文字数 3,798文字

 男から今夜は来られなくなったという連絡が今更入り、その申し訳なさそうな声音を聞いている内に、しかしながら何となく、もう多分彼は今後一生会いに来てはくれないのだろうと、そんな気がした。嫌な予感というほどのものでもなかった。何故なら、わたしだって、その男の名前すら知らないのだから。
 彼に限らず、ある信念のもと、わたしは男に対し、その性別以上のことは何一つ関心を払わなかった。かと言って女に対しては元来なかった。そちらの欠損の理由はわからない。考えたことがないのだから仕方がない。ただ、母や娘ですらわたしの元から去って行ったのだから、もしかすると関心を持てという方が無理な話なのかもしれない。それは理屈の外側にあるのだきっと。
 わたしが、己の持って生まれた宿命に最初に気付かされたのは中学二年の時であった。町にあるただ一つのスナックに勤めていた母の、その頃懇意にしていた愛人を図らずとも奪ってしまった形になった。当時、その男は三十過ぎの銀行員で、その町に来てまだ一年経っていなかった。彼はよく夜七時になるとわたしたち母子二人で住んでいたボロアパートに姿を現し、すると母は財布から五百円玉を取り出して、これで何か適当に食べて来いと言うとわたしを家から締め出した。わたしはお腹なんて空いていなくて、自動販売機で缶コーラ一つ買うと二時間、近所の砂浜に座り込み、でも海を眺めていたらあっという間であった。そうして家に帰ると特有の嫌な臭いを残して母たちは忽然と居なくなっている。そんなものだからわたしにその男の印象というものはそれまで殆どなくて、しかしある平日の昼間、……あの日わたしは重い風邪を引いてしまって学校を休んだのだ。そこへ、スーツ姿の彼が、常日頃から鍵のかかっていなかった家にズカズカと上がり込んで来た。母は用事で朝から家を出ていた。彼女から「娘が学校を休んで心配だ」という連絡を受けて、外回りの時間ではあるが見舞いに来たと彼は言っていた。実際、彼は林檎を剥いたり氷枕を作ったりと最初のうちは懇意に看病してくれていた。
 しかし、わたしが寝静まったと見ると、彼はわたしの身体をまさぐり始めた。わたしはすぐに気がついたが、恐怖から声を上げることが出来なかった。代わりに涙ばかりが溢れてきて、それは却って男の嗜虐心に火をつけたようで、結局わたしはその男に無抵抗のまま処女を奪われた。夕方になって母が用事から帰ってくると、真っ先に、わたしは事実をありのままに伝えた。しかし、彼女は発狂してわたしの頬を何発か殴った後、すぐに家を出て行ってしまった。
 夜七時に、またいつものように何食わぬ顔で家にやって来た男に、母がどこかへ行ってしまったことを告げると、それなら戻って来るまでうちにいれば良いと彼はまるで別人の様に優しく微笑んだ。それから母がわたしの元へ戻って来ることは二度となかったため、なし崩し的にわたしは彼の家に居候することになった。
 二年、明け方に見る淡く儚い夢のように幸せな時を過ごした。
 中学卒業後、わたしは高校へは進学しなかった。近所のスーパーで週に二、三日アルバイトをして、あとの日は図書館でダラダラと本を読んで時間を潰した。七時に彼が帰ってくると殆ど毎日セックスをして、コンドームは欠かさなかったけれど、ある日の夜、わたしはゴムの先端にこっそりと切れ込みを入れておいた。排卵日付近での性行為による妊娠確率は二十パーセントほどしかなくて、同じ手はそう何度も使えないからわたしは天に祈った。どうか、わたしの愛する人をどこにも連れて行かないで欲しいと。
 一月後、妊娠していることが判明した。そのことを彼に告げると一言、堕ろせと返ってきた。
「嫌だ」
「悪いが認知出来ない。東京に妻がいるから」
「なら、東京にわたしも行こうかな」
「脅す気か」
 口止め料として百万、相場を知らないからそれが果たして妥当なものだったのかは結局いまも分からないけれど、それきり彼との一切の縁を切ることになった。その後まもなく彼は知らない町の支店へと移動することになって、わたしも市内のもっと安くて狭いアパートへと引っ越した。スーパーのアルバイトは五ヶ月目に入った頃に辞めて、以降は生活保護のお世話になった。わたしの人生は存外同情されるべくものであるらしく、周りの人たちの計らいによってそんなに不自由しなかった。
 無事娘が産まれるとぼちぼちまた依然のスーパーで働き始めて、数年が経過して彼女には自我が芽生え、ふと、あの男には全く似ていないなと思った。これはきっと、あの男の精子を栄養にしてわたしの子宮が生み出したわたしの分身なのだ。わたしとは、人間の形をしたそういう生き物なのかもしれないと腑に落ちたから、わたしは東海地方のその生まれ育った港町を離れて、日本海側の縁もゆかりもない、だけれどやっぱり似たような雰囲気のある海辺の町に腰を据えると、そこのキャバレークラブで働き始め、まもなく沢山の客が自分についた。
 それからまた暫くして、わたしは二人目を身ごもった。どの男の子供かは分からないが、そんな便宜的なものに大した意味は無いのだから、追求しようとはしなかった。また、そのような理由の外にも、わざわざ追求するまでなかったとも言える。
 何故ならわたしは、その子を早期流産してしまったのである。
 ひと段落ついたのちに、特に思い当たりがなかったから医師に原因を尋ねると、全前脳胞症であるとの答えが返ってきた。
「そうですね、遺伝的な要因と、環境的な要因があるのですが、あなたの場合一人目がいらっしゃるから、もしかすると後者かもしれませんな」
 何か、ドメスティックバイオレンスなどの精神的ストレスに苦しんでいませんかと訊かれて、首を横に振る。
「なら、単純に栄養不足かもしれません。ほら、あなた、妊婦がこんなにガリガリではダメですよ」
 そう言って医師はわたしの太ももに毛むくじゃらの汗ばんだ手を当てた。
「触らないで下さい」
「おっと、……これは失礼いたしました」
 後日、図書館で調べてみると、全前脳胞症とは、受胎後5周目から10周目に、大脳が正常に左右に分割せずひとかたまりのまま低形成に至る症状のことを指すようで、これが重度になると顔面部の二分化も行われず、単眼症になる、とあった。
 単眼症の胎児ができても、多くは早期に自然流産するため出生は稀であり、また仮に生誕出来てもほとんどが一年以内に死亡するため、従いその詳細は全くと言って良いほどわかっていなかった。書籍には症例の写真が掲載されていたが、その姿は人というより妖怪などに近くて、わたしはそれを目にした瞬間、娘は死んだのではなく黄泉の国に生まれ落とされたのだと理解した。
 あの医師が広めたものかは分からないが、わたしの妊娠と死産の話は町に広まっていて、爾来、わたしの元へは益々まともではない男ばかり集うようになった。一人目の娘は高校まで行かせてやったが、卒業後に家を出て以来音信不通である。二人目も向こうから会いに来てくれそうな気配は無くて、ただ、今のところ自分から会いに行くまででもない。腹を痛めて作り上げたって結局はそんなものである。やるせない。
 今夜は満月だから、きっとあの子たちも、わたしの認知し得ないどこかで誰かとよろしくやっているのだろう。そう思うと憎らしい。今ならありありと母がわたしを殴って居なくなった時の心情も分かってしまう。当時が懐かしくなったわたしは部屋着のままアパートを出ると近所のコンビニエンスストアで度数9%の缶チューハイを購入し、そこから海岸までのたかだか五分ほどの道のりを飲みながら歩いた。
 わたしは長年水商売をやっている癖に、アルコールにそれ程強くない。海岸に着く頃には大分回っていたため、砂浜にはドサリと倒れ込むようにして座り、漫然と波が寄せては返すのをあぐらに片肘をついて眺めていたが、それにも割合すぐに飽きてある時ふいに仰向けになる。すると月と目が合い、あれはわたしの二人目の娘なんじゃないかしらという馬鹿げた錯覚を起こす。彼女のあの、まん丸で錆びた金属のように鈍く光る、巨大な瞳に果たしてわたしの姿はどのように映っているのだろうかと考えるが、次第にそれも面倒臭くなる。
 わたしは、彼女に付けようとしていた名前をふと思い出して、それを有りっ丈の声で叫んでみる。モチロン返事はない。喉がヒリヒリと痛み、膝のあたりに置いた缶チューハイを手繰り寄せて口をつけるが、500mlあった中身はもう殆ど入っていなかった。わたしは渾身の力でそれを握り潰すとひょいと身体を起こして、水平線の彼方目掛けてぶん投げる。緩やかな放物線を描いたそれは、思っていた遥か手前に着水し、その際、ポチャンと小さく間抜けな音を立てた。
 一陣のぬるい夜風がわたしの軋んだ髪を靡かせる。酔いはすっかりと醒めてしまっている。もう一度見上げてみると娘はただの月に戻っていて、その日の空には雲が一つもなかったから星々もチラホラと瞬いていて、存外綺麗だなんて思う始末である。だからか、何となくそのまま家に帰る気分にはなれなくて、わたしは臀部についていた砂を払い落とすとこの死んだように寝静まった町を当てもなく徘徊することに決めた。
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