第1話

文字数 1,511文字

 ある夏のこと。私は人生で初めて飛び込み営業に成功し、とても浮かれていた。あまりの嬉しさに、会社の最寄り駅の改札を出ると無意識にスキップしていた。新しく取引先となったKフーズの課長の名刺は、永遠に持っておこうと心に誓った。

 その時である。ポタッ、と右肩に何かが落ちた。ハトのフンだった。
 しまった。小学生の時に同じ体験をしてクラスの笑い者にされたことのある私は、電線の下を通過するときにはいつも細心の注意を払っている。しかし、浮かれていた今日は注意散漫。このザマである。スーツのジャケットを脱ぎ、カバンの中には適切なものがなかったので、先ほどいただいた名刺で拭いたことは言うまでもない。

 記念の名刺を仇にしている最中、何かの声が聞こえた。
「逆じゃなくてよかったな」
 周りを見渡しても人はいない。見えるのは横断歩道の向こう、ビルの二階のベランダでタバコを吸っている私の上司ぐらいだ。たとえ彼が叫んだとしても、私の耳に聞こえる声を発するのは難しいだろう。
「逆じゃなくてよかったな」
 また聞こえた。
 どういうことだ。わけがわからない。
「逆じゃなくてよかったな」
 上だ。
 声は上から聞こえる。
 私にフンをしたハトが話しかけてきているのか? そんなおかしい話があるものか。しかし、はっきりと聞こえるのだ。
「逆じゃなくてよかったな」
 私は気味が悪くなって、会社へ急いだ。先ほどのスキップとは比べ物にならないほど早いスピードだった。

 部長のデスクへ行き契約がとれた旨を伝えると、たいそう喜んでいた。先方の名刺は捨てたので、もらい忘れたことにした。そして、トイレにこもり一息つく。休憩時間ではなかったが、会社に利益をもたらす仕事をしたのだ、二〜三十分こもったとしても、誰にも注意されまい。

 便意はなかったがパンツを下ろし、座って考えた。
 奇妙な出来事だったな。逆じゃなくてよかったとは、一体どういうことなのだ。意味がわからない。逆、逆ってなんだ。

 私は色々な想像をした。
 例えばフンが落ちるのが、営業の帰りじゃなくて、営業前だったらということか?
 それは困る。フンのついたジャケットで営業に行ったら、いくら饒舌に相手の機嫌を伺って商品の説明をしたところで、契約には結びつかないだろう。でもそんなもの、ジャケットを脱げばいい話だ。こういう逆じゃない。他の逆にはどんなパターンがあるのだ。

 フンが落ちたのが、右肩じゃなくて左肩だったらどうだ? 
 それでも特に今と変わりはない。

 右肩じゃなくて、右肩以外全部だったらどうだ?
 確かに嫌だ。全身フンまみれ。真っ白になる。考えると気持ち悪くて、吐きそうになった。しかし、ハトも自分の体積以上のフンを体に蓄えることはできないだろう。

 では、フンじゃなくてハトが落ちてきていたらどうだろう?
 これも嫌だ。しかし私の肩へぶつかって何のメリットがあると言うのだ。それに、あいつは飛べるはずだ。それとも喋る能力と引き換えに、飛行能力を失ってしまったのだろうか……。いや、そんなことはないだろう。窓の向こうにまだいるあいつは、立派な羽をバタバタさせているじゃないか。

 もしかして、営業に行った私ではなくて、会社にいた課長がフンをされていたらということか? 
 いやでも私の逆は、課長ではない。これも正解ではないだろう。

 フンじゃなくて尿だったら? いや鳥類はフンと尿とは一緒に出ると友人に聞いたことがある。

 逆、逆ってなんだ。

 不思議なもので便器に座っていると、便意が湧いてくる。私は答えに辿り着けず、切り替えて仕事に戻ろうと踏ん張った。

 その瞬間、私の便は窓の隙間からビルを飛び出し、電線の上のハトを直撃した。

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