第1話

文字数 1,925文字

大人になったら、妖精なんて見えなくなると思っていた。
だけど実際は、そんな事はなく、この世界には今も妖精が溢れている。
「それでは、貴女はお姉さんの居場所は知らないと―そう仰るのですね」
広い部屋。探偵と名乗る男の問いを、私は無言で肯定した。
これは嘘ではない。妖精と付き合うコツは、嘘をつかない事なのだから。
「お姉さんは3月9日、母親の貴子さんを看取った後、病室から姿を消しました。以後、彼女を目撃した人は居ません。彼女は莫大な財産の相続人なので、病室前の監視カメラが無ければ誘拐を疑ったところですが、失踪前後にカメラに映っていたのは、貴女と彼女だけでした。私の依頼人である高峰氏は、彼女は無責任に姿を消すような人ではないと、たいへん心配しておられます」
心配なのは姉ではなく、姉の資産でしょう。しかつめらしい探偵の顔を見て、内心で私は嗤った。姉が失踪したと知った時の高峰氏―姉の婚約者―の第一声は、「まだ籍を入れていないのに」だったのだから。その後、私の顔を見て気まずそうにするだけの羞恥心はあったようだけど。
「探偵さんは、私を疑っていらっしゃるのかしら」
「いいえ。監視カメラに映らないよう、彼女を連れ出すのは、貴女には不可能でした。かといって、病室のどこにも彼女の姿はありませんでした。それは、あの日、病院に居た医師や看護師たちが証言しています」
「高峰さんは反論なさるでしょうけど、姉が自分で出て行ったとは考えられませんか? 例えば、そう、窓から」
「しかし、あの病室は最上階ですよ。いくら下が芝生といっても、飛び降りられる人間など居ないでしょう」
「ええ。人間ならね」
優雅な手つきで紅茶を口に運びながら、私は探偵に微笑みかけた。
「妖精の仕業だとは、お思いになりません?」
探偵が絶句する。自分が相手にしているのは、至極まっとうな顔をした狂人なのかと疑うように。

私は窓際に立って、足早に門を出て行く探偵を見送った。
彼は依頼主に、何と報告するのだろう。あの屋敷には狂った娘が居るとでも、伝えるつもりだろうか。別に、それでも構わないけれど。
二つ上の姉は、物静かな性格をしていた。騒ぎたい盛りの年頃でも、私が姉の大声を聞いた記憶は無い。いつも穏やかな笑みを浮かべ、人の言う事には黙って従う人だった。
しかし、私は、姉がそれだけの人ではなかったと知っている。
姉の周りに妖精の気配を感じ始めたのは、いつからだったか。淡い色の羽根をした小さな生物は、姉の周りを、風に吹かれる綿毛のように―しかし綿毛とは違って確かな意思を持って―、ふわりふわりと飛び回っていた。それは何だと尋ねる私に、姉は不思議そうに小首を傾げるだけだった。奇妙にも、姉自身には、その生物は見えていなかったのだ。
私と姉が幼い頃、父の友人が屋敷を訪ねてきた。その人は、酔うと体を撫で回してくるから、私も姉も、その人が苦手だった。私と姉が子供部屋に隠れていると、父が階下から私達の名前を呼んだ。私は眠ったふりをしていたが、姉は何度目かの呼びかけで起き上がり、階段をおりていった。後から、そうっと様子を見に行くと、姉は父の友人の膝にのせられていた。妖精が姉の口に初めて入ったのは、その時だ。
何度目かに気付いた。姉が妖精を呑むのは、何かを我慢した時なのだと。
姉の我慢に比例して、呑まれる妖精の数は増えていった。ケガをしたら大変だからと、運動を禁止された時。親の眼鏡にかなわない友達との付き合いを禁止された時。姉は次々と、妖精を呑み込んでいった。やがて父が死に、母が高峰氏を姉の婚約者にした時も、姉は妖精を呑み込んで、笑っていた。
そして、私と姉が母を看取った日が、やってきた。あの時、母は私と姉の手を取り、尋ねたのだ―「私を愛していたか?」と。疑問形ではあったが、母が「はい」以外の答えを想定していないのは明らかだった。
姉は、いつも通り、望まれた答えを返そうとして、不意にぐにゃりと顔を歪ませて蹲った。込み上げる吐き気を堪えるように、姉は喉を抑え、涙を流して苦しみ始めた。私は驚いて、姉の傍に跪き、背中をさすった。姉が一瞬、私を見た。
次の瞬間、姉の口から、ばばばばと凄い勢いで妖精が飛び出し始めた。色とりどりの妖精が病室を埋め尽くし、渦を巻く。あまりにも数が多いので、妖精以外、何も見えない。それは妖精の嵐だった。今にして思えば、無音だったようにも、激しい音がしていたようにも感じる。
時間は、多分、そう長くはなかった。やがて、一羽、また一羽と妖精は窓から飛び立っていった。私は、それを呆然と眺めていた。
最後の一羽が飛び立った後、我に返ると、姉の姿は、どこにも無く、母は既に息絶えていた。
それが、あの病室であった全てだ。
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