温室

文字数 3,412文字

団地の草むしりに呼ばれなくなって、しばらく立つ。
きっかけは些細な、けれど周りにとっては大事なことだった。

青々とした草を、名前も知らない花を、人間の都合でどんどん抜かなければならないんだななんてちょっとぼんやりしてたら、鋭い声が飛んできた。
わたしが抜いていたのは、自治会が費用を出して植えた、育ちかけの百合の花だったのだ。

夫との雲行きも、怪しい。読書が好きな彼は、中途半端なところで邪魔されるのを嫌う。とはいえ、物語の途中というだけなら別に何を言われるわけでもないのだけど、わたしが声をかけてしまうのは、いつだって物語の山場か、クライマックスか、読み終わる数行前の瞬間だ(それも、たいていは本当に些末なことで)。

どうしても集中したいとき、彼は事前にそう伝えてくれている。

でもうっかり、忘れてしまう。手元のページ数を見れば分かるだろうと言われても、本を読まないからかピンとこない。持ち帰った仕事中の彼に、これもどうでもいい話を延々と振ってしまって、怒られたことも何度もある。

友達と買い物に行く。行くとたいてい、どこかに身体をぶつけてしまって、品物の山を崩してしまう。この前は、壊れかけていたのに気づかなかったキーホルダーの輪を売り物の服にひっかけて、違和感どころかまったく気がつかないでそのまま強引に歩いてしまい、思いっきり破いてしまった。カフェで2度目にグラスを割ってしまって以来、その友達からはお誘いがなくなってしまった。

通信簿に書かれた「ぼんやり」を卒業しきれなかった私は、大人になった今、なぜ自分にそれが克服できないのか、ずっと考えている。考えているうちに約束事を忘れていたりして、慌てて飛び乗った電車が真逆のホームだったりして、悪い歴だけがつのっていく。「ドジっ子」で済まされるときは、とうに過ぎているのに。

だから私は、誰もいなさそうな、人が少なさそうなところが好きだ。
何かやってしまっても、必要最低限の迷惑しか、かからないで済む場所。

私が今いるのは、国道沿いから少し入った林道の中にある、ぽつんとある温室だ。

正確には、「温室だったもの」だろう。中で唯一原型をとどめているのは鉢だけで、その上に生きていただろう草木は軒並み枯れ果てている。というより、鉢ですらひび割れているものも多い。ときおり姿を見せる、虫以外の生き物の気配がしない場所。

もとは誰の持ち場所だったのだろう。近くに家があるわけでもなく、看板があるわけでもない。それはただ、そこにあった。
ただ、そこにあるだけで、迷惑はかけない。そこはたぶん私よりマシな場所で、私はもう役割を持たないそこよりもダメな人間だった。

座り込むとどう汚れるか分かったものじゃないので、座り込んだ気分で立っている。
離れた場所から聞こえる車の稼働音と、破れたビニールの隙間から入る風が揺らす、葉っぱたちの音を聴きながら。

ほんの少しだけ。ほんの少しだけだけど、私にとってのその時間は、安らぎだった。
彼らは、何も語り掛けてこない。けれど、そこにいる。もしくは、いた。
その空白は、私を少しだけ自由にする。

心の底から、自分が嫌いなわけじゃない。

けれど、いつか心の底から自分を嫌いになりそうで怖い。憎んでしまいそうで怖い。
いつかの百合の花のように失敗してしまうかもしれない。
そう思って、私はここの品物のどれひとつにも、指を触れたことがない。

「どうですかな、当館の植物は」

急に声がして振り返ると、芯が曲がった入口の右手に、老人が座っていた。

どうやら座椅子に座っているようだ。そんなものがあったろうか。そもそも、この老人はいつからいたのだろうか。周りは枯れ葉ばかりなのに、まったく気がつかなかった。



「枯れてますね」



つい、思ったままを口にしてしまった。けど、もう間に合わないし、正解も分からない。「風情がありますね」とか、思ってもないことを言えばよかったんだろうか。

いつもの後悔を舌の上で苦く感じていたら、老人は鷹揚(おうよう)に頷いた。

「さようでございます。こちらの植物は、すべてとうに死に絶えております」

私も、とでも続けそうな口調だった。

老人の輪郭はわずかに朧で、伏せ気味な顔と低く抑えた声、どこにでもあるビニールの作業着からは、性別すら判別するのが難しかった。現実感がない。そんな印象だった。

「ここは・・・・・・」

遠慮と疑問を挟んでそれだけ言うと、老人は目を伏せたまま答えた。

「あなたがいてもいなくても、ある場所です」

「いても、いなくても・・・・・・」

「はい」と答えたきり、老人は言葉を発しようとしない。風にまぎれる沈黙の中で、私の中に去来する思いがあった。

(私、いてもいなくてもどうでもいい存在なんだろうな)

いや、むしろいるだけで周りに迷惑をかけている気がする。皆を私は、怒らせてしまう。だから私は、ここまで来ている・・・・・・。

「私は・・・・・・」

いないほうがいいんでしょうかと続けようとして、自分が発しようとした言葉に寒気がはしった。重心が移った踵の下から、踏みしめた落ち葉の音がした。

「当館は本日で、終了いたします」

すまなさそうでも、迷惑そうにでもなく、淡々と老人は告げた。
感情がこもっていないわけではないが、私には何の感情も読み取れない声だった。

「そうですか・・・・・・」

施設と知らなかったとはいえ、勝手に利用しておきながら、この場所すら私を受け入れてはくれないんだななんて、そんなことを思った。
もう、ここにいてはいけない。

「無断で失礼しました。あの、料金などは」

一歩踏み出すと、老人が初めてこちらに顔を向けた。
老成された皺に埋もれた目には、ビロード色の瞳が宿っていた。

「私どもはそれでかまいません」

「・・・・・・?」

真意がつかめずに困惑する私に、老人は続けた。

「我々はもう、ここを去ります。あなたが迷い去らなければ、お支払いはけっこうです」

何を、言っているのだろう・・・・・・?
明らかに、脈絡のない発言。まるで私のことを見抜いているかのような。
そんなに私は、思い詰めて見えるのだろうか。
一瞬、ぞっとする。けれど、それよりも湧きあがってきたのは。

「でも、私には生き方なんて分からないんです」

思わず強い口調になってしまった。けれど、言わずにはいられなかった。
また、やってしまった・・・・・・。
口を閉ざした私に、その奇怪な老人は、目を逸らすことなく言った。

「この場所を愛してくださった方は、あなた以外にありません。何かをあなたのように愛することも、あなたにしかできません」

「でも・・・・・・」

これは、慰めなのだろうか。
とっさに喉元でつかえそうになった言葉を、精一杯絞りだす。

「私、愛されません。誰からも、自分からも。そんなのって・・・・・・」

ひどすぎませんか? 

前のめりになった足元から、また枯れ葉の音がした。
ぽつぽつと、水音がした。曇った空から、雨が滴ってきた。

老人は、何も答えない。
穴の開いた屋根から、水滴が額に当たって、鼻梁(びりょう)を滑り落ちていく。

「お邪魔して、すみませんでした。ありがとうございました」

傘は持っていない。持っていないけれど、ここにはもう、いられない。
入口の前で老人とちょうどすれ違ったとき、傍らで声がした。

「今、ここに生きているあなたの記憶は、ここにしかありません」

脚を止めたわたしに、老人の声が続ける。

「あなたの足跡も、ここにしかありません。誰にもつけることは、できないのです」

淡々と告げる声に、かすかな苛立ちを感じた。止められなかった。

「それが、どんなに汚れたものででもですか?」

言葉を待たずに、私は続ける。

「誰にも喜んでもらえなくて、土足で汚してしまうような足跡だっていいっていうんですか? そんな無責任な言葉、聞きたくないです」

雨粒じゃない雫しずくが、頬をつたう。少しの沈黙の後、声がした。

「それでも、あなたの足跡です。 そして・・・・・・」

大きな風が吹いた。こずえが、ざわめく。こすれ合う葉の音に紛れて、か細い声が聞こえた。

「我々が愛した、足跡です」

振り向くと、老人の姿はどこにもなかった。

数十分、あるいは一時間は経っていたかもしれない。
雨の打ち付けるビニールハウスに、私は座り込んでいた。
その足元には、一輪の花が咲いていた。
名前も知らない小さな花は、淡い青色をたたえていた。

雨が降りやみ、けっきょく押し花にしたそれは今、
私の日記帳に挟まっている。

その名前は、今も知らない。

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