あるヤク中の恋

文字数 10,017文字

 クスリをキメると脳みそが破壊されていくという。
 結構なことじゃない。脳みそが小さくなれば、余計なことは考えなくて済む。
 お金とドラッグと大好きな恋人とのセックスがあれば、人生はそれなりに楽しい。私はそれ以上を求める気はなかった。
 調理用の大きなスプーンのうえで、ミネラルウォーターが揺れる。
 私の痙攣が伝わるたびに、小さな水面に模様が描かれていく。白い粉雪が降り注いでいく瞬間が大好きだった。
 ぱぁっと粉が溶けて、乳酸飲料みたいな水たまりの出来上がり。
 雪が降った日に透明なビニール傘をさしたような景色。そっと注射器の先端を潜らせた。ゆっくり、確実に吸引していく。
 スプーンから雪の模様が吸い込まれ、除雪車除雪作業中。
「じゃぜじゅじゃ、じょせつじゃぎょうぢゅ。全然言えない、ふふっ」
 空になったスプーンを口に運ぶ。かすかに残った雪の溶けクズが、私の舌に消えていった。エスプレッソをガンガンに煮詰めたような濃厚な苦みに舌がひりついた。ああ、いいものが手に入った。今日のブツはアタリだ。
「んぅ……ふぅ……」
 深呼吸をして、ゴムチューブを左の二の腕に巻いた。
 やせっぽちの私は血管なんて見えているけれど、それでも肘の内側を数度叩く。出来るだけ太い血管、血の流れがよさそうなとこがねらい目だ。
 きちんと消毒はしているけれど、大きな毛穴のような注射跡がそこかしこに残っている。軒先に勝手に蜂の巣をつくられた気分。
 ダメ、じいっと見てはいけない。あっという間にバットトリップに転がって行ってしまう。指で触れ、一際脈打っている血管に針を差し込む。
 ドンピシャ。親指のまんなかで、ぎゅうっと注射器のおしりを押していく。
 心地よい冷たさが身体中を駆け回り始めた。砂漠に水を撒いたみたいに全身がシャブを吸収していく。
「あぁー、これ、いいよぉ」
 目をつむる。身体中が丁寧な前戯をされまくったあとのアソコのように敏感になっていく。そのくせ、くどい愛撫に付き物の痛みはなくってスッキリ爽快。
 目を開く。カーテンを閉め切った薄暗い部屋がぱぁっと明るくなって全身の腐った血液を高級ワインに変えた気分。寝っ転がったまま、枕元のスマートフォンに手を伸ばし、私の可愛いヒモちゃんにラブコールを送る。
 一回、二回。なかなか電話はつながらない。
 最近、ケンタは私に冷たい。電話にもあんまり出てくれなかった。
 それがとっても寂しい。口の中がかわく。ケンタのキスで潤して欲しい。指先から奥の奥まで、ケンタが恋しいって泣いている。
 電話は留守番メッセージへと接続された。
「もしもしぃ、ケンタ? あたし、ナオ。ねぇー、今キメてるの。上物だよ、しよぉ。早く帰ってきて。ねぇ、ねぇ……ね……あっ……」
 録音時間が終わり、ぷつりと通話が切れた。
 浮き上がっていた心と身体が少しずつ沈み込みそうになって、私はスマートフォンを枕元に戻した。その時、スマホからコール音が響き渡る。私は引っ込めていた手を慌てて伸ばした。
「ケンタ!?」
「まだあのガキと付き合ってるのか、ナオ」
 通話口の向こうから面倒くさそうな声がした。
 オッジだ。ヒゲを蓄えた強面で、私の仕事を斡旋している男。
 こいつのおかげで私は金をもらえている。そこは感謝しているけれど、今声を聴きたい相手はアンタじゃないの。
「ごめん、今キメてる最中。また今度」
「そいつはちょうどいい。バリバリのジャンキーとヤリたいって変態野郎がいてな。キメセク童貞だ、手ほどきしてやれ」
「悪いけど、ほかを当たって。久しぶりの上物なんだから」
「三時間二十万と言ってきている。めったにない羽振りのいい話だ。取り分は半々。どうだ?」
 私は舌打ちをした。
 変態童貞にクスリを仕込んで、ちょっと我慢してれば十万円。
 悪くはなかった。とっておきのシャブだったけど、ケンタはきっと来てくれないだろう。クスリ漬けの頭のなかで電卓をたたいた。
「私が七、オッジが三。それでいいなら迎えに来て」
「五、五だ」
「オッケー、じゃあ六、四ね。着替えて待ってる。よろしく」
 電話を放り投げポーチをつかむ。メイクと着替えを終えて髪をセットした時、見計らったようにクラクションがなった。
 二回。間を置いて長いクラクションが一回。また間を置いて、三回。
 オッジの合図である。ヒールをつっかけて、ふらつく足取りで玄関を出た。
 オンボロアパートの『彩花荘』と書かれた壊れかけの門扉を通る。彩花荘、さいかそう、最下層。まさに私にぴったりの名前で、私はこの最低なアパートが結構気に入っていた。
 太陽から身を隠すようにして日陰を歩き、表通りに出ると黒のセダンに乗り込んだ。オッジはちらりと私を一瞥すると、エンジンをかけ車を走らせた。
「上物か、どこで仕入れた?」
「詮索しないで。アンタ以外の男」
「客はヤクの持ち込みだ。帰りは車だという。量を間違えるなよ」
「キメセクしに車転がしてくるバカがいるわけ?」
「ブツを手に入れたはいいが自分じゃ使い方もわからんような野郎だ。仕方あるまい」
「金は?」
 私が問いかけると、オッジは封筒を投げてよこした。
 十二万円。オッジは六、四をのんだようだ。
「先払い? 客はバカな上にど素人なの? ねえ、このままフケちゃいましょうよ」
「だめだ。丁寧にファックしてやれ。上客になるかもしれん」
「はっ、ボケたのオッジ。前金童貞バカなんてどうせすぐに足がつく。水あめよりもドロドロの脳みそ溶けた甘ちゃんでしょ。大事に持っててあんたの手がベトベトになるのは勝手だけど、私は当分しょっぴかれる予定はないの」
「まぁ、せいぜいあと二、三回が限界だろうな」
「あっそ。気が長いこと」
 どうでもよくなって、私は助手席のシートにもたれかかった。身体がうずく。シャブが性欲を刺激していた。せいぜい水あめが可愛い顔をしているといい。
 心地よく覚醒した意識で流れる景色を眺めている間に、車は安っぽいお城を模したラブホテルの駐車場に滑り込んだ。
「三0八号室だ」
 ドアを開けて出ていく私の背中にオッジが短く告げた。
 自動ドアをくぐると、私の身体がピンクの照明に溶け込んでいく。うんざりするような薄っぺらい清潔感とステレオタイプのムードを演出するにおいに、敏感になった頭が悲鳴をあげた。
 ラックのかごからシャンプーとローションのセットをぶんどって、エレベーターで三階にあがる。三0八号室のドアをノックすると、しばらくしてドアが開いた。
「あ、あの。お姉さん、紹介の方ですか?」
「はぁい。今日はよろしくお願いしまぁす」
「よろしくお願いします!」
 わざと舌足らずなしゃべり方をして、視点をずらす。イメージしやすいジャンキーを演じてあげるのもサービスのうちだ。
 頭を下げた男を観察する。顔立ちは悪くない。
 年のころは二十代の中盤か。髪はボサボサ、服装はちょっとワルぶりたい子が見るような雑誌を切り取ってはり付けたみたいな黒づくめ。銀の太いネックレスが浮いていた。
 いかにも、を演出しようとして大失敗しているおぼっちゃん。なんでこんないい子ちゃんがヤクなんか手に入れたのか。私は彼の手を取って部屋の中へ進んだ。
「おっじゃっましまーす!」
 やわらかな黄色を基調にした壁紙が目に眩しい部屋。奥には大きなダブルベッドに真っ赤なシーツがかぶせられていた。テレビ画面には何も映し出されていない。すりガラスの向こう側に、大きなバスルームがあった。
「こ、コーヒーどうぞ!」
 バカ丁寧にコーヒーを用意して待っていたらしい。ガラス製のテーブルのうえには湯気をあげるコーヒーカップがふたつ並んでいた。
 喜んだふりをしておいしくもないコーヒーをすする。彼は下を向いたまま、チラチラと私のスカートや胸元に遠慮がちな視線を向けてきた。このままではつまらない世間話が始まりかねない。私はさっさと本題を切り出すことにする。
「それで、お客さんがお持ちのお薬ってどれですか?」
「あっ、はい……。これです」
 男はカバンからマトリョーシカのように包みをいくつも開いていく。
 最後に残ったのは茶色い、まるっこい練り物だった。いわゆるチョコってやつ。マリファナである。
 私は内心面倒な気持ちになった。シャブをキメながらマリファナを使うなんて、どうにもバカらしい。まあ、脱法ドラッグよりはマシっちゃマシだけどさ。
「わぁ、マリファナですか。何か道具は持ってますか?」
「いえ、なんにも。これって道具とかいるんですか?」
「使いますね。パイプとかあるといいんですが、水たばこ吸うような」
「すいません、もってないんです……」
 さてどうしたものか。この子は、って年齢は変わらないくらいだけど、このひとはなんでこの情報化社会で検索のひとつもしなかったのだろうか。
 履歴が残るのが怖かった? でもそれならオッジと関わるほうがよほどリスキーである。そういうこともわからないってことか。
 私は「だいじょうぶですよ」と頭を撫でてみせ、たばこを取り出した。贅沢な使い方だがやむを得ない。それに、たばこならだれでもある程度吸い方も想像がつく。ヤク物童貞くんにはわかりやすいのが一番だろう。
「それじゃ、ちょっと準備しますね」
 灰皿を持ち出し、たばこの葉を四分の一ほど捨てる。
 たばこをテーブルに寝かしてトントンと指でたたき葉っぱを均等に伸ばし、葉を捨てた分の空白をあけておく。
 次に正露丸くらいの大きさにチョコの端っこをむしり、細長く伸ばしていった。たばこの長さに合わせるくらいに調整して、先ほど開けた隙間に差し込んだ。先端を折って葉とヤクが落ちないようにして出来上がり。
 手巻きたばこならぬ、手巻きチョコである。葉っぱを多く残したのは初心者用。いきなりマリファナだけを吸引するのは少々危ない。なにせここは彼の家ではなくホテルで、帰りは車なのだ。
「はい、でーきた。たばこは吸ったことありますかぁ?」
「あ、はい! 何回かですが」
「じゃあ、たばことおんなじように吸ってみてください。ゆっくりゆっくり味わうようにしてくださいね。どうぞ」
 ベッドに座らせた男の頬を撫で、唇にたばこをくわえさせると火を差し出した。彼はおずおずとライターに触れ、大袈裟に深呼吸をするようにしてたばこを吸った。
 マリファナが焦げると新品の畳を蒸しタオルでこすりまくったような香りが部屋中に満ちていく。
 すぐに彼は「あ」と短く声をあげて頭を後ろにそらせた。私は肩を寄せて男を支えるようにして、男の耳にキスをする。
「どう? 初めてのおクスリは?」
「なんか、すごいです。ふわって、なっれ……」
「そう。緊張しないでいいのよ、リラックスして、もう一度吸ってごらん」
 首筋に舌を這わせて、背中をさする。たばこを吸引する男の目が明らかにすわっていた。このまま眠ってしまえばだいぶ楽だ。
 ズボン越しに、男の股間に触れる。やわらかい。初めてのマリファナではキメセクどころではないだろう。肩をはずすと彼の上半身は前後に小刻みに揺れだした。
「ねぇねぇ。こんなもの、どこで手に入れたの?」
 刺激しないように、猫なで声で語りかける。ここで間違えれば彼はたちまちバッドトリップに入ってしまう。
「会社、先輩と行った……店、で。お姉さん、あったかい」
「そう、悪い子ね。よーしよし。おいで。んっ、そう。あっ、君、気持ちいいよ」
 男の手からたばこをそっと取り上げて、まるでやっているような声をあげながら膝枕をして男の股間をまさぐる。男が餌をねだるコイのように口をパクパクと動かした。数度たばこを吸わせると、やがて静かな寝息を立て始める。
「おやすみ、ぼうや」
 男のズボンと下着をずり下げておく。
 喘ぎ声、乱れた着衣、全身に残る気怠い恍惚。
 これで目覚めた時の記憶は素敵なものになっているかもしれない。私としてはなんの苦労もなく大金をゲットできる。
「さて……」
 男の脱いだジャケットの内ポケットをさぐる。
 財布を抜き出し、身分証を探した。
 私でも知っているような大企業の、肩書までついた役職だ。コネあがりのぼっちゃんかもしれない。オッジがあと数回引っ張りたがるわけだ。下手なことはしないほうがいいだろう。財布に手を付けることなく、ジャケットのなかに戻した。
 目標変更。適当にたばこを数本取り出し、火をつけて吸っては灰皿に押し込んでいく。こうしておけばチョコをすべて使い切ったと思ってくれるだろう。たっぷり残ったブツに手を伸ばす。
「これはお土産に頂いていくね」
 ラップにくるまれたチョコをベッドに放り投げ、枕元へ手を伸ばした。
 コンドームの袋を破り、チョコをゴムにくるんで結ぶ。あまったゴムはメイクポーチに入れてあるハサミで切り捨てた。
 ゴムを自分の性器にあてがうと、一気に奥まで押し込んだ。面倒だが、手前ではオッジに勘づかれる可能性があった。そうこうしているうちに二時間が過ぎていた。フロントに延長の電話を入れ、目覚ましを三時間後にセットした。
 私はノルマの残り一時間を、面白くもないAVを見ながらついでのようにオナニーをして過ごし、その指を男の鼻先とベッドに絡めた。そして『とってもすごかったです!』と書置きを残してキスマークをつけると部屋を出た。
 オッジの車のドアを蹴ると、ロックが解除される。
「終わったわ」
 助手席に乗り込んだ私の身体を、オッジが無遠慮にまさぐった。それは下着の中にまで及んだが、奥には入ってこなかった。甘い男だ。
「どうだった?」
「どうもなにも、一発目にがっつりガンジャきめてやれるわけないでしょ。ぐっすりよ」
「客の持ち物に手を出しちゃいねぇだろうな」
「あんたバカでしょ。今自分でそれをチェックしたじゃない」
 オッジが口をゆがめて車を発進させる。荒っぽい運転に酔い始めたころ、私のボロアパートが見えてきた。アパートの前の通りで車が止まる。
「また連絡する」
「よろしく、店長さん。じゃあね」
 振り返らずに手だけ振って車を降りた。階段を昇り自分の部屋の前に立ち、鍵を差し込む。部屋の鍵が開いていた。私は確かにしめたはずなのに……。
 ゆっくりとドアを開いて部屋をのぞき込むと、そこには私が待ち望んでいた光景があった。
「ケンタ!」
「おかえり、ナオ。さっきは電話出れなくてごめんな」
 私が散らかった居間に飛び込むと、ケンタが子犬のような顔で抱きついてきた。ケンタの頭を撫でて、むきたてのゆで卵みたいなスベスベのほほに顔を寄せる。
 ああ、なんて幸せなんだろう。
「良い薬が手に入ったんだって?」
「うん。でもちょっと待って。私出産しなきゃだから」
「出産?」
 首をかしげるケンタにキスをして、スカートの中に手を入れた。指先を奥に差し込みゴムを引っ掛ける。抜き出すと、コンドームの残りがしっかりとチョコをくるんでいた。
「わお。なにそれ?」
「客のマリファナを頂いてきたの。ねぇケンタ、しよ?」
「いいよ。クスリつかってやりたいな」
「これとシャブ、ケンタのいいほうでイイよ」
「じゃあ、シャブがいい」
 わかり切っていた答えだった。
 マリファナの依存性はたばこほどもないけれど、シャブには卒業がないほどの中毒性がある。一度やってしまえばそれまで。だからこそ私はケンタをヒモとして家にあげたあと、すぐにシャブを教え込んだのだ。
 人間やめますか? なんてセンスの欠片もないダサいフレーズ。
 私たちは人間のまま、ただクスリをキメて少しずつ狂っていくだけ。愛に、欲に、安っぽい酩酊に。愛しい愛しいこの子が私からいなくならないように。
 シャブは彼をつなぐ、見えない首輪のようなもの。ケンタ、愛してる。たとえあなたが私に飽きたって、あなたはシャブを持つ私からは決して離れられない。
「ああ、はぁぁ……」
 自分の腕に注射を刺し込んだケンタが気持ちよさそうに声をあげ、私を押し倒した。私が舌を差し出すと、その裏側に注射針を突き立てシャブを流し込む。そのまま絡み合うようにキスをして、セックスをした。
「ケンタ! ケンタぁ!」
「ああ、気持ちいいよナオ」
 全身が溶けだしてケンタと混じり合うような快感に、私は酔いしれた。
 この幸せは次の一瞬になくなってしまうかもしれない、深く深く息を吸い込んだ。
 ケンタが私の奥まで入ってくる。手を広げ、すべてを受け入れる。どこからどこまでが私で、どこまでがケンタなのかさえ判然としない陶酔の時間。
 ケンタが荒い息のまま、私の耳元で囁いた。吐息すら心地よくて、私は大きく身震いをする。
「俺さ、ナオの家にちゃんと入りたい。家族になりたい」
「あ、んう……。ほんと? 嬉しい、嬉しいよケンタ」
「だからさ。通帳の番号、俺にも教えてよ。俺、家計を見てあげるから」
 首筋に熱いキスのシャワーが降った。
 通帳、番号。
 あ、これいけないパターンだって思ったけど、彼は私から離れられないはず。それに私には彼に番号を伝えたい気持ちがあった。
 なぜなら、通帳の暗証番号は私たちのバースデーを足したものなのだ。
 ダメ。でも、溶けてしまいたい。
 全部全部、ケンタにゆだねてしまいたかった。
 強く乳房を握られて、私は一際大きな声をあげた。その口に、もう一度注射針が突き立てられる。
 意識が、浮き上がった。気づいたときには四桁の番号が口から零れ落ちていた。
「一九四三。わたしたちの、誕生日、くっつけたの……」
「ナオ、ありがとう。愛してる」
 情熱的なキス。だめ、溶けちゃう。
 私の意識は甘い恍惚のなかに流れて、消えた。

 目を覚ましたとき、部屋の中はすっかり暗くなっていた。カーテンの隙間からオレンジ光が差し込んでいる。
 夕方なのか夜明けなのか、全然わかんない。秒針だけがうるさく流れている。
「ケンタ?」
 暗い部屋に返事はない。左の腕に痛みが走り、手首をのぞき込んだ。
 前腕部から手首にかけて、刃傷が浮かび上がっていた。『あばよ、クソビッチ』生き物のようにテラテラ光る赤い文字が、私の腕のなかで踊る。
 つうっと、赤い滴がシーツに零れ落ちた。私の血が、泣いているみたいだった。
「ケンタ……」
 大丈夫、大丈夫。
 ケンタはシャブから逃げることなんてできない。だから、彼が私と離れることなんて不可能なはずだ。
 でも……通帳もブランド物のバッグも腕時計もアクセサリーも、皆みんなどこかに行ってしまっていた。
 時折ケンタが私の財布から札を抜くことはあったけど、こんなこと初めてだ。
 ほこり臭い闇のなかで、携帯の着信音が鳴り響いた。夜空に浮かぶ星のようなスマートフォンの画面に手を伸ばす。
「もしもし、ケンタ!?」
「ナオ、俺だ」
 オッジだった。私の気持ちは崖から突き落とされた絶望感に包まれる。今の気分のままでは仕事なんてできやしない。ましてや腕にはケンタの刻んだ聖痕まである。
「悪いけど、オッジ……」
「すぐいく。身支度をして待ってろ。いそ……」
 ゴン、と派手な音がして通話が切れた。
「わけわかんない、なんなの?」
 ぽっかりと空いた気持ちのままでは怒る気もしない。気休めにもならないが、たばこを取り出すとチョコを差して深く吸い込んだ。
「あの子、ちょっとケンタに似ていたな」
 そんなことを思う自分が許せない。だけど、どうせプレイするならもっとケンタとだぶらせても良かったかもしれない。もう二度と会うこともないだろうけど。ポタリと、赤い涙が私の腕を伝ってシーツに花を咲かせる。
 クラクションの音が聞こえた。
 二回。間を置いて一回。また間を置いて、三回。オッジだ。
 くだらない。私は無視することに決めてチョコをふかす。それでも合図は二回三回と繰り返された。
 紫煙といっしょにため息がこぼれた。まだ、メイクは落としていない。傷物のうちに仕事をするのも面白いかもしれない。もしかしたら、相手がケンタにそっくりかもしれない。
 ありもしない可能性を頭のなかで散々こねまわして、私はたばこを根元まで吸いきった。
「コレも悪くないかもね」
 足元がふらつくし、世界は水面のように揺れている。だけど、ひとりでこのままキメ続けるよりは気持ちもまぎれるかもしれない。
 ヒールをつっかけて外に出て、ようやく今が夕暮れ時なのだと気付く。
 表通りにでると、黒いセダンの後ろが派手にへこんでいた。くそオッジめ、運転もまともに出来ないのか。
 そう思ったとき、後部座席から肉まんじゅうが飛び出してきた。
 よく見るとそれはオッジで、顔面が数倍にはれ上がっている。ひぃひぃと呼吸する口には歯も見えなかった。指先が真っ赤に染まっている。
 手錠がじゃらりと鳴るさまは、不細工ないぬっころみたい。
「ナオ……」
「オッジ、あんたそれどうし……」
 私がオッジに歩み寄った瞬間、奥から出てきた黒服の男が私を車の後部座席に押し込んだ。
 混乱する頭で周囲を見渡した。運転席にも助手席にも、黒服のいかつい男が乗っていた。
 ――あ、これ本筋のひとだ。
 オッジのようなチンピラまがいとは違う。
 あーあ、オッジのやつ、しっぽ踏まれちゃったわけね。
 それにしても、私まで巻き込むかな、普通。
「上玉だ、顔は傷つけるな」
 助手席の男がいうと、お腹にボーリング玉を投げ込まれたような衝撃が走った。私を車につれこんだクマ男の手が、おなかにめりこんでいた。
 すっぱい液が口の中を駆け回っている。
「えぐっ……あ、バッドはいりそ」
 せっかくの良いチョコが台無しだ。クマが私に手錠をはめた。
 それにしてもさ。ぞうきんの搾りかすみたいな生き方してるこんな私が上玉だって。なんだかおかしくって、私はクスクス笑っていた。
 クマが車を降りると、かわりに肉まんじゅうのオッジが押し込まれた。
「下手を踏んだ。俺はもう終わりだ」
「見ればわかるわよ、バカ」
「ナオ、俺は」
 言いかけたオッジの顔にクマの革靴がめり込んだ。血まみれのオッジがこっちに吹き飛んでくる。
 ああ、すんごい邪魔。臭いし汚いし、もう最悪だ。
 クマはそのまま後ろに止めてあったベンツに乗り込み、車が走り出した。どこへいくのだろう。困ったなぁ、これってどっかに連れていかれるよね絶対。
「ねぇ、私は関係ないじゃん。家に帰してよ」
 助手席の男に話しかける。男は器用に腕をのばして私の喉元を大きな手で握りつぶした。凶暴な紙やすりに喉奥をこすりまくられたような熱さに襲われる。
 でも、私は帰らないといけない。きっとケンタが帰ってきているはずだから。
「家に帰らないと、ケンタが帰ってきても会えないじゃん」
「おめぇを売ったのはそのケンタくんだぜ。めでたいアマだ」
 ケンタが私を売った。本当かな、ちょっとありそうだけど。
 まあ、どうでもいいや。
 もっとへこむかと思ったけれど、その言葉は私の小さくなった脳みそを右から左に素通りしていくだけだった。
「ふうん、そう。でもケンタは私のところに帰ってくるの。だから私、行かなきゃ」
 窓の外に風景に目をやった。車は結構飛ばしているみたいだけど、気にならなかった。
 後部座席のロックをあげて、ドアを開ける。
 オッジや助手席の男が何か叫んでいたけど、私は走行中の車からぴょんと飛び降りた。
 地面に足をついたのはほんの一瞬で、私はドラム式洗濯機に放り込まれたタオルのようにぐるんぐるんと世界を回った。
 地面のあらっぽい洗濯が終わると、雲ひとつない茜空が見えた。
「ケンタは、いつごろ帰ってくるかなぁ」
 視界の端っこに、変な方向に折れ曲がった私の足と腕が見えた。
 こんな調子じゃケンタが戻ってきたって愛してもらえるかわからない。
 遠くからサイレンの音が聞こえてきた。うーん、この音ってポリだっけ? 救急だっけ? ぼんやりと考えながら、つけまをしすぎたみたいに重いまぶたを下ろした。
 まぶたの裏の真っ黒なスクリーンに、ケンタを思い浮かべようとした。髪型、服装、おどけた仕草。イイ感じイイ感じ。
 だけどさ。どうしても思い出せないの、ケンタの顔が。
 ケンタが帰ってきたら、よおく確認しておかなくちゃ。残っていたシャブも、あの子と一緒に使っちゃおう。
 ああ、なんだか疲れたなぁ。
 空もサイレンも遠くなったので、私は少しだけ眠ることにした。
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