よくわからない

文字数 1,863文字

 夕方、娘が階段から降りてきてスマホを片手にぼそっと言う。
「お母さん、由(よし)くんのこと結構好きだったよね」
「うん、どうして?」
 私はタマネギと包丁を持つ手をそのままに首だけ後ろにむけて返事をした。
「死んじゃったみたいよ」
「ええ? 交通事故かなにか?」
 一瞬何を言っているのか分からずに、手を拭いて娘のスマホを見た。
 いつものニュースサイトを娘は開いていた。「俳優の新川由自宅で死亡、自殺か?」
 嘘、なに? どうして彼が死んじゃうの?
 血のつながりがある訳でなし、ましてや恋人でも何でもない。一方的にきれいな顔をした男の子だなあとテレビやパッドの画像で眺めていただけの人。最近は主演するドラマの主題歌も歌うようになり、低い声から高い声まですべてが甘く、アレクサに頼んでは聞いていたほどの憧れの人。
 Paul Smithを着こなして、スマートに立つ姿を見たのは、一年前でもなかっただろう。これからずっとそんな彼を見ては、美しいその姿を追いかけていけるはずだと信じていた。いい年をした私の中で最近の若手の俳優さんでは一押しだった。

 日常の中で、そんなに驚いた事はない。コロナウイルスが中国で流行の兆しが報じられた1月18日に、嫌な予感がしたとき以来……。

「なぜなの、なぜ死んじゃうの?」
「お母さん、泣かないで……」
 嫌だ、嘘だと言って。

私は胸に悲しみがこみ上げて、涙が止らなくなった。
 どうしたの、どうしたの。あなたに何が起こったの? 何かの雑誌にゴシップ記事でも出ると聞かされたの? 警察から何かの嫌疑をかけられたとでも? 違うよね、由くん。真面目な一生懸命なあなたなら、どんな疑いも晴れるよ。それともどこか体の不調……。
 テレビが夜のニュースになって、彼の自殺を報じるようになってきた。どんどん真実味が濃くなって信じたくないのに、いくらでも彼が遠くに感じてしまう。もう、どこにもいない、いなくなってしまったのね。
 何度も録画した、大ヒット映画での詐欺師の役柄はとても良かった。その前のドラマの逃亡犯の父親もまた、別の顔が見られて素晴らしかった。
 その前のノーベル賞作家の描いた作品では、不安定な役柄を断髪と減量してやりきったのだろうとドラマのラストまで涙しながらみていた。そんな強い職業意識を持った彼が、なぜ?

 年明けからの新型ウイルスの世界的な伝播により、日本中、世界は変わってしまった。
 彼の生活も大きく変わったのだろうか。芸能人という特殊な職業の事は何も知らない私は、どんな事がそこで起こっているのかは知らない。
 人から人に感染すると判明してからは、家族でさえ一緒にいることがためらわれる瞬間もある。一人高級マンションで仕事をしながら彼が孤独の中でどんな日々を過ごしていたのかなど、推し量る事はできない。
 彼女がそばにいたら、恋人がそこにいたら。
 もしも結婚して奥さんや子供と過ごしていたら、何かが違っていただろうかなどと考えてしまう。私が,今ここでこうして生きているように、彼もまた、普通の生活をしていたらどうだっただろうか。きれいな顔とスタイルの良さゆえに、俳優を幼い頃からしていた彼が、休む事もできず、周りに辛いと言うこともできずに、一人で死を選ぶ事がなかったのかも知れない。
 切ない。
 人はどれだけ望んでもきれいな顔に生まれる事はできないし、頭が良くて勉強しなくても良い成績を取る人もいる。テニスやサッカーなどのプロ選手、作家にだってなりたいと望んでもなれない人が大多数だ。
 好きだった、あの声も笑顔もきれいな姿も。
 だが彼にとっては苦痛だったのかも知れない。ごめんね、何も知らなくて。
 分かってあげられなくてごめんね。でも今はもう何も無理して笑わなくてもいいし、ポーズを取る事もしなくていいよ。ゆっくり休んで、いい夢を見てね。
 私はただ一枚だけの画像を残している。それは白いカッターシャツを着て目を閉じて大きな手を組んでいる横顔の彼。とてもきれいだが、これは本当の彼じゃない。





 最後に
 もう、お分かりだろうが、これは実際にある俳優さんの事を好きだった自分の思いを書いたものですが、彼の名前を敢えて架空のものに置き換えた理由はプロダクションやお仕事関係の方、お友達、知り合いの方、ご遺族の方のお気持ちを推し量った時に、本当の名前を書くのは避けた方がいいだろうと考えたからです。
 彼の事が好きだった、世界中のファンの気持ちは私も分かります。
 好きだった、本当に。
 今は、彼のご冥福を心よりお祈りいたします。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み