第1話
文字数 1,552文字
あの日、あなたが菩提樹の下に来てくれなかったので世界は変わった。
オーストリアと他の国々との間で三国同盟が結ばれた年、私は二十二歳になっていた。
十六歳から住み込み家政婦として勤めていた家を二年前に辞めさせられ、実家のあるヴァイトラ市に戻っていた。町の中央に聳えるヴァイトラ城を久しぶりに見た時、故郷に帰って来たという気持ちが心を満たした。
解雇された事は悲しかったが、安心もした。親戚の四十代の男がご主人様だったが、時折、私にいやらしい視線を向けていたのだ。
実家では炊事洗濯と畑仕事をしていた。
その間を抜け、私は女友達と森に遊びに行った。
「ねえねえ、店で言い寄って来た男どうした?」
私は食堂で働くハンナに尋ねた。
「あんな男、相手にする訳がないじゃない。大工でも見習いだし、いろいろ噂話を聞いたら、女ったらしで真面目じゃないって分かったもの」
「ハンナなら十分じゃない?」
「彼氏のいないクララに、そんな事言われたくないわ」
ハンナは手にしていた小枝で、私を叩く素振りをした。
その時、かすかにバイオリンの音が聞こえてきた。
音の主を探して、私たちはゆっくりと歩を進めた。
菩提樹の下に、若い男が立ってバイオリンを奏でていた。
目の上まで伸びた髪、理知的な顔立ち。
あなただった。
「あれ、大学生よ。雑貨屋の上に下宿している」
ハンナがささやいた。
私は恋に落ちた。
それから、時間があると、森の菩提樹の下へと足を運んだ。
あなたに出会う事を期待して。
ハンナという有能なスパイを利用して、色んな情報を手に入れた。名前はクラウスである事、二十一歳である事、医学を学んでいる事などなど。
初夏、あなたがバイオリンを演奏している所に再び出くわした。
私は近くに座って、黙って耳を傾けていた。
あなたは私の存在に気がついたが、恥ずかしいのか声をかけてはこなかった。ただ、耳たぶが赤くなっていた。
菩提樹の花の甘い香りをかぎながら、私は美しい旋律を楽しんだ。
町の市場から帰る途中、あなたが歩いてくるのが見えた。
通り過ぎ様、私はわざと林檎を籠から落とした。
「あの、これ落としましたよ」
あなたが遠慮がちに声をかけてきた。
「ありがとうございます!」
私は大袈裟に喜んだ。
「森の菩提樹の下でバイオリンを弾いている方ですね?」
「はい、下手なんですが」
「とても素敵ですよ」
私が微笑むと、あなたは恥ずかしそうな顔をした。
「次はいつ弾きに行くんですか?」
こうして、私たちは菩提樹の下で逢瀬を重ねていった。
手を握り、口づけを交わすまでになった。
菩提樹の幹に、あなたは二人の名前を刻んだ。
幸せだった。
年が変わって一八八三年になった。
以前、家政婦をしていた家の奥様が病気で倒れた。私にブラウナウ・アム・イン市へ戻って来いと言う。でも、あなたと離れたくなかった。
寒さが急に訪れる中、私たちは会った。
「私を大事に思っているなら、明日ここへ来て下さい」
翌日、菩提樹の下であなたを待ち続けた。
私の想いだけが強過ぎたのか…。
学生の身分では結婚も出来ず、負担を感じたのかもしれない。
その年、初めての雪がひらひらと舞い始めた。
私は住み込み家政婦として再び働き始めた。奥様が肺病を患って苦しんでいる中、思った通り、ご主人様のアロイスは私に手を出してきた。そして、奥様が亡くなられた時には妊娠をしていた。結婚をし、三人の子が生まれたが早くに天に逝ってしまった。
一八八九年、四人目の子が生まれた。
赤ん坊の泣き声を聞いたアロイスは、出産部屋に駆けこんで来た。
私にいたわりの言葉をかける事もなく、赤ん坊を手に取った。
「よしっ、男の子だ!名前はアドルフ、高貴ある狼にしよう。どうだヒトラー家にふさわしい名前だろう?」
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