真冬に薔薇

文字数 1,382文字

 真っ白な世界を切り裂くように、それは徹底的に赤く染まっていく。
「ねえ、雪」
「ああ、そうだね」
 豪雪。雪は積もり続けて、人は人としての孤独を思い出す。
「見て、あの薔薇、世界に反しているわ」
 雪に反射する日光がまぶしくて、私は目を細める。そんなことより、酒が飲みたくて仕方なかった。
「違反どころではない。私は、とにかく、寒いんだ」
 残り少ない酒を燗してもらい、雪見酒としゃれこみたいところだが、なにしろ、金がない。
「見て、あなた、お金が……」
 イヤな予感。
「どうしたんだ、まさか、足でも生やして逃げ出したのか?」
「そうだけど、そうじゃないの」
「なんだか分からん言い方だね」
「逃げてはいないけど、腐っているの」
 金が腐る!
 私は急いで妻のもとに駆け寄った。
「ああ、やられた」
 春夏秋に必死こいて溜め込んだお金は、まるで熟れすぎた柿のようにジュクジュクに腐っていた。
「もう、おしまいね」
「ああ、でも、まだ少しだけ、酒があるじゃないか」
 ヤカンの湧く音。二人、火を前に座る。寒さよりも、寂しさが身に染みるようで、私はふと泣きたくなったが、妻の横顔を見ると、心の奥底というべきか、魂の根幹ともいうべきか、とにかく、胸の内がジンジンと熱くなって、この女だけは死なせてはいけない、と思うのだった。
「お前は、幸せかい?」
「ま、なんてことを――」
 とんとん。ノックの音。
「誰か来たのかな」
「いえ、きっとスズメでしょう。みなお腹を空かしているんです。この雪ですもの」
「米はあったかな」
「少しなら」
「やっておやり、やっておやり。ああ、それにしても、もっと金があったらなあ」
「なにを夢想家みたいなことを――」
 火の粉がパチンと爆ぜた。
「お金など、いくらあったところで、私たちは私たちですよ。あなたはあなたで、一生懸命汗水流して、働いてきたのです。どこに不満などあるものですか。私は、十分に、……幸せでしたよ」
 そのちょっとの間が、私たちの過去を蘇らせた。私は口に出そうか悩んだが、なに、これが最後かもしれない、という思いからか、またはお酒のせいかは分からないけれど、つい言ってしまった。
「あの子が生きていたらなあ」
 それがいけなかった。
 あの子。
 私たちには、子がいたのだ。
「いや、なにもそういう訳ではなく――」
 しどろもどろである。妻の横顔を、ちらと盗み見ることすら心臓に悪く思え、私は手元の酒をぐいと飲み干した。
「悪かった」
「いえ」
 それだけだった。
 窓の外には雪が舞っており、その下に真っ赤な薔薇が血のように咲いている。
 暗転。私はカーテンを勢いよく閉めた。
「さて、そろそろか。なに、大丈夫だ。人生は長い。そう、人生は長いのだ。私は、充分、幸せだよ。ああ、本当だ。お前と出会ってから、不幸せだと思ったことすら、いや、考えたことすらない。金? そんなものは腐らせておけ。金より、私は愛に生きた。愛。ああ、私はきっと、私たちはきっと天国に行けるのだ。それだけは確実に分かっている。そうして、きっと、もう大丈夫なのだ」
 まくし立てるように言って、ようやく妻の顔を見た。
 氷のような涙。
「あの子に会いたいわ」
「会えるさ」
 台所から金の腐臭がする。私は妻の横に腰を下ろして、口づけをしようか悩んだ挙句、そっと目を閉じて、目の前に広がる無限に近い真っ暗な世界を、ただ一人歩いていこうと決意した。
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