩んだ時期もあったらしいが、その夢を見始めた頃からすべてがうまく回り出した。そう書いてあった」
「おんなじですね。ぼくらと」
「その書き込みへの反応が凄かった。『自分の夢も同じもののような気がする』という内容の書き込みがすごい勢いで増えて、回線が一時ダウンしてしまった」
 僕は不安になって言った。
「も、もしかして、僕らの夢もそんな内容なんでしょうか。人を、その、手にかけるというような。そんな」
「それはわからん。しかし私はそれを読んでいてこう思った。みなが見ているこわい夢は、なにかの代償行為なのではないかと」
「代償行為?」
 課長はまたグラスを傾けた。
「最近、世の中が明るくなってきただろう。でも、考えてみろ。ついこのあいだまで世間はあんなに暗かったじゃないか。みな眉間にしわを寄せ、下ばかり見て歩いていたじゃないか。強烈な不安と被害者意識を抱えて、攻撃的な視線で周囲を睨んでいたじゃないか。あの大きなストレスはいったいどこへ消えてしまったんだ」
「そういえば……」
 思い出した。僕も、よいことなど金輪際ないようなみじめな気分で日々を過ごしていた。――そのことを忘れている。
「どこ行ったんでしょうな」と主任。
 課長は続けた。
「わたしはこう思うんだ。夢でストレスが発散されたんじゃないか。あのこわい夢が、現実の世界では実現できない鬱憤を晴らし、どす暗い欲求を満たしてくれるようになった。だから人々は現実世界で平穏な心を取り戻し、世の中は好転したんじゃないのだろうか」
 僕は反論した。
「でも、彼は家族を愛しているんでしょう? そんな恐ろしい夢は逆にストレスになるなんじゃないですか」
「そこだよ。解消されるのは、なにも本人のストレスとは限らないのかもしれない。なにしろ今はネットワークの時代だ。みなスマホやパソコンで常に世界中とつながっている。膨大な情報が光の速さでそこらじゅうを飛び回っている。どこかの見知らぬ誰かの悪意が、ふとした拍子に自分の夢に入り込んでくることだってあるんじゃないか。考えてみれば、それは夢の本来の機能でもあるだろう。現代社会に生きる人間たちが抱えるストレスは、今や、誰かほかの人に引き受けてもらうしかないほど膨れ上がってしまっているのかもしれない」
 この話はそこで終わり、しばらくしてお開きとなった。
 一人でタクシーに乗り込んだ僕は、ふと、あることに気づいた。
 ――あの二人は、つい数ヶ月前までとてもいやな人たちだったのだ。課長は下品で陰険で、部下の手柄を全部横取りし、失敗は部下になすりつけていた。主任は自分の仕事をぜんぶ部下にふり、自分はネットを見て遊んでばかりいた。どちらも最低の上司だった。
 ――そのことを、僕はすっかり忘れている。
 背筋に得体の知れない悪寒が走った。
 自宅マンションにつくと、僕はタクシーを飛び出し、階段を駈け上がった。カギを回し、体当たりのようにしてドアを開ける。
 ――いた。
 昇進祝いのケーキの前で、待ちくたびれて眠りこんでしまっている。つい最近――こわい夢を見始めた頃に――出会った僕の恋人。可憐でやさしい、天使のような女性。
 僕はその寝顔に指を伸ばす。
 でも震えて届かない。
 彼女はかすかに眉根を寄せた。
「う……ん」
 まるでこわい夢を見ているみたいに。
(了)
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